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第九話 シークレット オブ スプリング 前編

 目の前には居酒屋に似つかわしくない料理が並んでいた。

 洒落た皿に盛り付けられたパスタ、カルボナーラ。サラダもついている。ドリンクはオレンジジュースだ。籐製のバスケットには焼き立てのパンが入っていた。

 その他食器やシルバーの類いは全てローズガーデンから持ち込まれた。

 テーブルには真っ白なクロスが敷かれ紙ナプキンが並ぶ。そこだけを見るととても居酒屋には見えなかった。

 ──高梨さん、万能過ぎだろ……。

 意外な一面かと思いきや、実に本格的だった。

「昔取った杵柄でございます」

 高梨さんはどこか照れたようにそう言った。


 *


 ローズガーデンからここに来る間、黒塗りのリムジンの中で俺は泉と連絡を取った。

 まず謝った。

『遅い! 時間過ぎてます!』

「ごめん、ちょっと手間取って」

『何が?』

「色々あったんだよ」

『ふぅん……』

 そしてランチは、居酒屋てんもんじで、と説明した。

『何で居酒屋なんですか?』

「まぁ、色々あってな」

『しかもよりによってあの居酒屋なんて。どういうつもりですか?』

 確実に泉の機嫌は損なわれている。

 でもこちらも後に引けない事情がある。

「深い意味はないよ。ただほら、俺はランチを奢るとは言ったけど、どこで、とは言わなかったよな?」

『言い訳ですか、それ?』

 その通り。言い訳だった。

「ぐ……とにかく、ごめん」

 とにかくその場は何とか言い繕った。

 そして今。

 店の中央に置かれた丸テーブルには、俺、沙樹、高梨さん、てんもんじの店長の佐藤氏、そして大原泉が座り、黙々とパスタを、そしてサラダを食べている。

 俺は沙樹と泉に挟まれ、味なんてちっとも分からなかった。生きた心地もしなかった。

 役者は揃った。料理も出揃い、もうじきそれもなくなる。

 話は食事が終わってからだ。

 だが。

 俺は沙樹を見た。睨み返された。

 俺はため息をつき、泉を見た。泉からも睨み返された。

 ──このぴりぴりした空気はどうしたらいいんだろう?

 俺は最後のパスタを口に放り込みつつ、途方に暮れた。


 *


「さて」

 俺はこの重い閉塞感を打破すべく立ち上がった。

「食事も済んだ事だし、さっそく話を……」

「食後のお茶がまだだ」

 俺は沙樹に先制され、絶句し、立ち尽くした。

 拳を振り上げたはいいが、どこに降ろしたらいいのか分からなかった。

「高梨」

「はい。皆様、宜しいでしょうか?」

 見れば、高梨さんがウェイターのように伝票片手に立っていた。例によって音も気配もなかった。

「私は紅茶でいい」

「私も」

 沙樹と泉は紅茶、俺と佐藤氏はコーヒーを注文した。

「では少々お待ち下さい」

 高梨さんは厨房の奥に引っ込んで行った。

「ねね、江藤さん」

 泉が俺の袖を引いた。

「何?」

「料理作ったのって、あの高梨さんって人?」

「何でそう思う?」

「だって……」

 泉は目だけで全員を見渡した。

「他に作れそうな人がいない」

「……そういう事は小さい声で言いなさい」

 いくら小さい声でも沙樹には聞こえるだろう。それでもそう言わずにはいられなかった。

「聞こえているぞ。大原泉」

「どうして私の名前を知っているんですか?」

「説明が必要か?」

「ぜひ」

「……お茶が来てからだ。大体、ここにいる人間の紹介もまだだろう?」

 沙樹は首を回した。ゴキゴキと音がした。何かの威嚇行動かも知れない。

「ああっと、そうだな。紹介ね、紹介」

 俺は慌てて説明を始めた。

「まず俺はいいですよね?」

「誰がお前の自己紹介なんぞを聞きたいと思う?」

 沙樹は遠慮なく毒を吐いた。

「……まぁそうだな。じゃあ、まずは佐藤さんから」

「ここの店長さんでしょ? 知ってます。阿部君から聞いてます」

「……ああ、そうかい……」

 何を言ってもこの二人に絡まれる。

 紹介の必要なんてないんじゃないか?

「お前はどうにも回りくどい。もっとストレートに言ったらどうだ?」

「私もそう思います。ここで紹介が必要なのは、私と、江藤さんの隣に座ってる方だけじゃないんですか?」

 ごもっともだ。

「ええと、じゃあ、まずこの女性は……」

「お茶の準備が出来ました」

 高梨さんがお茶のセットを持って現れた。

 俺はテーブルにがっくりと手を着いた。

 ──ちっとも話が進まない……。

 この場の主導権は、既に俺の手にはなかった。 


 *


「さて」

 主導権を握ったと思われる沙樹が口火を切った。

「まず私が誰か、大原泉に説明しなければな」

「だから、なんで私の名前を知ってるんです?」

「大原泉。おまえはせっかちだな」

「……江藤さん、何でこの人こんなに偉そうなんですか?」

 泉が膨れっ面で俺を見た。俺をそんな目で見るな。

「初対面なんですよ? もうちょっと、こう……礼儀ってのがあるんじゃないですか?」

 泉は俺を睨んだままそう言った。それは沙樹に言ってくれ。

「初対面? 大原泉、本当に初対面だと思っているのか?」

「……どういう意味ですか、それ」

 俺を挟んで、二人は見えない火花を散らした。

 高梨さんは黙して自分のコーヒーを飲んでいる。佐藤氏はなぜか興味津々だった。

 ──助っ人なしですかい。

 俺はとにかく仕切り直そうと考えた。

「沙樹」

「何だ?」

「まずお前の説明が先だと思う」

「どうしてだ?」

「そっちの方が話が早い」

「ふん」

 沙樹は鼻を鳴らした。「まぁ、この名探偵がそう言うならそうなんだろうよ」

 名探偵──もう皮肉にしか聞こえない。

「私は一条沙樹と言う者だ。ローズガーデンの管理人をしている。以上だ」

 文句あるかと言わんばかりだ。

「何か質問があれば受け付けるが?」

「はいはいはい」

 泉が手を挙げた。

「……何だ?」

「一条さんは私より年上ですよね?」

「答える義務があるのか?」

「あります」

 泉が言い切った。この世で沙樹に反論出来る人間がいるとは思ってもみなかった。無知というのは、時としてどんな障壁をも打ち砕くようだ。

「そうか。なら答えよう。年上だ」

「私の歳を言ってませんけど」

「大原泉。女性が男性の前で具体的な年齢の話をするのはあまり好ましくないぞ?」

「私は気にしませんけど」

「祐一」

 俺に白羽の矢が立ったようだ。

「どうにかしろ」

 大分大雑把な命令だったが、沙樹の心情は理解出来た。

「泉さん」

「何ですか?」

「沙樹が泉さんより年上なのは間違いない。俺が知っている」

「それなら江藤さん。私の事も呼び捨てで呼んで下さい。フェアじゃない気がします」

 なんのフェアだ?

 と逆らっても、何もいい事はない気がした。

「ああもう、分かったよ泉。これいいんだろ?」

「で、一条さんが私の名前を知っている理由はなんですか?」

 俺はテーブルに突っ伏した。

「泉、お前な……」

「私の事は沙樹でいい。面倒が少なそうだからな」

「じゃあ私も泉でいいです──沙樹さん」

 話はこの二人だけいればでいいんじゃないか? 俺はここに座っている意味があるのか?

 俺は突っ伏したまま、どうやって話を進めたらいいか考えた。だが思いつかなかった。

「私が、大原泉の名前を知っている事についての説明が必要──そうだったな?」

「ええ」

「簡単な事だ。私はローズガーデンの管理人だ。この街で起きた事で知らない事はない」

「ローズガーデン?」

「知らないと言うのならそれでいい」

「説明になってませんけど?」

「そうか。それならこれを見て欲しい」

 沙樹はテーブルの中央に例の封筒を置いた。

「これは?」

「お前が発案した貼り紙がなくなった翌日にここにあった」

「発案しただと?」

 佐藤氏が椅子を蹴って立ち上がった。

「あの貼り紙を考えたのはこの嬢ちゃんか?」

「店長、落ち着いて欲しい。これから順を追って説明する」

「何を落ち着けってんだ? あの貼り紙のせいでこの店は火の車だ。その大元がその嬢ちゃんだと言うなら、俺にも発言する権利があるはずだ」

 発言どころか糾弾してもいいくらいだろうが、そこは分別のある大人の言葉だった。

「佐藤さん」

 俺はいきり立つ佐藤氏に声をかけた。

「貼り紙の件も含めて説明しますから、どうか座って下さい」

「大将。あんた犯人の肩を持つのか?」

「や、そういう訳じゃないですけど……」

「それに何だ。昼過ぎくらいにお邪魔するかもしれませんとは聞いていたが、こんな人数で押しかけて。何をするつもりだ? 今日は定休日なんだぞ?」

 沙樹が即座に口を挟んだ。

「今日はローズガーデンがこの店を貸し切る。もちろん、きちんと代価は払う。それならどうだ?」

 佐藤氏からすれば、それは願ってもない事だろう──売り上げが入るのだから。

「う……ま、まぁそういう事なら」

 佐藤氏は溜飲を下げた。

 俺はすかさず声をかけた。

「とにかく説明とやらを聞きましょう。話はその後という事で」

「まぁ、大将がそう言うなら……」

 なぜか信頼されている俺だった。

「話の続き、いいか?」

 沙樹のいらいら感が言葉に出ている。トゲだらけだ。

「ああ、どうぞどうぞ」

 とっとと話を進めてくれ。これ以上の揉め事はご免だ。

「じゃあまずこの封筒だ。これが何か分かるか? 大原泉」

「分かりません」

 即答だった。

「なら中身を見てみろ」

「何で私が」

 一触即発の雰囲気だった。

「いいよ。俺が開ける」

 俺は素早く封筒に手を伸ばし、中に入っている紙を取り出した。

 例の怪文書だ。

「そこに何と書いてある?」

「……そんなの知りませんよ」

 泉がぶすっとした顔で応じた。

「そうか? まぁいい。そこに書いてあるのは『人殺し』というキーワードだ。しかも新聞や雑記の切り抜きで作ってある。手の込んだ怪文書だ」

「え? 切り抜き?」

 泉が驚いたように、俺から怪文書を引ったくった。

「……?」

「どうした、泉?」

 泉は俺の問いかけに答えない。

「おい。泉って」

「え?」

「どうした?」

「……あ、いえ……何でないです」

 泉は怪文書をテーブルの上に置いた。

「どうかしたのか? 大原泉?」

「何でもないです。ただ切り抜きで作った投書なんて生まれて初めてなんで、ちょっと珍しいかなと思って」

「大原泉? 誰がそれを『投書』だと言った?」

「え?」

 泉は驚いた顔をした。「え、いや……」

「私はその怪文書が『ここにあった』としか言っていない。それを大原泉は『投書』だと言ったな? それはなぜだ?」

「それは……その、勘というか、何となく……」

 泉は頭を掻いた。

「お、おい沙樹」

 俺は二人に挟まれている。頭ごなしに議論が飛び交うので、つい口を挟んだ。

「そんな言葉の揚げ足を取っても仕方ないんじゃないのか?」

「そ、そうですよ。手段じゃなくて内容を議論すべきです」

「……議論ね。じゃあ議論をしよう。これを作った人間は、よほどここの店長を恨んでいたようだな。わざわざ新聞記事か雑誌から文字を切り抜いている。手間のかかる事をしている」

「そ、そうですね」

「今時はPCがあれば簡単に作れる。手書きじゃないから書いた本人を特定出来ないというのにな」

「そうですね……」

「だが手間をかけた割に、これを作った人物は一つミスを犯した」

 ──ミスだと?

「この切り抜かれた文字。新聞か雑誌の記事のコピーだろうが、最近のコピー機は性能がいいようだな。裏の記事が薄く写り込んでいる」

 全員の目が怪文書に集中した。確かに良く見ると、うっすらとだが記事が見える。

「その記事からどの新聞か雑誌を使ったのか特定出来る。そしてそれは既に判明している」

「沙樹、お前……」

「忙しいと言っただろう? 私だってただあそこで座っていた訳じゃないんだ」

 どれほどの量の新聞や雑誌に目を通したのだろうか。

 気が遠くなる作業だ。

 沙樹は『忙しい』の一言で片付けたが、そんな簡単な事ではないはずだ。

「それらの情報から、三日前の地方紙の一面記事と、ある女性雑誌の先月号の記事だという事が分かった。直近の物で助かったよ。探す範囲が狭かったからな。後は簡単だ。この共通項からひたすら探して行けばいい」

「どうやって探すんですか?」

 それは泉の率直な質問だった。

「ローズガーデンには警察内部に協力者がいる。彼らは人捜しの専門家だ。ひと月もかからず割り出すんじゃないか? 怪文書を作った威力営業妨害の『犯人』を」

「威力営業妨害……」

 泉は呻くように呟いた。

「そうだ。佐藤さんが被害届を出せば、それで刑事事件として捜査される。貼り紙の件はアルバイトの悪戯だ。だがこの文書は、明らかに憎悪なり悪意なり人間の負の感情が潜んでる。危険がある。立件して捜査しないと佐藤さんに危害が及ぶ怖れがある。それにな。実はもう少し捜査範囲を絞り込んでいる。その女性雑誌は少々マイナーでな。置いている書店が少ないんだ。この街にはそもそも小さな書店が少ない。となれば大手でこの雑誌を扱っている書店は……実は一つだけだ」

「一つだけ……」

「そうだ。後はレシートに記録されている時間と店内の監視カメラの映像から、買った客を割り出せる。そんなに難しい事じゃないんだ──高梨、お茶のお替わりを貰えるか?」

「はい、只今」

 高梨さんが席を立った。

「皆さっきと同じ物でいいか?」

 沙樹以外全員押し黙ったままだ。皆、沙樹から漂う雰囲気に呑まれていた。

「──同じでいいようだな。高梨」

「畏まりました」

 高梨さんは厨房に姿を消した。

「さて話の続きだ。被害届はまだ出ていないが、ローズガーデンとしては依頼主の危機だ。勝手に動かせてもらった。本意ではないが探偵を使った。実は大体の住所まで判明している。さすがに番地までは絞り込めなかったがな。でも範囲としては、せいぜい十軒程度だ。アパートを含めても二十世帯くらいだろう。これを警察に捜査協力という形で提供すればすぐにでも『犯人』が分かる──おっと、電話か? 誰だ?」

 沙樹はテーブルに置いていた自分のスマホを取り上げた。

「話をすればなんとやらだな。あの探偵仕事が早いな。誰かさんと大違いだ」

 沙樹はちらっと俺を見た。誰かさんの事だろう。ええ、ええ。どうせ俺は仕事が遅いですよ。

「メールだな……ほう。もう絞り込んだようだ」

「何をですか?」

 泉の声は震えていた。

「決まっている」

 沙樹は、泉を見据えた。

「『犯人』が住んでいるアパートが判明したんだよ」

「どこですか、それは」

「ファミリア伊藤というアパートだ」

 泉が息を呑んだ。

「どうした泉? 顔色が悪いぞ?」

「い、いえ。大丈夫です」

「探偵の情報によると、そこに住んでいる人間は、高橋、日野、矢吹、そして大原」

 ──大原?

 俺は泉を見た。泉は俯き、身じろぎ一つしない。

 まさか。

 そこへ沙樹が追い打ちをかけた。

「偶然だとは思うが……大原泉、お前が住んでいるアパートじゃないのか?」

 泉を除く全員の視線が泉に向かう。

「そう、です……私はそのアパートに住んでいます」

 この奇妙な偶然に、その場にいた全員が息を呑んだ。


 *


「大原泉。お前は本意ではないだろうが、容疑者の一人になる可能性が高い。張り紙の件があるからな」

「私が疑われる……」

「何、心配する事はない。何もしていないならそう言えばいい──私はこんなもの作ってません、とな。それとも──お前が犯人か?」

 最後の言葉は冗談交じりだと思った。

 だが泉の反応は違った。

「私はそんな事してません!」

 不自然に大きい声だった。

「何で私がそんな怪文書を投げ込まなきゃいけないんですか!」

「二度目だな」

 沙樹が冷静に告げた。

「二度目?」

「大原泉。お前は言葉をもっと選ぶべきだ。私はこの怪文書が『投げ込まれた』等と言っていない」

「あ……」

「郵送だったと言ったら?」

「ええと……」

 泉は語尾を濁した。

「今時は宅配業者のメール便というのもあるな」

「沙樹」

「祐一、お前ちょっと黙ってろ」

 俺の言葉は、沙樹の一睨みで封殺された。

「今時のPCは性能がいい。プリンタもそうだ。泉、お前の部屋には何がある?」

「……」

「答えられないか? ちなみにPCの種類によっては入っているフォントが異なる。書体からどのメーカのPCを使ったのか分かる。プリンタも、顔料から機種を割り出せる。つまりPCを使って怪文書を作っても『犯人』を特定出来るとしたら」

 沙樹は組んだ手に乗せていた頤を上げ、姿勢を正した。

「お前はどうする?」

 静かにそう告げた。

「……私はやってません」

「そうか? ならこれは何だろうな?」

 沙樹は乱暴に、もう一つ紙きれをテーブルに投げ出した。

 ──あん?

 そこには『人殺し』と明朝体で印刷された怪文書があった。

「な、何で二つあるんだ?」

 俺は二つの怪文書を見比べた。

 書いている文字は一緒。ただ表現方法が違う。

 片や新聞記事や雑誌の切り抜きで、もう一方はPCからプリンタで印刷されたもの。

 沙樹は、どちらにしても犯人を特定出来るのだと言う。

 話の流れがおかしな方向に進んでいる気がした。

 ──これじゃまるで、泉が怪文書を作った本人だと言っているようなもんじゃないか。

「皆様、お茶のお替わりをお持ち致しました」

 高梨さんが厨房から姿を現した。

 まるで見計らったかのようなタイミングだった。


 *


 沙樹は一口紅茶をすすり、話を続けた。

「この二つの怪文書。それを説明する前に確認したい事がある。──祐一」

「俺に?」

「そうだ」

「何を確認するんだ?」

「お前が初めて大原泉に会ったのは、貼り紙がなくなった翌日。そうだな?」

「ああ」

「それ以降大原泉と会ったのは?」

「学校の前だな」

「この路地では会っていない。そうだな?」

「ああ。何度か来てるけど会ってないな。まぁ、あまり女の子の来るような場所じゃないしな」

「そう。ここはアーケード街の裏側の通りだ。狭いし暗い。事故も多い。それに居酒屋が建ち並ぶが華やかさはない──ああ、店長。これは何もここの文化を否定している訳じゃないぞ? ただ一般論として女性は近づき難い、そう言っているだけだ」

 佐藤氏は「分かってるよ」と肩をすくめた。

「という事だ。大原泉。お前がこの通りにいた理由を教えて欲しい」

「……それ、答える義務があるんですか?」

「もちろんだ。それとも、このまま私の憶測で話を進められてもいいのか?」

「いえ……」

「それなら説明をして欲しい。なぜお前がここにいたのか」

「江藤さんにお話ししてます」

「私はお前の口から直接聞きたい。このヘボ探偵モドキの報告は当てにならん」

 ひどい言われようだ。

「どうなんだ?」

「それは……先月の事故の原因を調べようとして」

「なぜ原因を?」

「それは……」

 俺はたまらず口を挟んだ。

「沙樹、何でそこまで泉に突っ込むんだ? この二つの怪文書と先月の事故。それが泉に何の関係があるんだ?」

「私はお前に言ったよな?」

「何を」

「大原泉とここ──居酒屋てんもんじとの関係が立証されなければ契約を解除する。そう言ったはずだ」

「ああ……確かに言われたが、貼り紙の件で接点があっただろう? あれじゃダメなのか?」

「三十点だ」

「は?」

「関係性はあるにはあるが、貼り紙だけではないという事だ」

「……お前、何か知っているのか?」

「そう思うなら黙って聞いてろ」

「む……」

 俺は沙樹の鋭い眼光に気圧され、再び黙り込んだ。

「で、どうなんだ? 大原泉? なぜ事故の原因を探していた?」

「それは……私の父が刑事で……」

「それは祐一から聞いている。交通事故で、か?」

「そうです」

「亡くなったのか?」

「……え……?」

「お前の父、大原刑事は、交通事故で亡くなったのかと聞いている」

「それは……プライベートな事なので答えられません」

「ほう、プライベートと来たか」

 沙樹はにやりと笑った。

「警察は公僕だ。その公僕が交通事故に関わり亡くなった。どれだけの規模の事故だったのか、被害者なのか加害者なのかは分からない。だが新聞の記事に載らないのはなぜだ? それといつの事故だ? 私は、十五年前からずっと交通事故、とりわけ死亡事故に関しては全て記憶している。私の記憶を疑うならすぐにでも資料を用意しよう。だがその中に大原という名前は出てこない」

「それは……」

「それから、この街では今まで大原という刑事は存在していない。さっきも言ったが、ローズガーデンには警察内部に協力者がいる。照会すればすぐに分かる。つまりお前の父親は刑事ではない」

「……」

「この街ではないと言っても無駄だぞ? 私がどの街だ? と聞いた時点で手詰まりになる」

 泉は黙り込んだ。

 それは肯定なのか。

 ──嘘だったのか。

「……そんな事言いません。私が江藤さんに嘘をついたのは謝ります。私は単純に、好奇心で事故の原因を知りたかっただけです」

 嘘が一つ、はがれ落ちた。

 ──情報は一つでも信憑性を失うと価値を失う。

 もう泉の情報は価値を失った。

「単純な好奇心で人の生死に自ら進んで関わる。お前はそう言っているんだな?」

「それは言葉尻を捉えただけです。何でそんなに私に絡むんですか? 私に恨みでもあるんですか? そんなに江藤さんを盗られるのが怖いんですか?」

「……話をすり替えるな。祐一は関係ない」

「だって、さっきから聞いてると私にばかりに質問して。そもそもここに集まったのは、この怪文書の件でしょう? それなのに私の父がどうとか、好奇心がどうとか。関係ないじゃないですか」

「本当にそう思っているのか?」

「どういう意味ですか?」

「お前が説明しないのなら私がするが……いいのか?」

「……」

 泉はまた黙り込んだ。

 俺はもういても立ってもいられない。

「泉」

「……何ですか?」

「お前は俺に嘘をついていた。それはいい。許す許さないで言えば許すよ。それより気になるんだ。この」

 俺はテーブルに乗っている怪文書を見た。

「──この怪文書、何で二つあるのかは知らんが、書かれている事は同じ『人殺し』だ。そしてお前は、あの時『人を殺す何か』を探していた。人殺しと言っておきながら人を殺す何かを探す。正反対じゃないか。もしそれにお前が関係するのなら……」

 俺は真っすぐ泉を見た。

「お前の口から説明して欲しい」

 泉は一瞬だけ俺の視線を捉えた。口が開きかけた。

 だがそれは一瞬だけだった。

 泉はすぐに目を逸らし「私は関係ないです」と呟いた。

「高梨」

「はい」

 高梨さんが沙樹に促され、席を立った。

「大原様」

「……?」

「私はローズガーデンで渉外担当をしている者です」

 高梨さんは名刺を泉に差し出した。

「渉外、担当?」

「平たく申し上げれば、この街で困った方を探し、ローズガーデンへご案内する──そんな役目を担っております」

「?」

「その困った方を探すには、どうしたらいいと思われますか?」

「……片っ端から声をかけるとかですか?」

「それも手段の一つではございますが、あまり効率の良い方法ではございません」

「それならどうやって?」

「こちらです」

 高梨さんは例のコンパスを取り出した。

「それは?」

「このコンパスは『困っている方』を差し指します──宜しいですか?」

 高梨さんは蓋を開けた。

「……私を指してる……?」

「その通りでございます。貴女は困っていらっしゃる。それならそれは私の仕事です」


 *


「私が困っている……?」

「左様でございます」

「一体何に?」

「それは貴女が仰るのか、それとも沙樹様からご説明頂くか、どちらでもお望みのままに」

「……私は、困っていません」

「左様でございますか……」

 高梨さんは泉から離れた。

 一体何をするつもりだ?

「先月の事故の話は既に話に出ておりますので省略致します。貼り紙の件もアルバイトの学生の悪戯という事で、その理由も判明しております。残っているのは、そこにある怪文書──間違いございませんでしょうか?」

「そ、そうですね」

「問題は二つございます」

「二つ?」

「はい。その一つはタイミングでございます」

「タイミング?」

「貼り紙がなくなり、その翌日にこの怪文書が『投書』されました。これが何を意味するかお分かりになりますか?」

「……いえ」

「では申し上げましょう。貼り紙がなくなったタイミングを知っているのは、ここにいらっしゃる方々、つまり投書をした犯人とでも申しましょうか、その方がここにおられるという事です」

 ええ?

 全員ですか高梨さん?

「江藤様」

「は、はい」

「江藤様にはアリバイがございます。投書があった時間、江藤様はローズガーデンにおられました。従いまして江藤様は犯人ではございません」

「そ、そりゃそうですよ。俺がここにそんな物投げ込む理由がない」

 高梨さんはにっこりと微笑んだ。相変わらずその表情からは何を考えているのか読み取れなかった。

「次に──佐藤様。仮に佐藤様が犯人だとすると自演という事になります。それこそ理由がございません」

「当たり前だ。俺はこの店を守る側の人間だ。投書を作って何の得になるってんだ」

「仰る通りです」

 高梨さんは頭を垂れた。

「これは消去法ですか?」

 泉が高梨さんに率直な疑問を呈した。挑むような声色と視線だった。

 だが高梨さんは怯まなかった。

「そのようにお受け頂いて結構でございます」

「それなら残るのは私と沙樹さんと高梨さんでしょう?」

「いえ。沙樹様は佐藤様が投書を見つけた時間、江藤様と同じくローズガーデンにいらっしゃいましたので除外されます」

「じゃ、私か高梨さんって事?」

「いいえ。私もその時間ローズガーデンにおりました」

「じゃ、じゃあ、私が犯人って事じゃない!」

 泉は立ち上がった。

「貼り紙の件が絡むんだったら、阿部君だって可能性があるじゃない! 何でその事には何も触れないの?」

「阿部様には動機がございません」

「何よ動機って」

 泉はすっかり素になっている。感情的になっている。

「店長に恨みがあるとかそういう事なら、貼り紙をした時点であるじゃない。私は貼り紙の発案はしたけど、実際に貼ったのは阿部君だし」

「その答えは、はいであり、いいえだ」

 突然沙樹が割り込んだ。

「阿部某は確かに貼り紙をしていた。そしてバイトを辞めた事で貼り紙の悪戯はなくなった。そういう意味なら、怪文書を投書するタイミングを知っているとも言える」

「そ、そうでしょう?」

「だがな」

 沙樹は俺を手で押しのけ、泉に顔を寄せた。

「阿部某が知っているという事は、お前が知っているという事でもある」

「な、何を言って……」

「高梨」

「はい」

 高梨さんは懐から分厚い手帳を取り出した。

「──阿部康二(あべ こうじ)。二十二歳。大学へは二浪して入学しております。実家は隣街ですが、電車、バスで通学しており、バイクや車は持っていおりません。家族構成は、父、母、祖母との四人暮らし。一人っ子のためか少々甘やかされて育ったようで、何をするにも周囲に相談する癖があります。基本的に人を疑う事をしない善良な人物です。目下の問題は成績くらいでしょうか。卒論の仕上がりが芳しくなく、それがバイトを辞めようと決心したきっかけなようです。この店でアルバイトを始めたのは、単に小遣いだけでは遊ぶお金が足りなかっただけなようで、これは複数の人物から証言が得られました。つまり阿部様は、居酒屋てんもんじとはアルバイトをする以前は何の関係もなかったという事になります。念のため周辺の居酒屋に聞き込みを致しましたが、阿部様がここでアルバイトをしていた事実以外の情報はございませんでした」

 俺は絶句した。

 た、高梨さん……いつの間に……。

「繰り返しとなりますが、私が調べた結果、阿部様は何かをする際、必ず誰かに相談されておられます。これも複数の人物から証言を得ております──それにはここのアルバイトを辞める事も含まれておりました」

「それがどうしたって言うの?」

 泉が挑むような視線で高梨さんに食ってかかった。

「阿部君の事と私の事、それに何の関係があるの?」

「これは可能性でしかございませんが……阿部様がアルバイトお辞めになる際、それを大原様がお聞きになった可能性がございます」

 可能性か。

 しかしそれは、本人に聞けばすぐに分かる事だ。

「そんなの言いがかりだわ!」

「仰る通りでございます。ですので『可能性』と申し上げました」

「それなら──」

「二つ目の問題がございます」

「二つ目?」

 泉は訝しげに高梨さんを見た。何を言っているのか分からない。そんな表情だった。

「はい。その一つはタイミング。そしてこれからお話させて頂く事は、その二つ目でございます」

「何よ、それは」

「ここの路地で起きた、十五年前の死亡事故の件でございます」

 ──何だって?

 俺は混乱の極みにいた。

 怪文書、それが投げ込まれたタイミング、そして十五年前の交通事故。

 それらに一体何の繋がりがあるのか。

 この俺の隣に座っている小柄な女の子──大原泉に、どれだけの秘密があると言うのか。

「祐一」

 沙樹が小さな声で俺に話しかけてきた。

「これから高梨が話す事は、誰かを貶める物ではない。事実を明らかにするだけだ──だから安心してくれ」

 沙樹の一言。安心してくれ。

 たった一言の短い言葉だが、俺はなぜか安心出来た。

 だが泉はどうだろうか。

 俺は泉を見た。

 泉は身じろぎせず、じっと高梨さんを見ていた。

 ──何が暴かれるんだろうか。

 この小柄な女性に隠されたモノは一体何だ。

 安心しろとは言われたが、泉の身を案じざるを得ない俺だった。

 

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