リチャードの習作
リチャードに姓は無い。はずである。
私が詳しいと自負できる数少ないものは、簡単な帳簿の計算方法と、立食会で出会った貴族らの名を記憶することと、彼の生み出した作品と来歴についてなので。
だから私の知る限りでは、彼は貧しい孤児院の出で間違い無いのだと思う。
リチャードは職人だった。
知り合いというわけではない。私が一方的にその名を知っているだけ。それがリチャードだ。
生まれは孤児院。それから軍属医師、墓守、その他様々な職を経験し、二十代の後半で芸術家として活動を始めたのだという。芸術家としては遅咲きだったらしいが、彼のその名が世に響き渡るまで、五年も掛からなかったそうだ。
彼は四地区も離れた場所にいる私の名など知らないだろう。だが、私の書斎机には彼の作った小さな彫刻のひとつが、常に私の目に届く範囲に鎮座している。
年若い男が薄くほほ笑みながら、机の前でグラスを傾けている彫刻だ。
これは初期の作品なのだという。削りも荒々しく、よく見つめない限りには男が机の上の手紙を読んでいることにも気づけないほどの崩しが入った作品だ。
この彫像の男ほど端正ではないが、私にグラスを持たせれば、きっと同じような構図になるだろう。
机で手紙を読み、酒を片手に、どこか楽しそうにほほ笑んだ男。出来栄えは、文句なく素晴らしいと言える。
私は仕事の合間か、あるいはその前か、終えた後。この作品を見るたびに、その作品に込められているであろうメッセージと、彼の名を思い出してしまうのだ。
……リチャード。
忘れることのできない、彼の名を。
私は、あるひとつの地区の領主の次男坊だった。
私は長兄と違い、戦場においては輝かしい戦果を挙げられない愚鈍な男だった。なので文字と数字に向き合う地味な実績を積み重ねてきたのだが、そのせいか冴えない文官と陰口を叩かれることも、少なくはない。
まあ、それに不満はない。私自身もそう思うからだ。誰しも優秀な文官よりは、優秀な武官に憧れるものだろう。顔や体形に恵まれないことだって当然わかっているとも。
だがそのように陳腐な私であっても、この国全体で見れば、グラスに注いだ一時間後のソーダの泡くらいには、上澄みの立場にあるのは事実だった。
私の衣類は全て新品だ。高級な綿によって織られた生地は着心地良く、貧民の纏う薄い絹のように冷えることはない。
私は食にも困らない。卵やミルクは当然、塔上の暮らしにおいてはほとんど出回ることのない新鮮な魚さえも、日々の夕時に供されることは珍しくないだろう。
私の住処は当然ながら、天高く聳える塔の上層部だ。父や長兄は“戦知らず”と皮肉ることも多いが、私は生まれてこの方、魔物の蔓延る下界に脚をつけたことはない。命を懸けずとも、力仕事に従事せずとも、ほんの少しペンをふるうだけで、常に豊かな暮らしを謳歌できるだけの身分にあるのだ。
持って回ったが、要は貴族の端くれである。
胸元の紋章を見せれば、領民はすぐさま血の気をなくして傅くだろう。
私が姓を口にすれば、文字の読めぬ汚い路傍の餓鬼でさえ、その意味を理解し、当人が知る限りの最上の形で礼を尽くそうとするだろう。
貴族だ。当然である。
だが、私の姓が領民に通じたとして、私の名までもが知れ渡っているわけではない。
皆は私の姓を知っているのであって、恐れているのであって、私そのものにはきっと、ほとんど知識も関心も無いのである。
同じ貴族であろう上層民の多くや、頂点に座す狂王だって、姓は通じても、私個人の存在を認知してはいないだろう。
しかし貧民であるリチャードは、そんな私よりもはるかに高名な人物だった。
今や彼の名は偉大なる塔の全域に轟き、知れ渡っているに違いない。
リチャードの生み出す作品には、一貫したテーマがあった。彼の作品はそのテーマ性によって、名を国中に広めたのである。
彼が好んだテーマは“死”。
婦人の方々にはあまり好まれていないが、彼の作る彫刻はどれも“死”を想起させるものばかりで、それは彼の代名詞にもなっている。
モチーフは様々だ。髑髏、死体、死の瞬間……それを象ったものが多い。しかし、それだけならば決して物珍しいものではない。作品として遺した者だって、それらの作品を掃いて捨てるほど大勢いたことだろう。言葉としてのスケールは大きいが、死などという概念は、誰にだって思い浮かべることのできるテーマなのだから。
そしてその有象無象の芸術家の中で、“死”を題材に名を上げ、残ったのがリチャードだった。
机の手紙を読み、笑みを浮かべ、グラスの酒を嗜む若い男。
手紙は、きっと恋文なのだろう。男の笑顔と周囲の小道具からそれは察せられる。
酒は一日の終わりの晩酌で、良いものに違いない。真面目なのだろう。身だしなみは整えられ、やや弛緩した雰囲気こそ感じられるものの、彼からは貴族としての気品が感じられる。
髪を後ろに撫でつけ、仕立てのいいスーツを着込み、鼻筋の通った……それは、本当に格好良い男なのだ。
もしも私の胴回りが細ければ、彼のような男になりたいと目指していたかもしれない。それほど出来のいい、素晴らしい彫刻なのだ。
……だが彼の胸は、背中側からザックリと、細身の剣によって貫かれている。
ほほ笑んでいる。幸せそうに酒をやっている。だが、そうだというのに、この若き男はこの瞬間、心臓をまっすぐに貫かれ、死んだのである。
誰がその剣を扱ったのかはわからない。いや、ひょっとすると誰もその剣を突き出していないのかもしれない。だがなんにせよ、その刃は若き男の心臓を抉り、内ポケットに忍ばせた時計ごと、彼の命を貫いているのだった。
……剣さえなければ、それは完成されたひとつの幸せな男の姿であったのに。
私が理想とするような、朗らかで文化的な、そんな貴族であったのに。
製作者のリチャードは言っているのだ。彼は、この幸せそうな男は、ともあれ、死んだのだと。
若くとも。楽しくとも。豊かであっても。貴族であろうとも。死はある時唐突に訪れて、胸の中の時計を呆気なく、何の感慨もなしに、突き壊してしまうのだと。
この彫刻は、リチャードがまだその名を狂王の耳に届かせる前に手に入れたものだった。
若手芸術家の作品を買い叩いていた頃の品だ。その時はまだリチャードの作品も二束三文で、今のような途方もない……財政が傾くほどの値が付けられていない、そんな時代だったのだ。
私はこの作品を目にして、それが秘める大いなる“死”の圧力と、幼少の頃に心に封じ込めていたはずの“死”へと恐怖を思い出さざるを得なかった。
死は、誰にでも訪れる。
地上で魔物と戦う勇猛な武官だけではない。
貧困に喘ぐ飢えた領民だけではない。
死は平等だし、それは時として唐突にやってくるのだ。
筆を持ち、腹周りと大きくさせた文官にだって、必ずそれは訪れるであろう。
……長時間の執務に目の疲れを感じ、ふと書類から目を離し、視線を上げてやれば、机の上の彫刻が目に入る。
優しく微笑んだ貴族が、おそらくは道半ばで死ぬ、その恐ろしい姿が。
「……ふう」
そうして私は一息ついてから、再び面倒な執務に噛り付くのである。
凡庸なる私の名を、願わくばリチャードの如く、この国中に広めるために。
私が生きてきた証を、多くの人々に記憶されるために。
死神は、決して待ってはくれないのだから。