第六話 ライ アンド トゥルース
ローズガーデンに記録されていた十五年前の事故。
そこに書かれていたのは先月の事故とほぼ同じ内容だった。
事故の発生場所は、例の裏路地だ。時刻もほぼ同じ。
違う点は、季節が冬だった事くらいだ。
スクーターのスピードの出し過ぎによる運転ミス、それと乗用車の前方不注意、安全配慮義務違反。それが当時の警察の見解だった。
運転ミスで転倒したスクーターは、正面から来た乗用車に衝突した。乗用車に乗っていたのは城島という家族だった。乗っていたのは父、母、娘の三人だ。城島家側には怪我人は出なかったが、スクーターに乗っていた男性は死亡した。
乗用車側は事故を回避しようとした形跡があった。ただ当時路面は凍結しており、衝突速度を緩めるまでには至らなかったようだ。乗用車は転倒したスクーターに乗っていた男性を巻き込み、デパートの壁に激突した。
第一発見者、通報者は、居酒屋てんもんじの店長、佐藤氏だ。
資料によれば、外で大きな音がして事故に気が付いたのだと書かれていた。
ここまでは俺が佐藤氏から聞いた内容と同じだ。
──似ているな。
事故の状況が先月の事故とあまりに似ている。
十五年のスパンがあるとはいえ、こんなに似た事故が同じ場所で起こるものなのか。
俺は疑問を持ったが、過去の記録は事実そのものだ。疑った所でそれが変化する訳ではない。
ただ資料には続きがあった。
この資料を作った大門氏は、城島夫妻から依頼を受けていた。
内容は事故の本当の原因。
なぜスクーターが転倒したのか。
スクーターが転倒しなければ事故は起こらなかった。
それが死亡事故ともなれば、そこには加害者と被害者が発生する。
過失がどうであれ、加害者は被害者の死を背負う事になる。遺族への保障もある。
──困っていたんだろうな。
想像は出来る。同情も出来る。
だが起きてしまった事を戻す事は出来ない。
大門氏は受けた依頼を遂行するため、様々なアプローチを試みていた。
事故現場に何度も足を運んでいた。
同じ時刻に同じ状況を用意し、検証を繰り返していた。
それでもスクーターが転倒した決定的な原因は見つからなかった。
ただ。
スクーターに乗っていた男性は、事故直後まだ息があった。
助かる可能性があったのだ。
しかし発見者であり通報者でもある居酒屋てんもんじの佐藤氏は、すぐに救急車を呼ばなかった。一一九番ではなく、先に一一〇番に通報した、と資料に書かれていた。
これは俺が本人からその理由を聞いている。気が動転し、通報先を間違えたのだ。他意はなかったのだ。
資料には、その僅かな時間の差で被害者の救助活動が遅れた可能性がある、と記されていた。
俺は天を仰いだ。
可能性。
確かにその可能性はあったかも知れない。
時間にすれば数分か。
しかしそれは佐藤氏に負わせる類いのものではない。
佐藤氏はあくまで善意の通報者なのだ。決して『人殺し』ではない。
──人殺し、か。
佐藤氏もこの事は気にしているようだった。先月の事故と十五年前の事故が被ったのだろう。
と──。
ポケットから電子音が鳴った。
メールが入ったようだ。
見ると差出人は大原泉だった。
「どれ。デートに行きますか」
俺はローズガーデンの書庫にあるワーキングチェアから、重い重い腰を上げた。
*
俺はアーケード街にある時計台の前にいた。
若い連中が見つけやすいという理由で待ち合わせに利用する場所だ。
俺の周りは若い男女でいっぱいだった。
──全然見つけられん……。
待ち合わせ場所をどこにするかと聞かれ、適当な場所を思い付かなかったのが敗因だった。
『それなら──』と返って来たメールにはこの場所が指定されていた。
直観で行動するとこういう目に遭う。
俺の短いながらの人生経験でも分かっていた事だ。俺ならもうちょっと探しやすい人目に付かない場所を選ぶ。
「あ──見つけましたよー」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると大原泉がいた。
「や、やぁ。忙しい所申し訳ない」
「いえいえ。こちらこそお待たせしてしまったようで」
俺たちはお互いペコリペコリと頭を下げ合った。
どこかおかしいと思った。
「で、お話って何でしょう?」
いきなり直球が来た。
俺はなぜか狼狽えて、辺りを見回した。
どこを見ても若いカップルしかいなかった。
「と」
「と?」
大原泉は小首を傾げた。
──とりあえず仕切り直しだ。
「とりあえずそこら辺の喫茶店にでも」
「ああ──それなら」
大原泉はととっと、歩き出した。
その歩く先には、最近進出して来て話題になっているコーヒショップがあった。禁煙だった。
「あ──まぁ、いいか……」
「? どうしました?」
「いえ……何でもないです……」
どうせ喫煙者には肩身の狭い世の中だ。これくらいは甘受しよう。俺はこれから数時間の禁煙を覚悟した。
*
「で、お話って何でしょう?」
席に座り、注文の品──アイスコーヒーとブレンドコーヒー──が、テーブルに並んだ。
周りでは若い男女が各々楽しげに会話し、やけに胸元を強調したユニホームのホールスタッフが、忙しなくオーダーを取ったりトレイを持って右往左往している。
──落ち着かん!
この店の中で、俺より年上の人間はきっと店長くらいに違いない。
俺が不慣れなんじゃない。目の前の大原泉が二十歳くらいだとすると、年の差が約八年。ジェネレーションギャップとはこういうものだ。俺は自分にそう言い聞かせた。
「話は簡単です」
「江藤さんはきっと私より年上ですよね?」
話題が噛み合っていない。俺は思わずテーブルに突っ伏しそうになった。
「俺の話、聞いてます?」
「私の見立てだと、そうですねぇ……、二十七、八歳くらいですか?」
指を一本目の前に立てた大原泉の表情にふざけた感じはない。何より目が真剣だった。
──昨日の夜から思っていたが……。
この娘は天然だ。
俺が出来る限り避けてきた部類の人種だ。
俺がここ三日間で会った女性は、片や日本語が乱雑で感情屋の深窓の令嬢、そしてもう一方は奇麗な髪を後ろに縛り清楚なイメージそのままの天然娘。俺は自分に女難の卦でもあるんじゃないかと本気で思った。
「……二十八です」
「やっぱり!」
喜色満面。
大原泉は大喜びだ。
「あのですね」
「ちょっと待った」
俺の言葉は大原泉の掌で遮られた。
「江藤さんは私より年上です」
「え? まぁそうですね?」
「それなら会話に敬語を使うのは不自然──そう思いませんか?」
大原泉は真っすぐ俺を見た。
どうやら冗談ではないようだ。
「──分かった。じゃ敬語は抜きだ。正直俺も敬語なんてガラじゃない。気疲れするだけだ」
「そうそうその感じ」
何が面白いのだろう?
「何か探偵って感じじゃないスか?」
ああそういう事かい……。
「ええと、大原さん」
「泉、でいいです」
どうにもやり難い。
「じゃ、泉さん」
「はい」
「まず、誤解を解こうと思う。俺は探偵じゃない。ある人から調べ事を頼まれて色々動いているだけだ」
「うんうん。それで?」
反応が読めない……これは難敵かも知れない。
「それで……その阿部君、だったかな? 居酒屋でバイトしてた」
阿部某とは居酒屋てんもんじでアルバイトをしていた学生だ。つまり貼り紙、HP改ざんはこの男の手によるものだ。
「ああ、阿部君ね」
「その阿部君から先月くらいに何か相談されなかったか? 例えばバイト先の事とか」
阿部某からは他言無用と言われていたが、俺はちゃんと部外者には話さないと断わった。
誰から見た部外者なのかはその人の主観だ。俺から見た部外者には泉は含まれない。要はバレなければいいのだ。
「それ口止めされませんでした?」
「……」
俺は笑顔を貼り付けたまま、沈黙を貫いた。
読まれている。やっぱり難敵だ。
「まぁいいです。私が今日聞いた事は全て忘れます。その替わり……」
「その替わり?」
俺はごくりと生つばを飲み込んだ。
今日び、口止め料として二十歳の女性は何を要求してくるのだろうか?
「向こう一週間。ランチ奢って下さいね」
──安い。
この案件は人の生死が関わっていて、色々調べたり聞き込んだり徹夜で張り込んだりしたが、その根本に近い人物の口から出た言葉が『昼飯を奢れ』とは……。
俺は何となくだが今の世を憂いた。
「……分かった。その条件でいい……」
「やったぁ!」
泉はもう席から飛び上がらんばかりの勢いで喜んだ。俺は世代の差を改めて痛感した。
「あのー、泉さん?」
「はい?」
「話の続き、いいかな?」
「はい!」
晩飯まで奢るなんて言えば、どんなことでも答えてくれそうだった。
俺はわざとらしく咳払いした。
ここは一旦仕切り直しだ。
「ええと、まず聞きたい事は、阿部君の相談に何て答えたか。それを知りたい」
「んー、あれは阿部君がバイトを辞めたがってて。辞めるにしても店長に一泡吹かせたいと言い出して」
どんだけ嫌われてるんだ、佐藤さん。
「それなら、という事で私が」
「あの『ここは人殺しの店です』という貼り紙を思い付いた?」
「そうです」
「なぜ『人殺し』なんだ? 他の言葉でも良かっただろう?」
「ええと? 例えば?」
「料理がまずい、とか」
「ああ!」
泉はポンと手を打った。
「そう言われればそうですね。そっかぁ。『料理がまずい』かぁ」
なぜそこで感心する?
俺には泉がどこまで本気なのか分からなくなった。
「先月の事故があった場所だから丁度いいかなと思って」
「丁度いい?」
「だって人が死んでるんですよ?」
「ああ……そうだな」
「タイミングも意味も、ぴったり符号する。それ以上の答えはない。あの時はそう思ったんです」
この娘に悪意は感じられない。本当に事故から着想しただけにしか見えない。
沙樹はあまりに突飛なキーワードだと言うが、真相は案外単純なのかも知れない。目の前の発案者を見る限りそうとしか思えない。
だが。
「例えそうだとしても、ちょっとやりすぎだったんじゃないか?」
「どうしてですか?」
俺はおや? と思った。ここで泉が反論して来るとは思っていなかったからだ。
「あの路地は狭くて暗くて、ちょっとした事故が日常的に起きてます。それなら人が死んでしまう事故が起きたって、不自然さはないと思います」
「いや、自然とか不自然とか、そんな問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題ですか?」
「それは……」
人の生死に関わる言葉を使う。これにはきっと何か意図がある。沙樹も同じ考えなはずだ。だが目の前の女の子はそうした意図はなく、その言葉を日常的な、ごく当たり前の事として捉えている。
ズレている。
そうとしか思えない感覚があった。
「いいか? 事故で亡くなった方は、お前に悪戯の口実を与えるために亡くなった訳じゃない。違うか?」
「それは倫理観ですか? 江藤さんの言葉を借りればただの悪戯ですよ? そこまで大げさな事じゃないと思います」
「いや、そういう事じゃなくてだな」
「じゃ、どういう事なんです? 江藤さんの話し方は曖昧です。何かを隠して話しています。それでは私は答えられません」
天然かと思えば急に態度を変え、正論めいた論調で攻めてくる。
俺は昨晩の泉の冷たい目を思い出した。先月の事故について、俺が『お気の毒ですね』と言った時の視線だ。
「隠している訳じゃない。必要がないんだ」
「巻き込みたくないって事ですか?」
「そう思ってもらっていい」
「ほら曖昧になった」
俺は言葉に詰まった。
全てを話すのは簡単だ。だが果たして、目の前の人物に話したとして、この件は解決の方向に動くだろうか?
俺が今調べているのは投書の件だ。貼り紙の件は泉が関わっている。これは今本人から裏が取れた。だが投書は違う。俺が感じた悪意や憎悪。この誰だか分からない厄介で物騒なものを、目の前の泉に投げつける訳にはいかない。
「人殺しというキーワードを使った理由は分かった。俺が知りたかったのはそれだけだ」
「嘘」
泉は断じた。
「さっき私が言った先月の事故から思い付いたキーワード。それを調べるのに居酒屋を何軒も回って、それに学校まで押しかけて。そこまでする意図はそれだけじゃないでしょう?」
「いや、それだけだよ」
俺はうそぶいた。これ以上第三者を巻き込む訳にはいかないと思ったからだ。
「私が昨日なんであそこにいたのか分かります?」
泉が話題を変えた。そこにある意図はなんだろうか?
「いや? 分からないな」
昨晩会った泉は一人だった。他に友達連中の姿はなかった。しかも酔っていたようには見えなかった。
「探していたんです」
泉は呟くように言葉を絞り出した。
「何を?」
「人を殺した『何か』を」
泉の言葉は明瞭だった。そしてそこには何の感情もなかった。
──何でこいつが『人殺し』の原因を探している?
俺は戸惑いを隠せなかった。
「それは事故と関係がある何かを探している。そういう事か?」
「昨日私言いましたよね? 『どっちが』って」
俺が『お気の毒』と言った時、泉は『どっちがですか』と聞いてきた。
俺は未だにその真意を図りかねている。
それにだ。
泉がこの件と何の関係もない場合、俺はローズガーデンをクビになる。
──沙樹はすぐ感情的になるからな。
「泉さん。あんたが探しているものが何なのか、俺には分からない。俺が探してるのは別なものだよ」
「交通事故で人が亡くなった場合、それは殺人罪にはならない。最悪でも危険運転致死傷罪が適応されるだけ。それなら人が人を殺した場合は? 何が違うと思いますか?」
泉は自分の意見を押し通すつもりだ。
その目的はどこにある? 俺がそれを握っていると思っているのか?
「泉さん、あんたは勘違いしている」
「答えられないんですか?」
会話は平行線で一点も交わらない。
──いや。
根本は実は同じではないか?
事象としては『交通事故』だが、人が亡くなった事に変わりはない。
投書の件もキーワードだけ拾えば人の生死に関わる事だ。
泉が言った『丁度良かった』。そして昨晩の『あの場所』での会話。
全てに『死』が関わっている。
もしかしたら俺の探しているものと泉が探しているものは、実は同じではないか?
俺は賭けに出る事にした。
「泉さん。一つ聞きたい」
「はい」
「昨晩、何で俺の名前を知っていた?」
「携帯を見たんです」
──やっぱりな。
「君は他人の携帯を拾った時、その中身をチェックするのか? 仮に見たとして、それがなぜ俺のものだと分かった? あの時あの場所には俺の他にも男性はいた。なのに君は俺にだけ声をかけた。『コロンと落ちた』と言っていたが、俺は携帯を尻のポケットに入れていてね。コロンとは落ちないんだ。少なくとも立ったままの状況じゃ落ちない。落ちるならどこかに座った時だ。それに結構な音がしたはずだ。角がへこむくらいの衝撃だからね」
「……私が盗ったって言うんですか?」
「いや。さすがに尻に触られれば気が付くよ。俺が疑問なのはどこで拾ったかじゃなく、なぜ俺のものだと分かったか、だよ」
それは俺が江藤という男だと知っている事、居酒屋を何件も回って何かを調べている事、それらを知っているという事だ。
「それとさっきの質問だけどね、人が人を殺した場合、それは殺人だよ、間違いなく。ただそこに悪意も殺意もなく、偶発的にそうなった場合はどうだと思う?」
「それは……詭弁なんじゃないですか?」
「そうなるだろうね」
俺は黙って泉の言葉を待った。
その答えはきっと、事故との関連性を告白する言葉になるはずだ。
「……江藤さんの携帯は道路に転がっていました。だから『コロン』という表現を使いました。それから、江藤さんの事は知っていました。阿部君から聞いていましたから。貼り紙の件で変な男から色々聞かれたって言ってました」
期待していた答えではなかった。
その上俺は変人扱いだ。
「変な男か。そりゃひどいな」
「あの路地の居酒屋を何軒か回っている江藤さんを見て、ああこの人か、と思いました」
「それはなぜ?」
「『居酒屋てんもんじ』を起点にしていたから」
「ああ……」
俺は一軒居酒屋への聞き込みが終わる度に『てんもんじ』の前に戻ってきていた。理由は単純明快。店の前に灰皿があるからだ。
「もし、別人だったらと考えなかった?」
「その時は拾った携帯電話は警察に届ければいいし。困るのは私じゃないし」
ごもっともだ。
だがもう一点の疑問が出てきた。
「じゃあ何で、俺が居酒屋を回っている所を見ていた? そもそも何で君はそこにいた?」
「江藤さんを見ていた訳じゃないんです。私があそこにいたのはさっき言いました」
「人を殺した『何か』?」
「そうです」
話が一周した。
「分からないな。何でそんな物を探す? 誰か知り合いが殺されたのか?」
「先月の事故で亡くなった人、その原因を知ってます?」
スピードの出し過ぎ、運転ミス。そして転倒。俺が知っているのはそれくらいだ。
「いや、知らない」
「内臓破裂、頭部裂傷。それにともなう失血性のショック死だそうです」
「……君は、警察か病院に知り合いでもいるのか?」
「新聞に載ってました」
しまった。俺は新聞を読んでいない。ニュースで観ただけだ。
「地方紙は読んでないんだ」
俺はポーカフェイスを貫き誤魔化した。
「あの路地は狭いし暗い。スクーターが転倒する程のスピードは出ないんです。あの時間帯だと路駐も多いし」
「……君は何を調べているんだ?」
事故が起きたのは先月だ。それを今になって無関係な女性が原因を調べる。その理由が分からなかった。
「事故の原因。そこに誰かいなかったのか。目撃者は? 通報者は? 調べる事は山ほどあります」
俺は体を強ばらせた。
目撃者は──?
俺は当時その現場にいた。だが何も出来なかった。
通報者は──?
居酒屋てんもんじの店長、佐藤氏だ。速やかに一一九番に通報したと聞いている。
──この娘は、何を知っている?
「それを調べてどうする気だ?」
俺は動揺を隠せただろうか?
手が震えている。でもテーブルの下だ。気付かれないはずだ。
「私の父は刑事でした」
泉は顔を伏せそう言った。絞り出すような声だった。
「そ……うなんだ」
「普通の刑事って言い方も変ですけど。特に何か功績を挙げたとか、そう言う事もなくてなんの取り柄もない、サラリーマンみたいな刑事でした」
「どうして過去形になる? 退職したからか?」
「交通事故で……」
「……」
俺は言葉に詰まった。返す言葉が見つからない。
「すまん……」
「いえ……。私もまだ小さくて、良くは覚えてないんです。ただ母から聞かされただけで」
「そうか……」
「それで、交通事故は被害者も加害者もどちらも不幸になる。そう言っていたんだそうです」
「お父さんが?」
「はい」
「そうか……」
大原泉の父は、交通事故の本質を知っている。何も大事件を追うだけが刑事じゃない。それはTVや映画で誇張された世界でしかない。
「だから私は自分の手の届く範囲で真相を究明しようと思ったんです。無駄な事だって言うのは分かってます。きっと自己満足なんです。……もしかしたらそれを楽しんでいるだけかも知れない」
泉は自虐的な笑みを浮かべた。
「ただ交通事故とは無関係でいられない。大きな通りで無理な右折をしようとして衝突したとか、居眠り運転の結果ガードレールにぶつかったとか、そんな事故は原因がはっきりしています。でも先月の事故は結果しかない。スクーターが転倒してトラックに衝突した。その原因が分からないんです」
「それを調べる事が君に何か影響を与えるのか?」
「分かりません。ただ調べなくちゃと思ってしまったんです。変ですよね私。普通そんな事を考える女の子はいないですよね?」
俺は震えの止まった手で、コーヒーカップを持った。
沙樹は先月の事故の関係者だと言っていたが、違うのかも知れない。
──ただの興味本位なのか?
泉の話を聞く限りでは、事故の関係者との繋がりはなさそうだった。
「だから阿部君に相談された時も、単純な発想であの言葉を思い付いたのかも知れません」
「人を殺した、ってか?」
「はい」
何か当初と違う雰囲気になってきた。
初めは軽い気持ちだった。貼り紙の発案者の意図を聞ければそれで良かった。今の俺が調べているのは投書の件だ。放置すれば依頼主に危害が及ぶ可能性がある。
沙樹は納得するだろうか?
泉が言う貼り紙の文言についての着案は単純だ。少なくとも事故の関係者の発想ではない。
投書の件に大原泉が絡んでいないとしたら俺をクビにするだろうか?
──まぁ、手ぶらではないしな。
少なくとも貼り紙の件と昨日の大原泉の行動については、ある程度納得の出来る話だ。
人間そんなに複雑に物事を考えない場合の方が多い。思い付きってのはそこに悪意などの負の感情がなければ、そんな大げさに考えなくてもいいのかも知れない。
「色々話が聞けて良かったよ」
「すみません、色々変な事喋っちゃって……江藤さん、迷惑でしたよね?」
しおらくなった泉に対し、俺は努めて明るく答えを返した。
「大丈夫。慣れている。テレオペって知ってる?」
「テレフォンオペレータ?」
「そう。色んな顧客から電話が来て、色んな対応を迫られる。中には、いきなり怒鳴り散らす人もいる。俺はちょっと前までそんな仕事をしてたんだ」
「へぇ……」
「さすがに身の上相談は経験はないけどな。でも最後はお互いに感謝し合ってクロージングするんだ。そこが腕の見せどころさ」
「今日も?」
「そう。今日も」
俺は笑って見せた。
「それに、ほら、俺はこんなおっさんだからさ。中々女の子と話す機会もないんだ」
「やっぱりナンパだったんですか?」
「今となっては、まぁ……半分はそうだね」
「後半分は?」
「興味本位」
「じゃ全部ナンパ目的じゃないですか」
泉はそう言って、くすっと笑った。
話はそこまでだった。気が付けば、二時間も話し込んでいた。
俺はこれから一週間のランチを奢るのだからという理由で、コーヒー代の支払いを断われた。割り勘だと言うのだ。
「コーヒー代くらい、俺が払うよ」
「今時、男の甲斐性だなんて、何の説得力もないですよ」
「ぐ……」
真理だと思った。
「さぁて。それより明日のお昼はどうしようかなー」
──高く付いた情報だったかも知れないな。
俺は密かに嘆息した。
「じゃ、私は帰ります。明日のお昼、待ち合わせは時計台でいいですか?」
「え? ああ、ええと、出来ればもうちょっと人目に付かない場所がいいかな」
「誰かに見られると困るんですか? もしかして結婚されているとかですか?」
後半の言葉は口元を手で覆い、小声になっていた。
「いや……違うけどね」
俺は情けなさそうな声で応じた。
「ただ見つけ難いかなと思ってね」
「大丈夫です」
泉はきっぱりと請け合った。
本当はあの場所が居辛いだけなんだが……。
泉はそんな俺の気持ちを一切無視した。
「必ず私が見つけます」
きっと俺の顔をピザか何かと重ねているに違いなかった。
「……了解。じゃ、昼頃時計台で」
「はい! それでは」
泉は特上の笑みを浮かべ、軽く敬礼して去って行った。
ご機嫌そうだった。
──まぁいいか。
何かを期待している訳ではないが、女の子と食事出来る機会なんてそうそうない。沙樹に言ったら殺されそうだが。
それに今回は報告のネタもある。多分大丈夫だろう。
貼り紙のキーワードは単純な発想でしかなかった。
ちょっと変わった女の子が興味本位で事故を調べている。結果は誰も知らなくていい。彼女が納得すればそれでいいのだ。
──貼り紙の件はこれで解決だな。
俺は足取りも軽くローズガーデンに向かって歩き出した。