麹を入手する史実的非現実的方法
いちおう全部連載形式
殺人カビに汚染された大豆などの食料を積んでは小舟で世界の海に船出しては全滅を繰り返す。
殺人カビが無毒化突然変異を起こした舟の住人が出先で他の類縁カビ無しの生活圏を継続する。
無毒化殺人カビ=コウジの利用法を確立する。
大腸菌も、有毒のままの大腸菌の人体内部の侵入を許すと無害だった大腸菌が病原性大腸菌に変化するのだから、こういう方法で入手するしか。
小舟で世界の海に舟出しては小さな孤立生活圏を作り続けた狂気の沙汰の無数の証拠がポリネシアに残っていて、それが台湾人だと判っている。
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日本諸語は台湾=ポリネシア語が大もとになっているので、文法なども4母音基本骨格である。
仏教(およびそこからパクった自称神代文字)は印欧中華諸言語用の音韻体系だから5母音だ。
こそ泥の類では無い場合、5母音体系からの仮借であること、自前の文化が存在するということ、だから「仮名」と呼んでいる。パクった連中には自前の独自の何の価値基盤も哲学も無いのだから「カナと呼ぶ資格がない」ので間違ってない。
それぞれがそれぞれにとって正しく呼んでいれば歴史に関するフィクションに対してはさておいて呼び方についてはツッコむ方が間違っている。
肯定的価値のあるミソギ儀礼を持っていない事と関連するが、明治維新以降の日本の標準はあっち(伊勢などの日本神道)であって、天津神および国津神のそれぞれの固有の宗教哲学を要求してはいけない、元々持っていた事はないのだから。
ただ、こちらは日本語の定義の正当性という正義に関連する概念という哲学なので、日常の日本語における語義の基盤としては、彼らの主張を許容「出来ない」(能力的な意味で)というだけで、彼らのフィクション群の否定は正義ではない。
日常の日本語の語義としてはあちらサイドを含め「アマアシ=天からの恵みとしての非塩水水源」=「天津神の根幹信仰(三貴子など)」「だけ」が正義である、というだけ、日常語の範囲で。
倫理とは非日常に通じる日常の拡大とも言えて、彼らがこの点で非倫理的だからといって、それが全面的な倫理的力量の不足や瑕疵にはなりえない「が」、この権限正当性の拡張性を表現する宗教用語のひとつ『怠惰』が示すとおり、日常語同様宗教関連哲学という非日常拡張領域でも日常でもまったく同等の定義の正当性とすると楽なので、彼らの都合を無視して公的な日本語の標準として「台湾語ベースでヤマアシ(野次)が夏の前後の雨季の名前になっている(三貴子信仰が実在可能な、でも義務ではないからあちらにない選択肢と自由があるというだけな)、仮名が仏教用語音韻体系からの仮借でしかない」側、として良い。
信教の自由、賞罰含めた国法の扱いを受けいれる範囲ですべての宗教は政治に参加する義務がある(参加の方針として他の宗教の提案に従うのならそれも自由であるから、従う対象を変えても良く変えなくても良く是々非々でも良いが、宗教関連だからといって政治的な判断をサボることだけは許されていない)、に従って、史実が示す様に、信教の自由から始まって今も信教の自由を最大の基盤としている自由民主主義においては、多様性観点の「修正された多数決」としての「合理性」として、日本神道サイドの主張を拒絶する内容の公的正義を定めても問題はない、彼らが無くても日本の諸言語や諸文化の多くが存続繁栄できるがこちら側の公的正義がないと彼らの言語や宗教は存在できないから、彼らの存続の為にも勝利する「必要がある」(だから、公的な「義務」)。
5母音体系サイドなら子音のほうが構文骨格では決定的だったりといった事情もあり、5母音体系どころか3母音(インド諸語)でもやっていける(無母音表記は深刻かつ継続的な問題を生み出すようだから無理っぽい)のに対して、古来文法的主要骨格として4母音基盤だった日本諸語では、仏教用語用5母音表記体系からの仮借表記体系、仮名、では文法上の区別や諸々の方言での差異といったカタチで、昔も今も広く文法上は実在する「5母音体系におけるエに分類され表記されるが他の母音との区別に匹敵する体系的な内部差異」=「二つの根幹から違う母音が表記だけおなじ」という問題が解決不能になってしまっている。
体系的な区別と言っているのは語義の正当性から解釈から活用の類までまったく混じり合わないで維持されているからで、日本神道フィクションの神代文字に関連する妄想の内部でだけエ段諸文字対応音韻がそれぞれ単一のはずなので困るだけだ(それを日常に拡張されると日本語が実用不能の文法崩壊を起こすので、他に拡張されると有害とされる対象であり法的正当性根拠としては許容が出来ない対象にだけ使われる、妄想と呼ぶ)。
エ段音韻がの基本はイが後続の後舌母音によって変化したもの(隣接スラヴの諸語が参考になる)だからイとエが発音や意味で混じるのは当然だが「それより決定的な区別が、もう一つのエ段音韻との間にはある」、文法=語義や意味解釈や一部発音などの範疇概念(哲学)上、単一独立として確立されている(されうる=可能性じゃなくて、文法的周辺を含めたら実態として区別されている現状がある)、つまり区別能力の高低の疎密が、日本諸語の音韻や文法と、仏教用語からの仮借と噛み合ってないから、ここでやっと本題となる、日本の言語や文化が失われたら仮名含めた5母音体系ベースから再生することがほぼ望めない。
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台湾人と諸島だけで、コウジカビは誕生する。
日本人どころか日本まるごとでも、台湾抜きならコウジカビ起源の日本酒や味醂や味噌や醤油などコウジカビは生まれず、失われたら戻らない。
無毒化突然変異育苗文化を持っていないから。
和食を素材から求めるなら(そして要取捨なら)台湾人イン(そして日本人アウト)、である。
おそらくはつづかない