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生憎ながら、俺は平均……いや、それ以下の人間だ。
運動ができるわけではない。体力テストだって微妙。勉強だってできない。文字通り死に物狂いで勉強して、ようやく普通レベルの大学に入学できた程度だ。毎日教授の講義についていくだけでも精一杯。そして言わずもがな彼女いない歴=年齢である。過度のコミュ障だとか陰キャだとか、そういう柄ではないことが俺の唯一のプラス要素だろうか。
そんな悲しい自己を振り返り、残り僅かのコーヒーを啜る。しかしすでに温くなっていて、心の中で悪態をつき、顔を歪ませる。
目標に決めていたページまで勉強を終えると、俺はポキポキと首を鳴らして欠神をした。お洒落な喫茶店で一人で勉強。まあ見栄を張ったわけではないが、家でやるよりは遥かに捗ったはずだ。
ふと今日の一日の成果を確認すると、徐々に退化し、もはや象形文字ではと突っ込まれてもおかしくないような字の汚さになっていた。これでも俺自身は読めるのだから問題はない。
勉強道具一式をカバンに仕舞い、代金を払って外に出る。
スマホの時計を見ると、すでに十時を回っていた。なるほど、だからこんなに暗いわけだ。社畜エリートたちが頑張っている証たる灯りに包まれた街は夜を感じさせないほどの輝きを放っていて、俺はその下を通る。
行き交う人。人。人。
最寄りの喫茶店から俺の家までは徒歩でおよそ十分。我ながらちょうどいい場所に住んでいるものだ。レポートとかする時はいつもお世話になっている。
巨大な横断歩道を渡る途中、上を見上げる。ビルの壁に設置されているテレビがとある建物を映す。『魔法巨大組織、一斉検挙』のテロップがデカデカと表示されている。その建物の上空を無数のヘリがホバリングし、そこで映像が途切れる。秘密保持といったところだろう。
魔法など遠い存在だ。普通に生きていて、まず実物を目にすることはない。学校でだってそれが存在すると漠然と教えられるだけだ。だからそれ以上は知らない。漠然と教えられた知識は漠然とした妄想へと昇華する。ある者は空を飛べるのだと言い、またある者ははるか遠くを視認することすら可能なのだと言う。
どれも要領を得ない妄想であり、そのどれもが現代技術で再現可能である。飛行機に乗れば世界のどこへだって行けるし、天体望遠鏡なら何万光年もの遠くを覗くことが叶う。単純なことだ。魔法は代替できる。だから魔法は不要。逆に魔法が如何にして発動されるのかが解明されず、故に不気味がられ、嫌悪され、排除されているのが現状だ。
「……」
勉強のしすぎだ。目が疲れた。ゴシゴシと目をこすり、ワイヤレスイヤホンを耳にしてできるだけ激しい曲を選んで意識の覚醒を促す。
入り組んだ路地を通り、ある場所で足を止める。そして俺は悠然と我を主張する『それ』を見上げた。
この迫力はなんと言い表すべきだろうか……そう、異世界の土地の一部を地球に塗りたくったような感じだ。そして驚くべきが、それが東京の半分を占めているという事だ。さらに塗られた土地は僅かに浮いている。つまりこの正体不明の土地は、この世界と物理的接触をしていない。それはもちろん空気とかそういう視点から見れば触れてはいるが。外周を見たことのないような木々が覆い、そのずっと奥で鎮座する、この世の終わりを想起させるほどの巨大な穴。
浮いているのだ。ブラックホールみたいに。どこから観測しても等距離に見えるため、どこかの痛い奴が起源となり、ネット上では『この世の屑籠』、『World of the hole』。略して『Woth』と呼ばれている。この名前を考えた奴は相当やばいかつセンスのある奴であることは間違いない。
「すんげーな……」
頭の悪そうな感想をポツリと零す。
この一帯に侵入してはならないことは暗黙の了解だ。逆にそういった情報が流れていないところから察するに、もしそんなことがあっても黙殺している、というところか。不可視の抑止が働いていると言わざるを得ない。
ともあれ俺には関係のないことだ。
明日! テストなのだから!! しかも最終日!! 勝って兜の緒を締めよ、だ。今日のテストは爆死こそ免れたものの、反省の残る結果となった。
外周を回るように俺は帰路を歩く。不気味な場所へは誰も寄り付こうとしないため、比較的人は少ない。というより夜は基本的にいない。だからこの地域の土地は安いのだ。それが今のスカスカのアパートを選んだ理由。おそらく俺以外に誰も住んではいないレベル。
ちょうど曲がサビに入るところだ。曲調が上がり、女性のボーカルが次に勢いよく音を吐き出すために短く息を吸い、同時に背景の音も止まる。
だからこそ、俺は外部の音を認識することができた。
左のわき道から、走る音。それが高速で接近してくるのが。
脚を止め、俺はその時を待った。
ビュオッ! と疾風とともに一人、飛び出してきた。
一瞬のことだったから詳細を確認できなかったが、黒いポンチョを着ていて、フードを深くかぶっていたため容姿はわからない。
俺の目の前を通り過ぎ、そして何の躊躇いもなくその人物は進入禁止区域へと脚を踏み入れた。
「お、おい……!」
俺の呼びかけが届くころには、その姿は茂みに消えていた。
思わず俺も後を続きそうになったが、一度足を止めた。
すでにサビは始まっていて、最高潮に達したドラマーが断続的に叩いている。
本能ではあの人を追いかけ、連れ戻すべきだと考えている。しかし理性ではこの中に入ってはいけないということをよく理解している。
そんな葛藤の狭間。時間にして数秒。
……人がいた。
数にして六人。全員鼠のマスクを被っている。
赤く輝く十二の眼光が、俺を貫く。
「ぅ――――ぁ」
底知れぬ恐怖に喉が凍る。
イヤホンに流れる曲が、遠い世界で鳴る雑音のように小さくなり、波が引く。
逃げないと。そう本能の警鐘が何重にも重なって響く。
うち三人の姿が『ブレ』、消える。
残りは大きく歪曲したナイフを手に、ゆっくりと歩いてくる。
逃げろ……逃げろ!!
だが逃げられない。脚が動かないのだ。恐怖に打ち勝てず、石にされたようにピクリとも動かない。
おそらく、これが『消される』ということなのだ。知っている。海外ドラマでよく見るやつ。誰にも認知されず、こっそりと死ぬのだ。
ひとりの姿が『ブレる』。もう次の瞬間にはほんの数ミリしか離れていない距離に立っていた。鼠のマスク、その尖った鼻先が俺の額に触れる。
その先から人間のものとは思えない生温い呼吸音が額を僅かに湿らせる。
両者の目と目の間に刃物が割り込む。鈍色に光るそれが、ギラギラと俺の視界を遮る。腕を引き、次に赤い光が俺を目を照らした。
――あ、死んだ。
と思った。
狙いは首。
きっとその刃は俺の皮膚をたやすく裂き、肉を貫き、確実に命を奪うだろう。
ぶわり、と突風が舞う。
最後の最後まで目を開けていようと決めていた俺はつい目を瞑ってしまう。
そして目を開ける。
そこにあるのはあの世のはずだ。俺の命は儚いまでに容易く消され、この世と別れたはずだ。
――俺の目の前に、さっきの黒ポンチョの人が立っていた。
「き、君は……」
忘れていた呼吸が蘇る。咳き込み、遅れて運搬されてきた酸素を肺が貪り喰らう。
俺を殺さんとしていた奴が、首から上を失ってビクビクと身体を小刻みに震わせている。
「私のせいだね……ごめんね?」
高原の花。
夏に鳴らす、風鈴の音。
柔らかいソプラノの声。
不意に吹いた風が、フードを吹き上げた。
燃えるような紅い長髪。頬にやや煤が残っているが、それすらも彼女の容貌を映えさせる。
吸い込まれるような深く黒い瞳で一瞥を向けた彼女の凛々しい姿に、俺は不覚にも『一目惚れ』の真の意味を初めて知ったのだった。
「そこを動かないでね? あと目を瞑っていることを勧めるよ」
「は……はい」
状況を飲み込めず俺は少女の言葉に素直に従った。
目が熱くなるほど瞼を強く閉じる。
途端、鋭い刃の音が耳元を齧った。
剣戟、だろうか。激しく打ち合う音。その連続がとても現実離れしていて、ものの二分ほどで音は静かになり、何事も無かったかのように呑気にフクロウが鳴き始める。
「もういいよ」
優しく投げかけられた言葉に反応し、俺はゆっくりと目を開けた。
と同時にこちらを覗き込む藍色の瞳に驚き、一歩二歩と後ずさった。
さっきまでいた鼠たちの姿はどこにもなく、ここで戦闘が起こっただなんて嘘のよう。いつも通りの狭い道が続いている。
少女は一度気まずそうに視線を逸らすと、頭を振って俺を見た。
「えっと……」
そう呟き、フードを被りなおす。
仕方ないよね、と蚊の泣くほどの囁き声が聞こえたと思うと、少女はフードをさらに深くかぶった。
「あの……」
「なん……でしょう?」
まさか今の動作は照れ隠しだったのか。しかし結局俺に背を向けるという、照れ全開っぷりなのがとても分かりやすい。
「結論だけ簡単に伝えさせてもらうと……私をあなたの家に入れてください!」
とんでもなく直球な要求に、俺はこれは果たして夢ではないかと瞬きを繰り返す。だが何度見ても黒ポンチョの少女はそこにいる。
これはきっとあれだ。命を助けた。だからそのお礼が欲しいという意味なのだ。俺はまじまじと少女を観察する。見すぼらしい姿で、さっきは気が動転して気づかなかったが、黒ポンチョはもうすでにボロボロだ。俺が手を伸ばして引っ張るだけで容易く裂けてしまうほど。
無反応の俺に痺れを切らしたのか、ジッと観察されたことに不快感を抱いたのか、「んんんんん!!」と唸ってこちらに向きなおった。
「私は私の事情にあなたを巻き込んでしまった。ことの重大さがわかっていないのは仕方ない。でもあなたはもう普通の生活は送れないの。私を知ってしまったのだから」
はっきりと告げられた言葉を俺は何故か簡単に呑み込むことができた。なぜならば非現実的な現象を目の当たりにしたのだ。なら非現実的な事態になってもおかしくない。
何の変哲のない男子学生の日常が一変する。そんな王道展開を心の底で僅かに期待していたのかもしれない。
「……ごめんなさい。本当はこんなこと、あってはならないのに。誰も巻き込まないって決めていたのに」
少女の顔が曇る。
俯き、懺悔をするかのように何度も「ごめんなさい……」と呟いている。
俺はいったいどうするべきだろう。言葉通りならば俺はもう普通の生活はできない。大学には友達がいるし、もちろんそれなりに将来の夢だって抱いている。
つまるところ、それをすべて捨てるということか。
「……正直、怒ってるか怒ってないかって訊かれたら、俺は間違いなく怒ってる。嘘であれホントであれ、そんなことを言われたらな」
「…………」
「俺は能代公嗣。そっちは?」
「私は……私は……えっと……水無月、咲」
「信じられない。まだ理解できていないっていうのが本音。でも、言う通りなら喚こうが、逃げようがどうにもならないんだろう? それに水無月……さんは訳ありとみた。――いいよ。とにかく俺の家に入れてあげるよ。命の恩人だしな。どうせ俺のアパートは誰もいないし、不審がられることもないだろ」
「いいの?」
『いいの?』に含まれた意味はもちろん理解している。この水無月咲という少女を匿うことで、本当に後戻りができなくなることを。その重さを。
「私が言うのもあれかも知れないけど、中途半端な気持ちでこの世界に足を踏み入れるのなら絶対にやめたほうがいい。あとになって、死んだほうがマシと思うほど後悔するよ?」
「その口ぶりからするとホントなんだろうけど、ここで悩むようなら俺は終わるし、何よりそんな格好をして追われる女の子を見てみぬふりすることこそ男として終わってるからな。あ、でもちゃんとあとで話を聞かせてもらう。それはいいだろう?」
「うん、わかった。ありがとう。改めてよろしくお願いし――」
俺の目の前で、きゅるるる、と情けない音が鳴った。
手を差し出そうとしていた水無月の動きが数秒だけ止まり、何事も無かったかのようには再開する。
「ます」
「んーーーー。腹減った?」
「空いてない。風の音では?」
ジト目で見つめる。
水無月は口をへの字に曲げ、あくまで私でないと無言の圧力をかけてくる。
きっとこれこそ乙女の花園。俺ごとき矮小な存在が立ち入ってはならない領域なのだと諦めて素直に差し出された手を握った瞬間。
また、きゅるるる、と音が鳴る。
つい反射的に水無月の様子を伺うと、目がグルグルと回ってトマトもビックリするほど顔を紅潮させていた。
「どうやら今日は風さんはよほど腹が減っているらしいな」
「そそそそうね。風さんはどれだけ食いしん坊なのかしら。おほほほほほ」
完全に口調すら貴族みたいなお上品な笑いになっている。
素直にお腹が空いたと認めればそれでいいのに、変に頑固な奴だ。
ぶっちゃけると俺のアパートは目の前で、突き当りの角を右に曲がればもう着く。
赤錆が目立つ階段を上り、鍵を差し込んで中に入る。
男の一人暮らしはたいてい汚いと相場が決まっているものだが、俺はそうではない。だからといってとことんまでキレイを要求するわけではない。ある程度、俺基準だがキレイだと判断してもらえるレベルであると自負している。
「お、お邪魔します……」
靴を脱ぎ、入る水無月。
この家に俺は誰も入れたことがない。
友達だって、普段プライベートで出かけることはないし、会話をするといってもそれはゲーム内でのことだ。ゆえに何とも言えぬ感覚を覚えていた。
「汚いから先シャワー浴びといてくれるか?」
「そ、そうだね! お言葉に甘えて……」
浴室に誘導する。
しかし何やら不安そうにチラチラと俺を見る。
その意味しているところはもちろんわかっている。
「服は洗濯してやるから。適当に着るやつも見繕っておくから」
「ありがとう!」
嬉しそうにはにかむのを見て、俺はさっさと浴室から退散する。タンスから適当にジャージを引っ張ってきて、シャワーの音が流れているのを確認して中に入る。洗濯機の上にジャージを置く。半透明のドアの向こうにいる水無月の裸体を無意識に想像してしまい、頭をがりがりと掻きながら出て行った。
時刻はすでに十時を回っている。家に帰った後も勉強しようかと思ったが、もう無理かと諦める。別に明日の朝に詰め込んでも大丈夫だ。
台所に立ち、冷凍していた飯を電子レンジに放り込む。
「卵かけだな」
温まるのを待つ間、テレビを点けてソファーにくつろいだ。
あまりいけ好かないバラエティー番組は飛ばし、ニュース番組に切り替えた。
もうドキュメンタリーの終盤に差し掛かっていて、一人の男と女性ニュースキャスターの対面インタビューが流れていた。
『大鳳さん、あなたにとって魔法とはなんでしょう?』
ひょろりとした身丈だが、その男――大鳳究――のスーツの下に潜んでいる荒ぶる筋肉が、激しく自己を主張している。
『――悪です。遥か古代から存在していたと言われる神秘。しかしそれは時に人を陥れ、時に人を殺める。魔法はもう不要なのです。皆さんもご存知でしょうが、すでに魔法のほぼ全てが現代技術で再現可能です。さらに去年起こった悲劇。東京都の半分を消し去ったあの大地は果たして魔法以外の何と言えるでしょう。罪のない人々を殺したあの所業は果たして善なのか。いいえ、悪です。そのようなことを引き起こす魔法を、我々は決して許しません』
鋭い眼差しだ。
大鳳という男は、日本政府直属の対魔法組織のアタッカー、そのリーダーだ。噂によれば少数精鋭によって構成され、託された任務は必ず果たすという。
『では次の質問です。今大鳳さんから口から出た大地……そこにある通称『Woth』に対するあなたがたの類推を教えていただきたいのですが……』
控えめな質問だ。
ネット上で穴と騒がれているからそう呼ばれているだけで、実際何かが『落ちた』もしくは『出てきた』という事例はない。
もしかしたらもっと別の何かであるかもしれないという慎重派がいるのが事実だ。
『それについて語ることは伏せられています。ですがこれだけは言えます。我々は必ずあれを消してみせると』
そこでインタビューが終わる。
もう興味が失せたため別のニュース番組に切り替えると、つい数十分前に中継されていた魔法組織検問が成功に終わったと報道している。
立役者は大鳳で、世間の大鳳への感謝がつらつらと流される。
魔法に対抗するための組織。聞こえはいいが、その裏はなんとやら。どうやって魔法使いたちと戦うのかと疑問に思うが、そこは秘密。きっと専用の武器とか何かがあるのだろうが、俺の知るところではない。
「――その人、危険だから」
「うわっほぅ⁉」
完全に思考の海にいずんでいた俺は、すっかり水無月のことを忘れていた。
猫のようにソファーから飛び上がり、後ろを振り向いた。
「そんなに驚かなくていいじゃない」
「いや……悪い」
「そんなことよりも今の人、すごく危険な人だから」
水無月が凍った声色で俺に警告する。
黒ジャージ。少し大きかったらしく、袖がダボダボだ。裾も引きずっているし、手でズボンがずり落ちないように抑えている……。
あ、と俺は肝心なことに気づいた。なんて馬鹿なことを。そこに気が回らなかった俺が馬鹿みたいだ。
「ごめん。その……ノーパン、だよな?」
「違うよ⁉ さすがにそれだと下がスースーするからそのまま履いてるの……って、こんなこと言わせないでよ⁉」
語るに落ちる。
いらないことまで語り、自滅する。
ちょうど飯が温まったようだ。チン、という切り替えるのにいいタイミングの音が鳴り、俺はほくほくに湯気を吐く飯を茶碗に盛る。
「……その今言ってた大鳳ってどういうことだ? 魔法の被害者を防ぐために頑張ってるんだ。いい人じゃないか」
側に置いていた卵を片手それぞれで掴み、縁に叩きつけて割ろうと……。
「――私、魔法使いだから」
「――――」
狙いがブレる。力が入る。
両方の卵は無事に汚く割れ、黄身すら潰してしまう。シンクにどろりと流れる。
「だから私の天敵なの」
……魔法とは、悪である。
テレビの向こうで語った大鳳の言葉が頭の中で反復する。
確かにそう教わった。実に単純な教えだ。
魔法は悪。だから排さねばならない。
普通に大学に通って、卒業して、就職して、できるかどうかは知らないが結婚して……そして最後に死ぬ。そんな人生をぼんやりと思い浮かべていた。
魔法と縁のない人生を送るはずだった。
「じゃあさっきのはなんだったんだよ。あの鼠のマスクを被った奴らは」
そうだ。俺を……いや、水無月を襲っていた奴らはつまり排除しようとしていたということになる。だがどう見ても向こうこそ悪者だったし、その辺の区別がつかないのだ。
「あれはフランスの差し金。スリーズ。量産型だから一体一体は弱いけど、束になって襲われると少し厄介なの」
「フランスだって? じゃあ日本はフランスと協力関係にあるってことか?」
「ううん、違う。むしろ逆。フランスと日本は敵対関係よ。あとアメリカもこれに介入してる」
「?」
無駄になった卵ふたつ分の金を残念に思いながら、俺はさらにもう一度卵を冷蔵庫から取り出して割る。今度は上手くいって、飯の上にのせた。盆に載せ、箸と醤油を載せる。醤油はセルフサービスだ。
テーブルにつき、水無月を椅子に座るよう促す。
「ありがとう」
「風さんは腹減ってるらしいからな」
「もう」
箸を渡し、「いただきます」と声が重なる。
夜食だ。
かき混ぜ、いい具合に混ざったところで口に運ぶ。しかしその時、箸を落とす音が聞こえた。
「ん?」
「あ……ごめんなさい」
「ダイジョブダイジョブ。他の箸持ってくるよ」
椅子から立ち上がり、落ちた箸を回収し、台所の棚から新たに箸を一膳持ってくる。
「はいよ」
「ありがとう」
受け取った水無月の様子を伺う。少し難しそうな顔をして、箸を握った。だがなぜか手はぶるぶると震え、ついに我慢できなくなった手が再び箸を落としてしまう。
「あ、あれ……おかしいな……」
乾いた笑いを漏らしながら、震えの止まった自分の手を抱きしめている。
「……スプーン、出そうか」
「うん……お願い」
その表情はやりきれない顔だ。
箸を落とす時、その仕草があまりに不自然だった。わざと落としたわけではないのはわかるが、ではなぜ落としたのか。
俺は気安く尋ねない方が良いような気がして、また箸を回収し、今度はスプーンを渡した。
「なんかごめんね。これなら大丈夫なはずだから」
「それはよかった。……で、続きを聞かせてくれよ。水無月さんが魔法使いなのはわかった。大鳳って人……言ってしまえば日本が敵なのもわかった」
ちゃんと食べられているようだ。
スプーンの先が震えているのがわかるが、なんとか落とさずに口に運んでいる。
「信じられない話だけど、聞いてくれる?」
「信じるもなにも、信じるしかないでしょ」
「そ、そうだったね。ごめんね。……えっと、どの国も皆、私が目当てなの」
「それは魔法使いだからな」
「まあ、うん」
ぎこちない動きで食べる仕草に俺はつい目がいってしまう。
見た目も名前も日本人。なのに箸を持つことすら、スプーンを持つことすら精一杯の水無月に違和感を覚える。
「簡単にまとめると、フランスのスリーズって奴らに襲われていて、その途中で俺に遭遇。一連の戦闘を……いや、それ自体を知ってしまった俺は消される。そんなところか?」
「その通り」
「敵の狙いは水無月さんと俺の排除」
「それだけじゃない。穴の中身を降ろそうとしている」
「穴ってWothのこと? なんかあるのか?」
「絶対にこの層に産まれてはならないものよ。それを閉じるのが私の役割なの」
水無月の顔は真剣だ。
「こうなってしまった以上、私と能代君は一緒に行動しないといけない。……あ、ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
俺よりも倍以上長い時間をかけて食べた飯。茶碗を回収して盆に乗せる。
「そんな。別に普通の飯だってのに……。まあいい。水無月さんの不手際? のせいなのはこの際置いておくとして、俺と行動するのはよくないだろ。絶対に足引っ張るに決まってる」
俺は戦いなんてからっきしだし、そもそも魔法なんて知識は皆無だ。
そんな俺が水無月と行動しても、間違いなく彼女に貢献することはないと断定できる。
「その、魔法って奴、俺にも使えたら少しは力になれるけど……」
「……使えるよ、魔法は誰にでも」
「マジ?」
「マジだよ。でもその方法は一般に広まっていないし、知らないほうが幸せに生きられる」
「そうか」
「……間違っても魔法使いになろうなんて思わないでね。それこそ、私を匿うより遥かに後悔することだから」
静かに。しかし妙に力のこもった口調に、俺は黙って頷いた。
食べ終えた茶碗を流し台に運ぶ。飲み物いるか? と訊くが、大丈夫と返事が返ってくる。
「家族と連絡は取ったのか? もうこんなに遅いし、もし家が近ければ送るけど」
それに服も返してやらないと。ジャージはそのまま来て帰ってもらうとして、また後日返しに行かなければならない。
ふと時計を確認すると、もう十一時を迎えようとしている。俺と同じくらいの年齢の女の子が夜に外を出歩くのは危ない。
「私、家ないの。それに家族もずっと遠いし」
「ないって……じゃあ今までどう過ごしてきたんだよ」
「野宿」
「おかしいだろ。学校は? 親の連絡先は?」
「学校は……行ってないし、連絡先も知らない」
「――――」
「あ、でも大丈夫! ちゃんと生きてるしね」
あくまで気前よく語っているが、俺はやはり水無月に対する違和感を確かに募らせているのを感じた。
「行くところはないってことか……もう俺に家に居候するか?」
俺としては水無月を俺に家に置くことに抵抗はない。それに一目惚れ――確信がある――をした相手がいてくれるのを無意識に願っているのかもしれない。そうでないとしても、これほど不運な境遇の彼女を翌日に、はいさよならと放り出すのも夢見が悪い。
「すごく嬉しいけど……私、本当に迷惑かけるよ?」
「気にするな。どうせこれから暇になるし、誰かと一緒にいるだけで俺は十分だ」
「それじゃあ……お言葉に甘えます……」
「んじゃあもう今日は寝るか」
「うん」
水無月を俺の部屋に案内し、ベッドを指さした。
「俺がいつも使ってるとこで悪いけどここで寝てくれ。俺はソファーで寝るから。明日は朝に大学の試験があるからそれだけ知っていてほしい。昼には帰るけどな」
「え、ちょっと……」
俺は水無月の返事を聞かずにそそくさと部屋を出た。残念ながら俺の部屋にはエロ本やらそういった類のものはないため、水無月に見つかり、俺に社会的死が訪れることはまずない。
たった一、ニ時間の短い出来事だというのに、その濃度はとても高かった。それにあんなに可愛い子が家にいて、何も思わない者はいない。
煩悩を排除するために食器洗いをして気を紛らわす。
一瞬で終わらせてしまった俺は、ソファーで横になり、クッションを頭にあてて携帯のタイマーをセットした。
「能代君」
「んぁ?」
少し眠気に意識が傾いている。頭だけ動かしていつの間にかリビングに来ていた水無月の方を向いた。
「その……私だけベッドで寝るのは納得できないっていうか……」
「いいんだよそのくらい」
「でもこれって私がソファーで寝るって言っても反対するんでしょ?」
「そりゃあな。そういうもんさ」
あくびが交じる。
せっかくいい感じに眠れそうだったのに起き上がるのは面倒だし、早く寝たい。そんな俺のだらけた意識を叩き起こしたのは、俺の服を引っ張ってソファーから落とそうとする水無月の行動だった。
「ば、馬鹿! 服が伸びるだろ⁉」
「だってこうでもしないとソファーから降りてくれないじゃん!!」
「だからって引きずり落とすのはどうかと思うぞ⁉ ……ああもうわかった! わかったから手を離してくれ!」
首をポキっと鳴らしてソファーから降りる。その後に目を瞑りながら大きなあくびをひとつ。
水無月は一歩も譲らないと言わんばかりの俄然とした表情で俺の前に立っている。
「で、どうするのさ?」
「私と能代君がベッドで寝る」
「……パ?」
「なにその変な声」
変な声も何も、当然のことだ。
あのベッドはそもそもひとり用だ。狭いし、それこそ寝づらいのは目に見えている。
もしかして水無月は初対面の俺に仕掛けているのか? それとも無自覚なだけか? いやいや、どう考えても後者だろう。
無垢な提案を断るのはいささか心が痛い。
「私とじゃ嫌なの?」
「滅相もございません、水無月さん」
「なら寝ようよ。あとさん付けはいらないから普通に呼び捨てでいいよ」
「そ、そうか。じゃあ……寝るか、水無月」
「うん」
邪念は死すべし。慈悲はない。
本能を殺し、理性で己を律し、狭い閉鎖空間で女の子と肩が触れ合うほどの近さで寝る。
男冥利に尽きると言えばまさにその通りで、そんな状況で俺は寝ることができるのか、あと明日の試験に影響が出ないか。そんな心配を胸の中にそっと隠した。