第四話 ナイトメア
店のカウンターに一通の茶封筒が置かれ、中身がその場に広げられていた。
新聞の切り抜きだろうか、様々な大きさの文字が貼付けてあり、それらは『人殺し』という言葉を成していた。
「これがその投書ですか」
「そうです。せっかく貼り紙がなくなったと思ったのに……」
佐藤氏は酷く落胆していた。
「まぁ……でも人の目には触れませんよね」
「それはそうなんですがね。それにしても一体誰がこんな事を」
『ここは人殺しの店です』と書かれた貼り紙がされなくなった途端、今度は投書だ。しかも内容がより過激になっている。
──『人殺し』。
端的で過激なその言葉は、アルバイトの学生が貼っていたものより悪意や憎悪を感じさせる。
「佐藤さん、この事は誰かに話しました?」
「高梨さん以外には誰にも。家族にも言っていません」
よし。
ここまではいい。
ここで第三者にこの件が漏れてしまうと、俺がこれからする聞き込みの意味がなくなる。『人殺し』のキーワードだけが独り歩きしてしまうからだ。
「この投書は店に?」
「そうです。江藤さんと別れた後、店のポストを見たら入っていたんです」
「その投書、俺が預かっても?」
「ええ、いいですよ。私が持っていても気味が悪いだけですからね」
佐藤氏はそう言うと、中ジョッキと封筒を俺の目の前に置いた。
「まだ開店前ですよ?」
「どうせ開けてたって客は来ません」
「じゃ、遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
佐藤氏は日本酒を自らコップに注ぎ、ぐっとあおった。
このままだと昨日と同じパターンになりそうだ。
「お互い酔っぱらう前に話をしておきましょうか」
「何です?」
「本当に身に覚えはないんですね?」
「あるわけないでしょう。俺はね、真面目に働いて来たつもりです。色んな客が来て、色んな事を言われて過ごしてきました。ですがね」
佐藤氏は空になったコップに日本酒を手酌で注ぎ、一気にあおった。
「人殺しなんて言われたのは初めてですよ。一体俺が何をしたってんです?」
佐藤氏の目が真っすぐ俺を見た。
「脱サラして二十年、この店を構えて……家族を養って」
「ご家族……失礼ですが、お子様は?」
「二人いますがね。とっくに独立してますよ。家にいるのは家内だけです」
佐藤氏という男が、急に老けたように見えたのは気のせいだろうか。
居酒屋を切り盛りし、二人の子供と奥さんを養う。そこにはどれだけの苦労があっただろうか。
俺にはまだ分からない苦労である事は間違いない。
「こんな店ですからね。夕方に店を開けて、深夜に閉める訳です。家に帰っても子供と顔を合わせるなんて中々……」
昼頃に起き出して早朝に帰宅する。昼夜逆転の生活だ。
「定休日なんかはどうしてるんです?」
「そうですね……家にいても邪魔にされるだけですから」
そう言う佐藤氏は寂しそうだった。
「家内も初めは理解を示していたんですがね」
家に帰っても寝るしかない。当然家族と顔を合わせる時間は減る。
「昼ぐらいに起きて、そうすると子供も家内も学校やらパートやらで出払っている。一人でいても仕方がないので、ここに来て掃除して過ごしてますよ」
「そうですか……」
一般の人の生活スタイルとは合わないだろうな。
俺には目の前の男が『人を殺した』なんて言われるような人物には見えない。家族のために一生懸命働いているお父さんの姿がそこにはある。出来ればそっとしておきたい。そんな気持ちが膨らんできた。
──いやいや。
俺はそんな思いを振り払うかのように頭を振った。
──それじゃ先に進まない。
「佐藤さん」
「はい」
「先月の事故、ご存知ですよね?」
「ええ……不幸な事故でしたね。聞けば、亡くなった方は俺より若いそうじゃないですか。ご家族は大変でしょうね」
自分がそこにいた事は伏せておこう。話がややこしくなるだけだ。
「事故の一部始終を見たんですか?」
「いえ……その日は定休日でしてね。ここにいました」
「あんな時間まで?」
事故が起きたのは深夜の二時頃だ。いくら掃除をするにしても長すぎる。
「定休日は今日の昼みたいに車で来て、だらだらと掃除するんです。まぁ車ですからね、酒は飲みませんが」
「車で?」
「車を使う機会なんて、仕入れを除けばそれくらいしかないんですよ。おかげで新車同様ですよ──軽のワゴンですがね」
俺は昼に見た佐藤さんの車を思い出した。
新車同様という割にはくすんで見えた。
「まぁ、見た目は埃被って新車にゃ見えませんがね。ガソリン入れる時くらいしか洗車しませんから」
俺は車を持っていないので、車を持っている人間は休日になると洗車場に集結して、せっせせっせと車を磨き上げているイメージを持っていた。
佐藤氏はその辺はあまり頓着しないようだ。
「まぁ、深夜まで店にいたのはそうですね──習慣ってヤツでしょうかね」
「習慣、ですか?」
「夕方にここに来て深夜に帰る。俺の生活リズムがそうなんですよ。その時間になれば、この辺の店は殆どが閉店します。表通りに面してないですからね。それにこの通りにはコンビニすらない。外は真っ暗ですよ」
俺は玄関に目を向けた。
その向こうには大手デパートの大きな壁があるだけだ。
俺も職を失う前はこの通りを通勤路にしていたから良く覚えている。
朝と夜でもこの通りは薄暗い。
年中影の中にある狭い通りだ。
ただ静かなのだ。俺はその静けさが好きでここを通勤路にしていた。
「最初に気が付いたのはタイヤの鳴く音でしたね」
佐藤氏がとつとつと事故の状況を語り出した。
「トラックが急ブレーキを踏んだ音だと思います。それが聞こえて、何だと思ったんです。そしたら何かがパカンと割れるような音がした後、ゴン、とね」
最後のゴンは、トラックがデパートの壁にぶつかった音だろう。
「それで慌てて外に出たら」
佐藤氏はここで言葉を切り、目を閉じた。
「事故が起きていた?」
「そうです」
つまり佐藤氏は一部始終を見ていたわけではない。
見たのは全てが終わった後だ。
「トラックがデパートの壁にめり込んでいるのが見えました。こりゃ大変だと」
「その後どうされたんですか?」
俺はその答えを知っている。でもこれは佐藤氏から引き出さなければならない情報だ。
「もうね、すぐに店に戻って一一九番に電話しましたよ。あの時は必死でした。とにかく早く通報しないと、と思いましたね」
──ん?
俺は違和感を覚えた。
俺は当時現場にいたが、足が竦んで動けなかった。
目の前に散乱してた破片。
もしかしたらその中に人間がいたのかも知れない。
それだけで体も頭も固まっていた。
なのに佐藤氏は、すぐに一一九番への通報を考えた。
その人の性格なのか年齢を重ねた経験値なのか分からないが、対応が違いすぎる。
「事故の……その場の状況は見ていないんですか?」
「え? ああ、トラックが壁に突っ込んで、スクーターが転がっているのが見えましたからね。またかと」
「また?」
俺は聞き返した。
佐藤氏は『また』と言った。
それはどういう意味だ?
「ああ……何て言ったらいいのか……。この通り、狭いでしょう? 接触事故なんて日常茶飯事なんですよ。ただ、ここまで大きな事故は……そうですね、十五年前くらいか……」
「十五年前?」
「乗用車とスクーターが事故を起こしたんです。その時もスクーターに乗っていた方は亡くなりましたがね」
「それも佐藤さんが通報をしたんですか?」
「え? ああ、あの時は確か……一一〇番に先にかけてしまって……ああ、一一九番が先だと思った記憶があります。人間、気が動転すると頭が止まってしまうようですね」
佐藤氏は自虐的な笑みを浮かべた。
「十五年前も同じでしたね。俺は店の中で音を聞いて店を飛び出したら事故になっていた」
「その時も雨でしたか?」
「いえ──あの時は冬で、路面は凍ってましたね」
凍結路か。日中でも日が差さないこの路地は、一旦凍ると中々融けないのだ。
「同じようにという事は、スクーターが転がって乗用車が壁に突っ込んでいた?」
「そうです」
二回目だったのか。
佐藤氏はここに店を構えて二十年。その間に二回の交通事故に関わっている。
人の生死に関わっている。
「大変だったでしょうね……」
俺は事故を起こした加害者と被害者に同情した。そして佐藤さんにも同情した。
「そうでしょうね……遺された家族は大変でしょう。先月の事故のトラックの運転手も、十五年前の時の乗用車に乗っていた人も……」
やるせない?
切ない?
俺にはそんな陳腐な言葉しか浮かんでこない。
「一瞬ですよ。人の命なんてのは油断するとあっという間です。警察はスピードの出しすぎとか、前方不注意とか、そんな言葉で片付けてしまいますが、そんなんじゃ誰も救われない」
佐藤氏は思い出したかのように、空になっていた自分のコップに酒を注いだ。
「何か飲みますか?」
「──いや、俺はいいです」
俺のビールジョッキも空だったが、もう飲む気はなくなっていた。
「だから『人殺し』なんて貼り紙されたりしたんでしょうかねぇ……」
佐藤氏は天井を仰ぎ見た。
それは違う。事故と佐藤氏には何の関係もない。ただそこにいただけだ。
「佐藤さんが気に病む事じゃないですよ。誰が悪いとかそんなんじゃない」
「そう言ってもらえると幾分救われますね。でもね」
「? 何です?」
「夢、見るんですよ」
「夢、ですか?」
「あの時一一九番と一一〇番を間違えなければ……ほんの僅かでも早く通報したり、救助活動ってんですかね、それをしていたら助かっていたかも知れない──それを夢に見るんですよ」
──俺のせいじゃない。
あの時、俺がすぐに通報すれば助かっていたかも知れない。
俺が先月の事故の詳細をニュースを見知って沸き上がった感情を佐藤氏も抱いている。
しかも、二度もだ。
「──いや、佐藤さん。もしそうだとしても、きっと結果は変わってなかったと思います」
俺が言葉に出来るのはこれくらいしかない。
「そうですよねぇ……」
佐藤氏は寂しそうな顔をして、日本酒で満たされたコップを見つめていた。
と。
携帯電話が震えた。
──何てタイミングだ。
俺は心の中で悪態をつき、「すみません、電話が」と、カウンターを立った。
携帯電話の小さなディスプレイに表示されていたのは、ローズガーデンの番号だった。
──沙樹か。今日はここまでかな。
「すみません、今日はこれで──お勘定を」
「いいですよ、今日は奢りです」
「それは悪いですよ」
「いいんです。愚痴に付き合ってもらっただけで充分です」
俺は高梨さんの言葉を思い出した。
「じゃ、これはツケでお願いします」
「……江藤さん、頑固ですね」
「まぁ、性分ですかね」
「はは……じゃ、ツケときますよ──ローズガーデンでいいですか?」
「ええ、それで」
俺は「よろしく」と言い残し、店を出た。
*
『報告』
携帯越しの沙樹の声は素っ気ない。
俺も慣れてきたのか、沙樹のそんな態度が気にならなくなっていた。人間、環境が変わればそれに対応しようとする。社会人には必須の能力だ。
「今『てんもんじ』を出た」
『それで?』
「佐藤さんが通報者だった事は確認した。十五年前もな」
『十五年前?』
「十五年前もこの場所で事故があった。状況はほぼ一緒。季節は違うがな」
『ほう……』
「佐藤さんは二度も人の生死に関わった。人殺しの貼り紙もそのせいかな、なんて言っていたよ」
『それは違う』
「ああ。そう言っておいたよ」
『そうか……』
電話の向こうで沙樹が黙り込んだ。
「どうした?」
『……十五年前か』
「十五年前がどうした?」
『いや、こっちの話だ──それより、投書は?』
「ああ、預かってきた。後で見せる」
『どんな感じだ?』
「新聞の切り抜き文字の組み合わせで『人殺し』と書いてある」
『手の込んだ事だ』
沙樹は呆れたように言い捨てた。
「俺もそう思うよ。ただ、これじゃ手掛かりにもならない」
あるとすれば、この投書がもう一度投げ込まれるかどうかだ。
それを現行犯で押さえるしかない。
『お前、また張り込みしようとか考えてないだろうな?』
「他に手を思い付かない」
『無駄だからやめておけ』
「どうしてそう思う?」
『前回の貼り紙は、アルバイトの学生、つまり内部の犯行だ。だが今回は外部だ。深夜に誰もいない時間を見計らって、誰にも見咎められずに投函するなんてリスクを犯すとは思えない』
「でも実際に投函された」
『一回はな』
「二回目はないって事か?」
『これは仮説だが……』
「何だ?」
『貼り紙がなくなった事で、犯人は別な手段を思い付いた。それがその投書だ』
「まぁ、そうかな」
『犯人は人目に付く事を嫌がっている節がある』
「? どういう事だ?」
俺は沙樹の真意を図りかねた。
人目に付かずにどうやってこの怪文書を投函出来る?
『どんな思惑があるのかは現時点では分からない。ひとつ言える事は、投書の主が店長に何らかの恨みを抱いている人物である事だ。理由は分かるな?』
「ああ。ただ目的が分からない」
『そうだ。前回はアルバイトの学生の意図がはっきりしていた。だが今回は違う。何も求めていない──少なくとも今はな』
「次がいつか分からないって事か」
『その通りだ。だから今晩張り込んでも無駄だ。万が一という事はあるが、そんな偶然に近い確率に賭ける気はない』
「犯人が人目に付くのを嫌がっているってのは?」
『私はまだその投書を見ていないが、中に入っていた紙に使われた文字は新聞か雑誌の切り抜きだ。今時はプリンタで印刷すれば、それだけで特定は困難なのに』
確かに、ワープロソフトやPC、プリンタが普及している今では、誰が書いても同じだ。誰が書いたのか特定出来ない。それをわざわざ前時代的な新聞や雑誌の切り抜きというやり方で文字列を作っている。
『その文書には明確な意図がある。何かメッセージ性を感じる』
──メッセージ性か。
新聞や雑誌から目的の文字を探し出して切り抜き、それを貼り付ける。
そこにある感情は何だ?
俺が思い付くのは、悪意、憎悪の類いくらいだ。
「それが人目に付くのを嫌がるのと何の関係がある?」
『──仮に、その投書をお前が出そうとした場合、どんな事を考える?』
「は? 俺?」
『だから、仮にだ』
──そうだなぁ。
沙樹の話を聞いたからという訳ではないが、人前に出るリスクは出来る限り避ける。チャンスは一回。とびきり効果的なやり方で『メッセージ』を伝える。
あくまで仮の話だが。
そう伝えると、沙樹は満足そうな声色で応じた。
『そうだろう? 貼り紙の件が解決したタイミング。このタイミングが最も効果的だ。そして切り抜きの文字。考えすぎならいいのだが、これを作成した人物は、てんもんじの店長にあまりいい印象を持っていない』
「二回目がない理由が分かったよ。効果が薄れるからな」
『そういう事だ。あまりいい気はしないが、毎日同じ文面で投書されても、その内気にならなくなる。それなら一発目で止めておいた方がいい──これが、私が、張り込んでも無駄だと言った理由だ』
確かにそうだ。いくら突飛な事でも、慣れてしまえばそれは『日常』だ。しかも今回は佐藤氏さえ気にしなければ、誰もそれを見る事も、そこに込められた意図も感じる事は出来ない。
「という事は、このまま放っておけばこの案件は自然解決か?」
『お前は本当に浅はかだな。その脳みそを見てみたいものだ。私は投書の二回目はないと推察しただけだぞ?』
まったく。
本当に一言多いお嬢様だ。
「別な手段を使ってくるってのか?」
『可能性はな。そこにある感情が何なのか分からないうちは、どんな可能性も排除出来ない』
可能性。直接佐藤氏へ危害を加える事、店を再起不能にする事。犯人の明確な目的が分からない今、どんな事も全て可能性の域を出ない。だが『何か』が起きる可能性は捨て切れない。
「とりあえず、俺はどうすべきかな?」
『三つ仕事があったな。一つ目と二つ目はとりあえず終わった。三つ目は情報がないだろう?』
「まぁ、佐藤氏との会話の中でそのキーワードが出たくらいだな」
『ならその聞き込みだな。アルバイトをしていた学生が使った『人殺し』、投書に書かれた『人殺し』。言葉は一緒だが、意味が違う』
「分かったよ」
俺は財布を確認した。
先月の事故現場に居合わせ、佐藤氏と思いを同じくする人間として、『人殺し』というキーワードは俺にとっても重いものだ。ローズガーデンから前借りした十万円、有効に使わせてもらおう。
「じゃ俺はその辺の居酒屋で適当に聞き込んでみる」
『ああ、それは任せる。ただ──』
電話口で、沙樹の口調が微妙に変化した。
「どうした?」
『──一つ忠告がある』
「何だ?」
『相手が特定出来ない。男性なのか女性なのか、性別も年齢も不明だ』
「それがどうした?」
『……お前な……』
「まさかお前、俺を心配してるのか?」
『バ、バカか、お前は! そんな事はない! ただ気をつけろと言いたかっただけだ。相手がどんな手段を使ってくるか分からないからな。それにローズガーデンとの関係もきっと相手は気が付いている。貼り紙がなくなった直後に投書があった事がその理由だ』
「ああ、それは俺もそう思ったよ。タイミングが良すぎる。それと、まぁ……気をつけるよ」
『分かればいい』
乱暴にぶちっと電話を切られた。
あの沙樹お嬢様が俺を心配?
俺は沙樹のこれまでの言動を思い出した。
──あり得ないね。
俺はすっかり日が落ちた空を見上げた。
曇っていて月は見えなかった。
「さぁて、どこから手を付けるかな」
──仕事で酒が飲めるなんて最高だね。
俺は自虐的な感情を頂きつつ、財布の確かな膨らみをポケット越しに感じつつ、薄暗い通りを歩き出した。
*
聞き込みの成果はさっぱりだった。
付近の居酒屋を回ったが、佐藤氏に対しての悪い評判は聞こえてこなかった。
「ああ、てんもんじの店長でしょ? いい人ですよ? ゴミ出しのマナーもいいし。俺なんてここで三十年居酒屋やってるけど、ほら、ここ裏路地でしょ? 店の入れ替わりが激しいんだよ。人来ないから。だから心配してたんだよ、あの貼り紙」
「人殺し? 冗談でもそれはあんまりだ。月一でこの界隈の店長とか経営者の会合があるけど、あんな面倒見のいい人はいないよ。まぁ、多少大雑把な所はあるが……」
「事故? ああ、先月の。あれは佐藤さんがいて良かったと思うよ。まだ向かい側の外壁に大穴が開いたままだけど、そりゃ佐藤さんのせいじゃないしな。まぁ、死んじまったのは可哀想だと思うけどよ」
「この通りが狭い? まぁ古い道だからな。拡張工事も出来ない。おかげで、車の往来が大変だよ。いっそ一方通行にしてくれればいいんだが、まぁ、それは俺らがどうこう出来るもんじゃないしな」
「接触事故が多いって? これだけ狭いんだ、ドアミラーにぶつかるなんてしょっちゅうだ。雨とか雪の日は特に多いかな。こう、バタンって反対側に倒れちまう。トラックなんかが入ってきたらとても寄せられないから、バックするんだ。すると今度は電柱が邪魔になる。どうやったってどこかに何かがぶつかる。まぁ仕方ないわな」
こんな感じだ。
俺は客が入らなくなってからの佐藤氏の姿しか知らないが、それなりに人望があるようだ。
──ん?
五軒目の店を出た時、雨粒がぽつりと落ちてきた。
──今晩は潮時かな。
俺はタバコに火を点け、沙樹に結果の報告をしようと携帯電話を取り出そうとした。
──あれ?
いつも尻のポケットに入れっ放しにしてある携帯電話がない。
──やばい、どこで落とした?
俺は居酒屋てんもんじの周辺の店しか聞き込みをしていないので、探す範囲は狭い。
特に見られてまずい情報は入ってはいないし、機種が古いのでおサイフ携帯の機能もついていない。なので実害はほぼゼロだが、何か手続きをしようにもこの時間だ、携帯電話会社の店は閉まっている。
幸いローズガーデンへの連絡先は頭に入っているので、何かあれば公衆電話かどこかの店の電話を借りればいい。記憶力だけは自信があるのだ。
「とはいえ、見つからなかったら面倒だよな……」
俺はうんざりしつつ、点けたばかりのタバコを携帯灰皿に押し込んで消した。
──しゃーない。探すか。
俺は今出たばかりの店に戻ろうとした。
「あの……」
控えめな女性の声がした。
「あの、携帯落としましたよ」
「は?」
「携帯」
見ると若い女性が立っていた。手に俺の携帯電話を持っていた。
「ああ、どうもすみません」
「いえ」
俺は携帯を受け取りながら、その女性を観察した。
年齢は二十歳くらいか。普段着だが大人びて見える。大学生だろうか?
こんな裏路地を一人で歩いて、しかも得体の知れない男が落とした携帯を拾って声を掛けるなんて、中々気が強そうだ。
──まぁでも、こんな所に似つかわしくないな。
「あの、何か?」
「ああ、いえ、ありがとう。助かりました。これがないと仕事にならないんですよ」
「お仕事ですか?」
女性は驚いたようだ。
「探偵か何かですか?」
「探偵……まぁ似たようなものかな」
「へぇ……」
興味津々なようだ。
ただの世間知らずなのかも知れない。
「ええと、この携帯どこで」
「そこで」
女性は振り返った。そこは居酒屋てんもんじの目の前だった。
「そこでタバコ吸っていましたよね?」
「え? ええ」
「その時に、コロンって」
俺はその『コロン』という表現が可笑しくて、ちょっと笑ってしまった。
その女性はそんな俺を見て、不思議そうに小首を傾げた。ちょっと可愛かった。
「ああ、失礼。コロンってのがね、ちょっと面白くて」
「コロン、ですか?」
「まぁ聞き流して下さい。それよりどうも。拾って頂いて」
「壊れてなければいいですね」
「そうか。どれ」
俺は携帯を確認した。ちょっと角がへこんでいたが、これくらいなら大丈夫だろう。
──古い機種だと沙樹は言うがな、古いとシンプルな分丈夫なんだぜ。
俺は散々世代が古いだのと言っていた沙樹の顔を思い出して、くすっと笑った。
「大丈夫でした?」
「え? ああ、大丈夫でした。古いですからね、丈夫なんですよこれ」
「分かります。今時のスマホは落としただけで画面が割れたりして」
「やった事が?」
「友人がもう三回も落としてます。なので私も携帯電話なんです」
──どうにも変な会話だな。
俺が携帯を落として、それをこの女性が拾って、なぜか会話が繋がっている。
──まるで俺がナンパしてるみたいじゃないか。
俺は辺りを見回した。
周りにはおっさんしかいない。
女性が一人でこんな場所にいる、そんな状況がどうしても飲み込めない。
興味が湧いた。
「お一人ですか?」
「それナンパですか?」
切り返された。
「いえ違いますよ。俺は今仕事中なんです。ナンパなんかしている暇はないですよ」
「何の仕事ですか?」
「それは──守秘義務ってヤツです」
「探偵さんみたいな事言うんですね」
「まぁ、似たようなものですから」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
華やかなアーケード街の裏路地で、雨に打たれながら、男女が顔を見合わせて笑っている。
おかしな状況だ。
──ついでだ、この人にも聞いてみるか。
「先月、ここで事故があったの知ってます?」
本当に軽い気持ちだった。
何かを期待した訳ではなく、単に会話の流れで出た。それだけの言葉だった。
だが女性は違った。顔から笑みが消えた。まるで別人だった。
「──ええ、知ってます。亡くなったそうですね、男性」
「そうですね、お気の毒に」
「お気の毒?」
その女性の表情に影が落ちた。声色も心なしか固い。さっきまでの明るい雰囲気は失せていた。
「え、ええ、お気の毒だと……」
「どっちが、ですか?」
「どっちって……」
「運転手とスクーターに乗った人のどっちが、ですか?」
女性の目が冷たい光を帯びた。
「どっちと言われても……」
「それを調べているんじゃないんですか?」
この女性は勘違いをしている。
俺が調べているのは事故の調査じゃない。『人殺し』というキーワードの出所についてだ。
「違いますよ。それは警察の仕事だ」
「警察はスピードの出しすぎとか前方不注意としか言いません」
「そうでしょうね」
「それなら事故を起こした側と巻き込まれた側、どちらが悪いと思います?」
「それは──」
「自動車とスクーター。自動車側の過失が大きい。それが死亡事故なら尚更です」
「一体何を──」
「お気の毒。どっちだと思いますか?」
その女性は真っすぐ俺を見た。まるで何かに挑むような、強烈な視線。
俺は答えられなかった。
先月の事故でその場にいた俺は何も出来なかった。足が竦んで動けなかった。そんな俺にどっちが悪いかなんて答えられるはずはない。
「……すみません、変な事聞いてしまって」
女性は俺から目を逸らし、「本当にごめんなさい」と小さく呟いた。
「いえ、いいんですよ」
この場から一刻も早く離れるべきだ。俺の直観がそう告げていた。
だが口が止まらない。
「もしかして……事故の関係者の方ですか?」
「いいえ!」
強い否定の言葉だった。
抗えない、そんな感情がぶつかってきた。
「私は関係ありません」
「ああ、その……それならいいです。別に俺は事故の事を調べている訳じゃないんで」
「そうですか」
それきりだった。
数分程、どちらも口を開かなかった。重苦しい雰囲気が辺りを支配した。
そのうち雨が本格的に降り始めた。
「あちゃー、降ってきたか。すみませんが、俺はこれで」
「そうですね。じゃ私もここで」
俺はほっとした。
「じゃ、気をつけて」
俺は女性に背を向け、小走りにその場を離れた。
いや、離れようとした。
その時俺の背に投げ掛けられた言葉で、立ち止まざるを得なかったからだ。
「『江藤さん』もお気を付けて」
「な!」
──なぜ俺の名前を!
俺は振り返った。
だが。
そこにはもう女性はいなかった。
──何だ? これは夢か?
女性が俺に向けたあの冷たい目。
何の感情だろうか。
彼女は関係者ではないと言い切った。強い言葉での反応。それは否定だった。
俺はさっきまで彼女がいた場所を見つめた。
これが夢だったとすれば、それは悪夢だ。
俺はしばらくの間、雨に濡れたまま動く事が出来なかった。