第二話 ソルティドッグ
俺は一旦アパートに戻り、スーツに着替え、ひげを剃ってから『居酒屋てんもんじ』に向かった。
仕事だと思ったからだ。
仕事ならそれなりの身なりというものがある。これは俺の信条の一つだ。
資料を手繰ると、『居酒屋てんもんじ』『アーケード街の裏通りの雑居ビルの1F』と書かれた付箋が、地図に貼られていた。
時刻は夕方に差し掛かっていたが、まだ暗くはなっていない。
だがその路地は、昼間はビルの影で、夜は照明が少ないせいで薄暗く、すこぶる視界が悪い。
「まさか仕事でここに来る事になるとはな」
ふと見ると、道路脇に供えてある花束が目に入った。
薄暗いはずの路地で、なぜか花束だけが鮮明に俺の目に映る。
──いつまでも過ぎた事を……。
俺は仕事に集中しようと頭を振った。
目的の店はすぐに見つかった。店長と思しき男性が店の外で待ち構えていたからだ。
「ローズガーデンの江藤さんですよね?」
『居酒屋てんもんじ』の店長と思しき男性は、開口一番そう言った。
「はい? ええ」
俺が生返事を返すと、腕を掴まれ店に引きずり込まれた。まるで何かに脅えているようだった。
店内は、居酒屋独特のアルコール臭が鼻につく。照明も暗く、落ち着いて飲むにはいい雰囲気だ。
「ああ、ええと……」
俺は自己紹介しようとして、自分の身分、ローズガーデンの人間である事を証明する物を一切持っていない事に気が付いた。
──あれ?
なぜこの男(店長と思しき男性)は、俺がローズガーデンの人間だと知っているんだ?
「どうして俺がローズガーデンの者だと?」
「高梨さんから連絡がありました。江藤という者が伺います、と言われましたが……違うんですか?」
「ああ、いえ……違いませんけど……」
何と手回しのいい事か。「そういう事ですか……」
「それならもうお分かりでしょう? 困っているんです」
「どなたが……ですか?」
「私がです! ここの店長の私が困っているんです!」
怒鳴りつけられた。
俺は何となく首を巡らせた。
店内は開店直後らしいが、俺と店長以外誰もいない。
俺は沙樹から借り受けたコンパスを取り出した。
例の『困った人』を指し示すコンパスだ。
コンパスは(多分)北を指していた。少なくとも店長を差してはいなかった。
「これには反応してませんね」
「何ですか、それ?」
「俺も分かりません」
正直、このコンパスの変な機能なんて信じていない。
俺はコンパスをポケットに放り込み、カウンター席に着いた。
「何かお飲みになりますか?」
何気なく店の古びた時計を見ると、四時ちょっと回っていた。アルコールを腹に入れるにはちょっと早い。
「じゃあ、烏龍茶を」
「烏龍茶?」
「そう、烏龍茶」
「あなた、下戸ですか?」
「いえ? 何でですか?」
「居酒屋に来ていきなり烏龍茶なんて、居酒屋の流儀に反するでしょう?」
何の流儀か分からなかった。
「……じゃ、とりあえずビール」
「あなたね」
店長はカウンター越しに俺を睨み付けた。
何だこのおっさんは?
「その『とりあえずビール』って言葉、ビールに対して失礼だと思いませんか?」
どうやら店長は既に酔っぱらっているようだ。どうもアルコール臭いと思っていたら、単に居酒屋だからというだけではなく店長が既に出来上がっていたのだ。
俺はため息をついた。もうため息を何度ついたのか不明だった。
「……それではまずビールを下さい」
「……ビールでいいんですね?」
「……ビールじゃダメなんですか?」
俺はビールを譲らなかった。特にこだわりがあって言っているのではない。一旦『ビール』と言った手前、引っ込みがつかなくなっただけだ。
今度は店長がため息をついた。
「……何でそんな単価の安い注文から入るかな……」
おいこら。聞こえてるぞおっさん。
その言葉を飲み込み、俺は沙樹から渡された資料を取り出した。
ビールが出てくるまでの間で、依頼が何なのか確認しておこうとしたのだ。だが資料には、いくら読み返しても『店長が困っている』としか書いていない。店長の細かなプロフィールは書いてあるが、ここに来て何の行動を起こせばいいのか、その具体的な最も重要な情報がない。
これでは何の為の資料なのかさっぱりだ。
「お待たせしました」
勢い良くキンキンに冷えた中ジョッキが出てきた。泡とビールのバランスが良い。七対三だ。泡もきめ細かい。
ぐっとジョッキをあおる。
──うまい!
俺は確かな満足感を得た。
「枝豆ありますか」
「はいよ」
どん、と目の前に枝豆が大皿で置かれた。
「ちょ、これ多すぎるぞ、これ」
「いいんですよ」
「は?」
「どうせ、今日も客なんか来ないんだ」
「どういう事ですか?」
「あれ? 聞いてないんですか?」
「いや……」
俺は言葉を濁した。まさか何も聞いていないとは言えなかった。
「とにかく、あんな事をネットで晒された日にゃ、客なんざ来やしない」
「あんな事?」
「これですよこれ」
店長はどこからともなくノートPCを取り出し、俺に見せた。
どうやらこの店のHPのようだ。
そこには店のバナーより大きく、あまり穏便ではない文字が表示されていた。
『ここは人殺しの店です』
──うーん……?
「これのせいで客足がぱったりと途絶えましてね。アルバイトには逃げられるは予約はさっぱり入らないは。もう閑古鳥が鳴きまくってますよ」
店長は禿げ上がった頭をなで、あははと笑った。
ここは笑う所ではない気がした。
「これはいつから?」
「先月ですかね? ほら、この通りで事故があったでしょう?」
「ああ……ありましたね」
俺は胸がちくりと痛んだ。
「それ以来なんですよ」
「何がですか?」
「客がさっぱり来なくなったんです」
「はぁ、それはまた……」
「それでおかしいなと思っていたら」
「この文字が書かれていた、と?」
「そうです」
HPを改ざんされたらしいが、それだけで客足が遠のくだろうか?
「HPは修正したんですか?」
「アルバイトの学生さんに作ってもらったんで、直してもらったんですけどね。でも直しても直してもこの文字が表示される。もうね、放って置いてますよ」
店長はすっかり投げ遣りになっていた。
「被害はこれだけですか?」
「他にもありますよ。見ますか?」
「ええ」
店長は店の奥に引っ込み、大量の紙の束を持って出てきた。
「これが店の扉に貼ってあったんです」
それはHPの言葉と同じ『ここは人殺しの店です』と書かれたA4の紙の束だった。
「これも先月からですか?」
「ええと……そうですね。HPの件と同じ頃だと思います」
店長は大きく肩を落とした。
「さすがに貼られっぱなしだと、いくら店を開けていても人目に付くから剥がしてるんですけどね。翌日店に来るとまた貼られているんです」
「さっき俺が来た時は貼られてなかったですが?」
「剥がしたんですよ」
店長は一枚のA4用紙を俺に見せた。
四つ折りにされ、広げると四隅にテープで留められた跡があった。
「わざわざ畳んだ後がある。ポケットにでも入れて来るんでしょう。嫌がらせにも程がある」
店長は疲れ切った表情でため息をついた。
HPについては、余程この店に思い入れがあるか、何かの偶然でこの店を探しさえしなければ人の目には触れないだろう。だが、店のドアにこんな物が貼ってあれば確実に目に付く。
少なくとも、この紙が貼られてから店長がここに来るまで時間、この文字が人の目に晒される事になる。
「これじゃ客は来ませんね」
「そうでしょう?」
俺はジョッキをあおり、ビールを飲み干した。
「ええと、佐藤、門次郎さん?」
俺は資料を片手に、店長の名を呼んだ。
「はい?」
「困っている事は分かりました。いっそHPは閉鎖して、後はこの貼り紙がされないように監視する。今出来るのはそれくらいですかね」
「そうですか……」
店長こと佐藤門次郎氏は力なくうな垂れた。期待した答えではなかったようだ。
「……HPの閉鎖は出来ますが……その紙が貼られないようにずっと監視するのはどうしたものか……」
俺を見るその目には、『何か』の期待が込められていた。
──やっぱり俺だよな……。
佐藤氏の話では、その貼り紙は毎日貼られている。それなら店が終わった後徹夜でもして張り込めば、犯人が新しい貼り紙を持って現れるはずだ。
俺は店長の期待の籠もった眼差しに負け、仕方なくその監視を申し出る事にした。
「分かりましたよもう。今晩俺が店の前で張り込みします。で、現行犯で取っ捕まえる。それでどうです?」
季節は初夏。徹夜で張り込んでも風邪をひく事はないだろう。体力的にも一晩くらいなら徹夜しても……まぁ大丈夫だろう。
「現れますかね」
「まぁ現れないなら、それはそれでいいんじゃないですか?」
さすがに連日張り込む訳には行かない。
とりあえずの策でしかない事は百も承知だ。
「そんな無責任な」
佐藤氏はあからさまに俺を非難した。
俺に言っても何も解決しないだろうに……。
「まず相手の出方を見ましょう。それより一つ質問が」
「なんでしょう?」
「人、殺したんですか?」
俺は目の前の人の良さそうな店長を見た。とても人を殺したようには見えない。どこの誰だか知らないが、そこまでして主張するのだ。何かはあったはずだ。
「滅相もない。私はただの居酒屋の店長ですよ。人様を手にかけるなんてとんでもない」
そりゃそうだろう。仮に殺していたとしても「はい殺しました」なんて言う訳がない。
俺はビールのお替わりを催促しながら、枝豆をついばんだ。
──先月か。
先月何があったのか、それが問題なんだろう。本人が自覚していない何か。人の恨みを買うような事があったのかも知れない。まさか先月の事故に関係する事はないだろうが時期が一致する。と、ここまで考えて、これは俺の偏見だなと思った。
「どんな些細な事でもいいんですが……先月、この店で何かありませんでしたか?」
「こっちが聞きたいくらいですよ」
「ケンカとかなかったんですか? 酔っ払い同士で、そう──言い争いがあったとか」
「ここは居酒屋ですよ?」
店長はなぜか胸を張った。
「客同士が意気投合するか、言い争いになるか。それにいちいち干渉してたらこんな仕事出来ませんよ」
なるほど。
客同士の揉め事は基本放置か。
俺は切り口を替えた。
「アルバイトを雇っていたと言いましたよね?」
「昨日辞めましたけどね」
「は? 昨日?」
「そう、昨日」
「そりゃ突然ですね。理由は?」
「給料が安いんだそうですよ」
「安い? そんなに安いんですか?」
「普通ですよ。ただ長く働いてもらっていたので、欲が出たんじゃないですか?」
佐藤氏はうんざりした顔をした。
まぁうんざりしたくもなるか。客は来ないし、アルバイトは給料上げろと我儘を言う。酒でも飲まなきゃやってられない。そんな雰囲気がこの店に充満していた。
「とにかく時給上げないと他所に行くとか言うので、それなら辞めてもらって結構だという事になりましてね」
やれやれ。金銭トラブルかい。
「どうせ客も来ない。暇でしたからね」
二杯目の中ジョッキが、どん、と目の前に置かれた。
「こっちだってもう火の車なんだ。余計な人件費を払う余裕なんてない。このままじゃ来月にも店を畳まなきゃならない」
「まぁそうでしょうね」
言ってからしまったと思った。
「まぁ? そうでしょうね?」
佐藤氏の目に剣呑さが宿った。
「あなた、困った人を助けるんでしょう?」
「え、ええ、まぁ……」
「それが何です? こっちが店を畳なきゃならないような状況を、言うに事欠いて『まぁそうでしょうね』だって?」
これは止まらないな。俺は観念した。
「ええ、そうでしょうよ。元からそんなに流行っていた訳じゃない。それでもね、何とか家族を養うくらいは売り上げはあったんですよ。それが今じゃこの体たらくだ。俺が悪い訳じゃないでしょう? 一体俺が何したってんです? 人殺し? そんな事してないし、そんな事しようなんて思った事もない。それなのに『人を殺しました』なんて変な張り紙をされて、客は来なくなるは、アルバイトの学生さんにも愛想を尽かされるは。あんたならどうしますか?」
「とりあえず、犯人探しですかね」
「とりあえず?」
これはもう何を言ってもダメだと思った。
「ええ、そうでしょうよ。あんたは部外者だ。だから『とりあえず』なんて言う。だけどね、こっちは必死なんですよ? 客が来なくちゃ何のために店開けてるか分かったもんじゃない」
佐藤氏は、どこから出したのか日本酒の一升瓶をラッパ飲みした。
「……あまり飲みすぎると体に毒ですよ?」
「……ここがどこだか言ってごらんなさい」
「……居酒屋てんもんじ」
「なら酒飲んだって誰が咎めるってんです?」
もう目茶苦茶だった。
「いや、ほら、店長のあなたが酒飲んでちゃ、客が来たらどうするんです?」
「客なんざ来やしません。あんたが来てからもう一時間経つけど、誰が来ました? 誰も来てないでしょう? もうサラリーマンの二~三人くらい来たっていい時間帯じゃないですか」
俺は意味もなく振り返った。
店のドアベルは沈黙したままだった。
「どうせこのまま誰も来ない。で、俺だけ酒飲んでそのまま店を閉めるんだ」
佐藤氏はカウンターに突っ伏した。
「今日も客が来なかったなんて、母ちゃんになんて言えばいいんだ……」
「いやほら、今日は俺が客ですよ、客」
俺は慌てて取り繕った。
「ビールは飽きたから、次のオーダー、いいですか?」
「……何を頼もうってんです?」
俺は壁に貼ってあるメニューから、次の酒を慎重に選んだ。烏龍茶はダメだ。もっと絡まれる。
「ソルティドッグを」
「ソルティドッグだぁ?」
佐藤氏はそれでも絡んで来た。
──俺はこのまま閉店までずっと管を巻かれるのか。
佐藤氏はうんざりした顔でソルティドッグを作っていた。
俺もうんざりしながらそれを待っていた。
きっと店が終わるまでうんざりしっ放しになる。
そう思った。
*
結局俺は、閉店まで佐藤氏の愚痴に付き合った。もううんざりだった。
俺はザルではないが、まだ冷静さは保てていた。というより全然酔えなかった。店長がぐちぐち言うのをだらだら聞いていたので、ちっとも飲んだ気がしない。
──客が来ないのはもしかするとこの人のせいじゃないのか?
俺はそんな事さえ考えていた。
「さて。俺はこのまま張り込みしますけど。佐藤さんはどうします?」
「……後はお任せします」
佐藤氏は今にも吐きそうだった。
ろれつも怪しい。
明らかに飲みすぎだ。
居酒屋の店長なのに酒に弱いとは。このままの状態が続けば、店を畳むより先に佐藤氏が入院する事になりそうだ。
「じゃ、私はこれで」
佐藤氏はふらつきながら俺に背を向けた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。歩いて十分くらいですから」
いや。道中で寝ころんだりしないかが心配だったのだが。
「はい?」
「いえ、別に。ではまぁ、お気を付けて」
「あ、ええ。お願いしますね」
ふらふらと危なっかしく歩く佐藤氏を見送りつつ、俺は張り込み場所を探した。
さすがに店の前で堂々と構えていては来る者も来ない。
時計を見ると深夜二時。通りにはもう誰もいない。
「店の椅子でも持ち出しておけば良かったな」
人が出没し出すのは早くても六時くらいだろう。つまり後四時間ほどだ。誰にも見咎められずに貼り紙をするならこの時間帯しかない。
そこではたと思った。
今日の飲み代、果たして経費としてローズガーデンに請求出来るんだろうか?
現金の手持ちがなかったのでカードで支払ったのだが、それすらも佐藤氏からボヤかれた。
それにローズガーデンに報告しなくていいのか?
一応これは仕事だ。仕事で飲んで徹夜で張り込むのだ。
要所要所で報告しておかないと、ただ好き勝手に遊んでいるようにしか見えないのではないか?
俺は携帯電話をポケットから出し、しばし考えた。
今は深夜の二時だ。『あの沙樹』が起きているとは思えない。高梨さんは不思議と起きていてもおかしくはない気がしたが、それでも電話をかけて迷惑にならない時間帯とは思えない。
──朝になってからでいいか。どうせ既に事後報告だしな。
と思っていたら、手に持っていた携帯電話がブルブルと震えた。
「……はい、江藤です」
『……なぜ報告をよこさない』
沙樹だった。
*
『お前がそこにいるのは仕事だろう? それなら雇い主に報告する義務がある。ホウ・レン・ソウを知らないのか』
沙樹は怒っていた。いや、口調がそうだから怒っているように聞こえるだけかも知れない。
「いや、その、中々タイミングが……」
『言い訳など聞かん』
沙樹は俺の『言い訳』をばっさりと切って捨てた。
『とにかく報告しろ。でなければ契約を解除するぞ』
脅しだった。
「分かった、分かりましたよ。今から報告するから」
『結論から先に言え』
ぐ、と俺は言葉に詰まった。
結論だと?
まだ何も結論めいた事は起きていない。全ては現在進行中だ。
『何だ? まだ解決すらしていないのか?』
沙樹は俺への糾弾を緩めない。
『お前はただ酒を飲んで店長の愚痴を聞いていただけか? わざわざタクシーまで使って。人一人の人件費がどれだけかかるか、お前は分かっているのか?』
「何で俺が店長の愚痴を聞いていたと分かる?」
『お前は私をバカにしているのか? 客の入らない居酒屋に行ってこの時間までなんの連絡もないという事は、意気投合したかぐちぐちと愚痴をだらだら聞いていたかのどっちかしかないだろうが』
俺はその辺に高梨さんでもいないかな、と辺りを見回した。
いなかった。
「そこに高梨はいないぞ。同じ案件に二人出すほど暇じゃない。高梨だって案件を抱えているんだ」
──何でこいつは、俺の行動をお見通しなんだ?
待てよ?
「何で客が入らない店だと知っている?」
『私は居酒屋てんもんじで困った人がいると言った。居酒屋の困り事など、客の入りが悪いくらいしかないだろう? それくらいの事が分からないでどうする』
「……何でそれを先に言わない」
『まぁいい。とにかく報告だ。早く言え。私は眠いんだ』
俺はかいつまんで現状を説明した。これ以上沙樹の機嫌が悪くなったら大変だ。
HPの改ざんとドアへの貼り紙の件を手短に説明し、とにかく被害を拡大させないための行動を取っている旨を報告した。
『それだけか?』
「それだけ?」
俺は眠い頭を傾げ、他に何かなかったか考えた。
思い付かなかった。
「……それだけだ」
『お前は、バカか?』
「は?」
『それだけ分かっていれば、張り込みなんて効率の悪い手段を取る必要はない』
沙樹は俺の最善策を一蹴した。
『その貼り紙やHP改ざんの犯人はアルバイトの学生だ。そいつの名前や学校は訊いたのか?』
「いや、訊いてないが……なぜそう思う?」
『なぜ? だと?』
沙樹の声のトーンが一段上がった。
『その店のHPはその学生が作ったんだろう? それなら改ざんなんてすぐ出来る。直しても自分で改ざんしているのだから細工なんていくらでも出来る。昨今のプロバイダのセキュリティはそんなに甘くないし、そんな嫌がらせめいた文言を、わざわざリスクを冒してまで大して流行ってもいない居酒屋のHPに書き込む程ハッカーの連中は暇じゃない。第一理由がない。貼り紙だってそうだ。大方、店を閉めた後に戻ってきて貼っていたんだろう。それなら店長は気付かないだろうからな。翌日店に出てきて吃驚という訳だ』
「学生の自演だって言うのか?」
『他に可能性があるか? そんな『ここは人殺しの店です』なんて曖昧な言葉を使って』
「曖昧?」
『本当に人を殺したんならもっと直接的に書くだろう。ここの店長は誰々を殺しました、とか。怨恨でやるならそんな甘い文言で何の効果がある? せいぜい客が入らなくなる程度だ。もっと突っ込んで言えば、その学生が休みの日とか店の定休日はどうだったんだ? まぁ聞いてないと思うがな』
そもそも俺は、アルバイトの学生がこの件に絡むなんて思ってもいなかった。
『明日──というかもう今日だな。会ったら聞いてみるといい。大体困っている人は大げさに物事を言う。困っているからな。助けてくれるなら大げさに言った方が効果がある。まさにお前がそうだ。効果覿面だ。愚痴を聞いた揚げ句に、徹夜して張り込みまで買って出るくらいだ』
「いや、沙樹はなんでアルバイトの学生が犯人だと断定する? 可能性なんだろう?」
俺は勝ち目のなさそうな抵抗を試みた。
『いいか、その何かが詰まってて良く聞こえないらしい耳の穴を奇麗にして聞け。アルバイトが辞めた理由は何だ?』
耳の穴をかっぽじって聞け、という事らしい。
「あー、時給が安いとか言っていたらしいな」
『その時給を上げるにはどうしたらいい?』
「雇い主との交渉、かな」
『その交渉が決裂したらどうする?』
「辞めるだろうな」
『そうだろう? だからHPや貼り紙をしてたんだ』
「あん? どういう事だ?」
電話の向こうで沙樹のため息が聞こえた。
『ここから先は可能性だ。だがそれは本来お前が訊き出さなければいけなかった事だ』
「何を訊き出すって?」
『……その学生はHPの改ざんの件や貼り紙の事を、自分が何とかしますからその替わりに時給を上げてくれませんか、と店長に持ちかけていた』
「そ、そうなのか?」
『だから! それはお前が訊き出さないと確証にはならんと言っただろう!』
携帯電話から沙樹の怒鳴り声が飛び出した。
『いいか。貼り紙はA4用紙だけだったんだろう? しかもプリンタで印刷されていた。ここまでは合っているな?』
「あ、ああ」
『店にはノートPCがあった。メニューやチラシを作るのにきっとプリンタもある。その貼り紙は店内で作られていた。HPの作成や修正もそのノートPCから行っていたはずだ。明日、いや今日にでもノートPCを見せてもらえ。それではっきりする』
「で、でも、動機が……」
『動機だと? 安い手だ。店長に恩を売って待遇を改善させる。店長が応じるまでそれを続けていたんだよ。始めたタイミングはその学生に訊かんと分からんがな』
「いやでも、店の中で印刷とかすればさすがにバレるだろう?」
『店長は酒に弱いんだろう? 客が来ませんねぇ、暇ですねぇ、あの貼り紙のせいですかねぇ、とか言って酒飲ませて酔っぱらわせて、その隙で印刷したんだろう』
確かに。
店長は勝手に店の酒を飲み、勝手に酔っぱらっていた。頻繁にトイレにも行っていた。つまり隙だらけだ。俺もそのまま帰ってしまおうと思ったくらいだ。これがいつもの事ならアルバイトじゃなくても嫌になるだろう。
『それにだ。その紙は四つくらいに折り畳まれていただろう?』
「なんで、そこまで分かる?」
『閉店まで店長にバレないようにポケットに入れておく必要があるからだ。それにテープで貼っていたんだろう? そのテープはきっと店のテープだ。なぜなら犯人がその学生でなかった場合、嫌がらせの貼り紙を持って歩くリスクとテープを常に持ち歩かなければならない理由が必要になる。それにこの時間だ。いくら何でも不審すぎる。運が悪ければ、警官から職務質問されて取っ捕まるリスクもあるな』
俺は辺りを見回した。
幸いおまわりさんの姿はなかった。
『ここまで言って、まだお前は張り込みを続ける気か?』
でも沙樹が言っているのは可能性だ。確証はない。
「ええとな」
『何だ』
「俺は店長の佐藤さんに約束したんだ。今晩張り込んで犯人を捕まえますって」
『ほう……それなら賭けるか?』
「は?」
『貼り紙犯が現れるか現れないか、だよ』
電話口の向こうで沙樹がほくそ笑んでいる光景が目に浮かんだ。
沙樹の推理が正しければ、俺の張り込みは徒労に終わるだろう。でも約束は約束だ。依頼主との約束は絶対だ。
『──分かった。賭けようじゃないか。何を賭けるんだ?』
『お前が負けたら向こう一ヶ月ただ働きだ。勝ったら特別報酬を出そう──どうだ?』
──くそ。こうなりゃヤケだ。
分のない賭けだと何となく感じ取っていたが、可能性は可能性だ。ゼロではない。
「分かった、それでいい」
『ふん……後で泣きつくなよ?』
沙樹はそれだけ言うと電話を切った。
俺は途方に暮れた。
時計を見ると午前三時前。犯人が現れるならそろそろ来てくれないとこっちが困る。
四時くらいになれば日も昇るし、六時くらいには新聞配達やら仕入れで人が現れ出す。
俺は半分以上後悔しながら電柱の影に身を潜めた。
犯人が現れる事を願いながら。
*
結局六時になっても店の前には誰も現れなかった。
当然貼り紙もない。
俺は多いに弱った。
このままじゃ一ヶ月ただ働きだ。
と。
誰かが店の前に現れた。手に何か持っていた。
──来た!
俺は猛然とダッシュしてそいつの肩を掴んだ。
「お前か!」
「な、なんですか、あんたは!」
「貼り紙の現行犯だ」
「貼り紙?」
「その手に持っているの見せろ」
「は?」
「いいから見せろ」
「いいですけど、新聞ですよ?」
その人物は新聞配達のお兄さんだった。
*
その後も意地で張り込んでいたが、店に近づく人物は誰もいなかった。
昼近くになって佐藤氏が車でやって来た。開店時間にはまだ大分時間がある。どうやら気になって様子を見に来たらしい。
佐藤氏は店の前に車──白い軽のワゴン車──を停め、窓から顔を出した。
「……どうしたんです? まだ開店まで時間があるでしょう?」
「気になったんですよ。話を聞いたらすぐに帰りますがね。で、どうでした? 犯人は?」
期待に満ちた目だった。
「……詳しい事は店の中で話しますよ」
「……? そうですか?」
*
ノートPCを見せてもらうと、例の文言が書かれたファイルが残っていた。
プリンタもA4用紙もあった。
テープもあった。
俺はがっくりとうな垂れた。
「じゃ犯人はアルバイトの学生さんだったと?」
「……その学生に確認しないと分かりませんがね」
例の文言が書かれたファイルがあった時点でもう確定だが、その理由がまだ不明なままだ。
「そういえば、卒論がどうとか言ってたな……」
「それ、先月の話ですかね?」
「え? ああ、そのくらいだったような……」
「その時くらいから時給の件で揉め出したりしてませんでしたか? HPの改ざんの件や貼り紙の事を自分が何とかしますから、時給を上げてくれとか言ってませんでした?」
「ああ……そんな事を言っていたような……?」
「その学生が休みの日やこの店の定休日の時は、貼り紙はありましたか?」
「休みの日……どうだったか……あったような、なかったような……」
俺は何もかもうろ覚えの佐藤氏から学生の名前を学校を訊き出し、店を出た。
手がかりらしい手がかりは学生の名前。これだけだった。
*
アルバイトをしていた学生に確認すると、悪びれた様子もなく淡々と沙樹が言った通りの事を白状した。自分がそんなに悪い事しましたか? という態度だった。
動機は何だと訊くと、卒論があるのでもともと今月でアルバイトを辞める予定だったのだと言う。せめて最後の給料くらいはちょっとでも多めに欲しくて今回の件を思い付いたのだと言う。
「だってあの店長、酔っぱらうと大口叩くんですよ。千客万来なら時給上乗せするとか、辞める時は退職金じゃないけど時給上げるからとか、色々言うんです。でもひとつも実現しませんでしたけどね」
「それで嫌がらせを始めたのか」
「それだけじゃないです。先月の半ば、女性客と揉めたんです」
「女性客?」
俺はあの居酒屋には不似合いな客だなと思った。
「何かの送別会か何かだと聞きました。何人かで来てましたし」
「そうか。で、店長は?」
「店長は奥に引っ込んだままで助けにも来なかった。僕はもうここはダメだと思って」
「何で揉めたんだ?」
「はっきりとは覚えてないですが……こんな料理殺人的だわ、とか言われたような……」
どんな料理出したんだ。
「店長、あの時も酔ってましたらからね。調味料間違えたんじゃないですかね」
「ああ……」
何となくそれは納得出来た。昨日出された甘い甘いソースヤキソバの味を思い出した。
「確かに、殺人的かも知れないな……」
「はい?」
「いや──それより最後に一点訊きたい」
「何でしょう?」
「今回の騒動はお前一人のアイディアか?」
「いや? 何人かに相談はしましたけどね」
「人殺し──このキーワードを使ったのはなぜだ?」
「うーん、インパクト、かな」
「インパクト?」
「ええ。あの虫も殺せない店長にインパクトを与えるには、ある程度強烈なキーワードが必要だと思ったんです」
「それもお前の考えか?」
俺は握った拳に力が入るのを感じた。
「……誰だったかな……相談したうちの誰だったか……」
目の前の学生は人の生死について軽く考えすぎている。
──いや、俺がナーバスになっているだけだ。
「……もう行っていいですか? 講義が始まるんで」
「え? ああ、済まなかったね。どうもありがとう」
「いえ」
とにかく一応ではあるが犯人は判明した。といっても、俺がどうこう出来るのはここまでだ。
基本的に店内の揉め事は放置。
酒に弱いくせに店の酒を飲み、その上大法螺吹き。
俺がアルバイトしていたとしても愛想を尽かすだろう。
しばらくは客の入りは悪いだろうが、少なくともあの貼り紙が貼られる事はもうない。
HPもじきに閉鎖される。
元通りになるのだ。
──ただなぁ。風評被害ってのは長引くからなぁ。
俺は店長に同情した。
でも誰か、誰でもいい。
俺にも同情して欲しい。
『お前が負けたら、向こう一ヶ月ただ働きだ』
ただ働き。
俺には手持ちの金も貯蓄もない。
──どうやって糊口を凌ごうか。
俺は途方に暮れつつローズガーデンへ向かった。
罵声を浴びる覚悟をしながら