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被虐の少女の手記  作者: シリアス大好きマン
3/8

3

 水無月は身体にのしかかる重みに目を覚ました。

「……ん、くぅ」

 目をこすり、その正体を視認する。

「こんな時間に……。もう、能代君が横にいるのに」

 寝返りを打ち、守ると誓った少年を見る。

 ……完全に動きが静止している。呼吸音も聞こえない。まさか『殺させてしまった』のかと目を見開いて跳ね起きた。両腕で公嗣の頭を抱きかかえ、拙い知識、記憶を必死にかき集めながら人工マッサージの手順を再現しようとする。しかし胸の上に手を当てたところで気づく。

「時間、止めてるんだ」

『それ』は首がないくせに首肯してみせた。

「わかってるよ。わかってるから。約束通り、ほら。ね?」

 手を広げ、『それ』に無防備を晒した。

『それ』はキャッキャッとはしゃぎ、焼き爛れた両腕を伸ばして水無月の首を絞めた。

 抵抗すらしない水無月。これ幸いとさらに力を込め、皮膚に爪が深く食い込む。

「カヒュ……ぐ、ァ」

 息苦しさに肺が極限まで萎んでいるのが透けて見える。酸欠に肺胞が飢餓に苦しんでいるのを見ているととても楽しい。

 ここで敢えて一旦首を絞めるのをやめた。

 このまま約束が果たされると思っていた水無月は「ぇ?」と血の気の薄い顔で正面を見たが、その表情はトスッ、と複数の軽い音とともに硬直した。

 水無月は音のした、自分の身体中を見回した。

「――――」

 身体には無数の短剣が刺さっていた。

『それ』らは水無月を囲み、一斉に刺したのだ。

 それを認識した瞬間、燃えるような激痛が水無月を襲った。

「――ア、ア、ァァァアアアアアアア…………!!」

 びしゃびしゃと。

 びしゃびしゃと血が飛び散る。布団をまたたく間に血色に染め、水無月はその上に崩れ落ちた。

『それ』らは短剣の柄をそれぞれ一本ずつ掴むと、グリグリと角度を変えながらさらに深く抉る。

 絶叫。

 意識が途切れ、戻り、途切れ、戻りを繰り返しながらすぐには死ねないという生殺しに水無月は喉が裂けんばかりに絶叫した。

 切れ味の鋭いそれは腹を裂き、内部に秘められた、水無月を生かしたらしめる核……つまり心臓を裏から優しく持ち上げた。そして丁寧に脈を切り裂き、水無月の見せつけるように心臓を持ち上げた。

「……ぁ……………ふ」

 心臓を盗まれた水無月はもう虫の息だ。あと数秒で絶命する運命。

 ひとつまみ分の、本当に小さな呼吸を繰り返す。そして最後、ゆっくりと魂の中身を吐き出すように息を吐いたのを最後に、決して水無月が呼吸を再開することはなくなった。

『それ』らは満足したように水無月の血を浴びながら次の作業に取り組み始める。

 まだ死ぬことは許さない。

 だが生きることも許さない。

 死んで罪を償え。生きて罪を償え。

 お前は私たちと約束した。

 立て。死ね。立て。死ね。立て。死ね。立て。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。

 ひひ、ひひひ。ひひ。ひひひひひ、ひ。ひひひ。

 あれほど惨たらしく殺された水無月の死体が修復されてゆく。短剣は消え、血は逆流し、心臓は自ら舞い戻った。

 外見が全て元通りになった水無月の胸が上下する。それと同時にあり得るはずのない呼吸が再開される。

 生を噛みしめるように大きく深呼吸を繰り返した後、水無月の目が開いた。

「ちょっと今回は痛かったよ。もう満足した?」

『それ』は嬉しそうに自分の胸に腕を突き入れ、水無月の心臓を真似た擬似的な臓器を見せつけた。

「そう、よかったね。じゃあ私はまた寝るから、時間の解除お願いね?」

 何事もなかったかのように起こる生と死。

 布団を被ると時間固定は解除され、能代の呼吸音が聞こえたことに水無月は心底安心した。

「……よかった。絶対に、何があっても私はあなたを守るからね」

 にっこりと微笑む。

 そんなことを知る由もない公嗣は穏やかな寝顔で眠っている。

 時刻は深夜の四時過ぎ。このくらいなら少し眠れるか、と水無月は目を瞑った。

 ◆

 前日の戦闘が脳裏に焼き付いている。

 あの熱さ。あの激しさ。生死のやり取り。

 目覚し時計をセットしていなかったが、蒸し暑さから七時過ぎに起きることができた。

 目を擦りながら起き上がると、隣に水無月の姿はなかった。

 台所に立ち、パンをトースターに突っ込んだところでちょうどトイレから出てきた。

「おはよう、水無月」

「うん。おはよう能代君。早速今日なんだけど……」

「その前にちょっといいか?」

「?」

 俺は水無月の言葉を遮る。

「俺、改めて事の重大さがわかったんだ。だからこそ思うことがある」

 家に帰ってきて、布団に潜るまで心の中でずっとモヤモヤしていたもの。水無月がこれからもあのような毎日を送るようならどうしても言わずにいられないコト。

「やっぱり何もできないっていうのは嫌なんだ。守られるだけじゃ、俺はいったい何の為に水無月と一緒にいるのかがわからなくなってしまう。魔法使いになるのがダメなら、それ以外の方法で水無月を守りたい。だからお願いだ。……俺を鍛えてくれ」

 魔法使いになってはいけない。

 それが果たしてどれほどの重みなのかは俺には予想すらできない。しかし水無月は知っているからこそ俺に警告してくれたのだ。

 水無月の忠告を無駄にするつもりはないが、それでも、俺に何かをできることを。

「……そう、か。うん、能代君の気持ちもわかるよ」

 あまりいい気分ではなさそうだ。その相貌は陰気な影を落とす。俺を危険な目に合わせてしまう罪悪感を抱く水無月に、さらに追い打ちをかけるような懇願であることは自覚している。

「わかった。鍛えてあげる。それじゃあ今日は……」

「待ってくれ。あとひとつ」

「まだあるのん⁉」

 パンが焼けるこんがりとした香ばしい匂いに場の雰囲気が一気に和む。

「ジェフロワって奴も言ってたけど、深度一とか四ってなんだ? あと心象魔法っていうのも」

「それくらいは教えても大丈夫か。教えるけど……お腹空いちゃった。先、食べない?」

 てへっ、と可愛らしく舌を出す水無月。

 すでに焼けていたことに気づかなかった俺は慌ててトースターから少し焦げたパンを抜き取る。

「ごめん、ちょっと焦げちゃった」

「全然問題ナッシング。もうお腹ペコペコだよぉ」

 このままだと水無月、いや風さんが鳴いてしまう。

 はやく朝食にしようと急かす水無月が妙に面白くて、「はいはい」と俺は机に用意するのだった。

 食べるのが遅い水無月を待ってから、俺たちはさっそく出かける。

 ……と、その前に皿洗いは役割分担をしてすでに済ませてある。帰ってくるのが何時になるかわからないし、へとへとの状態で家事をするというのもそこそこ面倒なのだ。

 荷物を詰め込んだカバンを背負う。

「よーし、行こっかー!」

「コンビニ行くか、みたいなノリだな」

「私なんて何回も入ったんだからそんなものよ。能代君だって私みたいになるから」

「どうだかね」

 昨日着ていた水無月の服は血が付着したり、破けていたりで俺は迷うことなく破棄を選んだ。

 この調子だと服の消費が心配になってくる。普段着は完全に男物だし、その中でも比較的マシなものを水無月に着せているのだ。

 ジャージの残弾は結構残っているが、それで外を出歩くのは少し気恥ずかしいだろう。

 ぴょん、と飛び移った水無月の後を追い、俺もさらっと侵入する。

 少し進んだところで水無月の足は止まった。

「スペースは広くないけど、まあ十分でしょ」

 森の中、木のあまり生えていないエリアを見つけると、斧を出現させ、適当に一本だけ木を伐採する。ちょうどいい大きさになった切り株に腰を下ろし、「ふぃ〜」と息を吐く。

「なんだ、もう疲れたのか?」

「そんなわけないでしょ。逆に能代君には疲れてもらうんだから覚悟してよね」

「……お手柔らかにお願いしますネ」

 変にちょっかいをかけたら、後々えげつないことをさせてきそうだから大人しく従うことにした。

 斧と同じ要領で水無月の横に現れたのは一本の剣だ。ぱっと見だと特徴のないありふれた剣に見える。

「きっと能代君が剣を使いこなすことができるようになっても、こんなことができる相手と遭遇したらまず負けるからね。今から教えることは最低限の護身術とでも思って」

 斧を一旦手放し、水無月は剣を上段に構えた。

 一切の音もなく斜めに振り下ろされた刃が下を向く。立ち入ることのできない境地を俺は理性ではなく本能で理解しているが、次に起こったのは、ビュオッ! と小さな嵐を起こし、水無月の正面の木々がただの風圧で根こそぎから吹き飛ばされるという常人には理解のできない業だった。

 命中すらしていないのにこの破壊力。命中すれば、俺はまず死ぬ。

「これだけは理解してほしいの。私を守るって言ってくれたのは本当に嬉しかった。でも努力だけじゃ埋められない差というのはどうしてもある。だから無理な行動だけはしてほしくない」

「わかった」

 水無月は俺を守ると言っていた。

 だから俺といるし、守ってくれている。その俺が自分から危険な目に合いに行くのは耐えがたいのはよくわかる。

 微笑んだ水無月はさっそく剣を俺に渡す。

「まずは素振りだね。実は私もどうやって教えたらわからなくて……ほらサッカーもまずは素振りからっていうでしょ?」

「サッカーじゃなくて野球じゃないか?」

「そうだっけ」

「そうだぞ」

「マジか」

「マジだ」

「まあそんな細かいところは気にしないで。私の真似をしてね」

 水無月が剣を振る。

 なんとか俺の目でも捉えることができたが、ひと振りに見えたそれは、実はニ度目の振り降ろしだった。

「二回も振るなんて無理だぞ」

「今の三回だよ? ……あ、ごめん。つい張り切っちゃって」

 相変わらずとんでもない速度だが、一回なら問題ない。

「ただ振るだけじゃだめだよ。毎回毎回、どんな軌道で、どれくらいの力を込めて振るのか。中身の無い鍛錬は味のしない料理と同じだよ」

「なるほど」

 剣を振る。

 そもそも剣すら持ったことのない俺にはこんな経験は初めてだ。せいぜい子供の頃に箒を振り回して先生に怒られるまで遊んだ程度だ。

 剣を振る。

 今度は下からの斬り上げ。思いのほか重く、手元から離れてすぽーんとそのまま飛んでいった。しかし剣は地面に触れる前に回収され、俺のもとに戻ってくる。

「ありがとう」

「いえいえ……どういたしまして……ぷぷぷ」

 笑いの爆発が口の中で起こっている水無月は限界まで頬を膨らませている。

 おのれ。俺がずぶのド素人だからって馬鹿にしやがって。

 いつか超えてやるぞと胸の内でそんな千年たってもできそうにないことをこっそり抱き、ただひたすらに剣を振るい続けた。

「そうだ……深度ってなんだ?」

「世界と自意識の共有具合ってところかな。魔法を使うには魔力がいる。その魔力を操るためには世界の許しを乞わないといけない。基本的に、魔力は世界から供給されているわけだからね。世界との契約ってところ」

「その……つまり……もっと簡単に頼む」

「深度が深いほどより強力な魔法が使える」

「なるほど、理解した」

 夏だというのに秋のように涼しい森の中でも、久しぶりのまともな運動のせいかもう体力の限界が近づいてきていた。

 掌も段々感覚がなくなり、ピリピリと痺れが唯一の感覚となっている。地面に剣を突き立て、確認してみたら皮の一部が痛々しく剥がれかけていた。

「うーんそこまで。ちょっと休憩しよう」

 俺の様子を察してくれた水無月はそう言うと、俺の手を優しく握った。

 完全に不意を疲れた俺の顔は、爆音が聞こえてもおかしくないくらいほどの爆発をした。俺よりも頭一つ分低い水無月が……女の子が……というシチュエーションにドキがムネムネな感じに……と青少年ならよくある、どうしようもなく気持ち悪い妄想に浸る。

 手の傷がみるみるうちに治癒された。

「ありがとう、水無月……」

「ええ……うん、ええ」

 互いに余所余所しい態度で距離を取る。俺は無言になるのを誤魔化すように、さっきよりも気合を入れて剣を振り始めた。

 難しいことだが、徐々に慣れてきた気がする。だから今度は振る間隔を短くしようと試みた。

 振り下ろし。上げ。横薙ぎ払い。

 体勢はまるでなっていないと確信しているが、とりあえずはカッコつけてみたいという我ながらまだ子供心の抜けきっていない動作をする。

「……話していい?」

 ふぅ、と一息つくタイミングを見計らって水無月が声を挟んでくる。

「いいぞ」

「魔法のこと。魔法っていうのは結構な種類があって、それぞれ特徴がある。昨日のジェフロワの場合は召喚魔法。ほら、深淵って呼ばれてたバケモノを召喚して使役させる魔法なの。……まあ本当はあんなモノ召喚できないし、してはいけないんだけどね」

 触手をウニのように尖らせたりと変形自在な深淵の全体図を思い出してしまう。

 あれは……生物の範疇を超えた、なにかだ。人を超え、人の認識の外に存在するモノだ。

「私の場合は心象魔法。心に思い描いたものを現実世界に反映させる魔法」

「それってなんでもか?」

「うん、なんでも。でもこの魔法は基本的にハズレ扱いされてる。なぜかというと……」

 ください水無月が手を伸ばす。

 するとそこに収まるように今俺が持っている剣と同一のものが現れた。

 さっきと同じように試し斬りでもするかと思いきや、その前に剣がゆっくりと揺らぎ始め、最後には激しく振動しながら音も無く散る。

「心象魔法っていうのはなんでもできる。その認識は正しい。でもその心に描いたものがズレの一つもない正確なものでないと、今みたいに中途半端になってしまう」

「消えるってことか?」

「そう。創造っていうのはそんなものよ。だからといって心象魔法は物体を生成するだけじゃない。心が正確であれば心象魔法は使える。でも普通は無理。だって人間は無意識化で他のことを考えてしまうから。できるとしても決して完璧じゃない。どこまでも『ほぼ完璧』に収まる。そこにさらに動的要因が加わると、もう心象魔法どころじゃなくなる。だからハズレなの」

「でも水無月は戦いながらバンバン心象魔法? 使ってたじゃないか。深度一なのに」

「私の場合は裏技使ってるからね。はっきり言うとチート」

「どんなチートなんだ?」

「それはヒ・ミ・ツ」

「そりゃないだろう」

「秘密ったら秘密なのー」

 あくまで明かそうとしない秘密とやらが気になって仕方ないが、そこまで頑なに拒否されるからこれ以上の追及はやめた。

 家から持ってきた菓子パンをふたりで分けてこれを昼食にすることにした。切り株にふたりで腰を下ろし、背中を合わせてもぐもぐと食べる。食べ終わったところで立ち上がると、まだ食べていた水無月が「ちょっと~~!」とギリギリ後ろに倒れないように、腹に力を入れながら視界が反転している状態で水無月が抗議してきた。

 完全に俺に背中を預けていた水無月が悪い。が、両手に菓子パンを握りながらしだいに顔が赤くなるのを見ると助けてやることにした。手に持っているモノを一旦置けばすぐに戻れるのに。気づいていないかもしれないが、無意識にパンを紙くらいにぺしゃんこに潰している。

 両肩を押してやり、ふう、と安堵した水無月が自分のパンを見る前に俺は鍛錬に戻る。

 剣を振る。

 踏み込み。腰、上半身と運動させて腕に伝達する。

 しだいに剣が手に馴染んできたように感じた。とはいっても、この時はこう手首を動かせばより振りやすいといったレベルのものだが。その様子を見届けた水無月は「ほん」と相槌を打った。

 ゴミを俺のカバンに入れてから切り株から立ち上がり、「真似をしてみて」と言った。少しだけ休憩できると思った俺はその時間を全力で肩で息をすることに努めた。代わりに俺が切り株に腰を下ろした。

 適当な剣を出現させて手に持つと、小走りに走り始めた。大木に正面から向かい、すれすれで身体を後ろに向けながらターンし、裏に回ったと同時に回転の力を使って木の表皮を浅く裂いた。そして鋭く息を吐き、離れた木にステップを踏んで肉薄すると同じように斬る。

「どう? いつも自分の間合いに対象がいるわけじゃない。すべては動いている。静止した世界はない。わかった?」

「なるほど」

 息を整えた俺は、剣を構えて走り出した。

 前方に木が二本並んでいる。左の木に向かうと見せかけて、直前で急な方向転換。慣れない動きにたたらを踏んでしまうが、それでもギリギリこけずに右の木へと移動できた。

 そして大きく剣を振りながらに裏にまわり、太い幹に打ちつけた。

 グワァン、と気持ちの良くない音が鳴り、剣を通じて振動が俺の全身を舐め回した。ぶるりと身体を震わせ、それが頭と足の末端から逃げるまで待つ。

「う、お、お、おお……」

 我ながら情けない感嘆を漏らしながら、バランスの崩れかけた身体をしっかりと踏みしめた脚で支える。

「まだまだだね。初めはしょうがないよ。私なんか、剣の重さに引っ張られて尻もちついたんだから」

「…………へぇ?」

「――はっ!」

 冷静そうに語っていた口がつい零してしまった自滅の呪文。さんざん馬鹿にされた俺はここぞと一流の悪者も負けないいい笑顔に口角を上げた。

「そいつは災難だったな、水無月。大丈夫か? 今も尻が痛いなら無理しなくていいんだぞ? 俺はマジで心配しているんだぞ?」

「い、いらないし! ずっと前の話だからお尻は痛くないから!」

「本当に? 無理してないか? 俺、心配だなぁー」

「んんんんん!!」

 羞恥に顔を赤くしながら必死に否定する水無月が面白い。

 あともうひとつほど弄ってやろうと口を開いたが、聞こえた音は俺の声ではなかった。

「……違うよ。水無月が初めて剣を持った時は振ることもできなかったんだ」

 ハスキーだが、少し水色の声。

 俺と水無月から離れた場所の木の影からぬいっ、と現れたのはひとりの少女だった。

 後ろで括った黒紫の髪が流れるように肩まで伸び、小ぶりな顔ながら柔和そうな鼻にくりっとした栗色の目が水無月、そして俺の順に見た。

「久しぶり水無月。ボク、すごく会いたかった」

 座り込んだままの水無月は呆けながら、知人のような口ぶりで話しかけてきた少女を見上げた。

 昨日の出来事を思い出し、俺は咄嗟に距離をとって剣を構えた。

 水無月を知っているということは、魔法使いであると認識している。さらにフランス勢のこともあり、水無月を狙った別の勢力の可能性が高い。

 しかしどうしたことか水無月はそこから動かず、警戒心の欠片もない様子でいた。

「水無月、この人は誰なんだ?」

「――――ぁ」

 俺の声に反応した水無月がようやく再起動すると、頭に手を当てながら立ち上がった。

「えっと…………皐月……ちゃん?」

 確かめるように水無月が訊く。

「……うん、そうだよ」

 皐月、と呼ばれた少女は綻んだ笑みを浮かべた。

 ゆっくりと皐月がこちらに歩み寄ってくるが、俺はそれでも警戒を解かなかった。

「大丈夫だよ能代君。皐月ちゃんは敵じゃないから」

 俺の前に出た水無月は腕を横に伸ばした。

「そう、か」

 水無月がそう言うのならばそうなのだろう。おとなしく俺は剣尖を下に向けた。

 ついに皐月は水無月の前に立つと、大きく腕を広げて抱き着いた。

 とんでもない力なのが、見ている俺にもわかる。

「ちょ、ちょっと痛いよ……」

「今までどこに行ってたの? ボクたち皆、ずっと、ずっと心配してたんだから……!!」

 嗚咽を含んだ声で皐月は叫んだ。

 泣き腫らす皐月を見て、俺は安心することができた。

 これほど水無月を想ってくれる人がいたことに。家族もおらず、長い間ひとりで生きてきたと言うからなんとか俺が心の拠り所になってやればと考えていたが、皐月がその代わりをしてくれるだろう。もちろんだからって俺はもう何もしない訳ではない。守られてばかりで情けないが、水無月にしてやれることはなんでもしてやりたい。

 というより、皐月の存在を教えてくれればよかったのに。そうすれば一緒に探すこともできただろうに。

「ごめんね、皐月ちゃん」

「いいんだ。無事を確認できて本当に良かった。急いで皆に連絡するよ。帰ろう、水無月」

 手を掴み取り、そっと自分の胸に当てながら皐月が懇願にも似た口調で水無月を諭す。

「――――ごめん、それはできない」

「……なんで? やっと会えてボクはすごく嬉しいのに、水無月は違うの?」

「嬉しい、嬉しいよ。すごく嬉しい。でも、ダメなの」

 皐月は水無月と目を合わせようとしているが、当の水無月は目を左下に逸らしている。

「私にはやるべきことがある。誰にも迷惑をかけられない。これは私だけの戦いなの」

「……だから突然ボクたちの前から姿を消したの?」

「…………」

 沈黙だ。余程答えられないことなのかと思ったが、口を開いて何かを言おうとして、でも言えなくて悔しそうに顔を伏せた。

「この人は?」

 そう、唐突に皐月が俺を見て言った。

「えっと……」

 そう濁しながら水無月に目配せをしたが、まるで俺に気づいていない。

 口で説明するのはいくらでも可能だが、どちらかというと水無月が話したほうが皐月にもわかりやすいと思うのだが、妙に重い雰囲気を断つのも含めて俺が話すべきか。

「俺は能代公嗣。襲われてるところを水無月に助けてもらった、んだけど……そっちは水無月の友達、でいいんだよな?」

「その認識で合ってるよ。具体的にはそれ以上だけどね。ボクは皐月マナ。……それで、どれくらい水無月といたのだい? 水無月とはどんな仲? 知り合い? 友達? 恋人? 恋人だったら殺すケド」

「物騒ですね⁉」

 突然の殺す発言に思わず言い返してしまったが、当然の反応だと確信する。

「私と能代君はそんなんじゃないよ。私が巻き込んでしまったから、その責任を負っているだけ。だから皐月ちゃんが考えるようなことはないよ」

 慌てて俺と皐月の会話に乱入した水無月がやけに口早に説明した。敵意剥き出しで俺を品定めしていたが、ホッ、と色んな意味を含んだ息を吐き出し、安心してくれたようだ。

「そうかい。ならよかったよ」

「同棲してるけどね」

「殺す」

 どうしてそれを言ってしまうのか!

 馬鹿じゃないか⁉ と水無月に無言で抗議したが、てへっ、と可愛らしく舌を出してきた。どうせ面白そうだからとかそんなくだらない理由なのは間違いないが、俺への敵意を煽るだけの結果になってしまった。

「どんな経緯があったのかボクは知らないけど……君が水無月と一緒に暮らしているなんて信じられないよ」

 俺の前に立ち、睨みつけるその関係図はまさにライオンと子猫だ。身長的には俺のほうが僅かに勝っているが、そんなのはただの幻覚だと思わせるほどの威圧を放つ。

「まだ一日だけだし!」

 これ以上言わせておけば、尾ひれに背びれに翼までついて俺への嫌悪が増すばかりだと危惧し、せめてもの猫パンチレベルの反論をした。

 だがこれが良くなかったと気づいたときにはもう遅かった。

「まだ? 一日でも百日でも関係ないの! ……もし『ボクの』水無月に手を出そうとほんの、ほんっの少しでも考えてみろ、一生子孫を残せない身体にしてあげるから」

「ひぇっ」

 俺の下半身に視線を落とし、手を突き出し、握りつぶす素振りを見せつける様はあまりに恐ろしく、俺は情けなく小さな悲鳴を上げた。

 見た目は大人しそうなのに、言動がとても荒々しい。水無月に好意を抱いている俺は近いうちに制裁が下される。間違いなく。

「もう、大げさだなぁ皐月ちゃんは。難しいことはあとにして、積もる話もあるだろうし家に来ない? ……って私が言うのもあれだけど」

「家って……この男の家?」

「そうだよ」

「…………」

 ふたりの少女は談笑モードに突入している。俺は気を使って介入することを避ける。しようものなら水無月大好きな皐月にどんなことを言われるかわかったものでないからだ。

 今度こそ俺の股間の分の体重が減るかもしれないという恐怖が主な理由。

 仲良さそうに話し合っているのを眺めていたが、なぜか頻繁に俺を睨みつける皐月が恐ろしい。まるで我が娘に悪い虫が付かないように二十四時間体制で監視する親バカのようだ。

 それほど水無月を大切にしているというのに、皐月の言葉が妙に頭に残る。「突然ボクたちの前から姿を消した」と。言ってくれればなんでも協力してもらえそうな人を放ってまでやるべきこと――Wothを閉じる――がよくわからない。

 方法も、曰く根の場所もわかっていない状態でいったいどこまでやれるか。俺だってできうる限り力を貸したいところだがさすがに限界がある。

 水無月が魔法使いであると知っている同業者がいるならばその人と一緒に行動すれば良いはずなのに。

 その理由がわからない。

 それに水無月が日本からのみではなく、外国からも狙われる理由が……。

「……能代君、皐月ちゃんを家にあげてもいい?」

 思考の海に潜っていた俺は、覗き込む水無月の瞳とバッチリ目があって慌てふためいた。

「……んぁ、え?」

 と聞き返すのが精一杯。

「ちゃんも聞いてた? 皐月ちゃんを家にあげてもいいかなって」

「皐月さんを? 家に?」

「ボクが入ったら何か都合の悪いことでも?」

「いえ、とんでもありません」

「よし、家主の許可も取れたことだし、今日の鍛錬はこの辺にして帰ろう!」

 元気にそう言った水無月は俺から剣を預かると、皐月の手を引いてさっさと木の影に消えてしまった。

 俺の視界から消える寸前、皐月が満更でもない表情を見せていたのはここでは伏せておく。あとで追求したら間違いなく下半身的に殺される。

 切り株の横のカバンを急いで背負った俺はふたりの後を追うが、異層から戻る際、しっかりと左右を見て誰もいないことを確認してから飛び移る。

 それを見ていた皐月が俺を無言で眺めていたが、その目はどう頑張ってもマイナスの意味にしか捉えられなかった。

 俺にはまだ異層を行き来することに抵抗があるし、むしろこれが普通の反応だと思っている。逆に散歩感覚でほいほい移るのがおかしいのだ。

 家に帰ってきた時にはすでに夕方を迎えていて、暑くはあるものの、まだ比較的涼しい風が吹いている。

 エアコンは……必要ないか。窓を全開にして空気を入れ替える。

「飯はどうする? 俺的にはもう食べたいんだけど」

 一日中剣を振っていたから腕が錆びついた金属のようにうまく動かない。これは明日筋肉痛になること確定だなとため息を吐く。

「私は全然いつでもいいよ。皐月ちゃんはいい?」

「水無月がいいならボクも食べるよ。というより君は料理できるのかい?」

「できるに決まってるだろう。でなきゃひとり暮らしなんてしてないからな」

 とはいっても最低限出来るというだけで腕前は普通だ。人様に食べてもらうなんてことはこれが初めてになるから少し心配であることは秘密だ。『美味しい』と言ってもらえなくてもいい。せめて『不味い』だけは勘弁してほしい。それはつまり俺が味覚音痴であることが発覚してしまうから。

 冷蔵庫から必要な材料を取り出してテキパキと料理を始める。

 ソファーに座るふたりはなぜか俺の立つキッチンをずっと眺めている。

「な、なんだよ。テレビでも見ればいいじゃないか」

「君が変なものを入れないか監視しているんだ。あ、今何をした」

「そんなもの入れないし、今入れたのはケチャップだ」

「ふん、その言葉が嘘だったら……」

「はいはいわかってますよ」

 どうせタマタマを優しくそして惨たらしくもぐとかなんとか言うのはわかりきっている。それは女の子としてどうかと思うから強引に言葉を挟んで食い止めた。

 解凍したご飯にケチャップを混ぜながら朱色に炒めたものに細切りにした玉ねぎやら人参やらを投入。その後適量の調味料で味を整える。最後にフライパンの一面に広げた卵の上に乗せて、くるっと回転させて皿に映し終えたら完成だ。そのままの勢いで二人分も用意してテーブルに運んだ。

 いち早く席に着いたのは皐月だ。尻尾が合ったらさぞぶんぶんと振るだろう勢いだから少し驚いた。

「水無月のためだ。まずはボクが毒見しないと水無月が安心して食べられないだろう?」

「……そういうことにしとくよ」

 次に席に着いた水無月がクンクンとギリギリまで顔を近づけて鼻を引きつかせている。

 我ながら珍しくキレイに盛り付けたと思っている、俺の女子力の結晶、その名もオムライスだ。

 ちらりとふたりの反応を伺うが、行動からして導入はクリアできていると判断してよい。

「待って、だめだよ水無月。ボクが食べて、それで決めるから」

「え、でも私お腹空いたからはやく……」

「水無月はこの男に心を許しすぎだよ。いつ本能を剥き出しにするかわからないからね。……いや、でも大丈夫か。だってその前にボクが」

「はいはいはいはい。毒見でもなんでもいいから食べるんなら食べなよ。はやくしないと先に水無月が食べちまうぞ」

 現に水無月はスプーンを手に待ちきれないとばかりに皐月を見ている。目からネオン色で『はやく』と言う文字が浮かび上がっても不思議ではないほどだ。

「そうだね、確かに君の言う通りだ」と頷き、オムライスを崩してスプーンに乗せて口に運ぶ。

 皐月は俺に対してこの上なく危険視している。すべては水無月基準であり、一定の水準に達しなければ即オムライスを跳ね返すだろう。俺とて料理を誰かに評価してもらったことなど一度もない。

 だがあろうことか、皐月は無言ながらもあっという間に完食してみせた。水無月が「えー」と愚痴っているが、皐月は素知らぬ顔だ。

「どう、でしたか……?」

 俺もつい敬語で尋ねてしまう。

 そっと目を閉じ、皐月は黙り込む。

「………………………………美味しかったよ。毒はないね」

 たっぷり沈黙を置いてから述べられたその感想は、素直に嬉しかった。

 どうやら俺の料理は人の口に合うことが確認できて何よりだ。

「そりゃよかった。なら水無月が食べても文句はないな」

「待ってました!」

 わざわざ皐月が毒見するのを待たなくてもよかったのに、律儀にそれを守っていた水無月がついに食べ始めた。しかしその速度は相変わらず亀の如く遅い。

「水無月……は味わって食べる系の人間か」

「もちろん! こんな食事は久しぶりだからね」

 その後俺も食べ始めるが、水無月が食べ終えたのはもちろん最後だった。

 皿を重ねて流し台へ。洗おうとしたところに水無月から声がかかる。

「私たちも手伝うよ」

「ありがたい……けど、皐月さんもいいのか?」

「いいとも。ご馳走してもらって何もお返しをしないほど落ちぶれてはいないからね。あと、皐月さんって呼ぶのは違和感があるからボクのことはマナと呼びなよ」

 思わぬ提案になにか裏があるかと詮索してしまうが、皐月……マナが熱くなるのは水無月が絡んでくる時だけだ。

 蛇口の水を出しっぱなしだった俺はスポンジを持ったままの右手で水を一度止めてから後ろを振り向いた。

 さっき料理していた時に俺を観察する同じポーズで、ソファーに膝をつき、背もたれに腕を乗せてこっちを見ていた。

「ありがたいけど……これじゃ狭いしなぁ」

「なら君は休むといい。ボクたちがやるから」

「じゃあマナ……たちにお願いしようかな。ちょっと風呂って来るから、その間にいろいろ話したいこと、話しておくといい」

 皐月と水無月がどれほど深い仲なのかは俺には検討もつかない。数年単位かもしれないし、あるいはもっとかもしれない。

 その間に芽生えた絆は、俺がそうやすやすと入り込んではいけないもののはずだ。それに、俺がいないからこそできる話もあるだろう。

 皿洗いの手順は水無月が知っているから問題ない。一歩引いた俺の前に立つふたりの背中を見て、俺は時間をかけて身体を洗うことにした。



 皿洗いとはいっても、大した量はなく、ものの五分ほどで終えた。

 夜風に当たろうと思った水無月はベランダに出る。もちろん皐月も一緒だ。

 細く、弱いオレンジ色の風が僅かに吹くだけだったが、水無月にはそれで十分だった。前にかかった髪を指で整え、ぼんやりと夜にこのその存在を誇張する遠くのビル群を見つめていた。

 その横顔はさながら闇に咲く一輪の真っ赤な花のよう……。皐月は口を横一文字に閉じながら水無月に魅入っていた。

 ……少なくとも能代公嗣という少年は悪い奴ではない。そう皐月は評価を下した。皐月の高レベルな観察により、明らかに水無月に対して想いを秘めていることがわかったが、そこに罪はないから特に言うことはない。皐月は水無月に悪い虫がつくことを恐れているが、良い虫がつくのはむしろウェルカムだ。だがあの男がそれに足る人物であるかはまだ判断できない。

 悪い虫ならば、男として不完全な身体にしてやる。

「――ごめんね、急に出ていって」

 そう、唐突に水無月が口を開いた。

 視線だけはあさっての方向を見ている。

「……いいよ、また会えたんだから。それで戻れない理由って? なんとなく想像はつくけど」

「…………うん」

 ようやく顔を皐月に向けたが、決して皐月を見たわけではない。その向こう側、世間ではWothと呼ばれる異層のモノを見ていた。

「あれを……閉じるため。今度こそ終わらせるため」

「――ウソ、だね」

「――――」

 いっそ清々しいほどまでの否定に、水無月は黙りこくってしまった。

 真夏の夜だというのに、はっきりと見えるWothは異彩を今なお放ち続けている。夜空を彩るためにWothがあるのではなく、Wothを彩るために夜空があるかのようだ。

「……言えない、言いたくない」

「他の誰にも? ボクにも? あの男……公嗣にも? あれを……尻拭いをするだけならボクたちが力を合わせればきっとできるだろうさ。――つまり、『そういう』ことじゃないんだね?」

「できれば誰にも話したくない」

「そう……」

 皐月は静かに手を伸ばし、水無月の手を握った。水無月の手は雪のように冷たく、まるで死んでいるようだ。

「水無月……」

「どうしたの、皐月ちゃん」

「…………どうして、そう呼ぶんだい?」

「……へ?」

 水無月にはあまりにわけのわからない質問だった。ついに皐月の目を見た水無月は、少し気難しそうに言葉をつまらせた。

「前はボクのこと、マナって呼んでくれてたのに」

「そ、そうだったね! いやぁ、うっかりしてたよ!」

 笑みを浮かべながらあっさりと開き直ってみせた水無月だったが、皐月の鋭い眼差しはより一層強くなった気がして、しだいに表情に明るさが消える。

「――嘘、だよ」

 カマをかけていた。

 で、それに水無月はまんまとかかったというわけだ。

 これが果たして良いことなのか、悪いことなのか。少なくとも水無月にとっては最悪以外の何でもなかった。

「今のは、嘘。本当はお姉ちゃんって呼んでた」

「……は、はは、まっさかぁ!」

「これは本当。というより、何が本当かわかってないんじゃないの?」

 空気が冷たい。

 鼻を通り、肺に送られる酸素がまるで氷のようだ。あくまで冷静に徹しようと試みようと、水無月の心を無限の檻に捕らえた。

 しかしそれすら見越した皐月は生暖かくなった水無月の手をより一層強く握りしめながら言った。

「――水無月、ボク……いや、ボクと仲間たちのこと、覚えてる?」

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