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第三話 タイム イズ マネー

「それでお前はのこのこ帰って来た訳か」

 のこのこ……。

 徹夜明けの俺を待っていたのは、ローズガーデンに直行して来たというのに、ねぎらいの言葉などではなく予想通り沙樹の罵声だった。

「飲み明かした揚げ句、午前様──いやもうお昼だから重役出勤か? いいご身分だな? その上報告の一つもなく、こっちから連絡してみれば何だ? 徹夜で犯人探し? 結果はどうだったんだ? お前は一体何をした? ただ飲んでいただけか?」

「一応解決したんだからいいだろうが」

 俺は不機嫌さを隠さず(というか、眠くてそんな余裕もなく)、そう切り返した。

「解決だと?」

 沙樹も不機嫌そうに応じた。

「お前、まさかこれで解決したとでも思っているのか?」

「だって『困った人』を助けただろう? 解決したじゃないか」

「何を解決したんだ? 貼り紙がなくなったのは、犯人だった学生がアルバイトを辞めたからでお前が止めた訳じゃない。HPの件もお前が何かした訳じゃないだろう?」

 確かに俺は、ただただ酒を飲み、佐藤氏の愚痴に付き合い、意地を張って徹夜して張り込んだだけだ。だがその行動がなければ、真相に届かなかったんじゃないか?

 そう言うと沙樹は鼻で笑った。

「真相だと? なら聞くがな。なんでその学生は『人殺し』等という物騒なキーワードを思い付いたと思う?」

「……何人かに相談した結果らしい」

「ふぅん」

「ふぅんって、それだけか?」

「考えても見ろ。今回の騒動にこのキーワードはあまりに突飛だ」

「そうか?」

「そうだ」

 沙樹は言い切った。

「居酒屋だぞ? 何も人命に関わる言葉を使わなくてもいいはずだ。その学生がやっていたのはただの嫌がらせだ。自分の給料のためのな」

「それなら何て書いてあれば良かったんだ?」

「それくらい自分で考えろバカ」

 バカ呼ばわりされた俺は考えた。学生が言っていた『殺人的料理』が出された事を思い出した。

「あー、ここの料理はまずいです、とか?」

 沙樹は満足そうに頷いた。

「ほら、それで充分じゃないか。それなのに、『人殺し』なんて言葉を使ったのはなぜだ?」

「……それは、そのなんだ」

 俺は言い淀んだ。

 確かに先月の事故の件があったとは言え、『ここは人殺しの店です』なんて貼り紙はちょっと行き過ぎだ。あの学生も佐藤氏を快く思っていなかったようだが、人殺しなんて言葉を使うからには、何かの恨みでも持っているかのようにも思える。

「過去に何かあった……とか?」

「本当にお前は曖昧な語尾を使うな。しかも疑問形で。まぁいい。アルバイトの学生と店長の間に何らかの揉め事があったと言いたいのだな、お前は」

 あり得ないだろうなぁ。あのとぼけた店長とそんな命のやり取りをするような『揉め事』があったとは思えない。俺は苦し紛れに思い付きを口にした。

「例えば、アルバイトの学生の彼女か友人が、店長にひどい目に遭わされた」

「お前それ、本気で言っているのか?」

 沙樹の視線が鋭く俺を貫いた。

「……いえ、思ってません……」

「ならやるべき事は一つだ」

「な、何だ?」

 沙樹はため息をついた。

 そのタイミングでティーカップが目の前に現れた。

 高梨さんだ。

「沙樹様、江藤様。お茶が入りました」

 ──なんでこの人は一切音を立てないんだろう?

「ああ、ご苦労」

 沙樹がカップに口を付けた。一瞬だけ優雅な雰囲気が漂った。

「沙樹様。宜しいですか?」

「ん? 何だ?」

「先程、居酒屋てんもんじの佐藤門次郎様から電話がありまして」

「内容は?」

「はい。差出人不明の投書があったと」

「投書?」

「はい」

「中身は?」

「はい。『人殺し』の一言が書かれていたそうです」

「何だって!」「ふぅん」

 俺と沙樹の反応は正反対だった。

「沙樹お前、何でそんなに落ち着いているんだ? 今度は貼り紙じゃなくて投書だぞ? しかも『人殺し』って書いてあったんだぞ?」

「言っただろう? まだ仕事は終わっていない。学生が『人殺し』というキーワードを使った理由が判明していない」

「それはそうだが……」

「いいか? 人が死ぬとか生きるとか、それはただの思い付きで使うような言葉じゃない。学生本人に自覚があるかどうかは知らんが、私なら何か外的な要因があったと考える。それに、今聞いたように、差出人不明の投書にも同じような言葉が書かれていた。もうこれは学生の思い付きとか、そんな次元ではない」

「じゃ俺はどうしたらいいんだ?」

「居酒屋てんもんじの店長は、私たちにとってどういう存在だ?」

 ただの飲ん兵衛のおっさん。

 ではなく、困った人、つまり依頼主だ。

「まだ仕事は終わっていない。そういう事だな?」

「そうだ」

 足りないのは情報だ。それを補えるのは人間しかいない。

 だがその情報をどうやって入手すればいいのか。

 周辺住人に聞き込みでもするか?

 俺が考え込んでいるのを見かねたのか、沙樹が口を開いた。

「一つお前に情報をやろう」

「情報?」

「──高梨」

「はい」

 沙樹はカップを持ったまま高梨さんに話を促した。

「江藤様、先月の交通事故の件をご存知ですか?」

 俺はびくっと体を震わせた。

 ──なぜここで事故の話が出てくる?

 あれは俺のせいじゃない。俺はその場にいただけだ。

 そっと沙樹を伺うと、優雅に紅茶を飲んでいた。特に俺の挙動に気付いた様子はない。

「あ、ええ、ニュースで見ましたが……?」

「その事故の通報者は、佐藤門次郎様です」

「え!」

「居酒屋てんもんじの佐藤様が、事故の第一発見者で通報者なのです」

 ──なんだと?

 高梨さんは抑揚のない感情の篭っていない口調で、とんでもない事を口にした。

 あの時その場にいたのはトラックの運転手と被害者と俺くらいだったはずだ。

 そこにどうして佐藤氏が出てくる?

「なんで第一発見者が佐藤氏だと知ってるんだ?」

「あのな、祐一」

 沙樹がカップをソーサに置き、俺を睨めつけた。

「お前はここがどこか分かって言っているのか?」

「ど、どこって、ローズガーデンだろう?」

「そうだ。ローズガーデン──この街で起こった事で知らない事はない」

「? それはどういう意味だ?」

「言った通りの意味だ」

 沙樹はカップに口を付け目を閉じた。これ以上説明するつもりはない。沙樹が纏う雰囲気がそう言っていた。

 俺は高梨さんを見た。高梨さんは視線を合わせてくれなかった。

 ローズガーデン。困った人を無償で助ける場所。それ以外にも何か目的があるのか。

 いくら考えても分からなかった。

 俺は昨日、突然高梨さんに声を掛けられ、気が付けばローズガーデンの一員として『困った人』の手助けをしている。

 そもそもローズガーデンの役割って何なんだ? 慈善団体か?

 少なくとも、この二人からはその答えは得られない。

 その上俺は徹夜明けだ。これ以上の思考は無理だ。

「これでお前の仕事は三つになった」

「三つ?」

「……お前、たった一晩徹夜しただけで脳みそが活動停止するのか?」

 労基署の職員が聞いたら卒倒しそうなセリフだった。

 沙樹はため息をついた。

「──まず、居酒屋てんもんじに投げ込まれた投書の確認。それと事故当時の詳細の確認。この二点だ。二つと言ってもどちらも聞き出す対象は同一人物だ。楽なもんだろう?」

「もう一つは?」

「……お前、ちょっとは頭使え。脳みその(しわ)がなくなるぞ」

 本当にこのお嬢様は一言多い。

「学生が使った『人殺し』の意味だよ。事故を起こした張本人って訳ではないだろうから適当に聞き込んでみろ」

 かなり大雑把な指示だな。

「何か文句があるのか?」

「いや……」

 俺は『大雑把』というキーワードを飲み込み、「ちょっと眠いかな、と思って……」とごもごも言い訳した。

「あのな……そもそもだな」

 沙樹は人さし指を俺に突きつけた。

「私は徹夜しろなんて言った覚えはない。それを勝手に徹夜して。私が賭けるか? と言った時に素直に安アパートのとっちらかった部屋に帰って寝ていればいいものを」

「とっちらかっているんじゃない、手に届く範囲に物があるだけだ……というか、何でそんな事までお前が知っている?」

「お前の部屋の惨状なんかに興味はない。多分そうだろうと思った言ったまでだ。なぁ、二十八歳独身男?」

「ぐ……」

 言い返せなかった。部屋がとっちらかっているのは事実だからだ。

「今この時点で居酒屋てんもんじの問題は何も解決していない。疑問が増えただけだ。根本は何も変わっていない。違うか?」

「だがな。嫌がらせの真相を突き止めたのは俺の功績じゃないのか?」

「私の推理だ。お前はそれを追って確認しただけだ」

 俺と沙樹は睨み合った。

 一触即発。

 そんな空気感が周囲を支配した。

「沙樹様。ちょっと宜しいですか?」

 重苦しい雰囲気の中、高梨さんが口を挟んだ。絶妙なタイミングだった。

「何だ、高梨」

「江藤様が居酒屋てんもんじへ赴かれるにしても、今はまだお昼です」

「何が言いたい?」

「差し出がましいようですが、今動くのはあまり得策ではないと存じます」

 これは助け船なのか? それとも追い討ちなのか?

 俺の寝不足でボケた頭では判断出来なかった。

「まだ開店前ですので、恐らく佐藤様とお会いするには店ではなく、ご自宅に伺う事になります。佐藤様のご家族に、無用なご心配やご迷惑をお掛けするのではないかと」

「つまりお前は夜まで待てと言うのだな?」

「左様でございます」

「よし分かった」

 沙樹は立ち上がった。

「祐一。お前は一旦とっちらかった自分の部屋に戻れ。で夜になってから噂話の聞き込みをしろ。とにかくその徹夜明けの寝ぼけた顔を何とかしろ。面白くてしょうがない」

 そう言う沙樹は、ちっとも面白そうな顔はしていなかった。

「聞こえなかったのか?」

 沙樹の目は、とっととここから出て行けと言っていた。ように見えた。

「──分かったよ。じゃ夜な。一応聞いておくが、夜までは俺は寝ていてもいいんだな?」

「お前の睡眠時間など知った事じゃない。勝手にしろ」

 という事で俺は夜まで自宅で待機(睡眠)する事になった。


 *


 俺の部屋は沙樹が言った通り、家賃四万の安アパートだ。更に言えば部屋の中は『とっちらかって』いる。人が見ればそう見えるだろうが実は違う。万年床を中心にあらゆるものに手が届く絶妙な配置なのだ。欠点は掃除が出来ない事くらいだ。

 俺はとりあえず鳴きっ放しの腹を騙すべく、帰りにコンビニで買い込んだ総菜パンを頬張った。

 味なんかちっともしなかった。

「さて。とりあえず寝るかぁ」

 と言ったものの、ここに来るまでに眠気は失せていた。

 TVを点けてみたが、下らないワイドショーや食べ物レポートの番組しか放送していなかった。

 俺は二個目のパンに取りかかりつつ、沙樹の言葉を思い浮かべていた。

『今この時点で居酒屋てんもんじの問題は何も解決していない。疑問が増えただけだ。根本は何も変わっていない』

 確かに。

 嫌がらせの貼り紙はもう貼られる事はないだろうが、投書はどうだろうか。

 毎日投書が投げ込まれるような事態になれば、被害届を出すとか面倒な事になりかねない。しかも先月の事故の第一発見者で通報者ともなれば、痛くもない腹を探られるハメになりかねない。

 そしてそれは、居酒屋てんもんじの更なるイメージダウンに直結する。

 沙樹の言う通り、依頼を受けてから一日経った今でも、問題は何も解決していないに等しい。

 それにだ。

 先月の事故当時、俺はそこにいた。本当の第一発見者は俺なのだ。通報出来なかったのは俺の心の問題だ。もしかするとその投書は俺に向けられていたのかも知れないのだ。

 それに沙樹の言う『人殺し』の意味。

 嫌がらせにしては物騒過ぎる。

 疑問は増える一方だ。

 これらがどう繋がるのかは、俺の貧相な頭では予想も出来ない。俺に出来るのは情報収集、つまり聞き込みくらいだ。通行人に聞いても意味はないので、てんもんじがある通りに並ぶ居酒屋をはしごするくらいしかない。

 ここではたと気が付いた。

 ──俺今現金がほとんどないぞ?

 居酒屋を飲み歩かないと情報は入手出来ない。これは必要経費か? いや、きっと経費だ。これは『仕事』だ。俺は憂さ晴らしで飲み歩く訳ではないのだ。

 そう思い込む事にして、俺はローズガーデンに電話を入れた。

『はい。一条でございます』

 ほっとした。出たのが高梨さんだったからだ。沙樹が出たらどうしようかと思っていた。

「あ、江藤です」

『どうなさいました?』

「実は相談と言いますか、確認が」

『経費の件でございますね?』

 は? なぜその事を?

『沙樹様が、きっと金の事で江藤様から連絡が入るからと仰っておられました』

 何という勘の鋭さか。しかしこれでは先手を打たれたも同然だ。

 不利か有利か。

 ここは正直に打ち明けるべきだろう。

「実は、昨日の飲み代の件ですが……」

『経費としては認められない──そう仰っておられました』

「は?」

『つまり、成功報酬として仕事が完了したらその時にお支払いする、という事です』

 高梨さんの口調は柔らかい。だが内容は冷徹だった。

「お、終わってからですか?」

『左様でございます』

 困った。これでは飲み屋で情報収集するどころか、今日の昼飯すらも怪しい。俺は手に持った総菜パンを見た。もう半分なくなっていた。

「ええと。実はですね。今手持ちが心もとなくて、仕事に影響が出ると思うんですよ」

『承知しております』

「いや、だからね」

 俺はどう切り出したものか躊躇った。

 金を貸してくれ。

 言うのは簡単だが、断わられた時のショックは計り知れない。

 二~三日なら耐えられるだろうが、それまでに仕事が終わる保証はない。

 死活問題だった。

「ええとですね」

 俺は腹を括った。

「お金を貸して欲しいんです」

『それは前借りという事でしょうか?』

「え? は? ええ、そうです。前借りでも何でも」

『それは致し兼ねます』

 高梨さんは、きっぱりと、ばっさりと、俺の僅かな希望を切って捨てた。

『我がローズガーデンでは、報酬や給与に関して前借り等の行為は許されておりません。江藤様がサインされた契約書にもそう記載されております』

 死刑宣告にも等しい言葉だった。

「あ、ええと、そうですか……」

 出来ないと分かると、人間は自分を正当化する屁理屈を作り上げる。我ながら現金なものだと思う。

 そもそもだ。

 仕事の指示を出したのは沙樹だ。

 その仕事をするにはどうしても手持ちの現金が必要になる。

 それならそれは経費だ。

 そしてその経費は仕事が終わらないと手に入らない。

「それだと聞き込みをするのは難しいですよ?」

 俺は開き直った。

「投書の件は別ですが、居酒屋てんもんじの店長から事故の話を聞くとしても、何も飲まずに話だけ、なんてのはあの店長が応じるとは思えません。それに例の言葉の意味を調べるにしても通行人に聞き込みしたら怪しまれるだけで実はない。それなら近隣の居酒屋を何軒か回って、その店の店長とかに聞いた方が効率がいい。そうでしょう?」

『左様でございますね』

「でも今の俺には、居酒屋どころかファストフード店に入る事すら出来ない。これが何を意味するかお分かりでしょう?」

『左様でございますね』

 高梨さんは揺るがなかった。

 ──手強い。

 これなら沙樹が電話に出た方が話が通ったかも知れない──泣き落としでもすれば。

 俺は情に訴えかける事にした。

「高梨さん」

『はい』

「俺は仕事を失って日が浅い。そもそも蓄えがないんです。今持っている総菜パンでほぼ財産が尽きたも同然なんです」

『はい』

「まさか無銭飲食を勧めている訳じゃないでしょう?」

『それは犯罪ですのでお勧め致しません』

「そうでしょうとも」

 俺はしたり顔で頷いた。

「──それなら答えは一つしかない。違いますか?」

 俺は高梨さんの答えを待った。

 待ったが、答えが一向に返って来ない。

「……もしもし?」

『聞こえております』

「あのー、ですから」

『ツケになさればいいのでは?』

「は?」

 ツケ?

 誰が?

『この街のほとんどの店では、一条かローズガーデンの名を出せばツケてくれます。請求書が後日こちらに回ってきますので、経費かどうかはその時点で』

 そんな手が使えるのか?

「そ、それを早く言って下さいよー。余計な心配をしたじゃないですか」

 俺は照れ隠しに砕けた口調で言い繕った。とりあえず当面の危機は回避出来た。

『ただ、沙樹様が経費と認めなかった場合、江藤様の報酬から棒引きされます』

 う。

 俺は、沙樹を相手にして請求書片手に必死になって、これは経費だ、いや違う、とか言い争いをしている光景が目に浮かんだ。

 どうにも危ない橋を渡っている気がした。

 なので別なアイディアに賭けてみる事にした。

「……高梨さんから借りるなんてのは無理ですよねぇ」

『私、ですか?』

 高梨さんは驚いたようだ。

「やっぱり無理ですよね?」

『……申し訳ございません。私は小遣い制でして……』

 は? 小遣い? まさか沙樹からか?

「それはその、つまり、沙樹から小遣いを貰って?」

『いえその……言い忘れておりましたが、私は既婚でございます。小遣いは愚妻から』

 俺は高梨さんの思いがけない一面を垣間見た気がした。

 恐妻家か愛妻家か知らないが、まさか結婚されていたとは……。

「ああ……それは大変そうですね」

 俺は既婚の友人に「小遣い制は辛いぞ。タバコの本数減らさないと飲みにも行けやしない。お前はいいよなぁ」と羨ましがられていた(愚痴られていた)事を思い出した。

『お察し頂けたようで……何とも情けないお話ではございますが……』

 高梨さんは電話の向こう側で恥じ入ったようだ。

「いえいえ。そもそも俺が貧乏なのが悪いんです。それを高梨さんから借りるなんて……こちらこそ、すみませんでした」

 言ってて自分が情けなくなった。

『お力になれず、申し訳ございません』

「いえいえいえ」

『……ちょっと替われ!──さ、沙樹様?──いいから替われ!』

 突然向こうの電話口が大騒ぎになった。

『お前! 祐一!』

 いきなり沙樹が怒鳴り声で割り込んできた。

 電話越しに噛みつかんばかりの勢いだ。

『どうせ経費の件で電話が入ると思っていたが、何だ、言うに事欠いて高梨に縋り付くなんて良くそんな事を思い付くものだ。お前には恥とか外聞とか羞恥心とか矜持とか全然ないのか?』

 いや、一応それらはあるにはある。ないのはお金だけだ。

『話は高梨の脇で聞いていた。仕事が出来ないのは私がお前に金を払わないからだと言っていたな?』

「いや、そこまでは言ってない」

『言ったも同然だ』

 沙樹はぴしゃりと言った。

 そして続けた。

『賎しくもローズガーデンの人間が、お金の問題で仕事が出来ないなどと良くも言えたものだ』

「そんな事を言ってもな、無い袖は振れないだろう? ツケでどうにかなると高梨さんが言ってくれたが、そのツケだってお前が認めないと俺の報酬から引かれる。お前は俺にどうしろって言うんだ?」

『私の事をお前と呼ぶな!』

「ぬ……」

『お前にお前呼ばわりされる覚えはない』

「わ、悪かったよ」

 俺は素直に謝った。初めに会った時、このお嬢様は『お前』と呼ばれるのを嫌がっていた事を思い出したからだ。

『よし分かった』

 へ? 何が?

『とりあえず十万。今から高梨に渡す。これで充分だろう? え? これでもし仕事にしくじってみろ。タダでは済まさないぞ』

 急展開だ。十万円の現金がとりあえず用意される事になった。だがその後が恐ろしい。沙樹が言う『タダでは済まさない』──俺はこの意味を図りかねた。

「あのー、沙樹さん?」

『何だ』

「『タダ』では済まさないって、もしかしてクビですか?」

『そんな生ぬるい事を考えていたのかお前は? 私も見くびられたものだ。一条家の人間として情けない思いだ』

 一条家の風習がどんなものかは俺には分からない。だから『タダでは済まさない』の意味はきっと想像出来ない。だがとんでもなく恐ろしい事だとは直観出来た。

 仕事をしなくても俺はローズガーデンから逃れられない。仕事をしても沙樹から事あるごとに責め立てられる。

 ──もしかしたらこれは、どんな苦行より大変なんじゃないか?

 そんな俺の思いを余所に、沙樹の罵詈雑言は続いていた。

『大体昨晩の件だって、私の推理がなければ丸一日無駄にしていただろうが。それに何だ。徹夜までして。しかも深夜まで報告の一本もなしに。お前は仕事をしているという自覚があるのか? 高梨を見習えとは言わない。無駄だからな。無駄と言えばこの時間も無駄だ。一体何分通話している? 時は金なりという言葉を知らんのか? それにお前、睡眠不足なんじゃないのか? 眠いと言っていただろう? なんで起きている?』

 後半はもう頭に入って来なかった。

 かろうじて『経費について連絡がある』と想定しておきながら『なんで起きている?』と言うのは矛盾があるなーと思ったくらいだ。沙樹も寝不足なのかも知れない。

『だからお前は……』

「あー、沙樹?」

『何だ、人の話の腰を折るな。テレフォンオペレータは顧客の言葉を遮ってはダメなのだろう? 大体お前は仕事に対するスタンスが──』

「沙樹!」

『……何だ、急に大声出して』

 さっきまで大声で怒鳴り散らしていたのはどこの誰だ、という言葉を俺は辛うじて飲み込んだ。

「お前──いや、沙樹の言いたい事は分かった。十万円も高梨さんから受け取る。それで仕事が出来る。それなら今は先にやるべき事があるんじゃないか?」

 沙樹が徹底して熱くなっているものだから、俺は逆に冷静になっていた。

 仕事をするにしても今は午前中だ。まだ時間がある。

 それまでにすべき事は何だ?

『何だその先にすべき事って?』

「一刻も無駄にしない。時は金なりだ。ならお互い答えは一つだろう?」

『だから何だと聞いている』

 沙樹の口調が通常(?)に戻った。冷静さを取り戻したらしい。

「簡単だ──寝るんだよ」

『……』

「あ、おい、狡いぞ、無言になるのは」

『……いや、すまん。ちょっと呆れてしまったようだ』

「おま──いや、沙樹。睡眠ってのは大事なんだぞ? 頭は回らなくなるは行動に無駄は出るは、財布だってどこに置いたか忘れてしまう」

『忘れた事があるのか?』

「数え切れないくらい」

 俺は部屋を見渡した。早速財布が行方不明になっていた。

『お前の生活環境が見えてきたよ。想像通りだな』

 沙樹がぼそっと呟いた。が、俺は聞かない事にした。

「とにかく」

 俺は財布を探すのを諦め、この不毛な会話を終わらせようとした。どうせ部屋のどこかにある。後でゆっくり探せばいい。

「まず寝る。沙樹も寝不足だとご自慢の推理力も働かないだろう?」

『まぁ、そうだな』

 ふぁ、と声がした。どうやらあくびをしたようだ。

「そうだろう? それに仕事といっても今出来る事はない。本番は夜だ。今から備えておく事も大事だ」

 財布を探したり、寝不足を解消したり。それなりに忙しそうな気がした。

『……分かった』

「じゃ、高梨さんに替わってくれ」

『何故だ?』

「お金預けるんだろう? 待ち合わせの時間とか場所とか決めないといけないだろう」

『お前がこっちに来ればいいじゃないか』

 またローズガーデンまで行くのか? あんな街外れまで?

「ええとな。それは効率が良くない」

『何故だ? タクシーを使えばいいじゃないか』

「そうすると、そこからまたタクシー使って街中に移動する事になるだろう? 時間と金が勿体ない」

『……お前にしては上出来な考えだな』

 ローズガーデンに行ったら沙樹を顔を合わせる事になる。そうなればまた不毛な論争に火が点きかねない。それこそ時間の無駄だ。

「そ、そうだろうとも。俺だってちょっとは頭を使うんだ」

『そのようだな──じゃ、今高梨に替わる──って、あれ?』

「どうした?」

『いや、さっきまで、そこにいたんだが……』

 そのタイミングでドアベルが鳴った。

 まさか……。

「沙樹。ちょっと待ってくれ。誰か来たみたいだ」

『ん? ああ』

 俺は携帯電話を片手にドアを開けた。

 ──やっぱり……。

 そこには高梨さんが立っていた。


 *


「沙樹様よりお預かりした現金をお渡しに参りました」

 高梨さんは何事もなかったかのような顔で戸口に立っていた。袱紗を持っていた。きっと現金が包まれているに違いない。

 ──この人は隙ってのが全然ないな。

 音も立てずお茶を入れ、あらゆるタイミングで登場し、その時々で必要となる物を用意する。

 一体どこでこの立ち居振る舞いを学んだのか。

「沙樹? 聞いているか?」

『ああ、聞いている』

「今な、高梨さんが目の前にいる」

『……』

 さすがの沙樹も絶句したようだ。携帯電話の通話口からは音一つ聞こえてこない。

「沙樹様からお預かりした十万円でございます。お確かめ下さい」

 高梨さんは袱紗を丁寧に解き、中に入っていた封筒を俺に手渡した。

 万札のずっしりとした重みがあった。

『祐一、ちょっと高梨と替わってくれ』

「あ、ああ──高梨さん、沙樹から」

「はい」

 俺は高梨さんに携帯電話を渡し、封筒の中身を確認した。

 ピン札が十枚。きっちり表裏が揃って十万円入っていた。

 これで俺は仕事をしなければならなくなった。

 俺は小さくため息をついた。

「江藤様」

 高梨さんは携帯電話を差し出しながら俺を呼んだ。話は済んだようだ。

「はい?」

「沙樹様から伝言が」

「何でしょう?」

「後は任せる。だが何か進展があったら報告は必ず入れるように。との事です」

「あ、ええ。分かりました。それより高梨さん」

「はい」

「何でここに?」

 俺は惚けた頭で素朴な疑問を口にした。

「それは──」

 高梨さんは朗らかに微笑みこう言った。

「時間の浪費を避けるため、つまり──」

 ああ……この人は。

「タイムイズマネー、でございます」

 俺は恐れ入るしかなかった。


 *


 その後俺は財布を探すのに手間取り、結局まともに眠れなかった。

 かくして、せっかく高梨さんにご配慮頂いた『タイムイズマネー』は無駄に終わったのだった。


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