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話は、二月の半ば、わたしが聖モニカに合格した日の翌日に遡る。
わたしはとある海の見える丘に立つ病院に中庭で、凛と咲く梅を見ていた。
人生に行き詰っていたからである。ぼんやり道を歩いていたら電柱にデコをしたたかぶつけたくらいの勢いで。
それにはうちの家族構成が関係する。
わたしのうちは、家計を支えていたのは母さんだ。バリキャリにして数ヶ国語を自在にあやつり国際的な証券会社にお勤めであります。すげえ女傑であります。
そして母さんより三つ年下のお父さまは、なんというか……いうなれば……詩人ていうか……。
えーと、心底なにもできない人なのだ。人格はいい。神様もびっくりなほど優しい。しかし何も出来ない。
大事な事なので繰り返すと、何も、出来ない方、なのだ。
主夫です、とか言えればいいけど、飯を炊けば炊飯器を爆発させるし、掃除をすれば、わたしのハムスターを吸い込みかける、洗濯をすればもはや狙っているのかと思う勢いで服をミニチュア化させる。当然得意な仕事も無い。
母さんとであった時、お父さまはホームレスだったそうです。
久賀院は、先祖は公家だったとかいう由緒ある名前だそうだけど、お父さまを見ていると、あー、平安の雅な血が今もうっかり息づいちゃってんだなあと、歴史を感じます。
さて問題:この久賀院家、母親が、重篤な病気になった時、どのような事態が発生するでしょう。
答え:貧困。
ということで今現在その状況だ。
母さんの貯金は、お父さまの生家(かなり不法な手段で遠縁に奪われていたらしい。多分もう亡くなっているお父さまの御両親も、うすらぼんや……雅な方だったのだろう)を買い戻す際に結構使ってしまっていたらしい。
しかもわたしが目を放した隙に、こともあろうにお父さまはいかがわしい団体から、金借りてきやがった。それがかなり膨らんでいることに気がついて、わたしが十五のみそらで卒倒したのは昨日の話。雪だるまなんてもんじゃないよ!札幌雪祭りもびっくりだよ!
「ごめんね、梅乃さん」
横のお父さまの本当に申し訳なさそうな声で、わたしは我に帰った。
そうだ、母さんのお見舞いに来て、二人、病院の庭のベンチでアイスを食べていたのだ。
「とても親切そうな人だったから……」
「親切な人は、あんな金利にはしないと思います、お父さま」
「そうだよね。どうしよう、僕の腎臓とか売ったらお金になると思う?」
「海外で安価に入手できる時代ですから、それはどうでしょう」
「そうだよねえ」
お父さまはわたしを見た。
「でも梅乃さんが芸能界デビューとかいうのはだめですよ。あの世界は恐ろしいといいますから」
「わたしはそんな世界に出るような資質はもっていません」
お父さまはにっこり笑った。無造作に二つくくりにしているわたしの髪に触れる。ちなみにお父さまはとてもハンサムだ。もう四十歳にはなるはずだが、どうみても二十代にしか見えない。多分老化の早さも雅なのだろう。
「梅乃さんは、とても美人ですよ。しかも桃江さんに似て聡明です。聖モニカの進学試験で主席を取るぐらいですから豊かな資質がありますが、芸能界はいけません。」
いっぱい問題があるけれど、わたしも母さんもお父さまがとても好きだ。お父さまはけして人をけなさない。お父さまが誰かの悪口を言うのをわたしは聞いたことが無い。わたしも怒られたことが無い。
それは、本当にまれな資質なのだと思う。
まあ、現在の貧困の解決にはこれでもかというほど役に立たないが。
「しかし、そうなると、おうちを売るより他ありません」
「だめです!」
強く言ったのはお父さまのほうだ。あのうちは、母さんがお父さまのために頑張って取り戻してくれたうちなのだ。その気持ちはよくわかる。お父さまは母さんに気を使って、家の困窮を一言もまだ言っていない。
「そのくらいなら、僕がマグロ漁船に乗ります!」
「マグロ漁船が迷惑します」
まったくもって、このアイスが今日の最後の食事かもしれないというのに雅な親子だと自分でも思う。でもお父さまと話をしていると、なんだか何か他になんとかなるような気持ちになってきてしまう。水っぽい世界とか、保険金自殺とかそういうことをお父さまがまったく考えてないからだ。
もうわたしもこの時点で進学は無理、と知っていた。あとはどうやって立て直すかが問題で。
「……実は、梅乃さん」
お父さまがぽつりと言った。
「怒られると思って、言ってないことがあるんです」
「……」
すごいな、これ以上となると全く予測できないぞ!
いかほどの隠し玉とくるか。銀行強盗とかアクティブなことであればまだいいと思うが、多分、そんなノリのよさはお父さまにはない。かといって練炭自殺仲間を集めました、とかいうほど社交的でもないからそれもありえない。ぎゃー、何言われるかさっぱり予想できない。……実は僕は宇宙人だったんです、そうか、これだ!
「あのですね、僕が詩を書くことは御存知と思いますが」
ああ、あのヘボ詩、とか思ったらいけないぞ、梅乃!
『とろりはちみつ紅茶に沈んで引き上げたすぷーんにはなめらかチョコレイト。きみと僕はそんなふうにはなじめないキリン』 詩 「久賀院硝也」一部抜粋。
意味不明。
物心ついた時、お父さまの売れてない詩を読んで、わたしは自分の母国語の崩壊を予感した。以後、一切お父さまの詩には関わらないことにした。おかげさまでわたしの日本語は一定レベルを保っている。
「実は……」
と、お父さまはベンチから立ち上がった。
「ちょっと勢いがなくて言えません。梅乃さん、庭を一周してきます。勇気を下さい!」
いいいいいい一体何をしたんだ。宇宙人であってください、せめて。キャトルミューテーションくらいなら、わたしが許します!焼肉しようぜ!
愕然とお父さまを見送ったわたしは、ふと視線を感じて振り返った。そしてばっちり目があってしまう。
わたしとお父さまの後ろには背中合わせにベンチがあったのだけれど、そこにいた二人がわたしを食い入るように見ていた。
ひとりは禿頭で小太りの初老の男性。もう一人は、怜悧な表情の男。
「……あの……」
それが、後に知る、王理高校の校長先生と、梓……梓鷹雄だった。
「……今、生活に困窮しているそうですが」
ずばり直球ストレートで梓は言ってきた。
「君、聖モニカの主席入学になる予定だったんですか?」
「へあ?」
そんなこといきなり聞かれて意味がわからない。
「とろいな」
梓は最初からS全開フルスロットルだった。
「本当にモニカの主席ですか?お前はかしこいのかと聞いているんです」
怖い。なんだこの人たち~。
「お、お断りすることになりそうですけど、合格通知に新入生挨拶を担当するように書いてありました……」
「なるほど、そして借金ある御様子。ここにいるということは、御家族がどなたか入られてますね。入院費もかさんでいるとお見受けしますが。借金はおいくらですか?」
「いや、梓先生。そんなふうに畳み掛けちゃいけません」
「ああ、すいません」
校長先生は温和に微笑んだ。
「君、わたしが校長を勤める高校に来ませんか?辺鄙な場所ですが、いいところですよ」
そしてわたしはその名を聞いたのだ。
「王理高校といいます」
そして、戻ってきたお父さまを巻き込んで、話は進み、そしてわたしは王理高校に行くことになったのだ。
実際借金は、きりよく一千万円だったのだけど、いったいどこから金が出てきたのか、梓がそれをきれいさっぱり代理で返してくれた。
その代わり、わたしに突きつけられた条件は三つ。
1、王理高校を、三年後優秀な成績で卒業し、優秀な大学に合格の実績をつくること。
2、何があっても途中でやめない。
3、寮生活の上、梓を相談役とし、よく言うことを聞くこと。
今思えば、一番大問題だったのは、3番目の条件だ。やれやれ。