第七話 トラスト アンド ミステリー
俺はローズガーデンに戻り、沙樹に貼り紙の件と大原泉の件を報告した。
開口一番に発した言葉は『解決した』だった。結論から言ったつもりだった。
「何が解決したんだ? 結論はいいが、報告の順番が違っていないか?」
「順番?」
「聞いていると、お前がその大原泉と『楽しげ』に『デート』をしていたようにしか聞こえないのは、私の耳がおかしいのか?」
沙樹の機嫌はまだ悪そうだった。
俺はため息をついた。
「貼り紙は大原泉の発案。先月の事故の関係者じゃなかった。彼女は過去に交通事故で父親を亡くしていて、あのキーワードはその過去に捉われて出た極単純な発想だった──これじゃ足りないか?」
少なくとも俺は納得した。
だが沙樹は違うようだ。
「お前、ここがどこかまだ分かってないだろう?」
「は?」
「これだ……」
沙樹はこめかみを押さえた。
「何度も言うがな、ここはローズガーデンだ。過去に起きた事が記録されている場所だ──ここまで言えば、分かるか?」
「あー、ええとだな」
分からなかった。
「その大原泉とやらの父親が事故で死んだのなら、ここに記録があるはずだろう? 少なくとも私の記憶では大原という名前はどこにも出てこない。それが何を意味するか想像してみろ」
「……お前の記憶違い、とか?」
「私を『お前』と呼ぶな!」
「ああ、すまん。沙樹の記憶違い、とか?」
「『とか』とか言うな!」
面倒だった。
「ああ、分かったよ。言い直す。沙樹の記憶に大原の名前がないのは、なぜかって事だな? 調べればいいんだろう?」
「どこを調べるんだ?」
「書庫だよ」
「だから! そこには! 大原の名前はどこにも! 出て来ない! そう言っているだろう!」
沙樹は一言ずつ区切って俺を怒鳴りつけた。
ここがだだっ広い空間で良かった。いくら怒鳴られてもきっと隣家までその声が届く事はない。
「沙樹が忘れている可能性は?」
「ない! 私を誰だと思っているんだ、お前は!」
取りつく島もなかった。
「それなら、他の街か、他の県か、とにかくローズガーデンの管轄外で起きた事故だって事だろう? まさか個人の転入や転出までは記録されてないだろう、ここは?」
俺が言っているのは、大原泉が他県なり他の街から引っ越してきた可能性だ。役所に出す書類までここにあるとは思えなかった。
「……さすがに、そこまでの記録はないがな」
「そうだろう?」
「だがな」
何だ? 沙樹の目が、碧い瞳が薄く輝いた。
沙樹は澄ました顔で、ティーカップを口に付けた。
「高梨」
「はい」
傍らに控えていた高梨さんは恭しく頭を下げた。
「紅茶がぬるいな。淹れ直せ」
「はい──少々お待ち下さい」
高梨さんは頭を垂れ、音もなくその場を離れた。
沙樹は高梨さんが完全に建物の中に入るのを見届けてから、こう切り出した。
「……全国紙というのは侮れんのだ。特に刑事が関わった死亡事故ならな」
──何ですと?
それは盲点だった。
「沙樹……お前まさか、新聞の記事まで覚えているのか?」
「……私は全国で起きている交通事故で、中でも死亡事故は全部記憶している。新聞も切り抜きも保管している。ただ私個人の事情で収集しているのでローズガーデンの趣旨から外れる。だから高梨には内緒だ」
──ああ、だから高梨さんを。
人払いしたのか。
沙樹は十年前に起きた事故で両親を亡くしている。その事を俺は高梨さんから聞かされた。
そして高梨さんがここにいる理由、沙樹が交通事故に拘る理由。それは全てここに記録があるからだ。沙樹の両親の死が記録されているからだ。
そしてそれらは、将来起こり得る事故を未然に防ぐためにある。
沙樹はその膨大な情報を溜め込むローズガーデンの管理人なのだ。
「ただ……これはさすがに、十五年くらい前からしか揃っていない」
「なんで十五年前までなんだ?」
それでも十五年間だ。記憶力に関して、沙樹が言う事を鵜呑みにするなら、それはとんでもない事だ。
「入手可能だった新聞がそこまでしかなかったからだ。特に過去の記事は中々手に入らない。図書館に行けばそれ以前のものも手には入るだろうが……何分忙しくてな」
沙樹はちらりと建物を見た。
高梨さんの姿はまだない。
つまり忙しい理由は、高梨さんの目を盗んで図書館に行くのが難しいという事だろう。
「それに集めている情報は死亡事故に関わるものだけ──つまりこの情報はローズガーデンが求めている情報の完全性を達成出来ていないんだ」
「そこまで完璧を求めなくてもいいんじゃないのか?」
それは何気ない問いかけだった。
「──お前はここにある情報の重要性を分かっていない」
沙樹の声色が変わった。冷たく、固い。まるで氷のようだ。
見ると沙樹の碧い目が俺を睨んでいた。
俺の背筋に冷たいものが流れた。
「ここにある情報は、人が生まれて死んで行く中で起こる様々な出来事そのものだ。人によっては貴重な思い出であり、取るに足らない情報だったりする。お前の言う通り完璧に出来事や事象を記録するのは難しい。だが可能な限りそれを追求する。なぜか分かるか?」
将来起こるかも知れない過ちを繰り返さないため。
俺はその言葉を飲み込んだ。今ここで俺が言っていい言葉ではない。この言葉は俺が沙樹から聞かされなければならない。
だからまったく見当違いの答えを口にした。
「後からそれらを振り返って見て、後悔や安心を得るためか?」
「その通りだ」
「え?」
「ここにある情報は蓄積されて行くだけだ。何も生み出さない。死んでいるも同然だ」
「いや、でも……」
「何だ? 他に何かあるのか?」
「いや……」
過ちを繰り返さないため。
この言葉を沙樹が俺に話してくれるのは今ではない。そういう事らしい。
「ないな」
「誰だって後悔した事や安心したい事はある。ここはそういう人間の拠り所だ。だから情報は出来得る限り完全でなくてはいけない」
過ちを繰り返さないため、か。
「そうか……」
「分かればいい。それより高梨が戻る前に話をするぞ」
「お? ああ」
「とにかく大原という名の刑事が絡んだ死亡事故の記録は、完全ではないにしろ情報がない。大原泉が嘘を言っている可能性がある」
「それは──」
沙樹は手を突き出した。
「まぁ待て。それはないと言いたいのだろうが、情報が完全じゃないからな。まだ調べる余地はある。でも賭けてもいい。大原泉はその事故については嘘をついている」
「なぜ断言出来る?」
「感情論から来る事故への憎悪か、嫌悪か。自分の父親が関わったのなら不自然ではないかも知れない。だが一点だけおかしな点がある」
「あん? それは何だ?」
「お前、記憶力に自信はあるか?」
沙樹が突然妙な事を聞いて来た。
何だ? 胸がざわざわする。
「あ、ああ。少なくとも今日見聞きしたものは完璧だ」
「それならその娘、大原泉は、父親が死んだと『はっきりと』言っていたか?」
「そんな事──」
俺は泉の言葉を思い出し、口を開きかけ固まった。
──言っていない。
泉は『交通事故で』と言っただけだ。俺はそれを前後の会話から勝手に補完して、泉の父親が死んだと思い込んでいた。いや思い込まされたのか?
「情報は一つでも信憑性を失うと価値を失う。特にこれは大原泉の行動に関わる情報だ。それが崩れれば全て疑わなければならない──調べ直した方がいい」
「つまり泉が演技をしていた?」
「……呼び捨てか? 随分仲良くなったものだな? 仕事だと言うのに?」
しまった。
つい口が滑った。
「いいご身分だな? ええ? こっちは、情報の整理で大変だというのに。高梨だって大変なんだぞ?」
それは大変だろうなぁ。
このお嬢様相手じゃ。
「何だ? 何か文句でもあるのか? それともまだ私の言葉が足りないのか? 言っておくがな、お前に言いたい事は言葉通り山ほどあるんだ。それこそ一日では足りないくらいある。お前は今ここで私にそれを言わせたいのか?」
まずい。説教モードが発動した。俺は逃げ出す準備を始めた。このタイミングなら、きっと──。
「沙樹様」
──来た。高梨さんだ。
「お茶をお持ち致しました」
「え? ああ、ご苦労」
「いえ」
高梨さんのこの絶妙な間の取り方。これは是非学ばなければ。そうしないとここではきっと身が持たない。
「じゃ、じゃあ俺はこれで。例の件は追って報告する。じゃな」
俺は何かを言いかけた沙樹を無視して、ローズガーデンを逃げるように飛び出した。
*
──さて、どうするか。
仮に泉が嘘をついていたとして、それは何のためだ?
彼女に何のメリットがある?
この辺は沙樹と話をしたかったのだが、あの状態では無理だろう。
──ちょっとは俺も頭を使うか。
俺は図書館へ向かった。まだ閉館していないはずだ。
とりあえず十五年前の一年分。ここから手を付けよう。
十五年前の事故。沙樹が収集している範囲で、最も古い情報も十五年前だ。
それ以前の情報を入手出来れば、明日沙樹との議論が可能になる。
どうせ有効な手がかりはない。やみくもに動いても時間の無駄だ。調べる量は膨大だが、要は俺が納得出来ればいいのだ。
と思って始めた作業だったが、マイクロフィルム化された新聞を読むのは苦痛でしかなかった。紙面ならすぐに頭に入ってくるのだが、PCのモニタに表示された新聞記事は、中々記憶に定着しない。電子化されていると言えば聞こえはいいが、ただのスキャン画像だ。そこから文字を抽出したり検索出来たりする訳ではない。
──これは無理だな。
記事を探し始めて二時間。二~三ヶ月分の記事を眺めた時点で俺はあきらめた。これは時間の無駄だ。
なので十五年前にあの路地で起きた事故の記事を探す事にした。
それ自体特に意味はなかった。
なかったのだが……。
──あん?
十五年前に居酒屋てんもんじのある通りで起きた死亡事故の記事。
これはローズガーデンにも情報がある。当時の渉外担当だった大門氏が報告書として残している。
当時の事故で亡くなったのは一人。スクーターを運転していた男性だ。
そこまでは合っていた。
問題は乗用車側に乗っていた城島一家だ。
同乗していたのは、父、母、娘の三人。大きな怪我はなかったと記事にはある。
俺は娘の名前に釘付けになった。
城島泉。当時五歳。
──まさかな。
城島家(父)は警察ではなく貿易会社の社員と記してある。
仮に大原泉がこの記事に書かれている当時五歳の女の子だったとすると、城島から大原への苗字の変更は何が考えられるだろうか。
父親が何らかの理由で亡くなった。
両親が何らかの理由で離婚した。
どちらにしても、家族構成の変更が伴う。
──といってもなぁ。
聞くに聞けない。
あなたのお父様は他界されていますか? 何て聞けるはずもない。
泉が言っていた『交通事故で……』の一言で、俺は泉の父親が死んだと勝手に思い込んでいるだけだ。違うと返されればそれでお終いだ。泉がそこで俺に嘘をついてもそれを確かめる術はない。
離婚しているかどうかならまだましかも知れないが、それで両親の離婚前の苗字が城島ではなかった場合を考えると、それも聞けそうにない。
そもそも俺と泉はそこまで突っ込んだ事を聞くような間柄ではない。向こう一週間のランチを奢る約束をした程度の関係だ。だから泉がいくら俺に嘘をついても、俺がそれに気付かなければそれは俺たちの間では真実だ。
『情報は一つでも信憑性を失うと価値を失う』
沙樹はそう言うが、そもそもの信頼関係がない場合、その情報の信憑性すら判断出来ないのだ。
俺は頭を切り替えて、今度は先月の事故の記事を探す事にした。
こちらも深い意味はない。ただ俺の周りで起きた事故なり事件を見てみたかっただけだ。
──ああん?
先月の事故。場所は居酒屋てんもんじがある通り。十五年前と同じだ。
スクーターに乗っていた男性は死亡。壁に激突したトラックの運転手は軽傷を負った、とある。
そして『他に負傷者はいなかった』と記載されていた。
「他に負傷者はいなかった」
俺は小声で口に出して読んでみた。
他に負傷者はいない。
考え過ぎかも知れない。
しかし十五年前の記事には登場していない言葉だ。
これは先月の事故当時、事故の被害者と加害者以外に誰かがいた、とも読み取れる。
実際俺がいたのでその記述は正しい。
事故当時の情報としてこの記事は正しい。
だが。
──沙樹は『目撃者はいなかった』と言っていた。
だが新聞記事には、誰かが事故現場にいた事を示唆する記述がある。
これを沙樹や高梨氏が見落とすはずがない。
──どこまでが嘘だ? どれが本当だ?
俺は今まで得た情報の全てが信じられなくなった。
*
俺は居酒屋てんもんじに向かった。
──とにかく一杯やろう。
今まで得た情報の信憑性が揺らいでいる。
俺の頭の中で嘘をついていないは、居酒屋てんもんじの店長、佐藤氏くらいだ。
とにかく安心したかった。
俺は例の裏路地に着いた。たった三日間しか経っていないのに、もう数ヶ月が過ぎたかのように感じていた。
こんなに狭かったか?
こんなに暗かったか?
先月の事故でトラックが突っ込んだデパートの外壁はブルーシートで覆われている。まだ補修途中なようだ。
俺は当時の事を思い出していた。
トラックの運転手が踏んだブレーキ音。スクーターの転倒音。それらが衝突した音。
そして救急車のサイレン。
道に散らばる破片。
全てが克明に思い出せる。
確かに俺はここにいた。でも何も出来なかった。
そしてここから全てが始まった。
三日前に高梨さんに会いローズガーデンと契約を結んだ。居酒屋てんもんじの店主の『困っている事』を解決するためだ。
そしてドアへの貼り紙の件。
これはアルバイトの学生がやった事だった。
『ここは人殺しの店です』
この貼り紙は同じ大学に通う大原泉が発案した。先月の事故で思い付いたのだと言う。
もうこの貼り紙が貼られる事はないが、今度は投書が投げ込まれた。
『人殺し』
新聞か雑誌の文字を切り抜いて作られた怪文書。
これが店のポストに入っていたのは、アルバイトをしていた学生が辞めた翌日だ。まだ誰が何の目的でやったのか分かっていない。
俺の当面の仕事はこの怪文書の主を突き止める事だ。
現時点で手がかりらしい物は何もない。
ただ、アルバイトの学生が辞めた翌日という事を考えると、犯人は、今俺が関わっている誰かに、何らかの関係を持っていると考えられる。
でもそれが誰なのか分からない。
怪しいか怪しくないかで言えば、大原泉が怪しい。だが彼女は居酒屋てんもんじとの接点がない。
彼女は過去に起きた交通事故で、何らかのトラウマを負った。それを理由に事故原因を探しているだけだ。第一彼女が怪文書の主だったとして、何のメリットがある?
そして先月に起きた事故と十五年前の事故。
事故の内容は酷似している。
被害者と加害者がそれぞれ別なのは当然だが、通報者にてんもんじの店長が関わっている。どちらも第一発見者と通報者が同じだ。てんもんじの店長、佐藤氏だ。
その時だ。
「江藤さん、後ろ!」
俺は自分が呼ばれている事に気付くのが一瞬遅れた。
耳には甲高い五十ccのエンジン音が響く。そして前からは乗用車。
咄嗟に左側に寄ろうとしたが、そこには路駐した車があった。
──挟まれる!
俺は慌てて路駐した車の前に回り込んだ。
スクーターと乗用車の両方からクラクションが鳴らされる。
スクーターはスピードを落とす事なく俺を避けるように道路中央に寄ったが、今度は対向車が来ている。
スクーターは路駐している車と対向車の隙間を縫うようにすり抜けた。
ガン、バゴンと派手な音がした。
──何だ? ぶつかった?
何の音かと思ったが、特にスクータや車の破片が飛散した形跡はない。
辺りを見ると、何事もなかったかのようにいつもの雰囲気に包まれている。どうやら気にしているのは俺だけらしい。
──確かに何かぶつかったと思うんだけどなぁ。
「江藤さん大丈夫ですか? 危なかったですね」
声をかけて来たのは居酒屋てんもんじの店長、佐藤氏だった。
*
俺は居酒屋てんもんじのカウンターでビールを飲んでいた。店の中には相変わらず客はいなかった。
「風評被害ってんですかね。貼り紙はなくなりましたけど、客はさっぱりですよ」
「あれから投書は?」
「ないですね」
投書の主は何を考えているんだろうか?
佐藤氏は日本酒をコップに注いでいた。
「それ」
「はい?」
「日本酒、俺にも下さい」
「ああ、はいはい」
カウンターに、どん、と一升瓶が置かれた。
「何かありましたね?」
さすがは居酒屋の店長だった。
「そんな時は飲む。そして忘れる。それが一番です」
なんてシンプルな発想。
そう。
どんな難解な問題だって突き詰めればシンプルなんだ。いくら複雑な経過を辿っても答えは一つしかない。
人間だってそうだ。生きているか死んでいるかしかない。
俺は佐藤氏と日本酒を酌み交わしながら、そんな事を考えていた。
*
結局俺と佐藤氏は、一升瓶を二本空けた。
さすがに飲みすぎたかも知れない。足がちょっと頼りなかった。
外に出るとねっとりとした空気が絡みついた。
もうすぐ梅雨の季節だ。鬱陶しい事この上ない。
「大丈夫ですか?」
そういって一緒に店を出てきた佐藤氏は完全に酔っていた。発音と足取りが怪しかった。
「俺は大丈夫ですよ、多分。佐藤さんこそ大丈夫ですか? 結構飲んでましたよ?」
「ああ、大丈夫ですよ。明日は店は休みです。定休日ですよ」
「そうでしたか」
まぁ、それなら大丈夫だろう。
「でも、掃除しに来るんですよね?」
「習慣ですからね」
佐藤氏は、にっと笑った。
「それよりさっきは危なかったですね」
「道が狭いですからね。俺もビビりましたよ」
「まぁ、ここに店を構えている連中は皆慣れっこですよ。さっきみたいにミラーがぶつかったりとかね」
今時の車はドアミラーだ。俺は車に乗らないが、スクーターやバイク乗りには、きっと邪魔になるだろう──ちょうどハンドルと同じくらいの高さだからだ。
「ミラーか……」
「畳み忘れるとほぼ必ず曲がってますね──ほら」
見ると、店に入る前に路駐していた車がまだ停まっていた。
電動可倒式のミラーは反対側に押し倒されていた。
とはいえ、衝突時に倒れる仕組みになっているので手で簡単に戻せる。
俺は路地に目を移した。
道は直線。幅は二台の車がギリギリ通れる程度。信号もないので対向車さえ気にしなければ、スクーターなら結構スピードを出すだろう。
ただ路駐している車が多い。それらを縫って通り抜けるだけでも、あちこちのミラーにぶつかりそうだ。
そんな事を考えている間に数台のスクーターが通り過ぎた。
「結構通りますね」
「スクーターですか? まぁ道幅が狭いし、路駐は多いし、通り難いとは思うんですがね……。一本隣の大通りだと右折が二段階だから、こっちから抜けた方が早いんですよ」
「ああ、なるほど」
この通りの先はT字路になっている。右折したいなら、そこを曲がれば二段階右折なんて余計な事をしなくて済む。
「まぁちょっと擦ったとか、ミラーが曲がったとかでいちいち通報したら、警官だらけで商売になりませんよ。ここはそんな所なんですよ」
どこか達観したような口調だった。
──ん?
何か引っかかる。
ここは、薄暗く狭い路地。ただ二段階右折を避けるため、スクーターはこの路地を選ぶ。車の往来もそれなりに多い。路駐も多い。
そしてミラーなどを掠めたりぶつかったりする。
──これは可能性か?
まだ形になっていない。
説明は出来るが、まだ確信は持てない。まだ『鍵』が足りない。
「佐藤さん」
「はい?」
「ここで先月みたいな死亡事故……いや死亡事故じゃなくてもいいです。結構大きな事故って頻繁にあったりしますか?」
自分でも突飛な可能性だと思う。だがその可能性はゼロではない。
「そうですねぇ、私が店を構えてからは……十五年前のと先月の事故くらいですかね」
佐藤氏は、それがどうしたという顔で俺を見た。
俺の中で、十五年前の事故と先月の事故の共通項が一つ増えた。
「そうですか……。それともう一つ」
「何でしょう?」
「明日は定休日でしたよね?」
「? あ、はい。そうですけど……」
「もしかしたら、ですけど、昼過ぎにお邪魔するかも知れません」
「え、ああ、昼過ぎなら大丈夫ですよ。何かあるんですか?」
「いや、まだです」
「はぁ……?」
佐藤氏は首を傾げたがそれ以上の追求はなかった。酔っ払いの戯言だとでも思ったのかも知れない。
俺は佐藤氏と別れ、安アパートに向かった。
いくつもの可能性を整理しないといけない。
この複雑に絡み合っている一連の出来事。
俺は酔った頭で考え出した事とはいえ、何かが繋がったような、そんな気がしていた。
俺はこれから、その繋がりを一つずつ確認していかなければならない。
俺は携帯電話からローズガーデン──一条家に電話をかけた。
『情報は一つでも信憑性を失うと価値を失う』
沙樹の言葉だ。
今俺が持っている情報は全て信憑性がない。価値がない。
それなら逆に、その信頼出来ない情報が正しかったとしたら?
それに関わる情報は信頼出来るという事にならないか?
今の俺に必要なのは足場だ。
ぐらぐらと揺らいでいるが、それを一度水平に戻す必要がある。
──誰が出る?
高梨さんか。
沙樹か。
『一条だ。何の用だ』
ぶっきらぼうで不機嫌そうな言葉が、スピーカから飛び出して来た。
「……沙樹、お前その電話の出方はないだろう……」
『お前に言われる筋合いはない』
電話口のお嬢様は不機嫌なようだ。
『それで、こんな時間に何の用だ?』
だがこっちには『酔っ払った勢い』という味方がついている。
「一つ確認がある」
『お前、酔っているな?』
「ああ、酔っている。だが頭は大丈夫だ」
『そうか。で、何だ。確認ってのは』
俺は一呼吸間を置いた。これは確認だ。言葉を慎重に選ばなくてはいけない。
「先月の事故の事だ」
『あん? 事故?』
「お前は『目撃者はいない』。そう言ったよな?」
『……言ったが』
「それは事実か?」
電話の向こうで沈黙と共にため息の音が聞こえた。
──やっぱりそうか。
これで確認すべき点の一つが消えた。
『……なぜそう思った?』
「お前は俺に仕事をよこした時『お前にはうってつけの仕事だ』と言った。覚えているか?」
また沈黙が返って来た。
俺は黙って沙樹の答えを待った。
この答えで決まる。
沙樹が味方なのか、敵なのか。
嘘なのか。本当なのか。
『……覚えている』
「それなら、俺が今話している事の意味、分かるな?」
『ああ』
「信用していいんだな?」
これから起こる事についての、俺の立場と沙樹の立場。
情報の価値と信頼性。
全てを繋げるその助けになるかどうか。
それには沙樹の決意が必要だった。
「どうなんだ?」
『……分かった。明日話す。これでいいか?』
「ああ、それでいい」
『高梨もいた方がいいな?』
「もちろんだ。それと、先に謝っておく──すまん」
『いや。気にするな。過ぎた事だ』
「分かった。ありがとう」
『ふん──お前に礼を言われる筋合いはない』
言葉は乱暴だが、口調は穏やかだった。
照れているのかも知れない。
「じゃ、明日な」
『ああ、明日』
俺は通話終了のボタンを押し、携帯を尻のポケットにしまった。
明日。俺がローズガーデンに関わってから四日目。
一連の出来事が繋がる。
いや、繋げて見せる。
沙樹がきっと味方になる。
それならきっと大丈夫。上手く行くはずだ。
俺は狭くて暗い路地を振り返った。
そこには、まだミラーが倒れたままの車が停まっていた。