第五話 リエントリ
「お前は本当に報告がヘタクソだな。言葉の組立がなってない。日本語の勉強を小学生からやり直した方がいいんじゃないか?」
沙樹はいつものように俺を罵倒した。
「私はお前に仕事を三つ与えた。いいか、三つだぞ?」
沙樹は、指を三本立てた手を俺の目の前に突きつけた。ちゃんと三本あるか? とその手は妙な威圧感と共に俺に問いかけていた。
「うち二つはいいだろう。その投書があるからな」
ガーデンテーブルには、新聞か雑誌の切り抜きで作られた『人殺し』という文字が貼り付いた紙が乗っていた。
「事故の詳細もいい。先月の事故については、ここ──ローズガーデンにも記録がある。それとほぼ一致しているようだ」
俺は黙って聞いていた。
ローズガーデン。ここには街で起こった様々な出来事が記録として残されているらしい。
それをどうやって入手しているのか、俺には分からない。
──きっと聞いても答えてくれそうにないしな。
それよりも考える事がある。
沙樹が言う三つめ。
「三つ目──『人殺し』のキーワード。これはどうしても分からない。誰に聞いても『居酒屋てんもんじ』の店長の悪い噂は出て来なかった」
あの路地裏界隈の居酒屋を全部回った訳ではないが、昨晩はしごした五軒では、佐藤氏の悪い噂は出て来なかった。
「だから、結論を先に言えと言っているんだ。いちいち居酒屋の店長たちのセリフを長々と聞かされる身になってみろ。いくら時間があっても足りない。一言『分からなかった』でいいじゃないか?」
俺は昨日仕入れた情報を事細かに説明したつもりだった。
沙樹はそれが不服らしい。
「報告は出来るだけ正確に伝えるべきだと思ってな」
「それにしても良く覚えているものだな」
俺は店長たちのセリフを一字一句違えず沙樹に伝えた。
俺の特技の一つ──記憶力だ。
「そんなのもっと別な事に使えばいいのに」
──放って置いてくれ。
俺だって思い出したくない事だってあるんだ。
俺は未だに幼稚園の頃の記憶が鮮明に残っている。当時の園児全員の名前を覚えている。保育士の名前だって覚えている。
色んな事をいつまでも覚えているのは時には辛い事だってあるんだ。
「とにかく佐藤氏は、事故を結果でしか知らない。一番近い場所にはいたが、持っている情報は俺たちと同じだ」
ふん、と沙樹は鼻を鳴らした。
「──記録によれば、事故当時、目撃者は……いなかった。時刻は深夜二時過ぎ。天候は強めの雨。スクーターに乗っていた男性は、何らかの運転ミスで転倒した。警察はそれをスピードの出しすぎだと結論付けた。対向して来たトラックの運転手がそれに気付いて、急ブレーキを踏み、ハンドルをデパート側──つまり左側に切った。そしてスクーターは、その右前輪に巻き込まれた。事故自体はスクーター側にも過失があるが、トラック側の前方不注意。これが先月の事故の詳細だ」
沙樹は淀みなくニュースでも語られなかった情報を口にした。
「そ、それをどうして……」
「ローズガーデン。ここにはこの街で起きた全てが記録される。私はその管理人だ」
沙樹はなぜか寂しそうな表情で俺を見た。
「お前だけが全てを覚えている訳ではない。私もそうなんだ。ここにいる限りその呪縛からは逃れられない」
「呪縛……」
俺はその言葉の意味を図りかねた。全てを記録しているこの場所──ローズガーデン。沙樹はその管理人だと言う。
それは何のために?
人の生き死にまでも記録し、それを識っている沙樹。
なぜかひどく悲しい事のように思えた。
「それはそうと報告は以上か?」
「いや……まぁ」
「……何だ? まだあるのか?」
俺は昨晩会った女性の事を伝えた。
「……な? 何で俺の名前を知っていたのか不思議だろう?」
「……どこが不思議なものか」
沙樹の目が冷たく光った。
「携帯を拾ってメニューから辿れば、お前の情報くらい誰だって分かるだろうが。それよりもだ」
沙樹は大きく息を吸い込んだ。
「お前は! 仕事中だというのに! ナンパなんぞしていたのか!」
ローズガーデン中に響き渡るような大声だった。
俺は大いにうろたえた。
「い、いやナンパじゃないって」
「どこがだ? 夜に居酒屋の前で女性に声をかける。これがナンパでなくて何だというのだ? ああん?」
沙樹が凶悪な目つきで俺を睨んでいる。
俺は必死に言い訳を考えた。
だが浮かばなかった。
「いや、だから、ナンパじゃなくてだな」
「言い訳か? お前は今から言い訳をしようとしているんだな? そうなんだな?」
「い、言い訳じゃなくて、説明をだな」
「説明? ほほぅ、説明と来たか。ではしてもらおうかその説明とやらを。当然私を納得させられる内容なんだろうな?」
「お前、何怒っているんだ?」
「怒ってなどいない!」
どう見ても沙樹は怒ってる。
沙樹と出会ってまだ三日しか経っていないが、これほどまでに怒鳴り散らす沙樹を見るのは初めてだ。
──さて、どうしたものかな。
俺は密かにため息をついた。
「携帯を落として、それを拾ってもらってちょっと会話しただけだ。断じて言うがナンパじゃない。それに気になる事がある」
「ほぉ! 気になる! お前がか? 誰にだ?」
「いやだから、冷静に聞けって」
「私は冷静だ!」
──これは何を言っても火に油だな。
こんな時に限って高梨さんは姿を現さない。
俺はとりあえず沙樹が落ち着くのを待つ事にした。
「何だ? 言い訳はそれだけか? 私を納得させるんじゃなかったのか? 大体お前はそんな浮ついた気持ちで仕事に臨むから思ったような成果が上がらないんだ。お前はのほほんと構えているようだがな、投書の真意が分からないとこちらも手が打てないんだぞ? 何が起こるか予測出来ないんだぞ? 依頼主に危害が及んだらどうする気だ、お前は!」
沙樹は一気にここまで言って息をついた。
──今だ!
「だからその投書の真意でな。ちょっと気になったんだよ」
「……何がだ?」
「その女性、まぁ見た目は学生に見えたが、事故の話になった途端態度が変わってな。変な事を言うんだ」
「……何を言ったんだ?」
徐々に沙樹に理性が戻ってきた。ような気がする。
「俺が事故の事で『お気の毒ですね』と言ったら、彼女何て言ったと思う?」
「どっち」
「は?」
「その女性は、きっと『どっちがお気の毒なんですか』と言ったんだろう」
俺は愕然とした。
「……な、何で分かる?」
「お前が事故の事を聞いて変だと思ったのなら、大体予想はつく。わざわざ私に質問するくらいだ、よほど変わった事を言ったはずだ。となれば答えは簡単だ。事故は加害者と被害者が存在する。お前は『お気の毒』と言ったが、どっちを指したつもりだった?」
「……死んだ方だな」
「普通はそう考える。事故の過失や状況はさておき、『お気の毒』という言葉は亡くなった人に向けられる言葉だ。それを『変な事』と言うからには、まさか加害者側を指すとは思えない。なら答えは一つだ──『どっちがお気の毒なんですか?』」
俺は押し黙るしかなかった。
「だが一点不思議なのは、わざわざ『どっち』と聞き返した事だ。事故の関係者でもなければそこまで感情的な質問を返す理由がない」
「あ、ああ。そう思って一応聞いてみた」
「違う、とか言われただろう?」
「う……まぁ、何だ、その」
「恐らくは事故の、いや、被害者か加害者──この分け方も適切じゃないな。とにかくその女性は、事故の関係者に含まれると考えられるな」
「どうして?」
「どうして?」
沙樹はおうむ返しに聞き返してきた。
「事故の話題を振って、態度が豹変して関係者かと聞けばそうではないと言い切る。これを関係者でなくて何だと言うんだ?」
「いやでも、トラックの運転手には見えなかったぞ?」
「お前はバカか?」
「バ、バカ?」
「私は関係者に含まれると言ったんだ、バカ者。誰が本人だと言った?」
「……」
「どうせ名前も聞いていないんだろう?」
「……」
沙樹は大きくため息をついた。
それは絶妙なタイミングだった。
「沙樹様」
高梨さんが音もなく現れた。
──この人は──!
俺は高梨さんが神に見えた。
「お電話が入っております」
「電話? 私にか?」
「左様でございます」
「急ぎか?」
「はい、そのようです。どう致しましょうか、お掛け直し頂くようお伝えしますか?」
「いやいい。出る」
沙樹は音を立てずに、椅子から立ち上がった。
「祐一、お前はどうする?」
とりあえずこの場は収まったようだ。
内心ほっとしつつ、俺は予め考えていたプランを口にした。
「居酒屋てんもんじでバイトしていた学生に会う」
「そうだな。貼り紙犯から何か聞けるかも知れんしな」
「それと、もう一つ」
「もう一つ?」
「ああ」
俺は昨晩の沙樹との会話を思い出しながら言った。
「十五年前の事故の件だ。ここなら記録があるだろう?」
「……あるにはあるが……それをどうする気だ?」
「俺の好奇心、かな。特に意味はない。ただてんもんじの佐藤さんも気にしているし俺も気になる。それだけだ」
「そうか。じゃあそれはこちらで記録を出しておく。高梨」
「はい」
「後で祐一を書庫に案内しろ。で、祐一。お前どっちを先にする?」
「学生を先に。時間に縛られるのは学生の本分だ」
「分かった。じゃあ元バイトとの話が終わったら一旦連絡をよこせ」
「ああ分かった」
俺はギギギと音を立てて椅子を引きずり席を立った。
沙樹や高梨さんへの域に到達するにはまだ遠いなと思った。
*
午前中とはいえ、まだ朝の早い時間だ。
真面目な学生なら来ているかも知れないが、目的の人物はさほど真面目そうには見えなかった。
携帯の番号を聞いていたので連絡したのだが、留守録の無機質なメッセージが応じただけだった。一応連絡を乞う旨メッセージだけは残しておいたが、果たして聞いてくれるかどうか。
「しゃーねぇーなぁー」
俺は校門からちょっと離れた電柱にもたれかかり、タバコに火を点けた。
俺には学生連中と違って時間だけは腐るほどある。ないのは金だけだ。
沙樹から前借りした十万円は、昨晩の飲み代やら何やらで半分消えていた。
──さて。
俺は昨晩会った女性を思い出していた。
事故についての過敏ともとれる反応。
沙樹は関係者だと言い切った。
だが彼女は関係者ではないと言い切った。
俺にはどちらも真実に思えた。
あの冷たい目。感情の読めない何かに挑むような視線。
俺は意味もなく携帯電話を手に持ち、登録してある自分の情報を呼び出した。
──彼女はこの情報を見たのか?
俺の名前を呼んだからには見たはずだ。そうでなければおかしい。
と、そんな事を考えていると携帯電話が震え出した。例の学生君だ。
「やぁ済まないね、何度も」
俺はわざと明るく、会話を切り出した。
『……なんすか』
まぁこれは予想通りだ。友人でもなんでもない人間と、自分に関係のない用事で会話しようとしているのだ。かかってきただけでも良しとすべきだ。
「まぁ、ちょっとな。それよりかけ直そうか?」
『いいですよこのままで。それより時間がないんで』
「ああ、分かった。手短に行こう。あの貼り紙についてなんだけど」
『……勘弁して下さいよ。もう俺には関係ないじゃないですか』
「まぁ、そう言わずに。一点だけだから」
平身低頭だ。俺のコールセンタでの経験が役に立つ時だ。
「これに答えてくれれば、もう君には金輪際連絡しない。約束する」
『履歴も消して下さいよ?』
「分かった、分かった」
俺は降参の意を伝えた。
『で、何です?』
「例の貼り紙の言葉、誰に相談した?」
返って来たのは沈黙だ。
俺は待つしかない。
『……誰にも言わないで下さいよ?』
電話口での沈黙というのは中々耐えられないものだ。質問されれば答えなくてはいけないと心のどこかで思い込むのだ。
「ああ、約束する。今日聞いた事は、部外者にも誰にも言わない。約束する」
『部外者って?』
「店長とかさ」
俺は適当に言い繕った。でも効果はあったはずだ。
『……あの文言のアイディアは、大原が出したんです』
「オオハラ?」
『大きな原っぱで大原』
「ああ、ありがとう。で、下の名前は?」
『……泉』
「イズミって、スプリングの泉か? 女性?」
『そうです』
「その大原泉さんは、どこに行けば会える?」
『……』
さすがにこれは無理か。
友人を得体の知れない男に晒すのは抵抗があるだろう。それが女性なら尚更だ。
──と。
視界の隅に見覚えのあるシルエットが映り込んだ。
忘れるはずもない。その顔、髪型。昨晩の彼女だ。俺は自分の記憶力に感謝した。
「悪い。用事が出来た。色々ありがとう」
『は? いえ』
俺は相手の返答を待たずに通話を切った。
早くしないと彼女が校門をくぐってしまう。さすがに校内に潜り込むとなれば、色々面倒になる。
「すみません」
俺は小走りに駆け寄りながら彼女に声を掛けた。
気付くだろうか? 昨晩彼女を言葉を交したのはほんの数分だ。俺の声を覚えているだろうか?
「お話があるんですが」
彼女は立ち止まり振り返った。誰? と言いたげな顔だった。
「昨日ほら、携帯を拾ってもらった……」
「ああ、あの時の探偵さん」
──今日は名前では呼ばないのか。
周囲には学生がいる。名前で呼ぶのを躊躇ったのかも知れない。
「まぁ、探偵じゃないんですけどね」
「学校の関係者だったんですか?」
「それも違うんですけどね」
声を掛けたはいいが、そこから先を考えていなかった。まさか会えるとは思っていなかったからだ。
「まぁその……携帯を拾ってもらったお礼もまだだったし」
「お礼ですか?」
「携帯電話ですよ? いわば個人情報の塊です。あれが人の手に渡ったら大変な事になる。つまり君は俺の社会人人生の恩人な訳です」
もう適当に言葉を並べ立てた。
しかし効果はあったようだ。
「面白い人ですね、『江藤』さんて」
──名前で呼んだな?
よし、仕切り直しだ。
「まぁ、面白いか面白くないかは人それぞれだと思いますが。それより今から講義ですか?」
「今どこにいると思ってます?」
「学校の前」
「なら目的は一つでしょう?」
ごもっともだ。
「俺はここで待っていればいいですか?」
「それってデートのお誘い?」
彼女はくすっと笑った。
「それもまぁ……違うんですけどね」
俺は顔に出ないよう、必死で言葉を探した。あまり長く話す訳にはいかない。これは短期決戦だ。一発で決めないと次はない。
「簡単に言えば、俺は君の顔は知っているけれど名前を知らない。恩人の名前を知らないなんて日本男児の沽券に関わる」
「関わるんですか? それ?」
「関わります」
俺は真顔で請け合った。
「──なら、しょうがないですね」
彼女は、肩に掛けていたトートバッグから携帯電話を取り出した。
ストラップが黒猫だった。
「はい」
「はい?」
「連絡先の交換──って、まさか赤外線通信、知らない訳じゃないでしょうね?」
「い、いや、知ってますよ。大丈夫」
俺は大慌ててで、赤外線通信の機能を思い出した。久しく使っていない機能なので、すっかり頭の隅に追いやられてた。
「えっと、ああっと……はい」
何とか赤外線の通信準備が出来たところで、彼女がまたくすっと笑った。
「江藤さんってメカ音痴?」
「オーディオ関連なら任せろ、って言いたいところですが、今時は携帯プレーヤなんだよなぁ……」
「やっぱりメカ音痴」
「まぁ、君がそう言うならそうなんでしょうよ」
俺は投げやりな口調で応じた。
と、俺が拗ねていると小さく電子音が鳴った。
通信完了。これでお互いの連絡先がお互いの携帯電話に登録された。
「講義が終わったらメールしますんで。それでは」
彼女は軽く敬礼し、学校へ入って行った。
俺はそれに軽く手を挙げて応じた。
──まぁ今回の件に関係するとは思えないけどな。
ただ気になっていたのだ。
交通事故で失われるのは被害者の命だけじゃない。加害者と分類された人間もきっと何かを失う。彼女がそれを知っているのか、身近な人物がそういった目に遭ったのか。
俺は登録されたばかりの彼女の連絡先を見た。
そこには、『大原泉』と表示されていた。
*
──何だと……!
俺が依頼されている案件、居酒屋てんもんじに貼られていた貼り紙。
『ここは人殺しの店です』
この発案者である大原泉。
そして、昨晩の聞き込み現場で偶然出会った女性。
大原泉。
これは偶然なのか?
俺は、得体の知れない何かに巻き込まれたような、奇妙な感覚に襲われた。
目眩がし、とりあえず電柱にもたれかかる。
──落ち着け。落ち着け、俺。
俺は目を閉じ深呼吸した。
とにかく謎が多い。先月の事故。十五年前の事故。そしてローズガーデンに記録されているそれらの情報。居酒屋てんもんじの貼り紙。店長の噂。
そして『人殺し』と書かれた謎の投書。
──一体、何がどうなっている?
頭が、思考が悲鳴を上げている。
──仕切り直しだ。
三日前の俺は何もなかった。ところが今はどうだ。ローズガーデンに関わったばかりに色んな事が立て続けに起きる。とても整理しきれない。
再整理しよう。順を追って状況を整理しよう。
俺は足を踏み出した。
──まずはローズガーデンだ。
そこにある様々な情報。
関係性を見出すのは情報を入手してからだ。
*
「だから連絡をよこせと言っただろうが」
ローズガーデンに着くなり沙樹に叱られた。
確かに元バイトの学生との話が終わったら、一旦連絡しろと言われていた。
「すまん」
俺は素直に謝った。
「謝ればそれでいいのか? これで何回目だ? 連絡をしろしろと私は何回言った?」
「いやーそれは……」
「言い訳など聞かん」
「……すまん」
俺はひたすら謝った。とにかく時間がない。早く沙樹の件を片付けないと、次に進まない。
「……お前、何を考えている?」
──見抜かれたか。
いや。これで先に進めるかも知れない。
「いや、『まだ』何も」
「『まだ』?」
沙樹は俺の言葉のニュアンスを拾い上げた。
──敵わないな。
「ああ、まだだ。これからなんだ」
「元バイトから何か聞いたんだな?」
「そうだ」
俺は元バイト君から得られた情報を説明した。
「その大原泉ってのが、発案者な訳だな?」
「あいつが嘘を言っていなければな」
「嘘だと思うか?」
「いや」
「なら次の仕事だな」
「それも進行中だ」
「……どういう事だ?」
沙樹は訝しげな表情をした。
「その大原泉には既に会っていた。昨日の夜にな」
「そうか……」
沙樹は思案顔になった。
「……オオハラ……」
「ん? オオハラがどうかしたのか?」
「……いや、何でもない。私が知っているローズガーデンの記録には、オオハラという名前はない」
「そうか」
ローズガーデンの記録。この街で起きた全てが記録されているらしいが、俺にはまだ実感が湧かない。
「とりあえず、約束通りお前にローズガーデンの記録を見せる。オオハラについてはどうなんだ? どうする気だ?」
「講義が終わったら連絡が来る事になっている」
「……なんだと?」
沙樹の瞳に剣呑な光が宿った。
「い、いや、だから、連絡がくるんだよ。連絡先交換したから」
沙樹はガタンと音を立てて立ち上がった。椅子が後ろに吹っ飛んでいた。
「朝っぱらからデートの約束とは随分だな?」
目が笑っていない。
俺は沙樹の何かの逆鱗に触れたようだ。
「さ、沙樹さん?」
「お前には失望した!」
沙樹は言い放った。
「そんなに女にだらしない男だとは思わなかった。いいか? お前の仕事は何だ? 言ってみろ?」
「……居酒屋てんもんじの問題解決、だよな」
「それとオオハラ──大原泉に会う事に何の関係がある? お前はビジネスとプライベートの区別もつかんのか?」
「いや、それはだな」
まだ関係はない。でも関係があるかも知れない。
「また言い訳か? お前に私を納得させるだけの言い分があるのか? こっちはこっちで色々と忙しいというのに、お前は女にかまけて、その上ろくな情報を拾って来ない。仕事をする気はあるのかお前は!」
「情報はちゃんと拾って来ただろう!」
情報を拾ってこない。この言葉に俺はカチンと来た。
「元バイト君から例のキーワードの出所を聞き出して、その上本人とのアポも取れたんだぞ! それを仕事じゃないというなら何なんだ?」
「お前の『正確』な報告を聞く限りじゃ、その本人とのアポとやらは偶然だ。つまり後付けだ。何が『本人とのアポが取れました』だ。胸を張って言う事か」
「う、それは……」
「それ見た事か。お前は結果論を正当化しているだけだ。どうだ? それでも言い返すか?」
沙樹の言っている事は正しい。大原泉とのアポは、沙樹の言うとおり偶然だ。昨晩聞き込み現場で会わなければ、今日声を掛ける事もなかっただろう。そしてお互いの連絡先を交換しなければ、例のキーワードの発案者でもある大原泉だという事も知らないままだっただろう。
だが。
一つ腑に落ちない。
「何でお前は、そんなにムキになるんだ?」
「な! ム、ムキになってなどいない!」
完全にムキになっている。誰が見てもそう見える。
「俺は結果論だろうが何だろうが、この件を何とかしようとしているだけだ。な? まずは落ち着けよ。確かに偶然が重なったのは認める。それに便乗して正当化しようとしたのは悪かったよ」
何で俺は沙樹を宥めているんだ?
「そのためにはここの、ローズガーデンの記録が必要な気がするんだ。俺の勘だけどな」
沙樹は椅子を直し、ゆっくりと座り直した。
お、落ち着いたかな?
「……これで、オオハラが何の関係もなかったら、お前との契約は解除だ」
なんですと?
「お前の勘とやらが正しいのか、私には分からない。だが導き出される結果がこの件の方向と違っていたら、お前は何もしていない事と一緒だ。それが結果論だろう? 違うか?」
それは静かな死刑宣告だった。
*
「江藤様も無理をなさいますね」
珍しく高梨さんが自分の感想を口にした。
俺は沙樹から解放され、ローズガーデンの中枢(?)の書庫に案内された。
「沙樹様はああいう方ですから」
反論には反論をという訳だ。しかもその反論には必ずおまけが付く。
「私も協力致しますが、沙樹様は一度言った事を曲げる方ではありません」
「……結果を出せばいいんでしょう?」
「その結果がいい方向に向かう事を祈るしかないようですね」
高梨さんはやんわりと無関係を装った。
「さて。朝に仰せつかった通り、十五年前に起きた事故の資料を準備させて頂きました。後は江藤様次第です」
大きな扉が開いた。
俺は絶句した。
広い。
高い。
そこはちょっとした図書館並の広さがあり、壁面を埋め尽くす本棚には所狭しと本や資料が詰め込まれていた。
「ここがローズガーデンの書庫です。この街で起きた事が記録として残されています」
「……一体、何年前からの記録があるんですか?」
天井まで届く棚にぎっしりと詰め込まれた資料。俺はその量に圧倒されがら呻いた。
「私が見た限りではございますが、古い物で百年以上は」
「……どうやって集めたんですか?」
「私がここに来てからは私が」
渉外担当の仕事とはこういう事か。
「……俺も、ですかね」
「左様でございますね。今回の件が解決すれば、資料を作成して頂く事になると思います」
高梨さんは部屋の真ん中にある大きなテーブルを指し示した。そこには数台のノートPCとプリンタがあった。
「昔は手書きでしたが、今は便利になりました。江藤様にはIT系のスキルが不足していると伺っております。その際は私がお教え致しますので」
「……そりゃどうも」
俺はうんざりした。事務系の仕事は面倒だ。今まで避けてきた分野だった。
「こちらが十五年前の事故の記録です」
高梨さんがテーブルの上にある分厚い書類を指した。
「……随分あるんですね。これも高梨さんが?」
「いえ……。私がここに来たのは江藤様くらいの歳ですので……この資料を作ったのは、大門という者です」
「大門さん?」
「はい。もう引退されておられます」
「引退ですか」
「先代──沙樹様のご両親がご存命の際に渉外担当をされておられました」
沙樹の両親が、存命?
「沙樹は、いえ、沙樹様のご両親は亡くなっている?」
「無理に『様』をお付けにならずとも宜しいですよ。私の話し方は、沙樹様はあまり良い印象をお持ちではないようですので」
──はは……。
確かに。
いや、それより。
「沙樹の両親はもういないと?」
「ええ。十年前でしたでしょうか……交通事故でした。私はその時から沙樹様を存じておりますが、あの方はそんな時でも気丈に振る舞われておりました。それがここの管理人の務めだと」
──呪縛。沙樹はここの管理人を務める事をそう表現していた。
「……ローズガーデンには様々な情報が集約されます。ほんの些細な出来事から、人の生死に関わる事まで。その全てに目を通し、記録し、管理する。それがどれほどの苦痛を伴うのか、想像に難くありません」
高梨さんは天井を見上げた。
「……その記録、沙樹様のご両親の事故の記録もここにあります。例えるなら、ここは情報の墓場なのかも知れません」
最後の言葉は俺に向けられたものではなかった。
高梨さんの独白だ。
ただ俺も思った。記録は残されるべきだが、忘れてしまいたいものだってきっとある。でも沙樹はそれが許されない。忘れようとしても、ローズガーデンがある限り、この書庫に記録がある限り、それらを捨て去る事が出来ない。
「高梨さん」
「はい」
「ローズガーデンは何のためにあるんですか?」
「……それは私も存じません。ただ」
「ただ?」
「過去の過ちを繰り返さない。ここはそのためにある──一度だけ沙樹様がそう仰っておられました」
過去の過ち。
それを繰り返さない。
それは、これから起きる事象とここに眠る記録の照合か。
何かが起ころうとしている時、その事象なり状況からローズガーデンの記録と比較し未然に防ぐ。
──それは可能なのか?
疑問だった。
人間に未来を予見する能力はない。あるとすれば過去に起きた事からの経験則から予測する事だけだ。ここはそれを実現させようとしているのか? それをたった一人の人間に押し付けようとしているのか?
「それを沙樹一人で」
俺は初めてローズガーデンの意味を知った。存在理由、意義、何でもいいが、それを背負うにはあまりに重い。
「そのために私どもがいるのです」
高梨さんは諭すような口調でそう言った。
「渉外担当などと言っておりますが、その実、沙樹様のご負担を少しでも和らげるために私はここにいるのです」
高梨さんは俺に視線を移した。俺は視線を逸らさなかった。
「江藤様、あなたはどうなさいますか?」
答えは決まっている。
「俺は三日前まで何もなかった。でも今はここにいます。すべき事は──今更ですが分かりました。俺もローズガーデンの人間です。認めて頂けますか?」
「もちろんですとも」
それを聞いた高梨さんは、満足そうに、朗らかに微笑んだ。