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MOON  作者: 天神大河
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前編

 月を見てはならない。


 幼い時に聞いた父の言葉を頭に思い浮かべながら、(さく)は家路を歩いていた。青いランドセルを背負った11歳の少年は、周囲をきょろきょろと見回したのち、灰色のパーカーに付属している薄手のフードを目深に被る。

 朔はアスファルトの地面を踏みながら、今日は体育の授業がなかったことに安堵する。彼は一日中、授業中であってもフードを外したくなかったからだ。おかげで友達や先生から様々なことを言われたり、溜息を吐かれたりした。その時の彼らの表情を鮮明に思い出しながら、朔は誰に言うでもなく呟く。


「ぼくだって、好きでそうしてるわけじゃないんだ……」


 朔がそこまで頑なになる理由は、三日前のことがきっかけだ。月を見てはならない――幼少期から父の言いつけどおり、月を決して見ようとしなかった朔は、その日思い切って理由を尋ねた。重い口を開いた父が告げた答えは、少年には到底信じられなかった一方で、どこか真実味を帯びていた。その日の夜はほとんど一睡もせず、ひたすら父の言葉を噛み砕いた朔は、それを人知れず隠し抜くことを決めた。しかし、いざそうしようと行動したところで、かえって人の目を引くだけだった。

 明日も学校がある。誰にも秘密を知られないためには、フードは必ず被らないといけない。だが、そうすれば今度は先生の呼び出しで終わる問題ではなくなってしまう。

 どうしよう……。尽きることのない悩みを吐き出すかのように、朔が小さく溜息を漏らす。すると、そんな彼の耳に中年の女性と思しき声が響いた。


「あら、こんなところにいた。探したんですよ?」


 甲高いだみ声に、朔は思わず辺りを見回した。だが声の主らしき人物はおらず、周りには住宅街の中を流れる川と、そこへ向かってゆっくりと歩くサワガニがいるだけだ。いったい今のは何だろう。そう思っていると、朔の耳に再び先程の声が聞こえてくる。


「もう、どこ見てるんですか。ほら、こっちですよ。こっ、ち!」


 朔が耳を凝らして声の聞こえた場所を探る。しばし間を置いて、彼は自分の足元に目を向けた。見ると、青いサワガニが朔の白い運動靴に二対のハサミを押し当てていた。サワガニの黒い目は、朔の顔を真っ直ぐに見つめていた。


「あぁ、ようやく気づいてくれた。実は……」

「うっ、うわああああああ!?」


 朔は思わずその場で尻もちをついた。全身が青一色に覆われたサワガニは初めて見たが、加えて人の言葉を流暢に喋ったのだ。器用に運動靴の上へよじ登るサワガニを、朔は腰と両手のひらを地面に着けたまま注視する。


「あら、驚かせちゃいました? ごめんなさいねェ。ワタシこんな姿だし、声もひどいから、最初会った時はとにかくびっくりされちゃうんです。けれど、悪気があるわけじゃないんですよ。分かってくださいね。そうだ、ワタシ『ハーニャ』って言います。実はあなたに、お願いしたいことがあるんです」


 ハーニャと名乗ったサワガニは、ダミ声で饒舌に喋り続けた。そんなハーニャを前に、朔は半ば圧倒されながらも彼女が口にした言葉をオウム返しする。


「……お願いしたいこと? ぼくに?」


 朔が尋ねると、ハーニャは頷くかのように両手のハサミを上下に動かしてみせた。


「ええ、実はワタシたちの故郷(くに)に、危機が迫ってまして。そこでワタシは、ルナ様からお言伝(ことづて)をいただきました。『この危機を乗り切るには、我らが月の力を持った地球(テラ)の人間のお力が欠かせない。だから、その方を是が非でも連れてくるように』とのことで。なかなか大変でしたが、何とか見つけられて良かったです。それでは早速、ご一緒に……」

「ちょっと待って!」


 そのまま話を進めるハーニャを前に、朔は大声で彼女の話を遮った。先ほどハーニャが口にしたことを、自分の言葉でゆっくりと整理する。


「えっと。まだよく分かんないけど、ぼくは……ハーニャの住んでる故郷を救うことができて。それで……ルナと言ったっけ? その人から言われて、ぼくを今からハーニャの故郷へ連れて行く、と。そういうこと?」

「そうそう、その通りです」

「それで、その場所は……月」


 朔はそう言って、空を見上げた。視界に月が入らないよう、わざと何もない北の空を仰ぐ。ハーニャは、そんな彼の言葉に頷くかのように、恭しくハサミを上下させていた。


「そうですそうです。いやあ、ご理解が早くて何よりです。ご安心ください、月へ向かう準備は既にできております。十秒もあれば、この地球から飛び立つことも――」

「ムリムリムリムリッ! 絶対無理!」


 眼前の青いサワガニを前に、朔は大きくかぶりを振ってみせた。そのまま、彼は早口で捲し立てる。


「ハーニャが今言ったことが本当だったとして、そんな大変なこと、ぼくにできるわけないだろ。だって、ぼくはまだ11歳の子どもだし。ぼく以外の、年上の人に頼めば……」

「あなたでないとダメなんですっ!」


 言うが早いか、ハーニャは運動靴の上を横歩きで移動し、朔の左足首の前で立ち止まった。そのまま、彼女は上下させていたハサミを朔の足首へ持って行き、靴下越しに思い切り挟み込んだ。


()ってェ!」


 細い足首に食い込むハサミの感覚に、朔は悲鳴を上げる。だが、そんな彼に構うことなくハーニャは口から泡を噴出し、涙声で懇願する。


「あなたを探すため、ワタシはこの地球で三日間……三日ですよ、三日。赤道から極地、砂漠地帯から高山地帯まで、毎日寝食も忘れて歩き回って。そしてようやく、あなたを見つけることができたんです。ここであなた以外を当たれと言われましても、もう他に当てもありませんし……今こうしている間にも、ルナ様や月のみんなが大変なことになってしまうかも! だからワタシは、あなたを何が何でも連れて行かなきゃいけないんですっ!」


 言い進めるほどに、ハーニャのハサミは少しずつ挟む力を強めていった。感情の起伏に反応するかのように柔肉を絞めていくサワガニを前に、朔は悶絶しながらも応じる。


「そう言われても、ぼくには無理だって!」

「そんなことありません、きっと力になれますよ!」

「それより、足が痛い! 放して!」

「行くって言うまで、絶対放しません!」

「分かった! 行くよ、行くからあ!」

「本当ですかっ!?」


 刹那、青いハサミは朔の足首からあっさりと離れた。それと同時に、朔は先ほど口にした同意の言葉に、口元を両手で覆った。

 痛みに耐えかねてつい口走ってしまったが、月へ向かうだなんて絶対にごめんだ。目の前のサワガニに関わってはいけない。そんな思いにとらわれながら、朔はその場を後にしようとゆっくり立ち上がる。だが、そんな彼の足元で、ハーニャの声が明瞭に響いた。


「それでは早速、月へ向かいましょう……朔様。すべては我が故郷を救うため。ムーンナイトの力よ、ワタシたちを母なる月へ、導かん!」


 朔が走り出すより先に、ハーニャは両のハサミを天へと伸ばした。彼女がハサミを擦り合わせた瞬間、パチン、と乾いた音が辺りに鳴り響く。

 刹那、朔とハーニャの身体は眩い光に包まれ、一瞬にしてその場から消えた。



☆★☆



 朔がうっすら瞼を開くと、眼前には広大な星空が広がっていた。遠くに見える大小さまざまな星々が、時に赤く、時に青白く輝く。

 ああ、もう夜か。彩りに満ちた黒い海を前に朔がぼんやり考えていると、学習机ほどの大きさをした大岩が、目の前を音もなく通過する。


「うわっ」


 短い悲鳴を上げつつも、朔は大岩――小惑星の姿を目で追った。新幹線よりも速く移動するそれは、オレンジ色の閃光を纏いながら巨大な青い惑星へと吸い込まれ、消えていく。その様子を見届けていた朔の耳に、ハーニャのだみ声が響く。


「朔様、あれが地球ですよ。なかなか大きいでしょう」


 朔が後方にいるハーニャへ顔を向けると、彼女は両手のハサミを開いたり閉じたりを繰り返していた。朔は再び、青い惑星――地球へと視線を泳がせる。


「えっ、うそ、地球!? まさか、さっきまで」

「そう、ワタシたちはつい今まで地球にいました。ムーンナイトの力を使って、宇宙まで移動したんですよ」

「宇宙、って……」


 朔は思わず、地球と宇宙とを交互に見回す。遠くで輝く太陽に照らされ、地球の表面では青い海や白い雲が鮮明に映し出されている。さらにその周りでは、大量の小惑星やデブリ、大小さまざまな人工衛星が宇宙空間を漂っているのが見て取れた。

 そして朔は、自分の頭から足元、前後左右を見回した。自分の身体は今、間違いなく宇宙という大空を飛び回っている。少しずつその実感を感じ始めた少年は、にわかに頬を紅潮させた。


「嘘だろ、ぼく、飛んでる! 本当に、ここが?」

「そうですよ、朔様。今目の前に広がっているもの、すべて宇宙です。もっともこれは、広大な銀河のほんの一端に過ぎないのですが……あっ、そうそう。ムーンナイトのおかげで、地球と同じように呼吸などができますので、どうかご安心ください。朔様」

「朔様……って。ハーニャ、どうしてぼくの名前を知ってるの?」


 眼前の状況を整理し少し落ち着いた所で、朔がふと感じた疑問を口にする。確かまだ名乗っていなかったと思ったけど――そう考える朔の前で、ハーニャは屈託のない声で答えた。


「ああ、それなら。先ほど朔様の御足に触れさせていただいた時に、朔様のお体をとおして伝わってきました」

「そう、なんだ」


 ハーニャの答えに、朔はどこか納得ができなかった。すぐ隣にいるサワガニの姿をした宇宙人は、人の名前を聞かずとも分かる超能力でも持っているのだろうか。ぼんやりと頭の中で解釈する朔の側で、ハーニャが声を上げる。


「見えてきました、月です!」

「えっ」


 朔の眼前で、鈍い光が揺れた。思わずすぐ左手へ顔を向けると、灰白色の大地が一面に広がる。

 目に映る光景を前に、少年の心臓が一瞬びくんと震えた。それと同時に、彼の全身がほんのりと熱っぽくなる。


「うわっ!」


 朔はすぐに月から背を向けた。小さく震える手で、頭に被ったフードをさらに目深に被る。


「どうしました、朔様」


 ハーニャがすぐさま朔の肩にハサミを触れた。その瞬間、青いハサミから黄色い光がほんのりと輝く。ゆっくり深呼吸するたびに、朔の身体は少しずつ落ち着きを取り戻していった。


「大丈夫ですか? 今、気分が良くなるお薬を朔様のお身体に入れさせていただきました。ムーンナイトの力があれば、地球の方が宇宙に出ても問題ないと思っていましたので……申し訳ありません」

「ううん。もう大丈夫だよ、ハーニャ」


 口ではそう応じながらも、朔は心中穏やかではなかった。

 今の感覚って、まさか――。

 身体が熱くなるほんの一瞬、自分が自分でなくなるような感覚があった。

 それはきっと、この月を見てしまったからだ。


「それなら良かったです。では、朔様にはこれから月の宮殿で……ルナ様にお会いいただきます。申し遅れましたが、ワタシは月の王女たるルナ様の側近を勤めさせていただいてます。どうかよろしくお願いいたします」


 ぺこりと頭とハサミを下げるハーニャを前に、朔はあらためて月へ向かったことを後悔する。だが、ここまで来て彼女――ハーニャの期待を裏切るのも気が引けた。

 早く月の危機を片付けて、地球へ帰ろう。そう自分に言い聞かせながら、朔は再びフードを目深に被り、ハーニャの後に続く形で月の表面へと向かった。



☆★☆



 ハーニャとともに、朔は宇宙空間を移動した。時に這いながら、クロールで泳ぐようにしながら進むが、結局普通に歩くように進んだ方が心地よいと気付く。そうしてゆっくりと歩を進める度に、月の姿はより鮮明に映った。

 ハーニャからもらった薬のおかげか、動悸は収まっている。月を見ても何も起こらない。

 だけど――心の中で不安を抱く朔の側で、ハーニャのだみ声が響く。


「見えてきましたよ、月の宮殿です」


 青いハサミの先端が指し示す先を、朔は目で追いかける。そこには、青白く輝く立派な建物があった。大小さまざまなクレーターの狭間に浮かぶ平屋建のそれは、朔が昨年の修学旅行で目にした沖縄の首里城を思わせた。正方形の塀に囲まれる中、太陽の光を浴びてきらきらと輝く宮殿の美しさに見惚れているのも束の間、宮殿の内外にいる者たちに朔の目線は釘付けになった。


「ね、ねえハーニャ」

「何でしょう」

「あ、あれってカエルだよね? どうして着物を着て、あんなところにいるのかなって」


 朔はそう言って、砂塵だけが広がる宮殿の庭に(たむろ)する者たちをおそるおそる指さした。彼の言う通り、そこには人間と同じ体格をした大勢のヒキガエルが朔たちを見上げていた。桃色や紫色の羽衣を纏うヒキガエルたちの手には立派な弓が握られ、背には二対の矢筒を背負っている。そんな彼らを前に、ハーニャは理路整然とした様子で答えた。


「ああ、彼女たちは月の宮殿を守っている嫦娥兵(じょうがへい)ですよ。宮殿の者たちには、事前に朔様のことは伝えてありますので、どうかご安心を」

「ああ、そう……」


 朔はハーニャの言葉に軽く頷いて見せるが、眼下にいる嫦娥兵の瞳は常に彼を見つめていた。ハーニャはああ言ったものの、ヒキガエルの姿をしている上に、いつ不意に弓で狙われるかを考えると、朔は気が気ではなかった。

 そんな彼の視界の端に、立派な桂の樹と、側にいる木こりの男の姿が目に入る。顔中に深い皺を刻んだ小柄な男は、絶えず桂の幹に斧を打ち込むが、幾度打ち付けても幹には傷一つつかなかった。そんな朔の疑問を読み取ってか、ハーニャがどこか淡々とした口調で告げる。


「あそこにいるのは、呉剛(ごごう)という男です。かつては地球に暮らす普通の男でしたが、はるか昔、月にまつわる大罪を犯したんです。その罰として、この月にある桂の樹を()り倒すよう昔の王に命じられたんですって。もっとも月の桂は頑丈ですから、伐り倒すより先にあの男の命が尽きるかもしれませんが」


 ハーニャの言葉を聞いて、朔は呉剛という男が哀れに思えた。呉剛が機械的に桂へ斧を打ち込む側で、白いウサギが数匹、木で出来た(きね)を手に、大きな(うす)の中にある餅をついていた。朔が質問するより先に、ハーニャが快活な口調で告げる。


「そちらは、宮殿の外の街で暮らしているウサギたちです。地球と違って、月での彼らの主食は餅になりまして。毎日餅をついては家族で楽しむ、それが月のウサギたちの日常です」


 朔は一言、そうなんだ、と相槌を打つ。以前月にはウサギが住んでいると絵本で読んだことがあったが、まさか本当だったとは。呉剛とウサギたちに与えられた環境の違いに戸惑う中、ハーニャが不意に朔の指をハサミで挟んだ。


「痛ってェ!」

「ほら、そろそろ宮殿の庭に着地しますよ。よそ見は控えてください」

「分かったから、ハサミを放して!」


 ハーニャがハサミを放したところで、朔はすかさず挟まれた箇所を擦った。こいつ、最初の時といい絶対わざとやってるだろ。声に出さないまでも、朔はそう言わんばかりにハーニャへ目で訴えるが、当のサワガニは素知らぬ様子で眼下の宮殿を見つめていた。そして、辺り一帯に彼女のだみ声が響き渡る。


「ハーニャ、ただいま戻りましたよ! 月の力を持った地球の方を連れて参りましたー!」


 月全体に伝わりそうなハーニャの一声で、嫦娥兵や呉剛、ウサギたちは一斉に朔たちへ顔を向けた。その様子を前に、朔はとても恥ずかしい気持ちになり、彼らから目線を逸らす。

 羅城門を思わせる大門の真前で、朔とハーニャが地表に着地した瞬間、辺りに白い砂塵がさらさらと舞い散る。朔が一歩足を進めると、先ほど足を着けた箇所には運動靴の足跡がくっきりと残っていた。

 ついに来たんだ、月に。四方八方夜のごとき真っ暗闇が続く中で、その実感が強くなっていく。そんな中、大門から左右に続く築地塀の前に立っていた嫦娥兵のひそひそ声が、少年の耳に入る。


「いやだ、月の力を持った地球の人間。まだ子どもじゃない」

「こんな子どもに何が出来るというのかしらね、ハーニャは」

「『連中』のことを知ったら、きっと尻尾を巻いて帰りたァいって言うわね、間違いないわ」


 朔は声のした方角へ顔を向ける。その瞬間、三人集まったヒキガエルたちは何事もなかったかのように散り散りになり、朔たちへ一礼した。

 何なんだよ、いったい。確かにぼくは月へ来るのは嫌だけれど、お前たちカエルにそこまで言われる筋合いはないだろう。朔は拳を強く握りしめる。悔しさと腹立たしさが、頭の中を歪に駆け巡る。その時、凛とした美声が辺りに響き渡った。


「おかえりなさい、ハーニャ」


 声を聞いた瞬間、嫦娥兵や呉剛、ウサギたちは大門へ向かって深く頭を下げた。ハーニャもまた、ハサミを頭上に掲げ、その場で平伏する。ただ一人、朔だけはその場でぽかんと立ち竦んだまま、大門からゆっくりと出て来る人影を前に、目を丸くするばかりであった。


「このハーニャ、ただいま戻りました。ルナ様」


 平伏したまま、ハーニャはだみ声で口にする。朔の眼前に映る彼女――ルナは、中学生ぐらいと思しき人間の少女の姿をしていた。腰まで伸びた長い銀髪と大きな藍色の瞳、透き通るような白い肌と青白いドレス。これらの調和を前に、朔は無意識に美しい、と思った。少し幼さを感じさせる整った容姿も、テレビで見るアイドルとはまるで格が違っているように感じられた。呆気に取られたまま、朔が声を出せないでいると、ルナが微笑を浮かべながら語りかける。


「あなたが、地球(テラ)から来てくれた朔様ですね。ハーニャから、お話は聞いています。どうぞ、お入りください」


 ルナはそう言って、朔の手をそっと掴み取った。細く華奢な手が触れた瞬間、朔の鼓動が一瞬速くなる。


「は、はい」


 気付けば、自分でも恥ずかしいほどの裏返った声が漏れていた。ルナは、そんな朔の様子を気に留めることなく、くすりと口元に笑みを作った。


「では朔様、宮殿へ参りましょうっ!」


 そう口走ったのは、ハーニャだった。言うが早いか、ハーニャは朔の左足首をハサミで掴んだ。刹那、彼の鋭い悲鳴が辺りに響き渡り、ルナを含めその場にいたもの全員が目を丸くした。



☆★☆



 背中に背負った青いランドセルを嫦娥兵に預けた後、朔は宮殿にある一室で、ガラスでできた椅子に座っていた。そのまま、彼は素足をルナの前に差し出す。対するルナは、片膝を床に着けた体勢で、朔の足首に深緑色の薬を塗り始めた。冷たいゲル状の薬の感触に身を震わせる朔に、ルナは頬を赤らめつつ謝罪の言葉を述べる。


「申し訳ありません、朔様。ハーニャったら、昔から相手をハサミで掴んでしまう癖があって。直すように、いつも言い聞かせていたのですが……ごめんなさい」


 一通り塗り終わったところで、ルナはおもむろに立ち上がり、朔に頭を下げた。ルナの足元に控えていたハーニャも、二対のハサミをガラスの床に置き、身体を小さく震わせる。朔は、そんな二人を前にかぶりを振りながらも応じる。


「ううん、ぼくはもう大丈夫だから。お薬まで塗ってもらったし」

「この月の危機を救うために、朔様には来てもらったと言うのに。恥ずかしい限りです……」

「大丈夫だよ、ハーニャも悪気があったわけじゃないみたいだから」


 それがどこまで本当かは知らないけど――後に続く言葉を、朔は心の奥底にしまい込む。

 ありがとうございます。ルナがそう口にする傍ら、朔は靴下をフードのポケットに入れ、靴を履いた。ハーニャに挟まれた足首に、薬が染み渡り心地よい気持ちになる。

 そして、朔が椅子から立ち上がったところで、ルナはその場で丁寧にお辞儀をした。朔もまた、眼前の少女に倣って、ぺこりと頭を下げる。彼は灰色のフードを未だ頭に被ったままだったが、ルナは笑顔を崩さなかった。


「はじめまして、朔様。わたしは月の王女、ルナと言います」

「ど、どうも。朔と言います」


 朔は言いながら、少女の顔をちらと窺う。端正な容姿をした月の王女からは、ほのかに香水と思しき香りがした。もし今も月にかぐや姫がいるとしたら、きっと彼女のことに違いない――朔の脳裏にふと、その考えが浮かんだ。


「ハーニャから事情は伺っているかと思いますが、今、わたしたちの住む月に、危機が訪れているのです」


 笑顔から打って変わって、凛とした口調でそう告げるルナを前に、朔は数秒の間を置いて告げた。


「えっと、ルナ……さん。その、月の危機って、何なんですか?」

「えっ、ハーニャから聞いていないのですか?」


 ルナの問いに朔が小さく頷くと、少女はまあ、と素っ頓狂な声を洩らした。ルナが足元にいる青いサワガニに目線を落とすと、彼女は両手のハサミで顔と思しき部分を覆い隠した。

 もうっ。ルナは溜息交じりにそう言うと、あらためて正面から朔の顔を見つめた。それとともに、朔の頬がわずかに紅潮する。

 そして、ルナは一度深呼吸をして、語り始めた。


「五日前のことです。宮殿(ここ)から離れた、月の裏側にある『賢者の海』に、異星人の船が侵入して来ました。海と言っても、クレーターがほとんどない平原で、地球のように水はありませんが。それで、賢者の海にやって来た異星人の船は、近くに暮らすウサギたちに乱暴を働いたり、今あるクレーターにさらに深い大穴を作ったりして。今日までに嫦娥兵が何度か、船を追い返そうとしたんですが、まるで歯が立ちませんでした。それどころか、異星人はわたしたちに要求を突き付けて来たんです」

「……要求って、どんな?」


 神妙な面持ちで話すルナを前に、朔は固唾を呑みながらも続きを促した。ルナは口を真一文字に閉じると、ゆっくりとその内容を口にした。


「わたしたち月の民にとっての永遠の宝――『ムーンナイト』を差し出せ、ということでした」

「ムーンナイト?」


 ルナが口にした言葉を、朔もまたオウム返しに口走る。そう言えば、そこにいたハーニャも口にしていたような。朔がハーニャへ顔を向けたところで、ルナはさらに続けた。


「ムーンナイトは、わたしたち月の民が豊かに暮らすために欠かせないものなんです。長い歴史の中で、わたしたちの祖先は、地球を含めた様々な星と交流を続けてまいりました。その過程で、その星の言語を瞬時に理解し、扱うために生み出されたのが、ムーンナイトなのです。現に朔様とわたしたちが今こうして、互いにお話ができるのは、その力のおかげなんですよ」


 穏やかに笑みながら告げるルナの話を聞く中で、朔は一つ頭の中に浮かんだ疑問を尋ねた。


「けど、さっきハーニャがぼくをここに連れて来た時は、地球から宇宙へ瞬間移動したり、ぼくが宇宙で行動ができたりするのにその、ムーンナイトの力を使ったって。それもそうなの?」

「それは、ムーンナイトに秘められた力の一端です」


 ルナはそう言って、自身の胸元に手を当てる。ドレスの上に纏った小さな首飾りを手に取り、手中にある純白の鉱石を、朔へ(かざ)してみせた。正六角形にカットされた鉱石は、外からかすかに入り込む陽光を浴びて、白い光の筋をガラスの床へと反射した。


「これは、ムーンナイトの一部です。わたしやハーニャといった、月の宮殿に出入りする限られた者だけに代々継承され、先ほど朔様が仰った能力も使うことができます。ですが、ムーンナイト本来の力は、月の民が互いに、あるいは異なる星の方たちと対話するために使うものです。だから、決して悪しきことのために使われてはならないのです」


 ルナがそこまで口にしたところで、ハーニャが両手のハサミをぶんぶん振り回しながら声高に言った。


「その通りです、ルナ様。ですが、この前やって来た異星人たちは、ワタシたちの言葉には耳も貸さずに、ただただムーンナイトをよこせとだけ。狼藉もひどくなる一方なので、これ以上は……ってことで、ワタシが直々に地球まで出向き、朔様を連れて来たのです」


 ハーニャはどうだ、と言わんばかりに左右の足をピンと伸ばし、自らの身体を大きく見せようとする。朔は苦笑交じりにその様子を一瞥すると、ルナへ顔を向けた。


「事情は、大体わかりました。ハーニャも、この事態を救うのは月の力を持ったぼくにしかできないことだと言ってました……ですが、ぼくは月が苦手で、月の力が何なのか、ということもよく分からないです。あんまり役に立てないかと思います」

「月が苦手、なんですか?」


 朔の言葉を聞き、ルナは困ったように俯いた。彼女の藍色の瞳が、少しだけ(かげ)りを見せる。そんなルナの表情を前に、朔は焦りながらも補足を行う。


「いや、月が苦手なのはルナさんのせいじゃなくて、ですね。その。何というか……ぼくの体質の問題で。それで父が、月を見てはならない、と言っていたものですから」

「そうでしたか。だったら、ご無理をさせてしまったかもしれません。ごめんなさい」

「ああ、いや……」


 朔とルナの間で、しばし静寂が流れる。二人の様子を見ていたハーニャは、朔へ向かってハサミを伸ばした。ハサミが朔の運動靴に触れた時、彼は思わず身を震わせたが、ハーニャはそのままの姿勢で動こうとはしなかった。


「朔様、少しいいですか。ワタシは、朔様にこの星を助けてもらいたいと思って、ここまで連れてまいりました。朔様も得心いかないところがあったかもしれません。だから今、あらためて確認したいです。朔様、ワタシたちの住むこの月を、救ってくださいますか?」


 聞き慣れたハーニャのダミ声が、少し低かったことに朔は戸惑う。きっとこれは、真面目に自分の翻意を尋ねているんだろう。誤魔化すことはできない。

 そう悟った朔は、ちらとルナの顔を見た。彼女の藍色の瞳は、朔の顔だけを真っ直ぐに見据えている。そのまま数拍の間考えたところで、朔は唇を動かす。


「ぼくは……」

「――王女様、大変でございます!」


 部屋全体に響き渡る低い声を上げて、嫦娥兵の一人が朔たちのいる部屋へ入って来た。朔たちは一斉に、彼女へと目を向ける。ぜえぜえと息を切らしながらも、ヒキガエルは声を張り上げて報告する。


「異星人の船が、宮殿の目の前まで迫って来ています! このままでは……っ」


 鬼気迫る顔でそう告げる嫦娥兵の背後から、突如として一陣の風が吹く。砂塵(レゴリス)が混じった冷たいそれに、朔たちは目を伏せた。ルナの手に握られた首飾りが、彼女の手を離れ宙を舞う。それから朔が再び顔を上げると、吹き(すさ)ぶ風の中で若い男が立っていた。

 人と似た姿をした男の背には巨大な黒い翼が生えており、一本だけの長い脚と両手の先には鋭い爪が生えている。男はふん、と笑みをこぼすと、呆然とその場に立ち尽くしていたルナを見据えた。それと同時に、男の金色の瞳が、歪な輝きを放つ。


「あんたか、月の王女ってのは。こうして見りゃあ、結構なガキじゃねえか」


 そう言って、男は背に生えた翼を広げた。茶褐色をした肌と、上下に纏った黒い衣服とが相まって、男の姿はカラスと見紛うほどだった。

 朔たちが呆気に取られている中で、男はその場から飛んだ。翼を震わせ、部屋の天井付近まで急上昇したかと思うと、再び急降下を始めた。そして再び部屋の床に着地するより先に、男の手がルナの身体を掴んだ。少女の短い悲鳴が、朔の耳に入る。


「ルナ様!」


 ハーニャが叫び、朔たちが天井を見上げる。ルナの華奢な身体は、男の両手に抱えられていた。空中で翼を揺らしながら、男は眼下の者たちを見下ろす。そのまま、口元に笑みを浮かべて男は告げる。


「悪いが、王女様はもらってくぜ。ムーンナイトと交換だ。そうだな、この国にあるムーンナイトの原石をすべてよこすんだ。そしたら王女様は返してやる」

「何者です、放しなさい!」


 ルナが身体を揺らして抵抗する。少女の抵抗に怯む様子もなく、男はルナの顔を見つめる。金色の瞳とルナの藍色の瞳が重なった瞬間、彼女は瞼を閉じ、そのまま眠りについた。銀色の長い髪が、重力に従ってだらりと垂れる。それを目にした朔は、思わず大声でルナの名を呼ぶ。


「ルナさん!」

「眠ってもらっただけだ。悪いようにはしねえよ」


 その時だった。銀色の閃光が、男の目の前を過った。朔と男が、一斉に光の向かった先に目を向けると、ガラスの壁に銀色の矢が突き刺さっている。そのまま、二人は続けて反対側の、部屋の出入口へと顔を向けた。そこには、数人の嫦娥兵が矢をつがえたまま立っていた。


「王女様を放せ、無礼者! 次は当てるぞ!」


 その様子を目の当たりにした男は、翼をはためかせ、嫦娥兵たちが集まる場所へと突っ込んでいった。ヒキガエルたちは、次々に矢を放つものの、男の翼が生み出す風によってことごとく床へと落ちていく。


「無礼なのはどっちだよ。こちとら、お前たちの王女様を手に持ってんだぜ?」


 溜息交じりにそう言うと、男は翼を揺らし、強風を嫦娥兵たちに浴びせた。風圧に耐え切れず、彼女たちが次々に両手を床へつける中で、男は悠々と部屋を出て行った。男は唇からふう、と赤い炎を吐き出すと、部屋から続く廊下の壁を燃やし始める。壁に少しずつ外への穴が出来上がるのを前に、男は朔とハーニャへ向けて声を張り上げた。


「いいか、王女様はムーンナイトの原石と交換だ。日輪の光がこの宮殿を照らし終わるまでに、おれたちの船へ持って来なかったら。その時は、王女様の命は無いぞ」


 その時は、王女様の命は無いぞ――ひときわ低い声でそう言い残し、男は壁にできた大穴から飛び去って行った。少女のいなくなったガラスの部屋には、小さな粒子状の砂と、彼女が身に着けていたムーンナイトの首飾りだけが残されていた。

 王女様、王女様。嫦娥兵たちが悲痛な声を上げる。そんな中、ハーニャは朔へと静かに語り掛けた。


「朔様。今ご覧になったのが、ワタシたちの月を襲ってきた異星人です」


 ハーニャの言葉に、朔はただ頷くことしかできなかった。目の前でルナが連れ去られたことの衝撃を、未だ頭の中で整理しきれなかったこともある。ハーニャは、大穴から先の宇宙へと視線を注ぐ少年へさらに続ける。


「日輪の光がこの宮殿を照らし終わるまで。つまりこの月での日没まで、ということで、あと二時間しかありません。朔様、最早ワタシたちに残された選択の余地は限られています。どうか、ルナ様を、この月を救ってください。お願いします」


 ハーニャはそう言って、両腕のハサミを頭の上に乗せた。そんな彼女の様子を見て、私からもお願いします、どうかお願いします、と嫦娥兵たちも口々にそう言って、朔へ頭を下げた。ハーニャや嫦娥兵たちが一斉に自分へ頭を下げる光景を前に、朔は戸惑いながらも口にする。


「そう言われても……ハーニャ。何というか、ぼくにできることは少ない。いきなり月に来て、まだよく訳が分からないのが実のところだ」

「お気持ち、ご推察します」


 ハーニャは、朔の言葉を否定するでもなくそう返す。朔は、彼女や嫦娥兵たちを見回し、さらに言葉を続けた。それに合わせて、彼の足がゆっくりと動き出す。


「だけど……ルナさんやハーニャ、みんなが困っているのを、黙って見過ごすのもいやだ。ぼくは月は苦手だけど、だからってこのまま逃げたら、きっと後悔するから……」


 少年の足が、止まる。彼は足元に落ちていた首飾りをそっと手に取ると、力強い口調で続けた。


「だからぼくは、やるよ。ぼくも、ルナさんを助けたい。ハーニャ、どうすればいいか、ぼくに教えて」


 朔の答えを聞いて、ハーニャはゆっくりと頭上のハサミを下ろした。彼女の青いハサミは、ガラス越しの陽光に反射して青白く輝く。涙のように静かに流れ出すその光は、朔にとって少し眩しく感じられた。

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