第八話 シークレット オブ ローズガーデン
俺は朝一番にローズガーデンに向かった。
昨晩の佐藤氏との会話。沙樹との会話。
──ヒントは身近なところに転がっていたんだ。
貼り紙から始まった様々な出来事、それに関わる人間の意思、感情、それらのもつれを紐解く。
──まずは、ローズガーデンからだ。
ただ二日酔い気味なのが気にかかる。頭の奥が鈍く痛い。
二人で一升瓶二本は、さすがに飲みすぎたようだ。
「お早うございます。江藤様」
ローズガーデンに着くと、いつものように高梨さんが出迎えてくれた。
「お早うございます」
俺は極力表面に感情が出ないよう、細心の注意を払いながら挨拶を返した。
──情報は一つでも信憑性を失うと価値を失う。
俺は高梨さんから受け取った情報に綻びを見つけている。
挨拶した瞬間からそれが明らかになるまでの間、高梨さんは俺の敵になる。
「沙樹は?」
「沙樹様は先程から書庫に篭っております」
高梨さんは困ったような顔をした。
お茶が出せないから?
それとも書庫にいると都合が悪い?
俺は素知らぬ顔を何とか保った。
「珍しいですね。沙樹が庭にいないなんて」
「左様でございますね」
高梨さんの受け答えは端的で包容的だ。多分人格がそうさせている。
「どう致しますか?」
高梨さんは、沙樹を庭に呼び出すか、と言っている。でもそれは俺のシナリオにない。
「いえ。書庫に行きましょう。たまには書庫で話をするのもいいと思います」
「左様でございますね」
高梨さんは穏やかに微笑んだ。
*
「おう、来たか」
沙樹は書庫の中央にある机に、ふんぞり返っていた。
──お前、もうちょっと慎み深くしろよな。
と思ったが、口には出さない。ここで機嫌を損ねたらせっかくの早起きが無駄になる。
「高梨」
「はい」
「お茶を──いや、今日はコーヒーでいい。祐一は?」
「ああ、俺もコーヒーがいいな」
「じゃあ、コーヒー三つだ」
──三つ?
「私もでございますか?」
高梨さんが驚いた顔をした。
俺も驚いた。今まで、俺と沙樹の分はお茶が用意される事はあっても、高梨さんが自分の分を用意した事はなかった。
でも効果的だとも思った。
これから話す事は高梨さんの情報がテーマになる。傍らで控えられていても話し難くなるだけだ。
「そうだ。たまにはお前もお茶会に参加しろ。いつも突っ立っているだけじゃつまらないだろう?」
「……畏まりました」
高梨さんは表情を戻し、書庫を出て行った。珍しくドアを閉める時の動作が乱雑に見えたのは俺だけだろうか?
俺は部屋の隅にあった椅子を、机の横にズズズと引きずって寄せ、そこに座った。
「……さて祐一。お前、どこから手を付けるんだ」
「先月の事故。あるんだろう?」
事故の件についての資料があるはずだ。ここはそういう場所だ。
「ああ」
沙樹は短く応じ、「それより、何か見つけたのか?」と聞き返してきた。
お見通しか。
「ああ、多分見つけた」
「そうか」
短い会話はそこまでだった。
高梨さんが、例によって音もなくコーヒーを三つトレイに乗せて現れたからだ。
──さて、始めるか。
俺はじっと高梨さんを見つめていた。
高梨さんは俺に視線を合わせなかった。
*
コーヒーが机に並び、高梨さんも椅子を寄せて座った。
数分間程、誰も口を開かなかった。ただコーヒーに砂糖を入れたり、ミルクを入れたり、かき混ぜたり。
──静かだな。
いつもなら沙樹が何か言い放ち、俺が答えて罵倒される。それが最高潮に達すると高梨さんが割って入る。そんな構図が出来上がっている。でも今は違う。誰も喋らない。
──さて、始めるか。
今日、最初に話を切り出す役目はこの俺だ。
「高梨さん」
「はい」
「先月の事故の資料、見せて頂きたいんですが」
「──少々お待ち下さい」
高梨さんは席を立ち、壁面書庫の一角から書類を取り出した。
淀みない動きだった。
「こちらです」
資料がそっと俺に差し出された。
資料の表紙には高梨さんの署名があった。
「これは高梨さんが作られたんですか?」
「はい。ただその後の居酒屋てんもんじ関連の動きは、江藤様に別にお作り頂く事になります」
「そうですよね。俺じゃないと書けませんからね」
俺は資料を手に取り、ぱらぱらと捲った。
──思った通りだ。
場所はあの狭く暗い路地。天候は雨。深夜二時を過ぎた辺り。
そこには誰もいなかった。
スクーターが転倒し、正面から来たトラックに衝突。トラックはそれを避けようと、左にハンドルを切り、デパートの壁に激突した。スクーターに乗っていた男性は、病院に運ばれ死亡が確認された。
第一発見者、通報者は、居酒屋てんもんじの店長、佐藤氏。
ここまでは先日沙樹から説明された通りだ。
そして現場の情報以外は昨日見た新聞記事とほぼ同じだった。
『他に負傷者はいなかった』
この文言が書かれていない事以外は。
「高梨さん」
「はい」
「後学のためお聞きしたいんですが……事故当時の事、良く調べましたね。情報ソースは新聞記者……いや警察関係者ですか?」
「まぁ……ここの特殊性は江藤様もご存知だと思いますが、この街には様々な協力者がいらっしゃいます。新聞記事も重要な情報源ですが、必要ならそのような方々から情報を頂く事もございます」
「それは俺にも出来るんでしょうか?」
「必要ならご紹介致します」
「でもそれだと困りませんか?」
「何がでしょうか?」
「俺がその『協力者』とやらに会う事が、ですよ」
「仰っている意味が……」
「俺は事故当時、そこにいたんです」
返って来たのは沈黙だった。だがきっとそれは肯定だ。
「偶然でした。あの道は俺の通勤経路だったんです。たまたま夜勤明けであの時間になった。そこで事故を目撃したんです」
俺は事故当時の情景を思い浮かべた。
出来れば忘れてしまいたい記憶。でも俺は忘れられない。記憶力が人よりいいという事もあるが、人の生死に関わったのだ。それは鮮烈な記憶として頭に焼き付けられていた。
「トラックの運転手が踏んだブレーキ。そのスキール音。スクーターが転倒した音。そしてトラックが壁に激突した音。あの時は雨が降っていたし、そもそもあの路地には照明が少ないから音の情報だけが先に入ってきました。その後は情けない話ですが、俺は何も出来ませんでした。あの時居酒屋てんもんじの店長より早く通報していたらと、今でも後悔してます」
俺はここで一呼吸し、間を空けた。
「すぐに救急車が来ました。パトカーも来ました。あの路地は狭いですからね。緊急車両で一杯になったんです。俺はそれでもそこから動けなった。俺は救急隊員から通報者はあなたですかと聞かれました。いえ違いますと答えました。そしたら怪我はないかと尋ねられました。まぁ怪我なんてしてませんからね。大丈夫ですと答えましたよ。その後警察からも同じ事を聞かれましたけどね」
高梨さんは沈黙を貫いていた。
沙樹も黙って聞いていた。
「あそこは接触事故多発地帯だ。目撃者がいないような事故が頻繁に起こる。だからなのかは分かりませんが、目撃情報について俺は何も聞かれなかった──あなたは事故発生時そこにいましたか、ってね」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「だから俺が『協力者』に会うと困る人がいる。それが誰か分かりますか?」
「……存じません」
「なら言いましょう。──その『協力者』と高梨さん、あなただ」
一瞬だが高梨さんの目が大きく見開かれた。
「どうしてそう思われるのですか?」
「ああ、いいかな?」
沙樹が挙手した。
「どうした?」
「そこから先は私が話そう」
「沙樹?」
なぜ沙樹がここで話に割り込む?
「目撃者についての情報は、私が集めている新聞記事から察しはついていた。だが高梨の報告書では目撃者は居酒屋てんもんじの店長だとされていた。店の中から通報したのに負傷者についての記述が新聞記事に載っている。初めは何だろうと思ったよ。だが高梨が祐一をここに連れて来た時、それは確信に変わったんだ」
何だと? 何を言い出すんだ?
「高梨。お前は、ローズガーデンを守ろうとしたんだな?」
「──はい」
高梨さんはゆっくりと頷いた。
「ローズガーデンに溜め込まれている情報は、常に完全性が求められる。事実と異なっていてはいけない。そうでなければここにある情報は一切の価値を失う。祐一はそれを崩す危険因子だった。目撃者はてんもんじの店長でなければならない。他の人間がそこにいてはならない。それなら取るべき手段は一つしかない」
沙樹は俺に向き直った。
俺をローズガーデンに迎え入れたのはそんな理由から?
俺はそんな理由でここにいるのか?
「──祐一、お前には酷な話かも知れないが、私がお前の採用を即決した理由の一つはこの事故の件だ。ローズガーデンの協力者はマスコミや警察、行政に関わる人物まで多岐に渡る。私たちはそんな連中から情報を得て記録し、そして提供する。そこに間違いがあってはならないんだ」
「じゃあ、ここにある情報は全部価値がないじゃないか!」
「そうじゃない。ここにあるのは過去に起こった出来事だ。もしその事故でお前が死んだとか怪我をしたとかなら記録されるべきだろうがな。だが事実として、目撃者がいてもいなくても事故は起こった。お前はこの間言ったよな? ここにある情報の意味を」
──後からそれらを振り返って見て、後悔や安心を得るため。
確かに俺はそう言った。
でもそれは本当の理由じゃない。
「ここの情報を利用する人物は限られている。ほぼ協力者と呼んでいる連中と同義だ。その協力者から得られた情報以外の情報があったら、その本人はどう思う?」
「……自分のミスを認める事になる」
「そうだ。だから高梨はあえて目撃者の情報を『取りこぼした』。それに目撃者本人でもなければ『他に負傷者はいなかった』という文言だけで、あの時あの場所にこの資料に書かれている登場人物以外の人間がいた事に気付く可能性は低い。事実と現実は違うんだ。この資料の本質は目撃者がいたかどうかじゃないんだ。事故があったかなかったかなんだ」
──資料の本質。
過ちを繰り返さないためにある。ここにある記録はそういう性格を持っている。だから価値がある。そういう事か。
「……やっとここの存在意義が分かった気がするよ」
俺は何とか言葉を絞り出した。
「それは何よりだ。それより続きがあるんだろう?」
そうだった。
一つ目は論破されてしまったが、まだ資料についての綻びがある。
「高梨さん」
「はい」
「コーヒーのお替わり、頂けますか?」
「はい」
高梨さんは、優雅な手つきで新しいコーヒーカップを俺の目の前に置いた。ミルクが入っていた。
本番前にいきなり出端を挫かれた思いだった。
*
「十五年前の事故。あの資料、もう一度見せてもらえませんか? ──ああ、それよりお聞きしたい事が」
「はい、何でございましょう?」
「高梨さんって、おいくつなんですか?」
「はい?」
あまりに突飛な質問だったようだ。でも仕切り直すからにはこれくらい意表を突いた方がいい。
「……申し訳ございません。もう一度仰って頂けますか?」
「年齢ですよ。高梨さんの」
「年齢でございますか?」
高梨さんは、ぱっと見三十台後半。でもきっと違う。そうでなければ、俺の仮説と合わない。
「お前は何を言い出すんだ?」
「いいから。ちょっと疑問に思ったんだよ」
「四十三でございますが、それが何か……」
やっぱり。これで計算が合う。
「四十過ぎてたんですね。お若く見えるのに」
「……お恥ずかしい話ですが、スタイルや見た目を維持するため、ジムに通っております」
意外な努力だった。
「何でまた。別にそこまでしなくても」
「はい……そうなのですが、私の愚妻が……」
奥さんが? 何だろう?
「四十を過ぎてお腹が出たりしたら離婚だ、とか言われたんだろう?」
「な! 沙樹様! なぜその事を」
高梨さんは大いに狼狽えた。
「お前、私が何も知らないとでも思っているのか?」
「いえいえ、滅相もない」
「まぁ私も直接聞いたわけじゃない。この間、お前の子供と会ってな」
「一体どこで……」
「秘密だ」
「左様で……」
高梨さんは頭を垂れた。恐れ入ったようだ。
「そこで聞いたんだ。お母さんがお父さんにこんな事言ってたってな」
「……お恥ずかしい限りでございます……」
高梨さんは恥じ入ったようにさらに深く頭を垂れた。
「祐一、すまん。話の腰を折ってしまった。続けてくれ」
「いや、続けてくれって言われてもな」
雰囲気がほのぼのとして来た。
こりゃまた仕切り直さないと。
「ええとですね」
俺は咳払いし、話を戻した。
「十五年前の事故の資料を見たいんです。『大門』さんが作った」
俺は沙樹を見た。
俺の予想では「大門って誰だ?」と、なるはずだった。
だが沙樹は平然としている。
──なぜだ?
「資料でございますね? 少々お待ち頂けますか?」
「え、ええ、どうぞ」
高梨さんは迷う事なく書棚に向かい、目的の資料を取り出した。
一度見つけているからすぐに見つけられる。
これは予想通りだ。だが沙樹の対応が予想外だ。『大門』という名前を聞いても何の反応もない。
資料が机の上に置かれた。それには『大門』と署名されていた。
「十五年前、先月の事故と同じような事故がありました。これはその資料ですよね?」
「はい」
「ええと、それからもう一つ、資料をお願いしたいのですが」
「はい」
「今年の初め、二月に大通りで起きた宝石店を狙った窃盗団の資料です。日付は二月十三日」
俺は昨日図書館で覚え込んだ記事を適当に指定した。
「ありますよね?」
「ございますが……それは……今回の件に必要な資料でしょうか?」
「ええ、多分」
俺は自信たっぷりに応じた。高梨さんの回答も予想通りだ。戸惑っている。
次に出る言葉も予想している。きっとすぐには用意出来ないと言うはずだ。少なくとも一日以上。俺は昨日この新聞記事を探すだけで二時間かかった。狙って探してもこれだけの時間がかかるのだ。ここにある資料は電子化されていない上、量も記録の範囲も比較にならない。
「……少々お時間を頂戴致しますが、宜しいですか?」
「どれくらいですか?」
「左様でございますね……明日であれば、ご用意出来ると思いますが……」
予想通りだ。
「おかしいじゃないですか」
「何が、でございますか?」
「十五年前の資料は半日かからず見つけ出せているのに、今俺が言った資料は探すのに一日かかる。なぜですか?」
高梨さんは困った顔をした。
「それは……この中から特定の事件の資料を探すのは……」
「そうですよね? 十五年前の資料は半日で。それ以外は日数がかかる。つまり」
俺はコーヒーを一口飲み、続けた。
「十五年前の資料を作ったのは大門某という方ではなく、高梨さん、あなただ」
高梨さんは困った顔をした。
「……沙樹様、宜しいですか?」
──あれ? 何で沙樹に確認する?
「ん? ああ、そういう事か」
沙樹がしたり顔でうんうんと頷いた。
「祐一、お前何か勘違いしているな? 十五年前の事故の資料、これはな、さっきの資料と同じだ」
「どういう意味だ?」
「事故の内容はほぼ一緒だった。まぁこれは偶然だろうが、同じように目撃者がいたんだ」
「目撃者?」
新聞記事にはそれに関しての記載はなかった。
「何で?」
「だから同じだと言っただろう? 目撃者なんだよ。正確にはその場に居合わせたんだがな」
「誰が?」
「高梨が、だ」
──ええー?
俺は高梨さんを見た。
「私は事故の発生当時、すぐ隣の通りにいました。そこで大きな音が聞こえたので急ぎ現場に行ったのです。そこで事故を」
高梨さんはそういうと顔を伏せた。
──十五年前の事故現場を見たと言うのか。
「これはローズガーデンの存在意義に関わっているんだ。事故当時にその場に居合わせたのがここの関係者だとしたら、色々面倒な事になる。あの時は大変だったんだ」
「面倒って?」
「あのな……ここにある記録は利用する人間が限られている。そこには警察関係者も含まれる。後から事後検証しようとして、そこにローズガーデンの人間が関わっているとしたらどう思う?」
俺ははたと気が付いた。
全てを記録するローズガーデン。その情報は完全でなければならない。そして本質を示さなければならない。
という事はだ。
「……情報の信憑性がなくなる」
「何だ、分かってるじゃないか」
俺は天を仰いだ。
いや、でも。
「それは情報の改ざんじゃないのか? 完全性はどこに行った?」
「さっき言っただろうが。事実と現実は異なるんだ。この資料の本質は何だ?」
「……事故の記録」
「それ以外に何かあるか?」
「……ない」
俺は憮然とした口調で答えた。
「お前の話はそれだけか?」
「じゃあ大門ってのは誰なんだ? 後からこの資料見た時、当事者を出せと言われたら困るだろう?」
「お前な……資料の署名と資料に書かれている情報の信憑性が関係すると思うのか? ここに溜め込まれている情報は事実を記録している。そこに資料がある。それは信憑性を保証する事と同義だ。お前は結果論で言うがな、利用者にとって記録や情報の信憑性と、署名が本人ではない事のどちらが重要だ?」
「……情報の信憑性」
「そういう事だ。それに大門某は、まったくの架空の人物ではない。なぁ高梨」
「はい……『大門』は、私の前の名前──つまり、私が大門なのでございます」
「は……?」
俺は言葉を失った。
目の前で俯き加減で恐れ入っている高梨さんが大門さん?
「あまり人のプライバシーに口を挟みたくはなかったのだがな。高梨は『高梨家』の婿養子だ。だから未だに奥さんに頭が上がらない」
「……沙樹様……!」
「あー、すまん。余計な事だったな」
沙樹はにたにた笑いながら俺に続きを促した。
もう何が何だか分からなかった。
「……そ、それなら、何であの時俺に、大門さんが作ったなんて言ったんですか?」
高梨さんは、この資料は『大門さん』が作り、そして『大門さん』は引退したと言っていた。
それを俺に隠す理由は何だ?
「フェイルセーフでございます」
「は?」
「ここにある記録は、利用者、協力者を含め、信頼関係とその信憑性を担保しております。ですのでここはローズガーデンとして存在出来ております」
「つまりな」
沙樹は俺に向き直った。笑っていたが俺には、それは笑顔には見えなかった。
「事故当時目撃者は存在し、それはローズガーデンの関係者だった。資料にはないがな。でも万が一、お前の口からここにある『記録』と異なる『事実』が漏れたら、ここはもう存在出来ない。価値がなくなる。無用になる。例えそれが十五年前の記録であってもな」
「……それは、俺が信用されていないって事か?」
「いや」
即答された。
「なぜ?」
「今、全てを明かしただろう?」
「ああ……いや、何だ、その」
「昨日の電話があった時、私はてっきり自分が目撃者だって事をなぜ隠していたか、その事を詰問されると思ったんだがな」
「詰問?」
「お前、電話口で私に謝っただろう?」
「あ、ああ……」
「だから責められると思ったんだ。だが蓋を開けてみれば何だ」
沙樹は大げさにため息をついた。
「全部のお前の早とちりじゃないか」
「う、いやその」
返す言葉が見当たらない。
つまりローズガーデンにある記録は事実そのものだ。だがそれは、信憑性が担保されていなければならない。そうしないと、ここにある記録を利用する人物が情報を有効に利用出来ない。
ここにある資料、そして記録の本質。
それは現実に起きた事象を保存するのではなく、起きた事象の本質を記録するのだ。
俺は資料の問題点を突いて、大門氏を引っ張り出そうとしたのだ。
だがそれには沙樹の両親の話が出て来る。俺が聞いていた限りでは、大門氏は沙樹の両親が存命したいた時の渉外担当者だ。そうなれば沙樹の両親の話になる。きっとそれは、いくら沙樹でも辛い話になる。だから先に謝っておいたのだ。
でも──。
結婚して姓が変わるなんて反則だ。予想出来る訳がない。
何かに騙された気分だった。
「まぁ、そうがっかりするな。私だって何もかも見通していたわけじゃない」
沙樹はそんな俺を見て、面白そうにそう言った。
「しかし、十五年前の事故の資料を引っ張り出されるとは思ってなかったな」
「ん? なぜだ?」
「例のキーワードと投書の件。何か気が付いたんだろう?」
「ま、まぁな」
事故の原因は当たりをつけたが、十五年前の資料と大門氏の関係は予想外だった。大門氏が目の前にいる高梨さんだったなんて。ほぼ反則技だ。
それに実のところ、投書の主はまだ誰なのか分かっていない。
それが顔に出たのか、沙樹は席を立ち、大きく伸びをした。
「じゃ、行くか」
「どこへ?」
「どこへって……居酒屋てんもんじだ。決まっているだろう」
沙樹は、何を当たり前の事を聞いているんだ、という顔をした。
「見つけたんだろう?」
俺が見つけたのは、ただ一つ。
事故の原因と思われる事。
「関係者を集めた方がいいな。私と高梨、そしてお前は当然として、居酒屋てんもんじの店長だな」
「てんもんじは今日は定休日だ」
「店長はいるんだろう?」
「ああ今頃掃除の真っ最中だろう。それと昼過ぎにお邪魔すると言ってある」
時計はもう十二時寸前だった。
あれ?
何か忘れている気がした。
「あ!」
「な、何だいきなり」
「いや、約束があってな」
「何の? 誰と?」
「いや……大原泉と昼食の約束が……」
「……お前は……」
沙樹は半眼で俺を睨み付けた。
「だって仕方ないだろう? 例のキーワードを聞き出すのに必要な条件だったんだよ」
「お前はホンットに弱いな。もっと別な手があるだろうに」
「……すまん」
俺はまた落ち込んだ。
「……まぁいい。どうせ大原泉の嘘も暴かなければならない。てんもんじに呼び出せ」
「なぜ? 今回の件と関係あるのか?」
「物事には順序というものがある。そうだろ──探偵殿?」
「……あ、ああ、まぁな」
俺は精いっぱいの虚勢を張った。
実の所沙樹が言う『大原泉の嘘』が、今回の件にどう関係するのかさっぱりだった。
「ところで、沙樹様」
「何だ、高梨」
「先程、新聞記事をお集めになられていると仰っておられましたが……それは?」
口調は穏やかだが、明らかに詰問している。
「う、いや、それはだな」
珍しく沙樹が口ごもった。
「ここにある記録は、全て中立で、完全性が求められます。沙樹様、その記録はもしや個人的な理由で収集されておられるのではないですか?」
「うー……」
「沙樹様……?」
これは沙樹の負けだな。
とはいえ、沙樹には理由がある。両親を亡くした沙樹にとって、交通事故の記録は人とは異なる意味を持っている。
「高梨さん、そこは察してあげましょう」
「江藤様?」
「沙樹には沙樹なりの理由があると思うんです」
「理由でございますか……?」
「ええ」
高梨さんは、ちょっと考え込むような仕草をし、ああ、と何かを思いついたように顔を上げた。
「もし違っていましたら申し訳ないのですが、もしや、沙樹様のご両親の事でございますか?」
──ん?
「そ、そこまで分かってて、なんで聞くんですか?」
「実は……誠に申し上げにくいのですが、沙樹様のご両親はご健在でございます」
「は?」
俺は一瞬だが頭の中が真っ白になった。
「ただ、ここにはおられません。ローズガーデンはここだけではないのです」
「はぁ?」
俺は疑問符を頭の上に並べた。
沙樹の両親は死んでいない? しかもローズガーデンはここだけじゃない?
「じゃ、じゃあ、あの時俺に言ったのは……」
十年前に交通事故で沙樹の両親が亡くなったと言っていたのは……。
「先程も申し上げましたが……フェイルセーフ、でございます」
「フェイルセーフって……」
「ああ! もう!」
沙樹が乱暴に平手で机を叩いた。
「分かった。全て話す。いいか祐一。これはもうお前を信用に足る人物だと分かっているからだぞ?」
「え? ああ……」
「ローズガーデンがあるのはこの街だけじゃないんだ。考えても見ろ。この国だけで一億を越える人間がいる。この街だけの出来事を記録してそれに意味があるか?」
ああ……。
俺はバカだ。
目の前の事しか頭になかった。
「ローズガーデンは秘密の花園だ。その存在と目的は一部の人間しか知らない。でもこの街だけで、これだけの量の記録がある。さすがに全国をカバー出来ないが政令指定都市クラスの都市には必ずローズガーデンがある。そしてその目的は──」
ああ、そういう事か。
ローズガーデンは単体では意味を成さない。連携し合っているかどうかは不明だが、例の目的を達成するにはここだけでは不十分だ。
俺は例のキーワードを口にした。
「過去の過ちを繰り返さないため、だろ?」
「何でそれを……高梨か」
沙樹は高梨さんを睨んだ。
高梨さんは黙って頭を垂れた。
「……それは本来私が言わないといけない言葉なのだが……まぁいい。そういう事だ。とにかくここに私の両親がいないのは、他の街で他のローズガーデンの管理をしているからだ。だが記録されている情報や所在地が公になると色々面倒なんだ。だから今まで黙っていた。これは謝る。すまん」
沙樹は俺に頭を下げた。
とにかくローズガーデンの秘密とやらは分かった。これが全てではない気がするが、今はこれ以上情報を増やしたくない。既に俺の頭はいっぱいいっぱいだ。
「分かったよ頭を上げてくれ。俺が落ち着かない」
「そうか」
「他に秘密にしてる事はあるのか?」
「ええとだな……多分ないな」
「多分?」
「江藤様」
高梨さんが割り込んで来た。
「それは追々、明らかになって行くと思われますのでどうかその辺で。それより」
高梨さんはさっくりと話を戻した。
「沙樹様の個人的な趣味で収集されている新聞記事、その理由をご説明頂きたいのですが?」
俺と高梨さんはじっと沙樹を見つめた。
「……面倒だったからだ」
沙樹は観念したのか吐き捨てるようにそう言った。
「私の今までの経験上、利用される情報は死亡事故に関わる記録がほとんどだ。日本は治安が他国よりいいからな。その記録を高梨が作るの待ってそれを書庫で探すのが面倒だったんだ。それだけだ。他意はない。先日の電話も交通事故の件の照会だった。一応私が集めている情報と書庫の資料とは突き合わせをした事故だったから、私の持っている情報だけで事足りた。一応即応性という利点はあるんだ」
沙樹はそう言って口を噤んだ。これ以上説明する気はない。目が雄弁にそう語っていた。
「それは……何とも……」
高梨さんも何と言っていいのか分からないようだった。
また一つローズガーデンの秘密が明かされた瞬間だった。
──皆、嘘つきだ。
嘘つきだがその嘘にはちゃんとした理由がある。だから人物としては信頼出来る。記録もその出来事の本質については信頼出来る。
その記録を活かすか殺すか。それは、ここにある記録を利用する人間によるって訳だ。
と。
俺の尻ポケットで携帯が震えた。
見ると、大原泉からのメールだった。
──しまった! 十二時過ぎてるじゃないか!
「沙樹、とりあえず居酒屋てんもんじ集合でいいな?」
「え? ああそうだな。そこに関係者を集めて……」
「大原泉もな」
「……そうだな。高梨、至急車の用意と昼食の準備だ」
「畏まりました」
「昼食の準備?」
「居酒屋だぞ? 女性向けの気の利いた料理が出てくると思うか? それにてんもんじは定休日だろう? それらしい料理を用意しておかないとお前のメンツがつぶれるだろう?」
「誰が料理するんだ? 沙樹か?」
「私が? まさか」
真面目な顔で断言された。
──自分で否定するか……。
「高梨だよ」
「は?」
これまた意外な答えだった。いや、高梨さんなら出来る。そんな気がした。
──俺は大丈夫だろうか?
最初の意気込みはどこへやら。俺は流れる水が如く居酒屋てんもんじへ向かう事になった。
すっかり自信も確証もなくした俺だった。