4
――やってしまった。
水無月は必死に日記を睨みながらそう思った。
確かに皐月についてのことが記述されている。 『お姉ちゃん』と何度も書いていた。他にも特務機関に所属していたこと。そこで皐月とはどれくらいの間かは『書かれていない』が、とても仲のいい相棒だっという。
突然のことで日記を確認することもできず、結果あんなことになってしまった。皐月には記憶の欠落を指摘されるザマだ。
なんとなく見覚えのある人だったから意識して走らせていた探知領域への侵入を許したが、その結果こうなるとは。完全に自分の落ち度だ。
日記を確認し終えた水無月は『彼ら』に預ける。優しく受け取ると、ずぶずぶと闇に呑まれて消えた。
これは、忘れても思い出すために書き始めた紛いモノ。
水無月の虚しくて悲しい抵抗。
残酷なほどに惨い仕打ちを水無月は受けている。
記憶は灼ける。残った灰は彼らがしっかりと喰らい、文字通り消えてなくなる。
「……忘れないから。忘れてたまるか」
小さくつぶやく。
眠る能代に背中を向け、水無月は丸くなった。
皐月はすでに帰り、水無月は能代と同じベッドで寝ている。
……早く書かないと。
そう思った。彼は失いたくない人だ。自分の都合に巻き込んだことはもうどうにもならない。しかし、その彼を忘れることはあまりにもひどい行いである。
今までどんな人に会って、どんなことをしたのか。水無月は全く覚えていない。
……忘れたく、ない。
そう心の中で嘆いた瞬間、『彼ら』は号令をかけた。
即座に狙撃部隊が編成され、重そうなスナイパーライフルを軽々と構える。両腕のない隊長が歪みに歪んだ口を斜めに開いて発射の許可を出す。
短いながらも確実に飾られ始めていた能代との記憶、その結晶が容赦なく正確無慈悲に破壊される。
それらの記憶はあまりに脆く、次から次へとパリン、と軽い音とともに砕け散った。
「やめて……やめて……」
一方的な蹂躙に、水無月は涙を流すこともできずに懇願した。だがそんなものが届くはずもなく、僅かを残し、あとはほぼすべて破壊された。
「――あ……あ、ぁ」
せめて。せめて落ちた破片だけでも渡すまいと必死に水無月は飛びついたが、そんなことが許されるわけないだろうと隊長はない肩でやれやれと嗤う。
即座に巨大な口のバケモノが現れて、水無月を大木のように太い腕で振り払った。
「う、グ……!!」
見事に腹部に命中し、一瞬でバケモノとの距離が開いた。背中から激しく落ち、全身を駆ける激痛に水無月は短く喘いだ。すぐに立ち上がろうと地面に手をついて膝を折ろうとしたが、脚が真逆の方向に曲がっていてできない。
「――――ぅ」
何もできない。
ただ唯一できたのは、バケモノが破片をバリバリと、ムシャムシャと美味しそうに食べる様を、拳に血を滲ませながら見ていることだけだった。
目が覚めると、横には『知っている』少年がいた。
「……よかった」
彼は能代公嗣。大丈夫だ。覚えている。
いつ出会ったのかは知らない。なぜ一緒にいるのかも忘れた。でも、魔法使いであることを受け入れてくれていることは覚えている。だからこの少年は味方だ。
先に布団からもぞもぞと這い出る。能代を起こさないようにできるだけ最小限の動きのおかげで、能代はまるで気づいていない。
時刻はわからないが、適当な体内時計では七時前だろう。洗面所に足を向け、まだ開ききっていない瞼を強引に開かせ、さらに冷たい水を顔に浴びて眠気を完全に吹き飛ばした。
「ふぅ……」
そして鏡の前で表情を作る。
水無月の死相が大きく映る。目元をほぐし、口角を指で押し上げて表情を作る。
表情を、つくる。
「うーん、これは違うよね……?」
これはブサイク。これはあざとい。これは可愛くない。
いまいち納得のできない水無月は五分ほどにらめっこをして、ついに満足のいく表情をつくることに成功した。
「これだねっ!」
『笑顔』の完成だ。
自然な笑顔。可愛い笑顔。愛らしい笑顔。
この形を忘れないように頭に叩き込んで、二度三度鏡に向かってシュミレーションする。最後に微調整をして終わりだ。
「水無月……?」
能代の声が聞こえる。ボケ全開の顔で、年寄りにも負けないほど猫背のまま洗面所に入ってきた能代がなんだか面白くてくすりと笑ってしまう。
「おはよう、能代君」
そう言って、水無月は『笑顔』を振りまいた。
◆
より確実に。
より迅速に。
より冷酷に。
大鳳は双眼鏡を覗くのを止め、手で合図を送る。
ここは高層ビルの屋上。目標から一㎞以上離れた位置だ。
ジェフロワたちが白い甲冑姿だったのに対し、大鳳究、城戸崎秀孝、笠波都也の三人は機動力に長けた戦闘衣を身に着けている。グレー色のそれは昼夜問わず迷彩効果のある特殊色で、カメレオンのようにその場に溶け込む。
遠くからではまず気づかない。近くにいても、探そうとしなければ見つけられない。
それでも、これほどの距離をとらなければならない。それくらい注意深く進行しなければならないのだ。
「水無月咲を確認。同時に能代公嗣も確認」
仲良く朝食を楽しんでいる様を見て、大鳳は眉をひそめた。
今更になって一般人と同じような平和な日常に憧れたのか。
馬鹿馬鹿しい。救いようのない、馬鹿馬鹿しさだ。魔法使いがまともな人間の道を歩けると思うなよ。
通信機に声を流した大鳳はその返答を聞く。
「OK. We are ready」
返ってきたのは日本語ではなく英語。
米国部隊隊長、スティーブ・ドレムの声だ。こちらが三人に対し、向こうは四人。
敵と手を組むのは虫唾の走るほど酷いものだが、大鳳はそれもやむなしと素直に日本部隊の実力不足を認めた。他のふたりに不満があるわけではない。かといって自身が弱いわけでは決してない。実力は充分ある。しかし、水無月の前では『実力不足』なのだ。
ゆえに手を組んだのは妥当な判断。向こうもそれをわかっていて快く手を握ってくれた。
……しかしこれは表面上の約束にすぎない。協力するとは言ったものの、利益を共有するとまでは明言されていない。水無月は貴重な研究資料だ。共有などできるはずもない。最終的には彼らとも血みどろの戦いをしなければならない。
それぞれの国家の目的は『水無月』の利用。実験として素晴らしい素体であるし、また外交的にも使える。まさに喉から手が出るほど欲しいモノなのだ。
世界を悪性から救ったこと。存在意義すらないと言われ続けた心象魔法を思うがままに操ること。……そして、今もなお目的を果たすためにこの日本で姿を現していること。
まぎれもなく、その目的はWothに関すること。それは米国もフランスもわかっていることだ。
Wothに何かをし、目的が為された時、きっともう二度と水無月を追うことはできなくなってしまうだろう。普段は世界公認の特務機関に勤める少女。そう簡単に手を出せない。だからこそ、今がチャンスなのだ。水無月の背景には誰もいない。強いて言えば今も一緒にいる少年だが……世界と契約したようには見えないし、そもそも相手にすらならない。大鳳はそう結論付けて少年のほうは殺すことに決めた。
「城戸崎、笠波。手筈通りにいく。我々が奇襲をかけた後、スティーブ、コネリー、セシル、ケンが追撃する」
「了解。ゲート、用意します」
機械じみた冷たい声で反応した彼女……笠波が色気の失せた長い黒髪をポニーテールにまとめていたアクセサリーを手に持つ。それは円盤のような形をしていて、ダイヤル式の鍵を開けるように左右に一定の角度だけ回転させると明らかに日本語でも英語でもない文字が浮かび上がった。そのまま数度アクセサリーの回転を繰り返し、カチリとハマった音が鳴ったところで笠波は手を止めた。
無言で大鳳は笠波を一瞥する。
すると笠波はアクセサリーを通して豆粒よりも小さな目標……水無月がいるアパートを凝視する。その間に大鳳は懐から一丁の拳銃を抜き出して構えた。
……普通に考えて、まず命中しない。弾は地球の重力、磁場、その他あらゆる影響を受け、直進することはない。もし命中してもその威力は落ち、精々壁に弾かれて終わりだ。しかしそこで城戸崎が弾を強化することでそれを突破する。
「補強完了したゼ、隊長さんよぅ。これであのクソボロアパートは……」
城戸崎が握っていた手を勢いよく開き、クククと笑う。
銃口に笠波のアクセサリーが重なり、大鳳は改めて銃を構えなおした。
これは正しくあのアパートに弾を飛ばすための補助道具ではない。弾を『移す』ためのものだ。
通信機からはスティーブが暇そうに鼻歌を歌っているのが聞こえてくる。これは……『ドナドナ』か。
「魔法は、正しい者が正しく使わなければならない……」
魔法使いとは名ばかりで、実際はただの害悪だ。
魔法使いが人類社会に多大な利益をもたらしたことがあるか?
否。
実験と称したテロまがいをいったい何度繰り返した。やはり魔法は絶たねば。きちんと良識のある者が使いこなすことで初めてその真価が発揮できる。水無月がその証だ。だから必要だ。
朝日に照らされ、銃身が鈍色に光る。
自己を主張し始める蝉の大合唱が、まるで大鳳を急かしているように聞こえてしまう。
それでいい。
トリガーに指をかけ、一言だけ呟いた。
「――オ・ルヴォワール」
◆
インターホンの鳴る音が聞こえて、すぐに俺はマナだとわかった。帰り際に「また朝に来るよ」と言っていたからまず間違いない。
案の定ドアの覗き穴を覗くと、重そうに紙袋を持つマナが立っていた。俺は急いでドアを開け、マナを中に招く。
「ふう、さすがに疲れたよ。でも水無月のため。これくらいやすいものさ」
「それは……?」
「服だよ。決まってるじゃないか。まさか公嗣の家に女物の服があるわけないよね? あったらあったで変態確定だけど」
玄関口に置かれた紙袋を覗いてみると、確かに服がたくさん入っていた。
「なに覗いてるんだい、この変態。下をもいでやろうか」
朝一番からその発言はきつい。もっと恥じらいを持ったらどうかと言いたいところだが、言ったところでまた容赦ない追撃をくらいそうだからやめておいた。
その間にひょこっと顔を出した水無月が、興味深そうに紙袋を覗き込んだ。
次にマナの顔を見た水無月の表情が一瞬だけ曇っているように見えたが、今一度確認すると、そんなことはなかったと言わんばかりに笑顔だった。
「これ、服?」
「そうだよ。いつまでもそんな格好だと嫌だろう? それにサイズの問題もあるし」
「私に?」
「うん、下着とかもちゃんとそろえてあるよ。だいたい動きやすい服装だけを絞り込んできたからきっと合うよ」
「ありがとう皐月ちゃん!」
「んんんん!!」と唸りながら喜びを表現しようと水無月はマナに抱き着いた。素晴らしい反応速度で手を広げたマナは全力で受け取る準備を済ませていて、まんざらでもない蕩けきった顔で抱擁を交わす。
相変わらず俺への態度は辛辣だが、水無月のことになるとだらけきった様子になる。百合百合しい現場から離れようと思い、ふたりを置いてさっさとリビングに戻ろうとした、その時。
天蓋を穿つような激しい轟音が床を……いや、アパート全体を揺らす。地震かと瞬時に考えつき、急いでテーブルの下に隠れようとした。
「待って!」
しかし水無月が俺の腕を掴み、引き寄せられた。咄嗟のことで俺はされるがままになり、その間にも床が崩壊し始める。
「う、お……!」
ぐらりと平行であるはずの床に段差が生まれ、その穴に俺は足を呑まれてしまった。
……落ちる。
このアパートは三階建てだ。そして俺の家は二階。落下自体は大したことがなくても、上から落ちてくる瓦礫などがあまりに危険。間違いなく死ぬ。
実際にはほんの数秒の出来事のはずだが、やけにスローに時間が進んでいるように感じる。俺の目の前を落ちる鉄骨の一本一本をはっきりと数えられるほどだ。それからようやくいつまで経っても足が何にも触れない違和感に気づいた。水無月を見ると、額に脂汗を滲ませながら必死に反対の手でマナを引き寄せている。
俺たちが被害を受けずにいられるのは、半透明上の膜に覆われているからだ。
「あと、もう少し……っ!」
そう呻きながら、水無月が展開させているのだろう膜を維持するのに力を使っている。
「――いいかい、公嗣。着地したらボクが瓦礫を退ける。人的被害を出したくないから、ボクの召喚する獣に乗って異層に飛び込んでもらう」
いつも俺にツンツンした態度をとるマナが真剣に語った。ここで俺がとやかく意見するのは時間の無駄だと認め、首肯する。
「ありがとう。――来い、白露、時雨、村雨」
マナの胸のあたりから墨が滲むように現れるは、三頭の狼。ゆらゆらと紫色の焔が身体の周りで揺れている。大きさは俺の家のソファーと同じくらいだ。一見どれも見分けがつかないが、それぞれ青紫、赤紫、紫だったりと区別する要素はある。三頭とも人懐っこくマナに頬ずりをする。
「白露と村雨は水無月を助けてあげて。時雨はこの人を異層に」
三頭とも小さく唸ると、各々行動を始めた。白露と村雨は水無月に寄り添い、時雨――と呼ばれた赤紫色の狼は俺の身体を興味深そうに嗅ぐと、満足気に鼻を鳴らした。
「あとで絶対に追いかけるから!! ――着地、今ッ!」
ふわり、と内臓が軽くなる、ジェットコースターで感じるような感覚に俺は短く空気を吐いた。途端、上から降ってくる瓦礫が膜に激しく衝突し、一部に亀裂が生じる。
「お願い!」
「払え!」
水無月の悲鳴にも似た声と、マナの命令する声はほぼ同時だった。
白露の紫の焔と、村雨の青紫の焔がひと際熱くボウッ! と燃え上がる。実際に俺はそれに触れてしまったが、肉体的な熱を感じることはなかった。強靭な前足を突き出し、二頭の狼は振り下ろした。
その瞬間膜は消え去り、落下物を防ぐモノが無くなって――……。
――豪風が吹いた。
刹那の出来事だったが、全身を持っていかれそうになり、なんとか時雨の身体にしがみつくことで止むなきを得た。まだ涼しい朝だというのに、背に張り付く汗が鬱陶しい。周りを見回すと跡形もなくなったアパートの残骸が転がっている。
「――っ」
もともとここは入居者が絶望的に少ないが、だからといっていないわけではない。俺たち以外に巻き込まれた人はいないかと確認したが、どうやらその心配は杞憂だったようだ。
「あれは……大鳳!! 第二波、来るよ! 能代君、逃げて!!」
水無月の覇気迫る言葉に我に返った俺はマナに言われたことを思い出し、急いで時雨の大きな背中に乗った。
「異層に入った後、必ずボクたちが後を追うからそれまで絶対に時雨から離れたらダメだよ。……離れたら間違いなく死ぬよ」
「次弾装填中、距離一.八! 私が気づけなかったから……弾を転移させてるかも!」
まもなく入ってきた水無月の報告にマナは口をへの字に曲げた。
「……行くんだ時雨、公嗣を頼んだよ」
時雨がマナの号令に従って瓦礫の山から飛び出すのと、もう一度アパートが暴力的な爆音が轟いたのはほんの数秒の差だった。
間違いなく車より速い速度で駆ける時雨に、俺は死に物狂いでしがみつくしかなかった。手汗のせいで艶のある体毛から滑りそうになり、今一度しがみつく。
目の前は昨日水無月と剣の特訓をした林。加速世界の中、木々の間、そのすれすれを針で縫い分けるように駆け抜ける。
……と思いきや、突然今までの勢いを殺し、時雨の動きが止まる。
「のわっ⁉」
後ろからの加速力に身を投げ出してしまいそうになったが、これをぎりぎり耐える。
そして不規則な動きを見せる。
左にステップ。力強くジャンプ。直地した瞬間ジグザグに回避行動。
「し、時雨……?」
声をかけてみるが、時雨は歯茎の牙をぎらつかせながら絶え間なく身体の角度を変えて一歩、二歩と後ずさる。
「――ほう、死角からのナイフ。そのすべてを躱すか……。相当鍛えられてるな、犬っころ」
訛りのある、流暢な男の声。
心臓を鷲摑みされるような声色に、俺は息が止まった。
堂々と姿を見せたのは四人の人間だった。
男が三人。女が一人。
全員灰色のライダースーツを身に纏い、腰にまとめて巻き付けられている無数のナイフがとても目立つ。
「とんだ外れだ。だが……お前を餌に、『あれ』を釣るのはとても面白そうだ。おっと、申し遅れた。オレはアメリカからわざわざ『あれ』を捕獲するためにやってきた、スティーブ・ドレムという。以後よろしく」
アメリカ人の一般的なブロンズの髪をオールバックにしたスティーブが一歩前に出る。その瞬間時雨が鼻を振り上げ、雄叫びを上げた。
「能代……といったか。話は聞いている。一般人のくせに『あれ』と仲良く、とか。ハハ、どうかと思うがな? 世界を救った英雄サマとはいえ、『あれ』は人を捨てているぞ」
「『あれ』じゃない。ちゃんと名前がある」
「どうでもいい」
こいつは……こいつらは水無月のことを何とも思っていない。ただ『使えるから』。そこだけに着眼して追いかける。感慨はない。
なぜだ。水無月は……水無月は存在することすら許されないというのか。
もしそうと言うのならば、俺は声を大にしてそれを否定してやる。水無月の過去は知らない。きっとまだ俺に隠していることもあるだろう。今スティーブが言った通り水無月が世界を救ったのならば、なおさら追われるのはおかしい。言わば英雄だ。勇者だ。魔王を倒した勇者が、救ったはずの人間に追われ、襲われ、囚われ、自由を奪われるなんてことはあってはならない!
「たとえ水無月が人じゃないとしても……」
どう考えても俺では四人には勝てない。
戦うための武器もない。さっきのナイフにも気づくことができなかった。立ち向かっても、一分ももたないのは誰よりも理解している。だから俺は何もしない何もできない。
だが。
それでも俺は、言葉を紡ぐことができる――!
「俺は、水無月と共にいたい」
「――――」
アパートを破壊した奴は十中八九目の前の刺客たちの仲間。水無月とマナが何をしているのかはわからないが、迎えに来てくれるまで俺はこいつらから時間を稼がなくてはならない。
「――――――ハ」
スティーブが口元を醜悪に歪ませる。
「ハハッ、ハハハハハハハハ!!」
笑う。
顔を手で覆いながらも、目は俺を見て。口は俺に向けていた。
溶けるように側で立っている三人は決して顔に表情を出すことはなかったが、俺を見る目は明らかに侮蔑と嘲笑を孕んでいた。
「いいかよく聞け。お前はただの一般人。そもそもオレたちはお前に用はない。もしかすると囮に使われたのかもしれないぞ? 今こうやっているだけで十分な時間稼ぎだからなぁ? そうなりゃ、お前は人質としての価値も無くなるわけだ。……殺すか」
「っ」
確かにスティーブの言うことに一理ある。
実際のところ、俺が水無月に抱いているのは一昨日に出会った瞬間の、一目惚れから始まったものだ。恋愛経験の乏しい俺はそこからどうやって進展させればわからないが、この想いは偽物ではない。
水無月からの応酬がなかったとしても、これで少しでも水無月を危険から遠ざけることができるのだ。
……死にたくない。シンプルな願いだ。情けないまでに彼らに懇願し、その結果本当に生かしてくれるのならば俺は喜んで頭を地面に擦り付けよう。しかしそうではない。水無月が俺を追いかけると言ってくれたのだ。ちっぽけなプライドを捨ててまでこいつらに媚びる必要なんて、どこにもない。
それに。
「俺が生き残る可能性だって、ゼロではないだろう?」
「なるほどな。では殺してやろう。感謝しろ」
スティーブたちが前に出る。
余裕を持て余して歩み寄ってくるのを俺は黙って見届けるはずもなかった。
時雨の首元を軽く叩いて、走らせる。
その速度は、残像。俺の視界はブレ、周りが曖昧な認識になる。
聞き取れるのは、鋭い風切り音と、絶え間なく続くナイフの外れて地面に刺さる音。
こうなっては頼れるのは時雨だけだ。腹までべったりとくっついて、どれだけ激しく動き回っても振り落とされないような態勢をとる。
時雨は任せろと言っているようにフルルと鳴く。水無月は強い。だからやられることはまずない。マナはどうかわからないが、白露と村雨もいることだから心配はいらない。
耳を冷たい死の音が掠めた。
痛みはそれほどでもなかったが、代わりにそれを遥かに上回る恐怖に襲われた。身の毛もよだつ恐怖。冴えた目が見たのは、相対的に等速度がゆえにピッタリと添うように隣り合わせで木々を飛ぶ四つの影。
時雨が急反転して影を振り切ろうとしても、離れることはなく、むしろ接近してきている。
およそ人には不可能な速度で時雨は走っているというのに、まるでそれを感じさせないスティーブたちの人を度外視した追跡能力。ジェフロワは召喚魔法で深淵と呼ばれるバケモノを操る。両者とも水無月を狙う同業者というのなら、アメリカ勢も魔法使いだけで構成された精鋭部隊とみるのが妥当だ。
身をもって魔法という力の強大さを知る。
……ふと、俺は疑問を抱いた。
ジェフロワは魔法使いだ。それは間違いない。そして日本とアメリカも同じく魔法使いであるはず。水無月を捕獲するためにはどれだけ鍛えられた者だろうと魔法に手を染めていなければ絶対に無理だ。
水無月は大鳳の名を口にしていた。だからおそらくアパートを襲撃したのは彼だ。しかし大鳳究は日本人なら誰もが知っている対魔法使い部隊の隊長である。
魔法は日本だけでなく、世界中で殺されている。事実、中世ヨーロッパでは大規模な魔法使いの大虐殺が行われたらしいし、どちらかというと日本より外国のほうが拒絶の度合いは壮絶なものだ。
水無月を追う彼らがもし全員魔法使いだと仮定すれば、これが果たしてどのような意味を持つかというと……。
「Go to hell!!」
ニット帽を目元まで深く被った男が肉薄する。
時雨が地面を力強く蹴り、後ろ足で男の胸を蹴り上げる。だがそれが命中することはなく、男はそれを逆手に取って脚を掴み、時雨の勢いを保ったまま一回転して投げ飛ばした。
今度こそ手が離れてしまった俺は無様に中に投げ出され、ろくに受け身も取れずに地面に衝突した。
「ぐ、ァ……!」
立ち上がらなければ。
右腕が軋む。だからといって敵は待ってくれない。横向きに倒れた俺は、左腕ではなく右腕を使うほうが速く立てると素早く判断して実行した。
嫌な音が中で鳴ったが、どうでも良かった。
時雨が立ち上がった俺を守るように、男との間に躍り出る。
「ケン、少し待て。小僧にはオレたちを甘くみたツケを払ってもらわねばならない」
英語でスティーブに呼び止められた男は、全ての指の間に挟んだナイフを持ったまま立ち止まる。
少しは理解できるかと思ったが、そこまで頭はよくないため、冒頭の名前しかわからなかった。すでに四人に囲まれていて、さっきと同じように逃走劇を始められるかと思案したが、一蹴する。二度も同じ手を許すほど彼らも愚かではないだろう。
「『愚か者には死を。地獄すら生温い、生死を後悔する死を』」
「その通りだ」
「隣のニワトリも鳴き忘れるってな!」
喚き立てたケンはナイフを懐にしまい、隠すことなく曝け出していた殺意を消す。
「――慈悲だ。これに悪意はなく、君を猛省させるための、せめてもの慈悲だ」
ケンが英語の言葉を並べる。
俺はだらんと右腕を垂らしながら静かにじりじりと迫る四人の影を見つめた。時雨は……まだ戦えるようだ。闘志未だ衰えずといった雰囲気で、気持ちで負けるなと頭を俺の腰にぐいぐい擦り付けてくる。……主のマナに似て、なかなか生意気な狼じゃないか。
「……毒がいい。じわじわと命を削られるのを味わいながら死ぬべき」
唯一の女性が蕩けるような艶やかな美声で何かを言う。
手に持つのは一本のナイフ。しかしその先端は液体を塗り付けた跡がテカテカと藍色に光っている。
「それでいい。コネリーの意見でいいな、ケン、セシル」
スティーブに首肯したふたりは潔く後ろに下がる。
代わりに前に出たのは、女。
「……美人さんに殺されるのなら僥倖だな。でも今はその時じゃない」
日本語が通じているかはわからないが、それでも言ってやった。
途端、勇気が胸中を支配した。
まだ俺は生きてるのだ。こいつらに勝てないと誰が決めた。もしかするとこの突発的な衝動は、やってもないくせにできると思い込むよくないモノなのかもしれないが、それで十分だ。いける。絶対的に勝てないだろうが、死ななければいいのだ。そうすれば水無月とマナ任せになるが、勝機はある。あるのだ。
異層でのみ感じる、夏を吹き飛ばす冷気が今日はやけに温い。だが汗が渇き、べっとりと肌に張り付いている服が気持ち悪い。
女はナイフを掲げていざ振り下ろさんとしている。時雨は吠え、頭を低く下げてコンマ後にも女に飛びかかろうとしている。俺だって何もしないつもりなど毛頭ない。
ナイフが木々の間を抜けて射す光に照らされてひと際眩しく光った瞬間、俺は腰を落として……!!
突然拳撃のような豪風に横殴りをされ、俺は反射的に腕で顔を負った。そのせいで行動することができず、逆に身体が僅かにふわりと浮いて尻もちを打ってしまう。
何が起こったのかが全く理解できず、いち早く状況を把握しようと目を開けた。
――辺り一帯の木、その葉がすべてなくなっている。それだけではない。木も何本か根こそぎえぐり取られている。
刹那の間に起こった出来事に目を白黒させる。
緑が一切消え失せ、宙を見上げればWothの禍々しい渦が良く見える。この荒れ地のような状態が向こう二十メートルほど先まで続いている。
「――お待たせ能代君。遅れてしまって、ごめんね」
聞き忘れるはずのない声。
「――――――ああ」
凛として花の咲くような可憐で見惚れる後ろ姿に、俺は無意識に感嘆を漏らす。少し傷ついていて、服がところどころ血に滲んでいる。
これほど頼もしい人物はいるだろうか。まさに窮地に陥った瞬間に助けに現れる正義のヒーロー。前の俺だったらそんなもの存在するわけが無いだろうと笑ってやったが、今ならば全力で肯定しよう。
「――――ああ、水無月」
だからこそもう一度呟き、そのヒーローの名を乾ききった唇を震えさせながら呼んだ。
俺の無事を一瞥して確認した水無月は安堵のため息を吐くと、打って変わって張り詰めた声で吠えた。
「私を狙うのなら、私だけを狙いなさい! 私の大事な人を傷つけるのは、誰であろうと、絶対に許さない!!」
ビリビリと実体を持ったのかと錯覚してしまう力強さがスティーブたちを後退りさせる。
少し遅れて村雨を連れて白露に乗りながら到着したマナが俺の側に膝を折った。
「本当にごめんよ。これが咄嗟に考えついた最善だとわかっていても、公嗣ひとりにさせるのはあまりに危険だった……。それと」
俺の右腕の負傷にいち早く気づき、優しく抱き上げると、仄かに温かい光が右腕を包む。光が消え、試しに動かしてみる。完治はしていないが、幾分かマシになった。無理をしなければ動くのは問題ないほどだ。
「ありがとう……生きていてくれて。ボクたちを信じてくれて」
「何を当たり前のことを言ってるんだよ」
始めて俺に向ける表情だ。僅かに頬が赤くなってしまった俺はプイ、とそっぽを向く。
「おい、せっかくボクが素直に話したのにそれはないんじゃないか?」
「い、いや。なんか照れくさいな。改めてそう言われると」
「――そっ、か」
スティーブたちの態勢はすでに整えられている。
視覚を阻害する木はある程度倒れたため、アメリカ勢が得意としている隠密な暗殺は防ぐことに成功したと言ってもいいだろう。これでさっきよりも姿を捉えやすくなった。
ジェフロワたちを翻弄したあの斧は水無月の手にない。
スティーブ達の背後から新たな影が三つ、現れる。
ふたりは知らないが……先頭に立つ男、彼は瞬時に誰かを理解した。
「大鳳、究……」
大鳳は俺の言葉にピクリと反応すると、西洋のガンマンを想起させるスピードで銃を構えた。
そして次は俺の数センチ手前に移動した水無月が、いつの間にか手に持っていた槍を振り払っていた。
俺の知る槍ではなかった。青黒のそれではなく、完全に無を投影した白。シンプルな一本の棒であるその槍は、末恐ろしい気迫を周囲の空気に滲ませている。
水無月は言っていた。聖槍ロンゴミニアドを手に入れた時に言っていた。槍。片割れの三本。ロンゴミニアドと同じ雰囲気をあの槍から感じる。もしかしてこれは二本目、なのだろうか……。
「……やっと理屈がわかったよ。やっぱり転移させてたんだね、弾を。……あなたたちが組んでいたとはね」
「そうだ、その反応速度は称賛に値する。それは……ロンギヌス、か」
俺が反応できる――いや、違う。『反応』を超えた超速度で行われたらしい攻防。
「へえ、知ってるんだ。数では劣ってるけど、実力は――わかるよね? 私がそこまで欲しいのなら四肢をもがれても向かってきなさい。そっちの言葉を借りるなら……『愚か者には死を。地獄すら生温い、生死を後悔する死を』、ね」
七対三。否、俺は戦力外だから二だ。
ケンに脚を掴まれたことで負傷した時雨は白露、村雨と続いてマナの胸の内に還る。
「笠波が提案します。ここは撤退すべきかと」
左手に持っている道具を絶えずカチカチと弄りながら言う。
大鳳は笠波を一瞥した後、次にスティーブたちの様子を窺う。
「どうだ」
「タイホウ。わかっているはずだ、互いに。こちらは惜しみなく協力『は』する。だからそちらも協力しろ」
「了承した。これより、日米臨時統合隊は水無月咲の捕獲を開始する」
瞬間、俺を除く全員が高く土煙を蹴り上げた。
水無月のスティーブに放った初撃の一貫は容易く躱される。その後の硬直を狙った、全方位からのナイフ。
水無月は動かない。しかしすべてのナイフががぎぃん!! と弾き落される。
「ケン、コネリー、セシル。あなたたちの行動は前からまるで変っていない。その癖はもう効かない」
――不可視の一振り。
――一幕遅れて、刺撃の嵐。
三人がもう一度投擲したナイフは余裕をもって無力化される。
ロンギヌスを闇に放り、代わりに手に収まったのは俺も知る斧だ。
「白露、村雨」
再び呼ばれた二頭の狼がマナから姿を現す。
寸分の狂いもない連携。大鳳の銃口から逃れながら確実に接近する白露と村雨。直接狙うことを止めた大鳳は自らの手前数メートルの地面に弾を撃った。
大地を割り、辺りをすべて巻き込んだ地割れを起こす。俺はともかく、すぐそばでスティーブたちと必死の攻防を繰り広げていた水無月の足元が崩れ、バランスが取れなくなる。
四人が一斉に水無月に襲い掛かる。
もし避けたとしても、その後の展開が詰んでいる。
四対一。俺でも無理だと容易にわかる。
「――ッ!」
水無月が腕を振る。
すると再び出現したロンゴミニアドがひとりでに振るわれ、青の炎を爆発させた。
劣勢となった水無月が、一気に優勢へと切り替わる。さらにロンギヌスも現れ、身勝手に乱舞する。
「この手はあまり使いたくなかったけど……どう? これで人数の不利はだいぶ解消されたよ? 豚のように鳴いて命乞いをしなさい。別に豚じゃなくてもいいけどね。わんわん? にゃーにゃー? それともちゅーちゅー? いや、ひひーんでもいいよ」
水無月が斧を振るえば、それに追随して二本の槍が暴れまわる。一方は炎を巻き起こし、もう一方は刺撃痕をばら撒き、接近すら許さない領域を展開する。
ケンとコネリーとセシルは尻込みをするが、スティーブは異なった。
ナイフすら持たずに槍の領域ギリギリまで接近して、口を開く。
「ようはこの槍檻を突破すればいいんだろう。中に閉じ込もっているのは可愛い可愛い人形だ。オレたちがこじ開けてやるよ。なあ、人形」
水無月と視線が交差する。
先に動いたのは水無月だ。自身の速さだけでなく、斧を爆発させて得た推進力をも乗せて一気に肉迫する。
アクロバティックな動きで回避したスティーブを二本の槍が追い打ちをかける。
遅れてやってくる槍の軌跡の数々をケンとセシルの二人がかりで食いかかり、迫る炎の波は大きくステップを踏むことで躱す。
これで水無月にとって一合。たった一合なのだ。
それなのにアメリカ勢は総出でやり合わなければならない。
マナが水無月に合流し、白露と村雨がマナの前に構える。
大鳳ともう一人は無傷。常に持っていた道具が壊されたのか、笠波は頭から血を流しながらスティーブたちと並ぶ。
「私たちは全員深度四の魔法使いだ。対してお前たちは深度一と三、そして一般人。私たちが本気を出せばどうなるかくらい、わかるだろう?」
大鳳が水無月に諭すように訴えかける。
肩を大きく上下させながら呼吸を整えるマナ。疲労が目に見えている。それを横目でチラリと見た水無月は、僅かに表情を曇らせる。
マナはよくやった。白露と村雨とで三人を相手にし、ひとりに無視できない傷を負わせた。そして水無月は四人と拮抗させていた。
しかしそれでは足りない。戦いを終わらせる決定的な要素が足りないのだ。マナは明らかに消耗している。水無月にはまだ多少の余裕がありそうだが、長期的に見ると間違いなく押され始めるのは俺でもわかる。
「……無視、か。まあいい。ならばその返答、後悔させてやる」
銃を構える。
「城戸崎、極大開帳」
「へいよ。矛と盾、どっちが勝つか楽しみだねぇぇぇ……」
大鳳に名を呼ばれた男はねっとりとした気味の悪い口調で呵々と笑う。
城戸崎が指を鳴らせば銃が瞬く間に肥大化する。銃身はより長く変化し、ついに脚までも地に伸びる。FPSとか様々な銃撃戦ゲームでしばしば見る対戦車ライフル、いや違う。そんなものじゃない。まだ肥大化は進み、銃口が拳よりも大きくなる。
込められる一発。
あんなもの、命中すればもとより、掠るだけでも重傷は免れない。
「これで守りを突破させてもらおう。お前は避ける程度造作もないが、他はどうだろうな?」
大鳳が引き金に指をかける。
ここで俺とマナが水無月の脚を引っ張ってしまう。
苦虫を噛み潰した顔でスティーブを睨みつけ、水無月は斧を構え、ロンギヌスとロンゴミニアドが無限にステップを踏み、幾重に防壁を前面に展開する。炎は荒れ狂い、踏み入れようならば空中に存在している無数の『痕』が容赦なく貫く。
俺はやはり何もできない。水無月に守られてばかりで、何もできない。
拳を握り、あまりに無力な自分を自嘲する。
「耐えられるのならば耐えてみせろ。それはそれでまた、面白い。……オ・ルヴォワール」
カチン、と撃鉄が下ろされる。
撃ちだされるは、一撃必殺の弾頭。
接触。
一生分の火花を、一瞬で目の前に広がった。
赤。朱。紅。
絶えず輝く光が周りの木々を燃やし、瞬く間にそこら一帯を火の海にする。
「ぅ、あ、ぁぁああああああああ!!」
水無月が叫ぶ。
『痕』は弾頭を貫く。その隣、そのまた隣の『痕』が反応して包み込み、槍檻に捕らえる。しかし勢いが衰えることはなく、少しずつだが確実に水無月に距離を詰めている。
燃える。燃える。燃える。
燃えているのは、何?
「お、願い……もっと、来、てぇッ!!」
水無月が誰かに懇願した瞬間、武器が出現する。
その総数は数えられないほど。
炎が弾頭を暴力的な爆風で押し返し、無限の武器でさらに押し返す。
劣勢状態は続く。無限に現れては消える武器。二本の槍は速さの限界を超えてもはや俺の目には見えなくなる。もう弾頭は水無月の目と鼻の先だ。
……そしてついに決着が訪れる。
圧倒的な爆発を巻き起こして水無月も、その他俺も例外なく全員が爆風に吹き飛ばされる。ふわりと身体が浮き上がり、「ぉ……」と気づいた瞬間には地面に殴りつけられていた。その上から土が覆いかぶさり、身動きが取れなくなる。
意外なことに、一番先に我に返ったのは俺だった。
下半身にのしかかる土を振り払って素早く状況を確認した。
爆発が起こった場所を中心にクレ―タ―が形成されている。咄嗟に水無月とマナの安否を走り寄って確かめる。マナは気絶しているだけだが、水無月は体中から血を流してボロボロの状態にもかかわらず、自失茫然とその場に立ち尽くしていた。
「水無月! おい、水無月⁉」
「ぁ……のしろ、君……」
凄まじい攻防の結果か、力を使い果たした水無月は俺の無事を確認すると安心しきって崩れ落ちた。
必死に駆け寄って抱き起こす。マナと違って意識はちゃんとあるようだが自分の力では動けない様子だ。大鳳のあの銃撃を防いだのを「ありがとう」と一刻も早く伝えたいが、それはまだできない。なぜならば大鳳たちがどこかにいるからだ。
二本の槍が水無月の足元に落下し、さっきまでの神速の動きを見せていた面影はまるでない。爆風が巻き上げた土煙が二メートルの先の視界を遮っているため、向こうはまだこちらを捉えきれていないはずだ。ふたりはもはや戦闘不能。今もう一度襲われれば、絶対に負ける。
水無月は連れていかれる。
それだけは、ダメだ。
水無月とマナの肩を持つ。さすがにふたりとなると重く、移動はしづらい。しかし引きずりながらでも撤退はできる。
「ごめ、んね……」
虚ろな目を向けた水無月が謝罪を口にする。
「気にしないでくれ。むしろ俺はここで初めて水無月の役に立ってる。それだけで十分なんだ」
方向なんて知ったことか。少しでも遠く運ぶことが俺のすべきこと。後ろを向いて、今一度腰を上げて俺が最も二人を支えやすい態勢をとる。
槍は……放置する。どれほどの価値があるのかなど俺の想像を遥かに超えているのはもちろんだが、それよりも二人の安全が先だ。
――死がいた。
ふわりふわりと陽気に漂っているが、目のない実体でも容易にわかる。
間違いなく、俺たちに標的を絞っていると。
「深、淵……!!」
刺々しい触手はすでにこちらに向けられている。
ここで、深淵が来るか……!
ジェフロワも水無月を狙う勢力のひとり。異層だからといって派手に暴れていたら居場所を悟られるのも当然だ。それに混乱に乗じて水無月を連れ去る。これが漁夫の利、というわけか。
思考が加速する。
水無月はまだ動ける様子ではない。俺の服を掴んで必死に何かを訴えようとしているが、口がパクパクと開閉するだけで言葉を発音できていない。マナはぐったりと頭を項垂れているようだが、水無月はあと少しで復帰できそうだ。
触手が一本伸びる。完全に俺を舐めきって放たれた攻撃。このスピードならギリギリ俺の目でも捉えられる。
……何も考えなかった。いや、考えた。
だから咄嗟に頭に浮かんだことに身体が従っていた。いつの間に動いていたのかわからない。深淵が攻撃した瞬間? 前? そんなことはどうでもいい
俺は細胞のすべてに刹那の速度を求めた。魔法使いなどではない俺が全力で動いてもスティーブや大鳳の前では止まって見えるだろうが。
しかしこの瞬間だけは……これで十分だ!!
ふたりを放り、足元に落ちる二本の槍、その内一本、ロンギヌスを手に取る。
深く考えなかったツケか。槍に触れ違和感を感じた瞬間、ある言葉を思い出した。
『この槍は人の手に余るモノよ。ヒトに属する者は触れることすら叶わない、遥か神代に創造された聖槍の片割れ』
ロンゴミニアドを手にした時に水無月が言っていた言葉。
この槍が二本目であることはなんとなくでも察することができたはず。誰も彼もが水無月を『人でない』と言っていた。ならば槍を水無月が持つことができたことに納得できる。
……ならば俺は?
……雨が降っている。
傘も指していない俺はそっと頬を撫でてみると、その指は赤一色に染まっていることに気づいた。
そう、血の雨だ。
なんの感慨もなく見上げる。
ぼたり。ぼたり。ぼたり。
落ちてきたのは生首。
男。女。子供。大人。老人。様々な首が落ちてくる。
死が地を満たし、埋め尽くし、ついには天にまで手を伸ばす。すべて呑まれる。その様を俺は黙って見届けているだけ。
立ち上がるは無数の死者。
怨念を口にし、自らの死を嘆きながらその原因はお前だと骨の槍を投げつける。
しかし槍は俺に飛んでは来ない。死肉で積み上げられた山の向こう、影になって見えない。
死者たちを手で押し退けながら山を登る。
「来ないで!」
誰かの声が聞こえた。それは向こう側からだ。男か女か、なぜかわからない。
しとしと、と。
しとしと、と。
雨は振り続ける。死者たちの姿は皆それぞれだ。左半身を失い、内臓を零さないように手で抑える者。文字通り胸に空洞ができている者。どろどろに溶け、移動することすらできないただの肉の塊。
そんな皆に等しく雨は振り、頬を伝えばそれは涙のよう。
「来ないで!!」
拒絶の叫び。
それでも俺は登り続ける。
死者たちは殺すなと俺に嘆願し、しかしながら死ぬほど苦しめろと喚き散らす。
俺はその言葉を無視して登り続ける。ついに頂点に辿り着き、そこから下を見下ろす。
そこにあったのは死という概念そのもの。実体を持たず、だが間違いなく存在しているもの。
俺を認知した瞬間、一斉に襲いかかる。抵抗する暇すらなく呑み込まれた俺は。
俺は。俺は。俺、は。俺……は。
おれ、は。
おれはいったい誰なんだろう?
やけにここちよい腕にだかれている。しだいにねむくなり、うとうとと船をこぎはじめる。
ねむろう。赤子のように。母の子宮にかえり、あたたかい羊水におぼれてねむろう。
そもそもおれはいったい、なにをしに……なにをしようとしていたのか……。
まぶたがゆっくりとおちてゆく。これほどここちよいねむりがあるだろうか。
……しかいのはしに、だれかがうずくまっているのがみえる。おれのからだはちょうてんからいっぽもむこうにすすんでいない。
すすめない、のだ。いまとなってはどうでもいいこと。だってこえることができないから。そしておれはねむりに堕ちるのだ。
「何しに来たの?」
声。
「…………」
「あの子たちに頼まれて私を苦しめに来たの?」
「…………いや……ちが、う」
放っておいてくれ。おれはねむいのだから。刺々しい物言いで問いかけてくる声に、ささやき声でへんじをする。
「ならあなたは……何がしたいの?」
あまりに冷たく、無かんどうな問い。
俺は言葉のいみをそしゃくする。ナニヲシニキタノ。
考えれば考えるほど、ねむけが覚めていくのをかんじた。
思いだせ。もう膜に焼きついている、あの少女のかおを。
思い出せ。心にそっと抱いた、想いを。
「そんなの……決まってるじゃないか……」
目は開かれる。
俺を温かくつつんでいた血は弾ける。
纏わりついた死を振り払い、その拘束を引き千切り、踏み潰し、一歩前に進み、身体の奥底から叫ぶ。
「俺は……水無月を守るために立ち向かう!!」
世界に帰還する。
目の前の深淵。槍を振り払う俺。
「うおおおおおおッ!」
槍本来の使い方ではなく、ただデタラメに振るだけ。そこに技術や云々は皆無だ。昨日水無月につきっきりで鍛えてもてもらったのに生かしきれているとは正直言えない。
両者が接触した瞬間、鈍く不協和音が響く。
振った場所に『痕』が残り、起動する。俺を侮っていた深淵はその防御と反撃をまともにくらい、触手を何本か切り落とすびちゃびちゃと赤黒い血を垂れ流しながら跳ねるのが鳥肌を立たせるほど気持ち悪い。
悍ましい悲鳴を上げながら、残りすべての触手を俺に向けて威嚇する。
とてつもない疲労感に襲われ、俺はその場に膝をつく。槍を扱うことはできたが、ひと振りでこの様だ。今度こそ俺は防げない。
終わりの時は訪れず、代わりに深淵が大きく後退する。瞬間、天から降ってきた無数の武器が深淵の元いた場所に刺さる。
「それ以上、は……ダメ!」
荒々しく呼吸を繰り返す水無月が立ち上がっている。
「水無月!」
「槍は……ダメ、だよ?」
俺を見て悲しそうに呟く。
そんな顔で見ないでほしい。確かに安易に手を出すべきものではなかったが、そうでもしないとどうしようもなかったのだ。それを水無月も胸中ではわかっているらしく、俺を責めるのを止める。
「……ごめん。俺は……俺は水無月を守りたかった。本当にそれだけなんだ。信じてくれ」
「謝る必要なんてないよ。私が倒れたからこうならなかったの。だからこれは、私のせい」
深淵が咆哮する。が、直後に何かが深淵を殴りつけ、グオゥッ! と怯む。続けて一撃、二撃、三撃と単身で拳撃を加える男が一人。
大鳳だ。アクロバティックな動きで回避を繰り返しながら確実にダメージを蓄積させている。肩を掠め、飛ばされる。大鳳をカバーするように城戸崎と笠波が割り込み、深淵の攻撃タイミングをずらすことに重きを置いたかく乱攻撃するスティーブたち。
俺たちは蚊帳の外。三勢力のぶつかり合い。我先にと頭を出そうものなら即座に潰される駆け引きが一時的に崩壊している。
「今のうちに逃げよう。皐月ちゃんは……うん、これならすぐにでも目が覚めると思うよ」
水無月がマナの胸に手を当て、ズズズと焔を引っ張り出す。焔は伸び、狼の姿を得る。生を感じさせない佇まい。時雨たちに似ているが、どうも違う。
「まがい物だよ。ただのコピー。皐月ちゃんには悪いけど、これが一番手っ取り速いしね」
もう一頭出現させ、水無月はマナを抱えて跨る。
「急ぐよ。敵は毒壺の中。潰し合ってくれればそれがいいけど」
俺も狼に跨ると、二頭は駆ける。
後ろでは今なお激しい戦闘が繰り広げられていたが、俺は振り向くことはなかった。
前は本当に何もできなかった。だが今回は違う。俺は役に立つことができたのだ。ずっとずっと水無月に申し訳なさを感じていたが、それが少しでも腐食できた気がする。
「俺は水無月が好きだ」
俺にだけ聞こえる声。聞こえていたとしてもこの狼だけだ。
人目惚れなんて非ロジックな衝動から生まれた感情。再認識できたことに、俺は思わず嬉しくなった。




