今はもうない国のはなし
目の前には青が広がっていた。
濃く深く、斑に赤の広がった、混濁した青。
膝から崩れ落ちた私は、その青をただ、ただただただ、見つめ続けた。
一切の音が聞こえない。
耳鳴りすらもしない。
私を取り囲んだ無音の世界には何も響かない。
ぼうっと、体が浮いたようだった。
膝に触れている地面の感触は遠い。
力が入らなくて、握っていた弓の胴が滑るように掌から落ちた。
その音もまた、聞こえない。
体の感覚が、なくなっていた。
見開いている目は、瞼を閉じない限り、嫌でも映像を映し出し、私にそれを認識させる。
青が動く。
動くと、赤が広がる。
青をまとった人間の足元には、血だまりと肉塊。
青はその肉塊を踏み越えて、さらにまた肉塊を作りだす。
青が振り向いて、私を見た。
青の背後にはうごめく肉はもういなかった。
青が、目つきを険しくする。
口元をわずかに動かして、持っていた赤の滴る剣を投げ捨てると、背負っていた弓矢に手を伸ばし、素早く矢を番えた。
私に向かって、引き絞る。
ああ。
私はこうして終わるのか。
青い人間の形相は鬼神のように恐ろしく映ったけれど、恐いと感じたわけではなかった。
二十歩ほど離れた場所にいる、弓を構えた人間の一挙手一動足が、とても緩慢で、まるでわざと止まりながら動いているように感じられた。
もったいぶっているかのような、私を死へ誘うこの一連の動作は、おそらく一瞬のうちに行われたものだったろう。
引き絞った矢を瞬きもせずに、彼は放した。
私は死んだのだ。
青い凶手から放たれた矢によって、私の命は奪われた。
だが、痛みはない。
この距離で、あんなに強靭な力で凶器を投げられたら、体が仰け反りそうなものだけれど、それもなかった。
私の二つの瞳は、弓を持った腕をそっと脇に下す彼を、まだ見つめている。
青い男は、深く息をついたようだった。
上っていた肩がゆっくりと下がる。
男は弓を背に戻し、数多の肉塊と、凶器が転がる血みどろの大地の中に同じように投げ捨てた己の凶器を、背を屈めて掴むと、私に向かって歩を進めた。
男が歩くたびに、大地がはねる。
血だまりが、飛沫を上げる。
人間だったものたちが、おののくように転がされる。
男は私の目の前で足を止め、見下した。
私は首を動かす事もできない。
目に映るのはやはり青だが、それは男の膝で、広い背中ではなかった。
息の根を、とめに来たのかと思った。
だが、男は私に腕を伸ばし、荒々しく肩を掴んで、無理やり立ちあがらせると、きつくきつく、抱きしめた。
相変わらず、膝に力は入らない。
体中の感覚もないし、音も何も聞こえない。
男が私を放したら、地面に転がる屍のように、屑折れてしまうだろう。
男が腕を放した。
その瞬間、私は支えを失って下半身から、後ろに倒れる。
関節や骨がまるでただの布を繋ぎ合わせただけのもののようで、役に立たない。
軸を失った身体は、ゆるゆると、地面に背をつけた。
衝撃はなかった。
あったとしても、感じられない。
慌てたように男が私の体を掴み起こして、中腰になって顔を覗いてきた。
その少しの合間、私の目は私の隣にある死体を映していた。
剣をふりかざしている体勢のまま、うつ伏せに倒れている兵の頭には、矢じりが天を仰ぐように突き出ていた。
〇
いつにもまして豪勢な食事だと思った。
すると、感嘆した私の様子を見た兄が、やにわに手を叩き、侍女を呼んだ。
水差しを持った侍女と兄が密談するように顔を寄せる。
侍女は得心したように頷き、静かに下がって扉を開いた。
その扉から、楽士の一団が舞うように飛び出してきた。
彼らは喧しい音楽を奏で、それに続いて美しい踊り子達が体を動かし始めた。
「どうだ。驚いたか? この一団は、今日のために、お前のために用意したのだ」
自分の仕掛けに満足したのか、背もたれに深くもたれて兄が言う。
楽士達は円卓に座る私達を囲みながら賑やかに囃しを立てた。
「私のためとは、どういうことです?」
眉をひそめて私が聞く。
すると兄はさらに尊大な素振りで私を見た。
「お前の結婚が決まったから、その祝いだ」
にやにやと笑いながら言うのだ。
まさにそれが私を驚かせるためのとっておきの種だとでも言うように、いやらしく笑う。
私はといえば、言葉を失っていた。
兄が考えていることが、まったくわからなかった。
「なんだ、つまらん。もっと驚け」
嬌声でも上げると思っていたのだろうか。
それとも絶叫して失神すると思っていたのか。
どちらにしても、取り乱した私の姿を期待していたに違いない。
だが、私は石像のように固まったまま、うんともすんとも言わずにただ座っているだけだ。
兄から、あからさまな溜息が聞こえてきた。
「弧王室の末端とはいえ、王族に連なる者に輿入れが決まったんだ。喜べ、妹よ」
鷹揚に、兄が口を開く。
そして、箸をとり、豪華に飾りつけられた食事へと腕を伸ばした。
楽団の陽気な音楽は鳴りやまない。
壁にふんだんに飾られた花々や、多すぎる蝋燭は明々として眩いはずなのに、私自身はそれらから疎外されているように感じた。
視界や雰囲気は明るいけれど、私一人だけ狭く冷たい箱の中に隔絶されているような気分だった。
底抜けに軽快で賑やかな笛と太鼓の音が、私の胸にさらなる溝をつくってゆく。
「どうした。どうしてさっきから、何も言わない?」
食べているものが口の中で見え隠れする。
袖が料理に触れるのも厭わず、腕を伸ばして目当てのものを引き寄せた。
しかし、それでも届かないと侍女を呼ぶ。
「……弧国といったら、我が国と敵対している、隣国ではないの」
「だからお前が行くんだ」
「私が?」
「大陸の情勢は、今や弧をはじめとする北方の国々へと傾いている。東方の我らのように異民族に国境を脅かされる事もないから、力を無駄に疲弊しない。この貧弱な国が呑まれるのも、時の問題だよ」
「兄上は、私を駒にして、…まさか、国を」
「私達は建国以来の名門だ。璃王家と親しく、王からの信任も厚い。国の内情は自分の体のようによく知っている。だから、呑まれる前に、乗っ取ってやる」
兄が、口元に薄い笑みを湛えた。
出仕する宮中では佳人として評される兄の、狡猾で卑劣な本性を知る者は、きっと、この世に私以外いない。
「璃王家が滅んだ暁には、我が一族が、弧の属国となったこの国を統治するのだ。もう約定も取りつけてある」
敗戦国が戦勝国の言うなりになるのは常だ。
だが兄は、その役目を相手から買ったと得意げに言うのだ。
国を売った、その褒賞として。
「璃は土地も痩せている上、異民族に強襲されやすいという厄介がある、治めにくい土地だ。弧は土地と金さえ手に入れば、あとは見向きもしないのだ。誰だってそうだ。利益以外の面倒事は、しょい込みたくない。寝ているだけで金が入ってくるのなら、そちらが良いに決まっている」
「最低」
「言えた口か? 王家に連なる貴族として、近々攻め入る強国に殺されずにすむのだぞ」
確信でもあるのだろうか。
兄は自信に満ち溢れていた。
もしかしたら、もう、すでに国に敵兵を招き入れる日取りさえ決めているのかもしれない。
いつの間にか、音楽は静かで、水の流れる音のような優しさに満ちたものに変っていた。
私達の会話に、この場にいる全員が耳を傾けている事に今更ながら気が付いて、肝が冷える。
もし、もしこの話を誰かに密告されてしまったら……。
私が周囲に視線を走らせ始めたことに気が付いたのか、兄が片眉を上げて私を見た。
そして、ふっと笑う。
「心配するな。この者達はすべて始末する」
まるで埃を払うかのように、事もなげに言うのだ。
「ひっ」
と、女の短い悲鳴が上がった。
扉のそばにいた侍女が取っ手を掴んで、逃げようとする。
それに我に返ったように楽団の音楽が止み、踊り子もきらびやかな衣装をひるがえして、われ先にと唯一の出入り口へ詰めかけた。
ああ。
きっと、無駄だ。
聞こえぬふりをしていれば、まだ少し、生きていられたものを。
この男は、父や母、さらには三つ上の実兄さえも、目的のために屠ってきたのだ。
やっと扉が開かれると、彼らから大きな悲鳴が上がった。
兄が優雅に席を立ち、私の腕をとって、扉口からは死角となる壁に寄る。
寄り添うように、私の肩を抱いた瞬間、一斉に矢が放たれた。
〇
大地は痩せ、異民族の恐怖に日々晒されている璃国は、国と共に人民も疲弊していた。
作物は満足に育たず、しかしやっと、四苦八苦して育てればそれは有無を言わさず税として取り上げられ、時として蛮族に奪われて、民は干上がる大地に養分を吸い尽くされる草木のように痩せ細り、命を散らしてゆく。
王宮では官吏や重臣の間で賄賂がはびこり、王の都の朽ちた屋根も直さずに、私腹を肥やし己の家屋や肉体をでっぷりと大きくする奸臣が、玉座の周りに跋扈した。
私の兄も、その一人だ。
宰相の一派に属し、建国以来、王家に仕える名門であるという権威を振りかざして、国の舵取り役に一番近い位置にいる。
年若いながらも英俊として知られる兄は、将来有望な男と一目置かれる存在で、宰相の年かさの娘との婚姻話が進んでいた。
王の力は、並居る重臣たちよりも弱かった。
私は沓を履き、屋敷の小さな庭に歩き出た。
ちょこんと寂しく建っている東屋の柱や屋根には、枯れた蔓草がからまっている。
雑草さえも生える力を失くすような、この国の土地。
空を見上げれば鳶さえも飛んでいなくて、私は急に悲しくなった。
体をすり抜けた風が、土を巻き込んで、塀の向こうへ舞い上がる。
私の夫となるのは、璃国の王子のはずだった。
それは、この空よりも遠い昔に、亡き父が政略によって決めた事だったけれど。
『ぼくたちは、〝ふうふ〟となるんだって』
陽だまりのように暖かく朗らかで、優しい笑顔がよみがえる。
幼かった私は意味も分からずに、後宮で皇后と暮らす王子のもとへ、遊び相手として連れられて行っていたのだ。
思い起すと懐かしい。
私の記憶にしかいないあなた。
〇
「もう、王子の所へは行かなくて良いよ」
私が十になるか、ならないかの頃だ。
突然、兄が言ったのだ。
私は言われれた意味がわからなくて、兄に泣きながら問い返した。
すると、兄は小さく舌打ちをして、私に背を向けた。
答えを拒絶した身体に、私は鼻水をたらした顔を押し付けて、腰に腕を回し、泣き叫んだ。
兄は邪険に私を振り払うと、目を吊り上げて、冷たい床に尻餅をついた私を蹴飛ばした。
「うるさい、黙れ! お前は、正妃にならなきゃ意味が無いんだ! それを、あんな古狸の醜い娘に地位を奪われて、この役立たず!」
王子の正妃が、政敵の貴族の娘に決まったと知ったのは、それから幾日か経った後だ。
しかし、当時の私は、兄の怒鳴る理由がわからなくて、ただただ恐怖に震えていた。
「父上も、兄上も能無しだ! 何のために幼い子供同士を引き合わせていたんだ! 第二夫人の位にするためか? だったら馬鹿でも出来る!」
国の中でも一、二を争う名門が、下位の貴族に出し抜かれたのだ。
絶対的な身分社会において、起るはずもないことが起きた。
一枚も二枚も、相手が上手だった。
そして、一族が愚かだった。
兄は、さらなる栄華を欲していたのだろう。
そのためには、私が第一夫人になる事が必要だったのだ。
絶対無二の、皇后に。
「おくれをとれば、身が危うい」
これから権勢を極める算段を立てている者にとって、疎ましいのは古株貴族の私達のような存在だろう。
いま、国を支配しているのは王ではなく、権謀術数なのだ。
他者に邪魔だと判断されるものは、排除されかねない。
兄は最後に何事かを小さな声で唱えると、私を蔑むように見て、行ってしまった。
それから、三月後のことだ。
私の家族を怪異が襲った。
父、長兄、母が相次いで原因不明の死を遂げたのである。
そして、家督は当時十七歳の兄に移った。
〇
「兄上」
震える声で、私は言った。
夜着をまとった身体は自分でも驚くほど華奢で、心許なく思えて、この姿で兄の前に立った事に、目が合ってしまってから後悔した。
「どうした。何か用か。用ならさっさと言え」
背景として広がる夜空と同じ黒い瞳、そこに小さく、星のように輝く光を鋭くして、兄は言った。
私は一層、身が小さくなる思いがする。
机上に置かれた貴重な紙が、開け放った窓から入り込んだ風にあおられて、一枚二枚、私の足元へとやってきた。
「拾え」
短く言い放つ。
しかし、私は従わなかった。
代わりに強く拳を握る。
そこに、何かが宿っているわけではないけれど、そうでもしないと私の口は開いてくれそうになかった。
「兄上の謀反に、私は協力したくない」
たった一言を、やっとの思いで言いきった。
だが兄は眉を寄せただけで、何も言わない。
「私は、顔も知らない、異国の人もとへ行くなんていやだ。絶対に、絶対にいやだ。だったら、私はお側女でもいいから、王子のもとへ行きたい」
「だから?」
兄が、頬杖をついて聞き返してきた。
だから、と聞かれても、私は精一杯意思を伝えたつもりで、それ以上の答えはない。
決死の思いで逆らった言葉は、緊張のせいで考えていたものよりも小さくまとまって出てきたくらいだ。
余計に、頭が真っ白になる。
「それを私に主張してどうするのだ? いやだからと、王子のもとへ逃げるのか? 陰謀を密告するのか? どれもこれも、お前にできるはずがないじゃないか。王宮へ走る馬車はどうする? 御者は家長である私の許可なしに動かないぞ。だとしたら歩いて行くのか? しかしお前のなりでは、道を歩いただけですぐに襲われる。密告とて、誰に言う? 貴人の名前も屋敷の場所も、満足に覚えられないくせに」
体が、すくんでしまった。
兄は、まっすぐな視線をそらさない。
「大体、これが私一人の謀反だと思っていたら大間違いだ。陳腐な正義感と箱入り娘のおめでたい頭で、感情任せに足掻こうとしたってめぐらされた思惑の糸がさらに複雑にからまるだけだ。そしてもがけば、首を締め上げられる」
一気にまくしたてた兄は、嘲笑うかのような目線をくれた。
「お前だって、その若さでまだ死にたくはないだろう? 唯一私がお前を生かした理由に思いをめぐらせれば、それに反した行いをして招く事態も想像できるんじゃないか?」
音のない風が、兄の長い髪を揺らした。
解かれて風に遊ばれる髪は、兄の言う糸のように広がって、今にも私に襲いかかりそうだ。
「拾え」
もう一度、兄が言った。
私は唇を噛み締める。
内側が切れて、温い液体が口内に広がった。
このまま舌を噛みちぎってやろうかと思ったが、それをするには勇気が無くて、結局私は何もできない。
兄は、そんな私の考えていること全てを知っているかのように、一度、深く微笑んでみせた。
私の臆病な小さな心は、ずっと昔から暴戻な兄に見透かされている。
こんな状況になってまで何も言えず、何もできない私の事を、兄はよく分かっていた。
死にたくないと思う心は、罪だろうか。
目の前の人がただ、恐いのだ。
私は握りしめたままの掌をゆっくりと解いて、床に散った紙に腕を伸ばした。
「お前にとって、下手な感情や思考は余計なだけだよ」
やけに優しく響いた声に少しだけ、救いを求めたくなる。
「捨ててしまえ」
こんな自分が、大嫌いだ。
〇
兄はこの頃、宮廷から帰ってくると、客人と共に部屋で談合する事が多くなった。
来客の大半は兄と同年代か、初老とも言えるほどに年かさの男性で、皆一様に体が大きく、武人のようだった。
客人をもてなすという家の女の義務のため、時折顔を出すのだが、酒が入ってくると往々にして彼らは態 度が鷹揚になり、どういう了見か、瞬く間に侍女たちや私を取り囲んで来る。
現に今も、そうである。
私は男達の中でうろうろとしている。
こうなってしまうと、私には何もできない。
兄が気が付けば、声をかけて彼らを呼ぶのだが、今日はそんな兆しもない。
兄は、奥の方で人々と熱心に話し込んでいるようだった。
だが、とつぜん、見知らぬ男が人を押しのけて、私の目の前に現れた。
「皆さま、大事なお話があるようで、あちらに呼ばれておりますよ」
その人は、私にくるりと背を向けて言葉を発する。
すると彼らは酔いが醒めたように、指示されたほうへふらふらと歩いて行った。
どうやら目的地は兄のようだ。
しかし兄が、彼らに注意を払っている様子はなかった。
「大丈夫でしたか、姫」
引潮のように一団が去ってゆくと、男は私を振り返って尋ねた。
精悍で、長身の男だ。
私はどもるようにして頷くと、男は笑顔を見せた。
私よりも少し年上くらいだろうか。
笑うと目が三日月のように柔らかくすぼめられた。
恐らく彼も武人だろう。
線は細いが、着物の上からでも筋肉質なのがわかった。
腰に佩いた剣に、房飾りや装飾のたぐいがない。
「もしかして、この頃は毎日、ああして悪漢に囲まれているのですか?」
首を傾げて見つめられて、私は瞬きが多くなる。
口を開こうとすると、端から釣り糸につられたようにぷるぷると震えてしまう。
「醐貴人の屋敷へゆくと、みな機嫌を良くして帰ってくると聞くが、原因はあなたかな。あの方々の鼻の下、切って繋ぎ合わせれば屋敷の屋根に届くかも」
からかうように笑われて、私は顔に熱を感じた。
「私は王子の身辺を守る近衛として宮中に上っています。あなたの兄君に与する者では一番若輩ですが、以後、お見知りおきを」
ちっとも動かなくなった私が彼の瞳にどう映っているのか、それは分からない。
だが、一、二拍置いた後、うつむいた私の顔を覗きこむように身を屈め、彼は優しく、ひたすらに優しく笑った。
「あなたのためにこれからは、私が近衛を務めましょう」
護衛が欲しかったわけではない。
だが私の目からは一筋、涙が零れた。
違うのに、違うと分かっているのに、彼の言葉は私を取り巻く全ての物事に対して告げられたもののように感じて、胸が強く締め付けられてしまった。
突然座り込み、しゃくり上げるようにして泣く私に、彼はとても狼狽したようだった。
しかし、そんな私の盾になるように、泣きやむまで、彼は私の前に屈みこんでくれていた。
赤くなった目を動かすと、じっと見つめている彼の目と合わさった。
笑ってくれると、空っぽの心になにかが満ちてくる。
不思議な気持ちだった。
〇
「兄君はどんな方ですか?」
それから、彼はほぼ毎日、兄を訪れる客人たちとともに、屋敷にやってくるようになった。
彼が私のそばにいると、不思議と人は近付いてこなかった。
「見た目通りの方です。深謀遠慮に長け、理想を追い求める方」
私達は夜の庭に下り立っている。
挨拶も終われば早々に部屋に戻れるのだが、この頃はこうして彼と時間を過ごす事が多くなっていた。
彼は、私を見つけると、声をかけて側に寄ってきてくれる。
朗らかで優しいこの時間は、決していやではなかった。
他愛もない話にもらす小さな笑い。
それが、この上もない幸福だった。
いつまでも続けばいいと思う。
そして、明日も明後日も、彼が屋敷に来てほしい。
「無理をしてはいませんか?」
「はい?」
「いえ。ただ、あなたはご家族の話になると、途端にお顔を暗くするから」
虚をつかれた。
けれど、弁解しようという気持ちは湧いてこなかった。
だから、静かな時が流れる。
夜風は音もなく、激しさもなく、たゆたうように私達の間に吹いて、消えていった。
「……私はあの人が、受け入れられない」
ふと、口をついた言葉だった。
彼が、身を固くしたのがわかった。
「……けれど、受け入れるほかに、私は生きていくすべを知らない」
「兄君は……醐貴人は、あなたにとって、絶対の存在なのですか?」
「違います」
すぐに返事を返した。
「……でも、そうなのかもしれない」
まるで曖昧な答え。
だって、私達の関係は兄妹ではなく、主従ではないか。
「人質として、敵国に嫁がされる事になっても抗えないのは、そのせいなのかもしれません。けれど、それに甘んじて祖国を売る手助けをする私は、自分自身に誇りも意気地もない、ただの下衆でしょうね」
「敵国とは、それは、本当ですか」
「はい。兄から、聞いていないのですか?」
「恥ずかしながら、末端の者には計画の全貌までは。弧国から兵を招き入れ、王宮を攻める手筈は話し合われましたが……あなたの輿入れの、日取りはいつです?」
「分かりません。ですが、これから十日の間に使者は来るだろうから、それ以降だと」
彼は、急に押し黙ってしまった。
月が明るく輝く空でも、その表情は見えない。
けれど、決してあの月のように輝く未来に思いを馳せているわけではないことは、なんとなく、わかる。
「姫」
低く、押し殺したような声が聞こえた。
強く風が吹いて木の葉が揺れれば、かき消されてしまいそうなほど小さなものだった。
「御心を強くお持ち下さい」
手をとって、強く握り締められた。
遠くへ行く私への、早すぎる別れの挨拶なのかもしれない。
そんな言葉は、聞きたくなかった。
振り払おうとしたが、力が強くてびくともしない。
だから、悔しまぎれに笑ってやった。
「安心してください。無様な姿はさらしません」
夜の闇にまぎれて、私の表情は上手く隠せただろう。
それでいいのだ。
泣き笑いの醜い顔など、この人に見てもらいたくはない。
〇
その夜から、丁度五日後のことだ。
屋敷に駆けこむようにして、出仕していたはずの兄が戻ってきた。
私の部屋へ荒々しく踏み込んでくると、持っていた弓矢を突然押し付けてきた。
そして、去りぎわに、驚愕した様子で口もきけない私付きの侍女に、
「こいつの衣装を着て、お前はじっとこの部屋の中にいろ! なにがあっても外に出るな!」
という不可解な指示を出し、私を引きずって出ていった。
「兄上、どうしたのですか、なにがあったのですか!」
「黙れ! 話しは馬車の中でする」
取る物もとりあえず、私達は屋敷の外にとめてあった軽装の馬車に雪崩れ込む。
「急げ。気付かれぬように山間を進み、蔓武官の屋敷へ行け!」
兄が怒りをぶつけるように言った。
そして、馬がいななき、体が大きく揺さぶられると、瞬く間に屋敷を遠ざかっていった。
背もたれにもたれかかり、兄は落ちつかなげに組んだ足を揺すっていた。
「兄上、ねえ、何が起こったのですか?」
不安を隠せずに話しかけると、兄は小さく舌打ちをしてから、唸るように言った。
「計画がもれた。じきに兵が屋敷に詰めかける」
「どうして、そんな……。誰かが、言ったの」
「それがわかっていればこんな事態にならない。……くそ! くそ、くそ!」
兄が、怒りにまかせて目の前にあるしきりを蹴る。
私はそれにすがりついて止めた。
「みな、私と親交の深い者ばかりだった……。裏切るはずがない、裏切るはずがないのだ! 裏切ったところで益がない。武官や下級貴族、彼らはみな、権力に縁遠い者ばかりだ。こんな、こんな事になるはずは……!」
頭をかきむしる兄は、今にも狂ってしまいそうだった。
「兄上、兄上!」
見ていられなくて、私は叫んだ。
不安で、恐ろしくて、泣いてしまいそうだった。
「あと一歩のところで内から崩れるとは、愚の骨頂だ……」
その言葉に、私ははっとして兄の顔を見上げた。
兄の仲間に現王家では出世の見込みのない者達が多いのなら、兄はどこで彼と出会ったのだろう?
第一、私の件があってから、目の敵にするように、兄は王子をひどくきらい、近づくことすらいやがったではないか?
兄と彼は、どこに接点があったのだろう?
そういえば、屋敷に来ても、彼は私と共に時を過ごすばかりで、兄を中心とした輪の中に入っている姿を見た事がない……。
兄は体中を震わせて取り乱し、私が茫然自失として兄の着物の裾を掴んでいるうちに、馬車は停まり、蔓武官の屋敷へ到着した。
赤玉で飾られた剣を持って兄が馬車を下りる。
私も渡された弓を抱えて、それに続く。
屋敷の前にいた、大柄な男が駆け寄ってきた。
武装して、帯剣している。
「醐貴人、だめだ、ここも危うい。王家の軍が謀反を声高に叫んで近付いてきている」
屋敷の前にずらりと並んだのは私兵だろうか。
服装に統一感がないのを見ると、謀反の仲間か。
「分かっています。至急、弧に兵を寄こしてもらいましょう。今から馬を走らせれば、あるいは…」
「一日、持つと思うか?」
「………っ」
二人は沈黙して、絶望に満ちた顔でお互いを見つめた。
それからしばらく経って、落日の炎が赤く燃え始めたころだ。
道の向こうから土煙が上り、青い旗が無数にはためいて、けたたましい馬の足音が豪雨のように響いてきた。
〇
王の軍は、おびただしい数の兵を不穏分子の討伐へ差し向け、しょせん烏合の衆にすぎない兄達一派を、容赦のない武力でもって掃討した。
名乗り合うこともなく、兄の戦ははじまった。
まずは弓、そして騎馬が人を崩して道を切り開き、歩兵がどっと、土石流のように押し寄せてきた。
発覚してしまえば、勝ち目のない戦だった。
私は屋敷の影に隠れて、目まぐるしく人が変わる、殺戮の風景を見続けている。
ああ。
この最悪は、私が引き起こした事態なのだ。
全て、愚かな私が悪いのだ。
兄を、止められていれば。
あの若者に、心を許さなければ。
涙は流れなかった。
命の危機に、感情に任せた行動に走るほど愚かではないのかもしれない。
ただ、私の瞳はぽっかりと空いた穴のように、起きていることを無機質に反射させる水面のように、映像だけを送り込んできた。
〇
「なぜあなたがここにいる!」
妙に懐かしい声だった。
揺さぶられた気がしたが、気のせいかもしれない。
「屋敷にいるのではなかったか! ……醐遊居め、どこまでも身勝手な!」
兄の名を、敬称もつけずに吐き捨てる。
久しぶりに、聞いた。
遊居、と気軽にそう呼ぶ人はもう、この世にはいなくなったから。
「戦地は狂気が支配する。あなたは早く身を隠し、隙をついて逃げなさい。弓を捨て、衣も軽く! 女であっても、容赦は―…ちっ」
そう言って、私の前に回り込んだ。
青が、広がる。
広い背中にはためく外套。
そして、夕陽を浴びてきらめく鋭い銀が宙に線を引き、続いて赤が降りそそぐ。
そして、青。
王家の旗の色。
青、青、青。
映るのはただ、青ばかり――――。
〇
目を開くと、そこは戦場ではなかった。
意識を手放す前、私の顔を覗きこんだ人の顔が、変わらずそこにあった。
目が合うと、その人は、ぽろぽろと涙をこぼした。
睫毛から滴り、あるいは頬を伝って落ちた涙は、そのまま眼下の私の顔へ、集まってくる。
「よかった」
とても細く、震えた声だ。
「巻き添えにならずに、本当に良かった……」
おおいかぶさるように顔を寄せ、耳元で、声を上げて泣いている。
この人は、ただ静かに、体を震わせ、泣いている。
「私は、自国の兵に刃を向けました。あの方の前に立つ資格は、私にはもはやありません」
彼の体に、もう青はない。
代わりに、赤。
「この騒乱は、すぐに内紛へと発展する。璃国の崩壊は、もう止まらないでしょう」
横たわる私を、彼は抱きしめていた。
私の頬を打つ彼の涙が、顎に流れ、地に染み渡る。
泣いてください。
どうか、泣いてください。
〇
全ては彼の言った通りになった。
謀反発覚に端を発した内乱は、弧国に好機を与え、敵兵の侵入を許し、王家は滅んだ。
それは悲しいくらい、短期間で起きたこと。
璃は弧の属国となり、弧から新たな王がやってきて、人民を支配した。
結果的に、兄の起こした事が璃を滅亡させたのだ。
すべてが、おわった。
〇
今はもう昔、露と消えた小さな国の物語。
私は、蜂の巣のように隣合い、無数にある国々を、昔語をしながら旅をしている。
私の語る物語に、耳を傾ける人は多くない。
老いぼれの夢物語と笑い飛ばす人もいる。
だが、それでも私は語るのだ。
昔にあったこの国を。
一人の娘の小さな思いを。
私は、時勢に翻弄されるままに、日々を生きた。
けれど、後悔はないのだ。
今の私には、大地に足を着け歩む意思と、ひたすらに伸びゆく道だけが、見えているから。
お読みくださって、ありがとうございました。