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MOON  作者: 天神大河
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後編

 月の表面と接さんばかりの距離を滑空しながら、若い男は翼を揺らし、仲間が待つ宇宙船へと向かっていた。手中にいる月の王女は、未だ目を覚ます気配がない。

 大したもんだぜ、自分の星が大変な時にこうも寝ていられるとは。男が心の中でそう毒づいていると、巨大なモノリスが幾つも立ち並ぶ場所に差し掛かった。四方の距離が長い一枚岩を避け、男がモノリスの隙間を進み続けていると、黒い金属質の宇宙船が見えた。

 男はふう、と溜息を吐くと、翼を勢いよくはためかせ、自身の宇宙船へと飛んで行った。後部にあるハッチに近づき、事前に指定されたパスワードを入力する。相変わらず、面倒な仕組みだぜ――ハッチがゆっくりと開く様子を前に、男は心の片隅で実感する。


「おーい、戻ったぞ!」


 背中の翼を縮めながら、船内に響くほどの大声で男が叫ぶと、小さな廊下の奥にある自動ドアが開いた。ドアの先から、小柄な機械人形が現れる。人形が足元にある小さなタイヤで狭い廊下を移動すると、床に転がった小さな金属が、磁石でできた機械人形の身体へ一瞬にして吸い込まれていく。巨大な鉄や金属が既に身体を覆っているのも構わず、機械人形は右の赤い瞳を発光させながら告げる。


「オ帰リナサイマセ、火烏(かう)サマ」

「よう、アポロ。『あいつ』は今どうしてる」

ますたー(・・・・)ハ、宇宙船ノ性能向上ニ努メテオラレマス」

「またか。まったく」


 若い男――火烏は、左手の爪で自分の顔を軽く掻くと、眼前に立っている機械人形――アポロを見下ろす。火烏の腰ほどの高さしかない機械人形は、オ疲レ様デシタ、と抑揚のない声で告げ、ゆっくりと頭を下げた。火烏はそんな機械人形にそりゃどうも、とだけ応じる。

 ふと、火烏の腕の中で眠っていたルナの瞼がかすかに動き出す。やがて、彼女はゆっくりと瞼を開き、周囲に広がる見慣れない光景に思わず半身を起こそうとした。だが、火烏の手が彼女の動きを一瞬で制する。


「気がついたか、王女様。なに、あんたにはここでおれたちがムーンナイトを手に入れるための駒になってもらう。せいぜいお仲間がムーンナイトを持って迎えに来るのを待ってるんだな」

「あなた、自分が何をしているか、分かっているのですか」

「分かっているからこそ、おれたちはおれたちにとって有効な手を打つ。恨むんなら、あっさり連れ去られた自分を恨むんだな」


 火烏は悪びれる様子もなくそう告げる。ルナは、彼に気付かれないように自らの胸元に目をやるが、そこにあるはずのムーンナイトの首飾りはなかった。すぐに、先ほどの混乱に巻き込まれて落としてしまったことに気付き、ルナは小さく溜息を吐く。これでは、瞬間移動で脱出することもできない。そう悟った少女は、せめてもの抵抗とばかりに火烏から目を逸らした。

 そんなルナと火烏を前に、アポロは赤と緑の目を時折光らせつつ、左右非対称の形をした頭を揺らしている。すると、アポロの後ろで、幼い少女の声が響いた。


「火烏、戻ったのね。それで、月の王女は連れて来ることができたの?」

「ああ、(さん)。この通り、お前とさほど変わらないガキだったぜ。アポロ、王女(こいつ)を縛るための縄を持ってこい」


 カシコマリマシタ。そう言ってアポロは身体を百八十度右に向けると、そのまま元いた部屋へと戻って行った。そんな機械人形と入れ違いに、『燦』と呼ばれた少女は男の元へ歩み寄った。


「へえ、あんたが月の王女なの。もっと年を食ったオバサンかと思ったけど、そうでもないみたいね」


 ルナの姿を観察しながら、燦は口元に笑みを浮かべてそう言った。ルナもまた、燦の容姿をまじまじと見つめる。オレンジ色の長い髪をポニーテールで留めた少女の姿は、一見して朔と同い年に見えた。赤と黄の二色で構成されたブラウスと、黒色のミニスカートを着た燦の姿を前に、ルナは穏やかな口調で問いかける。


「あなたこそ、まだ幼いのに。なぜこんなひどいことをするんです」


 ルナの問いかけに、燦は右の目元を乱暴に掻いた。それとともに、彼女の長い睫毛が揺れ、薄橙色の肌から整った容姿が隠れする。


「分かんないでしょうね、月でちやほやされて育ったあんたには。あたしたちみたいな連中の生き方なんて」

「そんな、分からないだなんて。わたしは――」

「いいからムーンナイトをよこしなさい。あたしたちには、あんたの御託を聞いている暇はないのよっ」


 燦はそう言って、ルナを睨みつけた。紅色の瞳が、青いドレスを着た少女を真っ直ぐに見据える。だが、ルナは黙って首を横に振るだけだ。燦は、その場で右手を天高く上げると、ルナの顔目がけてそれを振り下ろそうとした。だが、それよりも先に火烏の黒く大きな手が燦の華奢な手を押さえる。


「おい、少し落ち着けよ。下手に暴力を振るえば、出るものも出なくなるぞ」

「どういう意味よっ」

「王女を返してほしければ、ムーンナイトの原石を持ってこいと王女の下っ端どもに伝えた。こっちから仕掛けなくても、向こうからわざわざ持って来るだろう。王女様の命が懸かっているんだからな」


 火烏はそう言って、ルナの顔を黙って見下ろした。彼女が男の鋭い眼光に怯む傍らで、黒い金属製の縄を持ったアポロが戻って来た。よし、縛れ。火烏は一言だけそう言うと、ルナを床へそっと下ろした。青いドレスに金属粉と埃が付着するのを前に、彼女は心の隅で不快感を覚える。


「月ノ王女サマ、ドウカゴ無礼ヲオ許シクダサイ」

「アポロ、黙って縛りなさいっ」

「了解シマシタ、ますたー」


 燦が金切り声でそう叫ぶのを聞いたアポロは、黙々とルナの手首と足首に縄を巻いて行った。金属の縄が彼女の細い手首を締め付ける。痛みに耐えかね、短い悲鳴を上げる銀髪の少女を見下ろしながら、燦は唇の端を吊り上げた。


「それにしても楽しみね、王女様。あなたのお仲間が大切なお宝を持って迎えに来るのを、せいぜい期待してなさい……アポロ、お仲間が迎えに来るまでの間、独房にでも閉じ込めてなさい」

「カシコマリマシタ」


 燦はそう言って、ルナたちに背を向けた。その際、ブラウスの背に描かれた紋章が彼女の目に入る。十六個もの細長い二等辺三角形が、黒い真円を取り囲んでいるように見えるそれに、ルナは見覚えがあった。

 あれは、日輪――太陽の国の紋章だ。ルナがそう悟ると同時に、アポロの小さな腕が少女の腕を繊細に掴んだ。



★☆★



 朔は、ハーニャに導かれるままに月の宮殿の地下へ続く階段を歩いていた。水晶で出来た階段を一歩一歩踏みしめる度に、彼の爪先は少しだけふわりと浮き上がり、転びそうな感覚に襲われる。最初にその感覚に襲われた際、ハーニャは地球より重力の影響が小さいせいだ、と言った。だが、幾度経験してもそれに慣れることはなく、半ば車酔いしたような気持ちで朔はゆっくりと足を踏みしめた。そんな彼の肩で、ハーニャが声を張り上げる。


「『月読(つくよみ)の間』まで、もう少しですよ。朔様」

「ねえ、ハーニャ。最初の時にやってた、瞬間移動ってできないの? それ使えば便利だと思うけど」

「すみません、宮殿内ではムーンナイトを使っての瞬間移動をはじめ、特殊な力を行使することは古くからの掟で固く禁じられているのです」

「ああ、そうなんだ……」


 そんな他愛もない会話をする中で、朔たちの前に巨大な扉が現れた。仄かに青白い光を放つ扉に朔がそっと手を触れると、それはゆっくりと内側へと開いていった。そこから続く広間の内部もまた、扉と同様に青白い輝きを放っており、かすかに靄がかっていた。

 広間とは思えないほどのあまりの美しさに朔は、無意識に口内の唾を嚥下する。彼が月読の間に一歩足を踏み入れると、部屋の中心でひときわ強い光を放つものが見て取れた。


「あっ、あれです! 朔様、早くあちらへっ」


 ハーニャに急かされるまま、朔は光源へと走り寄る。水色に光輝くものをよく見ると、それは竹の葉が隙間なく敷き詰められた衣であった。少し厚みのあるそれを朔が手に取った瞬間、ハーニャが興奮したような口ぶりで告げる。


「それは先々代の王がお召しになっていたといわれる、月の衣です。ムーンナイトの原石を交えて作り出した特別な衣で、それを着た先々代の王はかつて月に迫った巨大隕石を素手で弾き返した、と言われています。これさえ着れば、朔様もきっとあの異星人たちからルナ様を救い出すことができるでしょう!」


 徐々に早口になるダミ声を聞きながら、朔は一回り大きなその衣をじっくりと観察した。彼女の話の真偽は分からないが、神秘的な力を感じさせる青緑色の衣を前に、少年の瞳は釘付けになっていた。


「……きれいだね」

「でしょう。朔様、とりあえず着てみてください」


 肩に乗ったサワガニに促されるまま、朔は灰色のパーカーの上から衣の袖を通す。頭に被ったままのフードが落ちてしまわないように、襟の辺りで注意する必要こそあったが、着心地自体は悪くなかった。月の衣を纏った少年の姿を見て、ハーニャはハサミを天井へと伸ばす。


「よし、これで準備万端ですね。それでは、早速異星人たちからルナ様を取り戻しに行きましょう、朔様!」

「ちょっと待ってよ、そんないきなり……」


 朔がそこまで言いかけたところで、彼の心臓の鼓動が一瞬速くなった。額にうっすらと汗をにじませる朔を見て、ハーニャは心配そうに彼の顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか、朔様? お気分が優れませんか」


 ハーニャの問いに、しばしの間を置いて朔は唇を動かした。多少荒くなった自分の息遣いを聞きながら、朔は動揺を悟られないよう平静を装う。


「大丈夫だよ、ハーニャ。これからルナさんを、助けに行くんだよね。とりあえず行ってみよう」


 朔はそう言って、踵を返した。再び水晶の階段へと戻る足取りの中で、彼はふとルナの言葉を思い返していた。


――ムーンナイト本来の力は、月の民が互いに、あるいは異なる星の方たちと対話するために使うものです。だから、決して悪しきことのために使われてはならないのです。


 本来の力は、対話のため。ルナはそう言っていたが、自分たちはこれからムーンナイトの力を借りて異星人に立ち向かおうとしているのだ。これは果たして、彼女が望んだ力の使い方なんだろうか。

 朔はぼんやりと考えながら、月の衣越しにパーカーのポケットにあるものにそっと手を触れた。先ほどルナが落とした首飾りの感触を確かめると、彼は再び水晶の階段へと足を踏み入れた。



★☆★



 宮殿の大門を出てすぐに、朔とハーニャは宇宙船のある場所へ瞬間移動する。再び眩い光が視界を覆い、朔は瞼を閉じた。

 そして、再び瞼を開いたすぐ目の前には、巨大な黒い金属の塊があった。その周りでは、神妙な面持ちで警邏(けいら)に当たっている嫦娥兵や、付近に暮らすウサギたちが興味と不安の声を上げながら見守っている。


「これが、その宇宙船……?」


 朔は、その場に立ち尽くしたまま宇宙船をしげしげと眺める。ビル三階分はあるだろう宇宙船には、所どころに動力炉や砲台が据え付けられており、煙突からは灰色の煙が噴き出していた。朔の脳裏で、歴史の授業で聞いた「黒船」の単語が思い起こされる。


「そのようですね。行きましょう、朔様。ルナ様をお助けするために」


 朔の肩に乗ったままのハーニャが、彼の顔を見て告げる。朔もまた、すぐ横にいる青いサワガニへと顔を向け、こくりと頷いた。そんな二人に気付いたのか、嫦娥兵やウサギたちが次々に声を上げる。


「異星人の手から、王女様をどうか。お願いします」

「お願い、王女様を助けて!」


 口々に叫ぶ彼らの頭上で、黒い塊が音もなく舞い上がった。朔が気付くのも束の間、黒い翼が生み出す衝撃を前に、宇宙船を囲んでいた嫦娥兵やウサギたちは全員吹き飛ばされる。さらさらな地面に打ち付けられ、小さく悲鳴を上げる彼らを尻目に、火烏は溜息交じりに呟く。


「がたがたうるせえな、雑魚が。お前たちに用はねえんだよ」


 火烏はそのまま、金色の瞳を朔とハーニャへ向けた。朔は思わず身震いするが、逃げ出したい気持ちをどうにか抑えて、火烏の顔を見つめ返す。


「どうだ。ムーンナイトの原石は持って来たか」

「それに答える前に、ルナ様の安全を確認させてください!」


 ハーニャが声を張り上げる。それを聞いた火烏は、ふん、と鼻を鳴らすと宇宙船の天辺を見上げた。あれを見ろ。火烏が一言、冷たく言い放つのに合わせて、朔たちも宇宙船の天辺へと視線を泳がせる。そこには、両手首と足首を黒いロープで縛られたルナと、オレンジ色の髪が印象的な少女が立っていた。ルナの安全に安堵するのと裏腹に、朔は自分とほぼ同い年に見える少女の容貌に、思わず戸惑いを抱く。


「ルナ様!」

「さあ、この通り王女様は無事だぜ。今度はお前たちの番だ。ムーンナイトを持って来たんだろ、そいつと交換だ」


 火烏が淡々と告げるのを前に、朔は思わず目を逸らした。そんな彼の様子を見逃さなかった少女――燦は、眼下にいる火烏へ向けて大声で叫ぶ。


「ちょっと、火烏! こいつ、ムーンナイトを持ってきてないわよ!」


 燦とルナをちらと見上げ、火烏は小さく舌打ちする。目の前にいる地球の人間と青いサワガニを前に、ふつふつと怒りが沸き上がるのを抑えきれなかった。


「どうやらそのようだな。それなら仕方ない。やれ、燦!」


 火烏の合図を聞いた燦は、黙々とルナへ平手打ちをした。苦しげな声を上げる銀髪の少女を前に、朔は思わず駆け出した。ハーニャが止めるのも聞かず、彼は火烏へ向かって突進する。


「やめろーっ!」


 少しずつ距離を詰めていく朔を前に、火烏は背中の黒い翼をはためかせた。巻き起こる突風は、月の地表にある砂塵をも巻き込み、嵐となって朔に襲いかかる。やがて、肩に乗っていたハーニャが風の勢いに耐え切れず、空へと放り出される。だみ声の悲鳴が遠くなるのを前に、朔は思わずその場で立ち止まり、ハーニャの飛ばされた方角を向いた。


「ハーニャ!」

「よそ見してんじゃ、ねえよッ!」


 火烏の声に驚いて、朔が前を向いた途端。既に火烏は朔の眼前に迫っており、鉤状(かぎじょう)にした右手を朔の顔目がけて突き上げる。紙一重で鋭い爪に触れるのを避けた朔を前に、火烏は金色の瞳をぎらぎらと輝かせ、怒気を含んだ語調で叫ぶ。


「地球の劣等種が、舐めたマネしやがって! おれたちに刃向かうとどうなるか、教えてやる! アポロ、やれ!」


 火烏が天を見上げてそう叫んだ瞬間、宇宙船に据えられた砲台から、次々に弾丸が撃ち出され、月の表面へ鈍い音を立てて落ちて行った。弾丸が落ちたその痕には、小さくも深い穴が刻まれている。

 朔の眼前にも、黒い弾丸が迫る。撃たれる、死ぬ――少年がそう意識した瞬間、月の衣が一瞬青白い閃光を放った。

 気付けば、朔はつい先ほど自分がいた場所から離れた場所にいた。一瞬にして移動した様子を前に、火烏も戸惑いを隠せずにきょろきょろと辺りを見回す。そういえば、この衣はムーンナイトの原石からも作られてるって、ハーニャが言っていたっけ――そのことを思い出した朔は、宇宙船を目がけて走った。程なく、朔の存在に気付いた火烏もまた、彼の前へと駆けていった。



★☆★



 ルナは、燦が一方的に平手打ちを繰り返すのを、ただ黙って耐えていた。叩かれた肌はうっすらとピンク色に染まり、さらさらした銀髪も所どころが乱れている。そんな彼女を前に、燦は頬を紅潮させ、苛立ち混じりに口走る。


「あと少しだったのに。あんたたちが、ムーンナイトをよこさないから……ふざけるな、ふざけるなっ」


 燦の手が、ルナのこめかみを叩いた。衝撃に耐え切れず、ルナは身体のバランスを崩しその場に倒れ込む。燦は、そんな彼女の上で馬乗りになる。ルナは、弱々しい口調で尋ねた。


「あなたは、どうして……」

「喋るな!」

「どうして、泣いているのですっ」


 その言葉を聞いた燦の手が、一瞬ぴたと止まる。そのまま、自分の目元にそっと手を触れると、指先に熱く透明な滴が付着した。

 燦は、目元を乱暴にぐりぐりと擦った。それでも、一度溢れた滴は止まらず、彼女の頬は涙の筋で濡れた。いつの間に、自分は泣いていたんだろう――そう自問する燦の顔を、ルナは目元に涙を浮かべながら見上げた。涙声で、燦に語りかける。


「誰かを傷つけて、自分も傷ついて……こんな悲しいことを続けたって、誰も幸せになれないよ。わたしは、みんなに笑っていてほしい。笑顔になってほしい。月の王女だからとか、そういうのは関係なくて。太陽の国の、あなたたちにも……」

「黙れッ!」


 燦の金切り声が、宙に響く。オレンジ色の髪を乱しながら、少女はルナを睨みつけた。固く握られた彼女の拳は、微かに震えていた。


「黙れ、黙れ黙れ! これ以上、戯言を言うな! やっぱりあんたは分かってない。あたしたちの気持ちなんて……お前には、絶対に分かりっこないんだーッ!」


 そう言って、燦は握りしめた拳をルナの顔目がけて振り下ろす。その様子を前に、ルナは瞼を強く閉じた。

 その時、二人のいた場所よりはるか高くから、甲高いだみ声が響いた。


「だ、誰か助けてぇーっ! キャー!」


 聞き慣れない声に驚き、燦は思わず頭上を見上げた。ルナもまた、聞き慣れた声の主を探して、瞼を開く。やがて、『彼女』は二人の元へ悲鳴を上げて落ちて来た。ルナは、小さな青いサワガニの姿を視界に捉えると、その名を呼んだ。


「ハーニャ!」

「る、ルナ様ぁー!」


 ルナの左手付近に、ハーニャが着地する。その際、どこかを打ち付けたのか後ろ脚で殻の下側を掻いた。

 突如現れたサワガニを前に、燦は戸惑いながらも強硬な姿勢は崩さずに尋ねる。


「な、何よあんたは」


 オレンジ色の髪をした少女の問いを聞きながら、ハーニャはルナのドレスの裾を掴んだ。そして、燦へ向かって自信ありげに声を張り上げる。


「ワタシは、ハーニャ! そちらにおられるルナ様の、侍従をしております。ルナ様、助けに参りましたよっ」


 言うが早いか、ハーニャはルナを連れて瞬間移動した。ちょっと、待ちなさいよ。燦がそう言うより早く、二人は眩い光に包まれて、その場から消えた。



★☆★



 青白い光に包まれたルナは、月の砂漠地帯の一角に降り立った。それと同時に、彼女のドレスの裾に捕まっていたハーニャが、短い悲鳴を上げて砂の上へと転がり落ちる。

 ここは――ルナが辺りを見回す。大小さまざまなモノリスが立ち並ぶ中に、見慣れぬ黒い宇宙船が見えた。どうやら、自分がいた場所から少し離れた場所らしい。そう察したルナの側で、ハーニャが心配そうに尋ねた。


「ルナ様、ご無事ですか。早速、手足の(かせ)をお外しします。すぐに、医者を連れて参りますので――」

「ううん、大丈夫ですよ、ハーニャ。ありがとう」


 ルナはそう言って、足元にいる青いサワガニへ笑顔を作ってみせた。対するハーニャは、右のハサミを頭上に掲げ、いえいえそれほどでも、と得意げに応じる。それと同時に、実際は異星人の攻撃で吹き飛ばされて、たまたま王女の元へ辿り着いたという真実は、すっかり彼女の記憶の隅から消えた。


「どれ、チョッキン。とな」


 ハーニャが自身のハサミで、ルナの手足に巻かれた金属の縄を切っていく。解放されたルナは、その場で立ち上がり、辺りをきょろきょろ見回した。一通り前後左右を見渡したところで、少女はハーニャに問いかける。


「朔様は、どちらに?」


 ルナの問いに、ハーニャもまた周囲を見回す。その瞬間、辺りに轟音が鳴り響き、地面が揺れた。

 二人が地響きの鳴った方向を見ると、モノリスの山脈の向こうから、燦たちの乗った黒船が現れる。さらに、その真下では土煙が巻き起こり、朔と火烏が互いに地面を走っていた。休みなく攻撃を仕掛ける火烏を、月の衣を纏った朔は紙一重のところで(かわ)し続けていた。ぜえぜえと息を切らす少年の背後で、黒船の砲台から大量の砲弾が放たれ、地表へと降り注ぐ。


「朔様!」


 ルナが、思わず朔の名を叫ぶ。少年の姿は煙の中に消え、そのまま見えなくなる。眼前で起こった光景を前に、ルナは両手で口元を覆った。


「ルナ様、見てください。あちらを」


 ハーニャがだみ声でそう言って、ハサミで土煙の中を指し示す。ルナが目線をハサミの先へ向けると、そこには朔が立っていた。フードが取れ、やや長い黒茶色の髪が乱れた少年は、よろめきながらも足を動かしている。しかし、彼の纏う月の衣は、所どころが千切れたり破けたりしており、最早ほとんど使い物にならない状態だ。


「ああっ、月の衣が。朔様……」


 ハーニャが驚愕したように声を震わせる中、朔はなおも歩き続けていた。そんな彼の行く手を、黒い影が遮る。少年が頭上を見上げると、火烏が黒い翼を揺らしながら仁王立ちで空に浮いていた。


「どうやら、その不思議な衣の力もここまでのようだな。もっとも、おれたちの船に仕掛けていた砲弾も弾切れのようだが、まあいい。一気にケリをつけてやるさ」


 右手を鉤状に尖らせながら、火烏は眼下にいる朔の姿を見下ろす。相手はほとんど疲れきっており、隙だらけだ。仕留めるのに、これほど有利な状況はないだろう。

 対する朔は、ただ黙って火烏の姿を見上げることしかできなかった。額に浮き出た汗が目に入り込み、彼の視界を曇らせる。

 こうなったのは、ぼくがずっと昔から月を避けてきたからかな。もしそうだったら、ハーニャ、ルナさん、ごめんなさい――。

 朔の脳裏に、誰に向けるでもない謝罪の言葉が浮かぶ。もし今ルナたちに会うことができたら、自分はきっとそう言うだろう。月を見ようともせず、避け続けてきた自分が、月に住んでいる彼女たちを助け出せるはずがなかった。

 これは、そんなぼくに神様が与えた罰なのかな。朔がぽつりと呟く。だが、そんな彼の言葉は、火烏が生み出した翼を羽ばたかせる音によって、いとも簡単にかき消された。鋭い目つきのまま、火烏が朔との距離を詰めていく。



「……わたしはもっと、朔様とお話したいです! だから、帰ってきて! 朔!」



 朔の耳に、ルナの精一杯の叫び声が伝わった。その時、少年の全身が青白く光り出した。


「なんだ、この光は!?」


 眩い光を前に、火烏は思わず瞼を伏せ、足を地につけた。そんな彼の前で、青白い光に包まれた朔の髪色が、徐々に白く染まっていく。そして、白髪から二対の短い獣耳が突出し、ズボンとパーカーの間から長い尻尾が現れる。

 朔は身体中を駆け巡る熱さに耐え切れず、熱を吐き出すかのように甲高い雄叫びを上げた。彼の耳と尾、そして声は、完全に狼のそれであった。


「そうだ。まだ、ぼくは……」


 朔は、翼を広げたまま立ち尽くす火烏の姿を見上げた。銀色に染まった朔の瞳は、ぎらぎらと輝きを放っている。


「諦めるわけには、いかないんだ!」



★☆★



 狼の特徴を現した朔を前に、ルナとハーニャは呆気に取られた様子で見入っていた。それは火烏も同じであったが、すぐに平静を取り戻し、朔へと向かっていった。


「それがどうした、化け物が! とっとと、くたばれ!」


 火烏は、鉤状の手で朔へと迫る。その手が朔の身体を捉える寸前のところで、少年の白い左手が火烏の手を捕まえた。驚いた火烏は、反対側の手も使おうとするが、すぐに朔の右手で封じられる。ぐっと力を込めて火烏の手を押さえながら、朔は彼の顔を覗き込む。


「もう、やめろ! これ以上、みんなを傷つけるな!」

「ふざけるな、ガキがぁ!」


 互いに押しつ押されつを続ける中、火烏は朔の両手から逃れ、そのまま彼から間を取った。息を切らしながらも、火烏はあらためて朔の姿を観察する。

 こいつ、いきなり変身したかと思ったら、さっきより格段に強くなってやがる。これが、月の力か――そう分析する火烏の視界の端に、ルナとハーニャの姿が映った。あいつら、いつの間に。ぽつりとそう漏らしながら、火烏は二人の方角へと飛んでいく。


「行かせるか!」


 火烏の向かう先にいる二人に気付いた朔もまた、彼の後を追いかける。少年の脳裏に、少女がさらわれる光景が鮮明に浮かぶ。今度は、さっきと同じ失敗はしない。

 朔の足が、自分よりも年上の男の後ろを走る。やがて少年の前に、小高い切り株ほどの高さをしたクレーターが現れる。朔はそのまま、クレーターの高い部分に両足で爪先立ちし、高く飛び上がった。

 火烏が気付いた頃には、朔は彼に迫るほどの高さにまで到達していた。振り払う間もなく、火烏の足に朔の両手が絡みつく。


「こいつ、何を……! 放せ、降りろ!」

「嫌だ!」


 朔と火烏は互いに激しく暴れる。火烏の翼は少しずつ羽ばたきを失い、それとともに二人の身体はゆっくりと月の表面へと落ちていく。危ない――二人の様子を見守っていたルナが声を上げようとすると、朔のパーカーのポケットから、緑色の光が漏れた。光は、少年と男を音もなく包み込み、ゆっくりと身体を着地させた。


「この光景は、いったい……」


 光に包まれる中で、朔は眼前に広がる光景に目を奪われていた。

 そこは、炎ばかりがあった。炎と言っても、赤やオレンジ、そして青や黒い炎が混じった世界だ。

 その世界の端で、自分と同い年ぐらいの少年が、彼より幼い少女の手を引っ張って歩き続けていた。大粒の涙を流しながら、オレンジ色の髪をした少女は少年の後をついて行く。彼女の反対の手には、鉄や金属で覆われた小さな人形が握られていた。

 少年は、少女の姿を振り返ると、再び歩き始めた。炎を避けるように、炎から遠く離れるように。そんな彼の金色の瞳は、憎しみと悲しみとが混じったような、歪な輝きを湛えていた。


「見るな!」


 悲鳴とも取れる火烏の声に、朔は思わず彼の顔を振り返った。収まっていく光の中で、火烏は朔の顔を一瞥すると、くつくつと笑い声を漏らす。その声は徐々に高笑いに変わり、朔を見下ろした。


「もう気付いてんだろ。さっきお前の目の前にいたガキは、昔のおれだ。笑っちまうよな。故郷が炎に包まれて、何もできずに燦とアポロを連れて、それで今このザマだ。もう分かったろ。おれたちとお前たちとじゃ、住む世界が違う。分かり合うこともない。だからおれたちは、奪う。大切なものも何もかも、すべては守るためだ。ムーンナイトは、必ずいただく。たとえおれ自身がどうなっても……」


 火烏はそう言って、再び朔と相対する。朔は、そんな彼を前に静かに涙を流していた。目の前にいる少年を前に、火烏は鼻で笑い、全速力で突進する。


「やめろよ。そんな、憐れむような目でおれを見るんじゃねえ! 偽善者がぁ!」


 火烏は、握りしめた拳を手に朔の顔へと腕を振り上げる。

 そんな彼の腕を、朔の左手が受け止めた。

 火烏が抵抗するより先に、朔は彼の身体を押し倒す。レゴリスが舞い、白い土煙が舞い上がる。

 そして、朔もまた右手に拳を作り、火烏の顔目がけて振り下ろす。だが、彼の拳は茶褐色の肌に触れる寸前のところで止まった。火烏が、朔自らの意思でそれを止めたことに気付いたのは、一拍の間を置いてからだった。

 火烏は、朔の顔を見上げる。銀色の瞳を潤ませる彼の頬から流れた涙が、火烏の頬に音もなく落ちていく。


「奪う? 自分がどうなってもいい? そんなこと言うなよ。こんなに悲しい思いをして、その不満をまた知らない誰かにぶつけたって、何もならないだろ。ただ悲しさを生み出すだけじゃないか」

「だったら、どうしろってんだっ」


 朔の脳裏に、ルナの言葉がよみがえる。彼は一瞬瞼を閉じると、少しずつ自分の言葉を紡ぎ出した。


「話し合うんだ。対話して、互いに分かり合うんだ。この月に来て、ぼくは教えられた。苦手だからって避け続けて、守りたいものを守れない苦しみがあることを知った。ぼく、本当は怖かったんだ。こうして戦うことも、自分の正体が知られることも。だけど、そんな身勝手じゃ、誰も守れない。本当の意味で話し合うこともできない。だから、ぼくは前を見るんだ。ルナさんやハーニャを、みんなを見て、声をかけるんだ。奪ったり傷つけたり、逃げたりしちゃ、ダメなんだ」


 そこまで言い終わったところで、パーカーのポケットに入っていたルナの首飾りが薄緑色の光を帯び始めた。それに気付いた朔は、ポケットから彼女の首飾りを取り出した。その瞬間、辺りに薄緑色の光の波が伝播し、あっという間に月全体を覆った。


「なんて、温かい光なんでしょう。心が洗われていくような」


 全身で光を感じながら、ハーニャは噛みしめるように言った。彼女の隣で、朔たちを遠くで見守りながら、ルナも呟く。


「これが、ムーンナイトの本当の力。誰かと対話し、大切なものを守り続けていくこと。それに気付いてくれたんだね、朔」


 そんな二人の頭上で、黒船が空を飛んで行った。朔と火烏の上で止まった巨大なそれを見て、火烏はふう、と溜息を吐く。


「どうやら、撤収のようだ。あと少しのところだったんだが。『あいつ』がそう決めたんなら、仕方ない。おれは行くぜ。あばよ」


 朔の身体を押し退け、火烏は空へと飛び去って行った。火烏を乗せると、黒船は月を離れ、遠く宇宙へと旅立って行った。

 朔たちは、少しずつ小さくなる黒船を、ただ静かに見つめていた。



★☆★



「良かったのかよ、ムーンナイトを手に入れなくて」


 黒船の中にある廊下で、火烏は燦に尋ねる。対する燦は、火烏に背を向けたまま呟く。


「良いわけないでしょ。だから、代わりになるものを探しに行くんじゃない。今回は、いろいろ不都合なことが重なったから、仕方ないのよ。あんたもボロボロだし」

「王女様を取り逃がしたから、じゃねえのか?」


 火烏の一言を受け、燦はその場で振り返った。彼女は頬を赤らめながら、船内に響くほどの声を張り上げる。


「ちっがーう! 何だかよく分かんないけど、変なカニが連れてっちゃったのよ! とにかく、これ以上は弾丸もないし、手も足も出ないし。変な光に当てられる前に、とっとと行くわよっ」


 燦はそう言うと、船内にある自分の部屋へと戻って行った。そんな彼女とすれ違う形で、アポロが火烏の前へとやって来た。機械人形の身体には、また新しい金属の欠片が付着している。


「なあ、アポロ。おれたちのやってることって、何なんだろうな」


 火烏は、後ろ手で自らの髪を掻きながら呟く。しばしの間をおいて、アポロは無機質な声で答える。


「ますたータチノナサッテイルコトハ、イロイロアリマスノデ、オ答エスルノハ難シイデス」

「そうか。まあ、そうだよな」


 火烏はそう言うと、わずかに痛む両肩を揺らしつつ、アポロの横を通り過ぎようとした。そんな彼に、アポロはさらに言葉を重ねる。


「デスガ、私タチガコウシテ旅ヲ続ケテイルコトハ、キット意味ガアルノダト私ハ思イマス」


 アポロの言葉に、火烏は口元に小さく笑みを浮かべた。そのまま、彼は自身の部屋へと戻りながら告げる。


「ありがとよ、それを聞けただけでも十分だ。じゃあ、おれは少し仮眠するから、いつもの時間に起こしてくれ。おやすみ、アポロ」


 オヤスミナサイマセ、火烏サマ。アポロはそう言って、火烏の背へ向けて小さくお辞儀をした。その際、身体に付着していた小さな金属が、ぼとぼとと鈍い音を立てて落ちた。その音を耳朶で受け止めた火烏は、肩の高さまで上げた右手を左右に振りながら、自分の部屋へと戻って行った。

 再び顔を上げたアポロは、廊下の壁に据えられた小さな窓へと顔を向けた。窓の外に浮かぶ月は、薄緑色の光で仄かに照らされている。その様子を前に、アポロは誰に言うでもなく、ぽつりと声を洩らす。


「月ノ皆サマ、月ノ王女サマ、ドウカオ元気デ」



★☆★



 朔たちが月の宮殿へ戻ると、嫦娥兵やウサギたちが歓声を持って迎えた。朔は戸惑いながらも、宮殿の周囲を見回す。大門の真前から柵の上に至るまで、大勢のヒキガエルや白や茶色のウサギたちで埋め尽くされていた。


「朔様、月を救ってくれてありがとうございます!」

「ムーンナイトの光、とってもきれいだったよ!」

「月の力を持った人狼だったなんて。見直しましたわ」


 口々にそう叫ぶ彼らを前に、朔は思わず目を伏せる。そのまま、彼は自分の耳にそっと触れた。犬のように柔らかい獣耳の感触を確かめると、少年は深く溜息を吐く。

 ああ、バレた。この前父親から自分が人狼であることを聞いて、死ぬまで黙っていようと決めていたのに。

 まさか、ほんの数日で月の住人全員の知るところになろうとは。少しずつそのことを実感し、朔の頬は恥ずかしさから紅潮する。そんな彼の側で、鈴のように透き通った声が響く。


「朔。今回のこと、ありがとうございました」


 朔が声のした方向へと振り返る。そこには、ルナが立っていた。彼女は変わらず、優しい笑顔を少年へと向けていた。朔は彼女から顔を逸らすと、両手で獣耳を覆い隠した。


「そ、そんな。ぼくは大したことしてませんよ……それより、大丈夫ですか? その、怪我とか」

「わたしは大丈夫です。それより朔、どうして耳を隠されるのですか」


 ルナの問いかけに、朔は一瞬どきりとした。今になって見られるのが恥ずかしいから、とはとても言えない。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ルナは彼の手にそっと白い手を重ねた。ゆっくりと少年の小さな手を解いた彼女は、さらさらとした狼の耳を撫でた。


「わたしは、好きですよ。朔のその姿も。恥ずかしがることなんてありません」


 頭上のくすぐったい感触と、ルナからの思いもしなかった言葉に、朔はより頬を赤らめ、身を震わせた。そんな彼の足元で、青いハサミが静かに踊ったかと思うと、彼の足首をつねるように挟んだ。


「痛ってェ!」

「こら、ハーニャ!」


 朔の悲鳴とルナの叱咤に悪びれることなく、ハーニャはだみ声で告げる。


「だって、ワタシも心配したんですよ、朔様! 一時はどうなることかと。もし朔様の身に何かあったら、ワタシ……」

「気持ちは分かったから、そのハサミを放して!」


 朔が苦しげにそう言うと、ハーニャはぱっとハサミを放した。あらごめんなさい、と告げるハーニャの頭を、ルナが指で小突く。そんな二人のやり取りを前に、朔は思い出したかのようにパーカーのポケットへ手を入れた。

 純白の鉱石をつけた首飾りを取り出すと、朔は両手で持ち直し、ルナへと差し出した。ルナは、朔の手のひらの上にあるものを見つめながら、彼の言葉に耳を傾ける。


「これ、あの時落としてた首飾り。ルナさんの、ですよね。お返しします」


 朔の言葉を聞き、ルナは彼の手からそっと首飾りを受け取った。そして、彼女は朔の首へ直接首飾りをかける。戸惑う様子の朔に、ルナははにかみながらも答える。


「これは、お礼……と言ってはなんですが、朔に差し上げます。地球に帰っても、瞬間移動などには使えませんが。これで、どうかわたしたちのことを思い出してくれると嬉しいです」


 ルナはそう言うと、左手で顔にかかった髪をまとめた。そのまま、少女は頬を赤らめながら朔の頬へ顔を近づける。

 ピンク色の唇が少年の肌に触れた瞬間、朔の頬は一気に真っ赤になり、周囲から黄色い声が上がった。

 今のって、もしかして……。朔がぼんやりとルナの顔を見つめる傍らで、ハーニャが空咳をしながら、朔へ語りかける。


「それでは朔様、そろそろ地球へ送っていきます。準備はいいですか」


 ハーニャの言葉を受け、朔は周囲にいる月の民の顔を見渡した。彼ら、彼女たちは皆、朔へ純粋な笑顔を向けている。ふと遠くを見ると、呉剛が不愛想な表情で桂の樹を眺めながら、小さく左手を振っているのが見えた。その様子を見た朔は、心の中でどこか嬉しさを感じた。芽生えた気持ちを胸に、朔は、ルナやハーニャ、ウサギや嫦娥兵たちに伝わるように声を張り上げた。


「みんな、ありがとう! ぼく、ここに来られて本当に良かった! ありがとう!」


 朔の言葉に、月の民は一斉に歓声を上げた。月全体に響き渡るかもしれないその声を聞く朔の身体が、眩い閃光に包まれる。ハーニャがムーンナイトの力で、地球へ瞬間移動する準備を整えているのだ。そう悟った朔と、ルナの瞳が重なり合う。恥ずかしさから顔を逸らす朔に対し、ルナは穏やかな笑みを彼に見せた。


「わたしたちはこの月から、あなたのことをいつも見守っています。朔、どうか、元気でね」


 再び朔がルナへ顔を向けたその瞬間、彼の視界は眩い白い光に包まれた。光の中に消えていくルナは、最後まで笑顔を崩さなかった。



★☆★



 気が付けば、日はすっかり沈み、空には黄昏が広がっていた。ピンクとコバルトの間に広がる色彩の変化を前に、朔は自分が元いた場所――地球へ帰ってきたことを実感する。東の空から現れた満月を前に、朔は反射的に自分の頭に手を触れた。先ほどまで狼に変身してた身体は、いつの間にか人間に戻っている。

 そのことに安堵した朔は、ほっと溜息を吐いた。

 月にいたのは短い時間だったはずなのに、どこか懐かしい地球の空気に、朔は深く息を吸い込んだ。遠くで、車の走る音や喧騒が耳に入り込む。

 さて、帰ろうか――そう思って家路を歩く朔の目の前に、何かがぱたん、と音を立てて落ちて来た。

 うわっ。短い悲鳴を上げながらも、朔が落ちてきたものをよく凝視すると、それは自分の青いランドセルだった。


「ごめんなさい。ランドセルのこと、すっかり忘れてました。それではまたいつか、きっとお会いしましょう」


 どこからともなく、女性のだみ声が響く。声の主を探そうと、朔はランドセルを拾いつつ辺りを見回す。すると、すぐ近くの電柱の側に、青いサワガニが歩いているのが目に入った。サワガニが電柱の影に隠れるのを前に、朔はランドセルを背負い込むと、ダッシュで駆けていく。

 だが、彼が電柱の影を覗き込むと、そこには誰もいなかった。気のせいだったのかな。そう思った時、朔の胸元がほんのりと薄緑色に輝いた。見ると、正六角形の美しい石をつけた首飾りから放たれている。朔がふと空にある月を見上げると、真円のそれもまた、同じようにほんのり薄緑色の光を放っていた。


――わたしたちはこの月から、あなたのことをいつも見守っています。朔、どうか、元気でね。


 頭の中で、少女の声が鮮明に思い起こされる。それは、彼にとって大切な人の声だった。

 空にある月を見上げながら、朔はゆっくりと家路を歩く。そんな少年の瞳に映る満月は、とても美しく見えた。




☆★☆MOON/おしまい★☆★

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