12-8
わたしが答えもしないうちから入り口の階段を上り、自分のコートのポケットから鍵を出した。
「もう入れるんですか?」
「ああ。内装も大体いいみたいだ」
理事長がドアを開けた瞬間に新築物件のいい匂いがした。玄関においてあった業者さんが使っているらしいマットで念入りに靴の裏を拭くと、わたしは理事長に続いて寮に入る。
木の床に白い壁。全体的にまだビニールの覆いがかけられているけれど、ほとんど出来上がっていた。
「理事長……こんなに綺麗で男子に恨まれませんかね」
「大丈夫だ、男子禁制だから。中を見られることはない」
廊下で立ち止まって理事長は言った。
「昨日は悪かったな」
「え?」
「具合が悪かったのに、出かけてしまった」
「へ、平気ですよ。大丈夫、蓮も一成君も先輩もいたし」
理事長のあまりにも申し訳なさそうな様子に、わたしはついついそんなことを言ってしまう。あ、あれおかしいな。
『そうですよ、彼女ほったらかしてお出かけかよ、わたしは断固待遇の改善を要求する!春闘!』って言おうと思ったのに。
「そうか。それなら良かった、実は昨日はここの管理人になってくれる人と会うことになっていたんだ。なにせ山の中だから、条件はいいはずだがなかなか見つからなくて」
「昨日の人は了承してくれたんですか?」
「ああ」
理事長は本当に嬉しそうに言った。
「ご夫婦でな。お二人の趣味はトレッキングだそうだ。ついでに言えばご主人の趣味は虫の写真撮影だそうで、ずっとその話を聞かされた。気をつけろ、あのご主人は話し始めたらとまらん。で、奥様の趣味は鳥の写真だそうだ。鳥の話も長かった。ご主人は警官OBなので、腕っ節も強いらしい。了解していただけて助かった」
「よかったですね」
「しかし、俺はカマドウマとカメムシについてあんなに熱く、愛情深く語る人間に会ったのは初めてだ。いい人だが話が長いことだけが玉に瑕だな。女子生徒が入ってきたら皆で話を聞く当番でも作るといい」
やれやれと理事長はぼやく。
「それはさておきここの自慢は何より防犯だ。あの廊下のすみのドアだがどこにつながっているかわかるか?」
「え、どこなんですか?」
「食堂だ。で、その向こうは当然調理場。男子寮とそれ共通なんだがそれは仕方ない。だがそこから不心得モノが入ってこないように、数々のトラップをしかけてある」
理事長、超楽しそうだが、まさか調理のおばさんもはいってこれないんじゃ……意味ねー!
「どんな仕掛けが」
「秘密だ。調理関係者にだけ言っておく」
にやりと笑うと理事長は本当に悪人みたいだ。
「あと、もう少し人数が増えるまで、薬師寺先生も一緒に住んでくれるそうだ。あの人今一人暮らしらしいので、住居代が助かるとか言って喜んでくれたのでありがたい」
「……ありがとう、理事長」
真面目に言ったわたしの感謝に、理事長は疑問げな顔をした。
「なんだ、あらたまって」
「だって理事長がここまでやってくれたんだし」
わたしは理事長のコートの袖をつかんだ。また「校内だ!」って振り払われちゃうかなって思ったけど、理事長は拒絶しなかった。よかった。
「うん、まあ、理事長だからな」
「だからありがとう」
素直に言おうって思うのに、なんだか恥ずかしくてうまく言えない。言葉だけはせめてと思ったけど、まっすぐに理事長の顔が見られない。
「……いや、こちらこそ」
「こちらこそ?」
理事長にお礼を返されるようなことはしていないけど、とわたしは首をかしげる。
「ああ。まだ知らないか」
秘密だといって理事長は教えてくれた。
「女子が七十五人受けた。試験で二十人に絞ったが、去年に比べれば相当女子のレベルは上がっている。主席入学は男子生徒だったが、二点差で次点は女子だった。おかげで偏差値も上がった」
「えー、なんで去年とそんなに違うの?すごい!」
「お前、いろんな模試にでていい成績残していたしな。鷹雄が受けろっていったんだろうが、その影響が明らかだ。おまけに影響されたんだかなんだか知らないが、校内の成績自体が底上げされて、三年生の大学受験の結果もなんだか良くなっている」
「うそお」
「あまり鷹雄を褒めるのもしゃくだが、あいつのもくろみも役に立つんだな」
残念だけどそんな梓は世界平和とかは考えなさそうだ。
「ありがとうな」
そういって理事長は、自分のコートの袖をつかむわたしの手に触れた。触れた、っていうよりは実際はかるく二回叩いた感じだったんだけど、理事長の乾いて温かい手の感触は嬉しかった。
ああ、なんか理事長が優しすぎて、凄く心配になる。怖い。
「それはそうと、昨日はお前の誕生日だったんだな」
「あ、そ、そうなの!」
「ちゃんと言えばいいのに。何もあげなかったな」
やばい、幸せ指数が表面張力レベルまで至ってる。幸せすぎてこぼれそうだ。
「も、もらったよ、カエル!」
「カエル?……あ、あのゴミ……」
「ゴミなんてひどい!」
理事長は笑った。
「すまん、すまん。しかし、誕生日だとわかっていたら、もっとちゃんとやればよかった」
「いいよ、来年二倍にしてもらうから」
来年、って言ったとき、理事長の表情が本当に優しいものになった。まるでそれは切ないといっていいような。
「来年はないんだ、久賀院」
穏やかなまま、理事長は目をそらす。
「久賀院のことが嫌いなわけじゃない。でもこれ以上、付き合い続けていくのは無理だ」
「は?」
「俺は、三月で理事長を降りる。だからもうお別れだ」
理事長の顔にはどこも後ろめたさも悔いもなくて、その清々しさにわたしは最初に何を言われたのか、分からなかった。
「理事長……王理をやめるの?」
やっとそれに気が付いた。
「ああ、もともと、今の校長が理事長になれるまでのつなぎのつもりだった。何年も話が進まなかったが王理のひいじいさんにあったときにそれも打診したらなんとかモノになった」
「そういえば、梓もそんなこと言っていた……」
「知っているなら話が早い。校長は本当に懐大きくていい人だ。俺なんかよりずっと向いている。保健室での俺の後任も決まったんだ。年配の女性でな、共学の高校で長くお勤めだった方で俺も心強い」
わたしはバカみたいに言葉が出てこなかった。
「……そうしたら理事長は何をするの?」
「昔いた病院に聞いてみたら、雇ってくれるそうだ。四月から看護師復帰だ。ブランクが長くて大丈夫か心配になるよ」
わたしの知らないところで着々と自分の人生の次の準備をしていたんだ、理事長。ああ、そうか、まだ生徒には明らかになっていないけど、教員とか一部の生徒は知っていたんだね。だからみんなわたしがそれを知らないことにきょとんとしていたんだ。
「あれ、じゃあ、理事長は、寮にいるまま、職場に通うの?」
「バカ。俺にだって家はあるんだ。それにもう王理高校の関係者じゃないんだから。自宅に戻るに決まっているだろう」
「あ、そうか、そうなんだ」
頭の悪い返事ばかりを並べて、わたしは凍り付いていた。
「す、すごいね。年の差で遠距離で元教師と生徒なんて」
とりあえず笑ってみた。だって次の理事長の言葉が分かっていたから。
「だから、もう無理なんだ」
「無理じゃない!」
やっと出てきたわたしの意志とちゃんと一致した言葉は悲鳴だ。
「なんで、なんで、すぐそうやって、諦めちゃうの!わたしのこと嫌いじゃないって言ったじゃん!」
「無理だ」
理事長の言葉は低くて静かだけど、わたしの言葉の尖った先を折る重みがあった。
「なあ、久賀院。気が付いたんだよ、俺は」
「なにを!」
「お前、勘違いしているんだ」
「は?」
理事長は、コートを掴んだわたしの手をはずした。そしてまっすぐにわたしを見る。
「昨日お前のお父さんに初めて会っただろう、その時に気がついた。あの人、多分すごくいい人なんだろうと思う。鷹雄が言うように、どうも日常の生活能力は低そうな若干浮世離れした人だが、きっといい人だと思うよ。久賀院を見ればわかる」
若干浮世離れ……世の中にはなんて厚いオブラートがあるのだろうか。包まれすぎて喉につまりそうだ。
「でも、あの人には俗に言う『父性』って言うものが感じられない」
「父性?」
「あのさ、お前が俺に求めているのは、わかりやすい男らしさとかなんじゃないかと思うんだ。それを恋心と感じているだけなんだ」
父性とか男らしさとか急に言われても一体どうしたら……。
「俺が頼れる人間かどうかは別として、でもそういう『父親像』としての分かりやすさを間違えているんだよ。今まで周りになかったものにちょっと混乱しているんだ」
「そんなこと……」
「勘違いしている今の状態じゃわからないだろう。でもきっともうちょっと年を取ればわかる」
「理事長は、わたしが勘違いしていたら迷惑なの?」
「迷惑じゃない。あのな、これは信じて欲しいんだが、俺は久賀院のところは嫌いじゃない。心底可愛いと思う」
わたしは一月に感じた不安をもう一度呼び起こしてしまった。理事長はわたしが勘違いだと言っているけど、理事長こそわたしを好きだと勘違いしているんじゃないだろうかと言う疑問。大事な一生徒だからこそ、可愛いと思ってくれている?
だとしたら、理事長をやめるこの人には、今のわたしはどう見えるんだろう。理事長の気持ちの方こそが勘違いで、もしそれに気がついてしまったら。
「お前の勘違いに付け込もうかと思ったこともある」
「は?」
「別に勝手に恋心だと勘違いしているなら、そのままでいいじゃないかと思ったんだ。いつか本当に恋愛対象になってくれるかもしれないしな」
「勘違いだとしても、それじゃだめなの?」
「だめだ」
なんで!梓はそれでもいいって言ってくれたのに。
「大人としてそんなことは絶対してはならないんだ」
理事長はそのときだけ怖い顔といっていいくらい大真面目だった。
「高校一年生にどれほどの判断力があるのか、それはもう今となっては俺には思い出せない。でも今の王理の生徒をみていると怖くなる。やっぱり高校生っていうのは驚くほど子どもなんだ。久賀院にも、俺しか見せなければいいんだろうと思うけれど、それがすごい罪悪感だ。ちゃんといろんな人間と付き合って、たくさんいい影響を受ける可能性だってあるんだから。その機会を奪うのは怖い」
罪悪感って……。
足元が砂できた落とし穴になったような気がした。さらさらと吸い込まれていく。
理事長にとってわたしはやっぱりただの生徒なのかな。
「大人になるまで待ってはくれない?」
ずうずうしいとわかっていてもわたしは問わずにいられない。
「待てるものなら待ちたいよ。しかし、その、なんだ。久賀院が無邪気に俺に懐いてくるのが時々困る。なんというか言いにくいことだが、俺も一応男でな、対応に困る」
待てるか自信がない、と理事長は言いにくそうに言った。
それは、わたしでは物足りないということか!?
うわあ……改めて言われるとショックだ。やんわり言われた分だけダメージ大きい。やっぱりわたしがじゃれ付いても、駄犬がまとわりつくくらいにしか思ってくれないのか……今、色気が手に入るものならば、悪魔に魂売るのに。
そうだよね。わたしと付き合っているかぎり、理事長はそういう人と付き合えないんだし。そりゃ待ちきれないかも。あ、そもそもわたしが大きくなっても、セクシーおねえちゃんになれるかそのものが疑問だ!
「この間、鳥海が持っていた写真を見ただろ?」
わたしはうなずいた。
「あれも見て驚いた。年相応の二人っていうのは本当になんて文句の付けようのないものなんだろうってショックだった。鳥海に返そうと思っていたけれど、なんだか悔しくて返すこともできないくらいショックだったんだ。俺は自分がこんなにおとなげないとは思っていなかった」
「それで持っていたの……?」
くだらないだろう?と理事長は恥ずかしそうに笑った。
「鷹雄なら俺と違って下らん嫉妬心とかはないだろうから、ちゃんとお前を見守ってくれるだろう」
さっきものすごい近い場所で見られたけど、アレも『見守る』でいいの?!
「鷹雄がいやなら普通に年相応の人間を好きになれ」
去年、理事長に拒絶されたとき、胸が苦しくなってドキドキした。でも今は、ただ静かだ。
理事長は今、優しくて丁寧でそして思いやりに満ちている。
なんて手ひどい拒絶なんだろう。
「本当に楽しかったんだ」
わたしに触れもせず、理事長は言う。
「最初は正直うっとおしいと思っていたけれど、今は久賀院がいないと寂しいと思うよ」
「わかれちゃったらもっと寂しいのに!」
理事長は薄暗い中で微笑んだみたいだった。
「その反面、久賀院にはちゃんと幸せになってほしいと願うんだ。下らん独占欲とかで久賀院を巻き添えにしてしまうまえに終わりにしたい。今ならまだちゃんと大人として離れることが出来る」
元気でな、って理事長は言う。
「しっかり勉強しろよ」
『理事長』として恥じない言葉を。




