9-5
「……ウメ、大丈夫か?」
梓がそんなことを言ってくるくらいなんだから、相当わたしの顔色は変わっているんだろう。
「へ、へいき」
声を震わせながら言っても説得力にかけるよね……。
「あれ理事長じゃないもんね。知らない人相悪いおじさんだから、大丈夫」
「お前の妄想力も、限度を覚えた方がいいぞ!」
でも梓の車の中でよかった。外で歩いていた時だったら、歩けなくなっていたかも。
「綺麗な人だったね、あの女の人」
「もう今の見たものについては忘れろ」
「ちょっと無理」
わたしも幻にしたいけど、無理。
「帰れるか?寮まで送るが……でも今日十郎と会うのがいやなら、うち来てもいいぞ?」
「……ううん、帰る。だって理事長に今日どうしたのか聞かなきゃ」
「聞けるのか?」
「……だって」
聞けるのか、と問われてわたしは言葉の意味に気が付く。いつだって、なんでもはっきりさせたいって思ってつっぱしってきたけど、この一件本当にはっきりさせてしまっていいのだろうか。
理事長に今日のことと、あの女性のことを尋ねて、『ああ、あれは姐さんだ。大変お世話になった先代ヘッドに呼び出されたんだが、抗争の仲介をさせられて大変だった』とかいう答えが返ってくるならこちらも異論はございません。でももし。
あの人が、理事長の。
その先を想像するのが怖くて、わたしはうつむいてしまった。
「やっぱり今日一晩、頭冷やして帰る……」
「そうしろ。なんかうまいもの食わせてやるから」
わたしは振り返ってそのホテルのあるあたりに視線を伸ばしたけど、もう他の多くの車に遮られていて、何も見えなかった。
梓の家は高層ビルの中にある。超広く、超お高そうなマンションだ。
二十畳はあるダイニングキッチンは全面ガラス窓で、首都圏の明かりが一望できる。他にも部屋は四つばかりあって、春休みに厄介になっていたときには、そのうちの一つを借りていた。ホームパーティでもやる気なのか、と問い詰めたい広さ。なんつーか……男の一人暮らしには、どう考えても無駄だ。
「何食べる」
冷蔵庫を開けながら思案している梓に生返事を返しながら、わたしはぼんやり考えていた。
目には入っているけど、夜景の綺麗さは意識には上らない。考えるなって言われたってさっきのことを繰り返し考えるばかりだ。
あの時逃げない方がよかったのかな。車を下りて問い詰めた方がよかったのかな。でもそれで怖い返事が返ってきたら、あの場で座り込んでしまうかも。それだけならまだしも、大の字になって「そんなのイヤー!」とか駄々をこねるとかしてしまったら、我ながら目もあてられない。
「ウメは」
気が付いたら梓が横に立って缶ビールを開けていた。ミネラルウォーターの瓶を差し出しながらソファに座っているわたしを見下ろして言う。
「ウメは本当に十郎を好きなんだな」
もういまさらごまかすのも不毛で、わたしは無言でうなずいた。
「なんであいつなんだか……」
苦笑する梓の気持ちは良くわかる。
だって、理事長だよ?
はっきり言って、周り男の子ばっかりで、しかもちゃんと年齢近くて普通の恋愛できそうな相手がごろごろしているのに、なんだって理事長をピンポイントで選んじゃうかなあ自分。スイーツ食べ放題の中で、なぜか置いてあったタコわさびを選んじゃった、みたいな。なんでタコわさびが置いてあるんだ!責任者出て来い!あっ責任者がタコわさびだ。
「でも大好きなんだもん」
わたしは膝の上に肘を置いて頬杖をつく。びよんと目もとを引っ張ったのはなんだか泣いてしまいそうな気がしたからだ。
「梓ごめんね」
「なにが」
「ちゃんとどこまでも優秀な女子高校生やるつもりだったんだけど、なんか恋愛からむととたんにダメダメで」
「バカ、そんなことを悩むような優秀な奴隷を持った覚えは無い。いつも僕の意図などちゃんと理解したことなんてないくせに。ウメにはバカであることを期待してるから、いつも応えてくれて本当に嬉しい」
なぐさめているのか、それ。
「で、何が食べたいんだ」
「……」
「リクエストがないなら、ダイエット用スープにするが」
「いや、高カロリーなものが食べたいです!体に悪い感じの!」
梓は笑って「いいだろう、今日は特別な」というと、キッチンに戻っていく。梓のすごいところは男の一人暮らしだというのに、まめに料理を作ったり、掃除をしたりと、生活のメンテナンスがきちんとできるところだ。
それなのに所帯じみてなくて、立ち振る舞いが洗練されているのもすごい。今日だって遊園地でけっこう女の人に振り返られていた。わたしと理事長が一緒にいたら、「青少年淫行条例違反?」の眼差しなのに、梓の場合は「すげー男前!横のあのガキは何?」の意味合いだ。同じ歳なのに、いったいどういうことじゃろう。
彼氏にして自慢、夫にして重宝、ただし仕様で罵詈雑言機能ははずせません、という感じ。だけど最近ちょっと優しい気がする。
と、テーブルの上に置いてある梓の携帯電話が光った。マナーモードにもなってなくて音も消してあるから、これじゃ気がつかないよ。
「ねえ梓、携帯鳴っているみたいだよ?」
「そうか」
まったくどうでもいい感じに梓はそれだけ答えて、誰からか確認もしない。かなり長い間それは点滅を繰り返していたけど、やがて切れた。携帯を見ているとどうしても思ってしまうのは、今日のことだ。
今日だって、わたしも携帯電話を持っていれば、こんな展開にはならなかったかなって思う。あんなところで理事長を見かけることもなかった。
わたしは結局理事長のことで精一杯で、梓がなんで優しいのかなんてことは思い切り思考からスルーしてしまったんだけど。
まあそのしっぺ返しはすぐに来た。
サーモンとアボガドのタルタル、野菜ぎっしり熱々ミネストローネ、鳥の香草焼き、半熟卵とベーコンのグリーンサラダ。
「まあ、あるものでな。買い物行くのが面倒くさい」
アボガドとかバジルを買い置きしている独身男と言うのはいかがなものか(いやおうなく反感)。しかも、料理が出来上がった時点で、キッチンはそれなりにきれいに片付けられているのだ、この段取りのよさも一体なんだ。春休みにいたときは、痩せろ!と虐待されていたので質素なものしか食べてなかったけど、よくよく考えればあれもおいしかった。
「おいしいー、おいしいー」
どうして恋愛の悩みを抱えているのに御飯はこんなにおいしいのか。
「たくさん食べろ」
「食べます。梓、料理が上手なんだね」
「なんだ今更。玄米と雑穀飯をあれだけうまく食べさせてもらっておいて」
「梓の辞書に謙遜ってある?」
「事情により心底やむを得ないときにだけ、苦渋の決断の上しぶしぶ使う」
「……だろうね」
ああーおいしいなあー、このミネストローネ、サツマイモが入っているのもすごくおいしいよう。
梓も料理をつまみながら、白ワインを飲んでいた。相当冷えているらしく、グラスの周囲がひやりと薄く曇っていた。梓は食べ方も綺麗だ。
「梓はお酒も結構飲むの?」
「そこそこな。まあ十郎ほど強くも無いが」
「理事長はお酒強いんだ」
「酒豪のことを、ザルっていうのは知っているだろ?そのさらに上をいくと、ザルでなくもう枠しか残ってないからワクって言うんだけど、十郎はそのレベルだ。普段はそんなに飲みもしないが、飲み始めたら一升とか飲めるぞ。そういえば、八重子さんも強かった」
「八重子さんってすごく美人で、優しくて、知的だったんでしょう?」
「はあ?それ誰の言葉だ」
「え、理事長」
「……そりゃかなり幼い頃の十郎にとってのイメージだ……。あの女、生徒に踵落しを喰らわせた女だぞ。大体その酒の一件だって伝説つきだ。あの頃の王理の学生といえば、今よりずっと硬派で気骨があったけどその分頭も固くてな。八重子さんは女教師だってことで苦労もしていたんだ。で、寮内での飲酒問題がこじれたときに『ガキの分際で酒など二年から四年ほど早い。そんなに飲みたければ、私くらい飲めるようになってからにしろ』っていって、生徒と飲み比べしたんだ」
「で、どうなったの?」
「あの女、生徒十人、そしてなぜか教師も三人つぶして自分はけろっとして翌日授業教えていた」
「超人だ……」
「確かに、美人で優しくて知的だったが、一方で可愛くて凶暴で馬鹿だった」
その過去形が、ちょっと嬉しかった。今まで話すことさえできなかったのに、梓の中で八重子さんが過去の穏やかな記憶になっているってことだと思うんだ。
「十郎も教師としての八重子さんには怯えていたけど、やっぱり親代わりの優しい姉の印象の方が強くてそんな菩薩みたいなイメージなんだろうな」
「……菩薩かあ……」
難易度高いな。そして多分わたしは酒豪にはなれない気がする……。最初のハードルも蹴り飛ばしてしまったみたいだ。
「なんだ僕の酒ばっかり見て。飲んでみたいのか」
「んー……んんんん、やめとく」
ちょっとづつ飲めば鍛えられるのかもしれないけど、あの酔っ払い方には自分自身がドン引きですよ。しかも目の前にいるのは梓。
止めといた方がいい。多分あんなの見せたら罵倒じゃすまない。物置に閉じ込められかねない。
「そうか」
「でももう少しスープもらっていい?」
「いいよ」
梓がまた脅威の優しさで、僕が入れてきてやると言わんばかりに手を差し出してきた。でもいくらなんでもそこまで甘えるとあとが怖いので、わたしは自分で立ち上がる。
「いい。自分で入れてくる」
カウンターの向こうに回ってキッチンに来て、わたしはため息をついた。
梓が気を使って話をしてくれるから、そのときは考えなくてすむけど、やっぱり理事長のことばっかり考えてしまう。
明日どうしようかな。なんて言って、理事長に話しかけたらいいのかな。
そんなことを考えていたわたしの目に入ったものは、カウンターの上でまた点滅する梓の携帯電話だ。
「梓、携帯鳴っているよ」
携帯と、スープと、そして理事長のこと。
いろいろ気が散って、多分ぼんやりしていたんだろう。あっ、て思ったときにはもっていたレードルを鍋に引っ掛けて、そして思い切り鍋を床にひっくり返していた。派手な音を立てて鍋が床に落ちたけど、その前に膝から下にわたしはまだ熱いスープをかけてしまった。




