誘拐事件
「それでは、誘拐事件があったのは、もう五日も前のことなんですね?なぜ、もっと早く警察に連絡をしてくれなかったんですか?」
「だって、息子の、伸一の命が」
由美子は泣きながら、山之内刑事の質問に答えていた。無理も無い。子供が誘拐され、まだ行方不明のままで、挙句の果てに、今朝、身代金を渡しに行ったはずの夫が、遺体で見つかるなんて。僕は、目を瞑って何かを考えている山之内刑事の隣で、泣き崩れる由美子を慰めた。
「刑事さん、息子は帰ってくるんでしょうか?」
泣きながら、必死の思いで、わずかな光を求めるような質問に、山之内刑事は何も答えなかった。きっと、誰もがこの事件に対して、最悪の結論を導き出していた。
「大丈夫です。きっとまだ生きていますよ。必ず我々警察が、犯人を捕まえ、伸一君を助けて見せますよ」
こんなとき、新米刑事である僕に出来ることは、わずかな希望を閉ざさないことだけだった。
それからしばらくして、由美子が落ち着いてきたのを見計らって、山之内刑事が口を開いた。
「藤田さん、辛い思いをさせて申し訳ありませんが、もう一度だけ最初から話してくれませんか?伸一君が誘拐されてから、犯人からの連絡、そして旦那さんの藤田勇夫氏が、どういう経路で河口湖に行ったかなど、この五日間で起きたこと全てを」
「山之内さん、さっき話してもらったことなら全部書いておきましたよ。ほら」
山之内は、僕を睨みつけた。まるで、余計な口出しはするなとばかりに。僕は、それ以上、口出しすることが出来なかった。
「お願い、できますかな?」
「はい」
小さく頷くと、由美子は、先ほどよりも弱弱しい声で、事件について話し始めた。
「事件があったのは、五日前です。時間は、三時半頃でした。伸一が家に帰ってきて、遊びに行くって出ていって十分もしないうちに、犯人から電話がありました」
「確か、犯人は、息子さんのケータイを使ったと」
「はい」
「それで、犯人はなんと言ってきたんでしたっけ?」
「息子は預かった。返して欲しければ、300万円用意しろと。それから、警察に知らせたら、息子の命はないと」
「それであなたは、警察に連絡をしなかった」
「はい」
「犯人の声はどうでしたか?また、そのとき、雑音みたいなものは聞こえませんでしたか?」
「変えは、変声機を使っていて。雑音は、車の走る音しか」
「犯人からの電話の後、あなたは何をしましたか?」
「夫に電話をしました。伸一が誘拐された。早く帰って来てと伝えた気がします」
「気がするというのは?」
「頭が、真っ白になってて、なんて言ったかはっきり覚えていないんです」
「そうですか。そのあとは?」
「息子のケータイは。私のケータイから、大体の位置が分かるようになっているんです。だから、それで、どこにいるか調べようとしました。でも、電源が切られていて」
「なかなか、頭のいいヤツですな」
「それで、分からないと知ったあなたは、次に何を?」
「とにかく夫を待ちました。私だけで、下手に行動して、犯人を怒らせてしまったらって思ったので」
「で、勇夫さんを待ち続けたと?」
「はい」
「その間、犯人からの連絡は?」
「ありませんでした」
「なるほど、それで、旦那さんが帰ってきた後、あなた達はどうしましたか?」
再びメモを取る僕の隣で、山之内刑事は、腕を組み、目を瞑って上を見ていた。このポーズは、よく知っている。山之内刑事が、普通ではありえないことが起こった時、それが、なぜ起こったのかを考えているときのポーズだ。
「夫に、全部話しました。犯人から連絡があったことなど」
相変わらず、由美子は左手でハンカチを握りつつ、下を向いて、目を覆っていた。
「それで、旦那さんはなんと?」
「警察には、連絡しないで置こうと」
「ふむ。それで、犯人からの連絡は?」
「八時ごろに、私の携帯電話に。今度は夫がでました」
「また、息子さんのケータイから?」
「いいえ、今度は非通知設定でかかってきました」
「それで、犯人と旦那さんは、どんなやり取りを?」
そのとき、山之内刑事のケータイが鳴った。
「ちょっと、すみません。はい、山之内だが。うん、何、それは本当か?分かった。また連絡する」
「どうしたんですか?」
由美子は垂れていた首を起こし、真っ直ぐに山之内刑事を見つめた。
「息子さんと思われる人物が、保護されたそうです。自分で藤田伸一と名乗っているそうなので、間違いは無いでしょう」
「あぁ。良かった」
また、由美子は泣き崩れた。今度は安心から、力が抜けたのであろう。
「それで、伸一は今どこに?」
「一応、検査のために病院に向かったそうです。ただ、それほど大きな怪我をしていないので、すぐに帰れるでしょう」
「良かった。本当に・・・」
由美子はそれ以上、言葉が出なかった。
「感激のところ、悪いんですが、伸一君に事情聴取をしたいのですが。なるべく早くに。犯人につながる手掛かりが、見つかるかも知れませんから」
「はい」
「では、今から、息子さんのいる病院へ向かいましょう」
「お話の続きは?」
泣きながらではあるが、息子の無事の知らせは、由美子に安心を与えたのだろう。さっきまでとは打って変わって、余裕を見せた。
「なに、こいつが全部、メモを取っていたみたいなので、それを見ますよ」
「伸一」
我が子の無事な姿が目に入ると、由美子は、診断している医者を跳ね除けるように、伸一に抱きついた。
「ママ」
伸一も、母を強く抱きしめ、二人はしばし、泣きあった。
「パパは?」
五分くらい抱き合った後、違和感に気付いた伸一は、母に尋ねた。
「パパは、後でね。それより、刑事さんたちが、伸一に聞きたいことがあるんだって」
伸一の問いに、由美子は目を合わせることが出来なくなった。そして、病室から一人、出て行った。
「伸一君、無事で何よりだ」
山之内刑事は、今まで見たことが無いほどの柔らかい表情を見せた。
「うん」
「さっそくで悪いんだが、君は、誘拐されたんだよね。いつ、どこら辺で誘拐されたか分かるかね?」
「うん、たしか、五日くらいまえに、友達の家に行こうとしたら、公園を過ぎた当りで後ろから来た車に乗せられて」
「何色の車だった?」
「黒だった」
「何か、犯人の特長とか覚えていない?」
「わからない。目隠しされていたし、手も足も縛られていたし、何も聞こえなかったし。あ、でも、車の中は、オレンジのような匂いがしたよ」
「他には?」
「うーん、でも、食事は温かくて、美味しかったよ。ぼく、から揚げが大好きなんだ」
「どんな食事だった?」
「から揚げとかだよ。誰かが、食べさせてくれたんだ」
やはり子供だ。とても手掛かりになるようなことは覚えていない。そんなことを思いながら、僕は、手帳に『温かいから揚げ』と書き込んだ。
「車には、どれくらい乗っていたの?」
「わからないけど、かなりの時間乗っていたよ。そのあと、誰かに抱きかかえられて、多分、ベッドの上に連れられたの」
「伸一君、ありがとう。もういいよ。あとは、また今度にしよう。今日は疲れたろう。ゆっくり休みなさい」
「うん」
病室から出ると、由美子が走って、僕達のほうに向かってきた。
「もう、いいんですか?」
「まぁ、今日はね。伸一君も疲れていることだし。それにしてもさすがと言いますか、意外といいますか、伸一君はしっかりした子供ですな。伸一君は、たしか四年生でしたな。子供子供と思っていても、四年生になると、大人びてきますな」
「はぁ、それで、何か分かったんですか?夫を殺した犯人に繋がる手掛かりについて?」
「それはまだ、なんとも言えません」
「そうですか」
由美子は、夫を失った悲劇の妻から、復讐に燃える母に変わっていた。あまりの変わりぶりに、僕は思わず、半歩引いてしまった。
「なぜ、なぜ伸一君が誘拐されたと思う?」
部署に戻る車内で、山之内刑事が、僕に意見を求めた。今まで、この人の部下としていくつもの事件に立ち会ってきたが、そんなことは一度もなかった。僕は嬉しくなった。
「それは、やはり身代金が目的では?」
「はぁ〜」
山之内刑事は、あからさまに大きくため息をついた。
「もっと、よく考えろよ。犯人は、最低でも二人いる。伸一君を攫ったヤツと、その車を運転していたヤツ。それで、300万を山分けか?」
「確かに、少ないですね」
「お前だったらどうする?できるだけ、大金をせしめる為に」
「そうですね。やはり、お金持ちの家の子供を誘拐します。その家の小さい子供を」
「どうやって、その家に金があると判断する?」
「やはり、家の外見ではないのでしょうか?」
「そうだ。その点では、藤田家はどうだ?」
「確か、あそこの近くには、高級住宅地がありました。じゃあ・・・」
「そうだ。お前、手帳に、事件の概要を書いているんだろう?」
「はい」
「もう一度、おさらいしてみろ。重雄氏が帰って来て、犯人から連絡が来たところから」
「はい。由美子さんによりますと、犯人からの連絡は、重雄氏が取ったそうです。藤田家には、伸一君の中学受験のために、貯金がいくらったのですが、300万はすぐに用意できないと話あったそうです」
「で?」
「三日以内に集めろと、犯人に言われたそうで、結局足りない分は、金融機関から借りたそうです」
「その間、重雄氏は、仕事は?」
「はい、由美子氏に、自分はお金を集めるから、会社に休むと連絡させたそうです」
「金融機関で、重雄氏の姿は?」
「はい。確認が取れています」
「身代金の受け渡し方法は?」
「それが、高速道路を乗ったり降りたりして、河口湖の湖畔にと」
「なぜわかる?」
「重雄氏が、由美子氏に逐一連絡をしていたそうです」
「お前は、なんで犯人は、そのような面倒なルートを選んだと思う?」
「警察が追跡しているかどうかを確認するためではないでしょうか?」
「ま、そうだな」
「それが、三日目の夜のことで、河口湖に着いたとの連絡を最後に、夫に連絡がつかなくなったので、四日目の夜にに捜索願がでて、警察が河口湖を調べたら、湖の中から重雄氏が見つかりました。割と、湖岸近くにあったためすぐに発見できたそうです」
「死因は?」
「首を絞められていたそうです」
「そうだ。そして、今日、伸一君が帰ってきた」
「はい」
「で、もう一度訊くが、犯人の目的はなんだと思う?」
「・・・まさか、重雄氏の殺害ですか?」
ぼくは、恐る恐る答えた。
「そうだ。まず、間違いないだろう。では、犯人はどんなヤツだと思う?」
僕は、色々考えた。
「最初から、重雄氏の殺害が目的なら、あえて伸一君を誘拐するなんて、理解できません。たとえ、それが重雄氏を人気の無いところに呼び出すのが目的でも、伸一君を生きて返すなんて、犯人にとってリスクが大きすぎます。もし、伸一君が帰って来なかったら、たぶん、この事件は迷宮入りしていたでしょうし。そこから考えられるのは、重雄氏にのみ、恨みを感じており、伸一君のことも良く知っている、顔見知りの犯行では?」
「あぁ、そうだな。だが、それだけでは確信がもてない。情が移っただけかもしれないしな」
自分でも、よく推理できていると思ったが、山之内刑事から見れば穴だらけなのだろう、しかし、ここで食い下がっては、また失望させてしまうと思い、手帳を見直した。
「・・・から揚げ」
「何?」
「から揚げですよ。温かいから揚げ、伸一君が食べたという。犯人は、最初から殺す気なんて無かったんですよ。拘束はしていたが、ベッドの上に寝かしたり、わざわざ温かい料理を食べさせたり、最初から用意してあったんですよ。それに、伸一君が発見されたのは、藤田家から、20kmほどしか離れていません。それから考えても、犯人は、リスクを負っても伸一君を無事に帰したいと思っていた人物です」
「よく分かったじゃねえか、そうだ。ただ、分からないのは、伸一君が、どこに拘束されていたかだ」
「そうですね。手掛かりがありませんし。ただ、それほど遠くではないと思いますが」
それから二日後、重雄氏の通夜が、しめやかに行われた。参列者達は、この不幸な親子に同情し、涙を流さないものはいなかった。
「それで、刑事さん、何かわかりましたか?」
皆が帰ると、由美子が近寄ってきた。
「何分、手掛かりが少ないもので。伸一君の携帯電話が見つかれば、何とかなるのかもしれませんが」
「そうですか」
由美子は、遅々として進まない捜査状況に、明らかに失望の意を見せた。
「ひとつ、確認したいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「あなたは、重雄氏が、犯人の指示で、色々なルートを使って河口湖に行ったといいましたよね」
「はい」
「なんで、あなたはそれを知っているんでしたっけ?」
「主人から、連絡がありましたから」
「なんで、あなたに連絡を?いつ、犯人から連絡があるか分からないのに?」
「さぁ?でも、渡しに心配をかけたくなかったのでは?」
「なるほど。最後にもうひとつ、重雄氏は、誰かに恨まれるようなことは?」
「ありませんよ。あの人に限って」
「そうですか。関係ない話なんですが、奥さんのご実家を訊いてもいいですか?」
「小田原ですが?」
「なるほど」
犯人が逮捕されたのは、三日ごだった。動機はやはり、重雄氏へも恨みからだった。
「なぜ、あんなことを?」
「娘が、そして孫の伸一が可哀そうだったんだ。あの男は、浮気を何度も繰り返し・・・でも、娘の由美子は、伸一のためにと・・・」
「犯行は、どうやって思いついたんですか?」
「私は、大学時代、推理研究会にいたんです。その時考えたものを」
犯人、つまり由美子の実の両親は、涙ながらに犯行動機を語った。由美子の実家を家宅捜索した結果、三百万と、伸一君のケータイの入ったバッグが見つかったのだ。
「山之内さん、どうして、あの二人が犯人だって分かったんですか?」
「まず、由美子は、結婚指輪をしていなかった。あれほど頭の切れる犯人が、もし犯人だったら、そんな不注意を見落とすわけが無いと思ったんだ。それに、聞き込みをして回ったが、確かに、夫婦仲は冷め切っていたが、由美子さんに、浮気の話は無かった。だから、共犯者を見つけるのは難しい」
「なるほど」
「そして、オレンジの香り、これは香水に間違いないだろうが、普通、そんな特徴的な匂いの香水をつけて犯行をするか?」
「いいえ」
「そう、だから、犯人は、何か特徴的な匂い・・・加齢臭を隠すために使ったんだと考えた」
「それで小田原に?」
「あぁ。重雄氏の実家は、新潟だったしな。河口湖と、藤田家のある横浜の間に犯人のアジトがあると考えた。そして、横浜と、小田原のレンタカーショップに聞いてみたところ、横浜の営業所で二人が、黒いワゴン車を借りていた」
「さすがですね。僕は、てっきり犯人は由美子さんだと思っていましたよ」
「だから新米なんだよ」
そういって、山之内刑事はまた目を瞑って、下を向いた。その様子に、僕は、事件を解決したことへの喜びと、解決してしまったことに対する後悔を見た。
「刑事ってのは、辛いよな。どんな悲しい事件も解かなくちゃならねえ」
「でも、そうでない凶悪犯を捕まえられるのも、僕達だけですよ?」
そういって、僕は、届いたばかりの手紙を見せた。それは、以前、山之内刑事が捕まえた犯人に、母を殺された女の子から、感謝の手紙だった。
「そうだな」
それを見た山之内刑事は、立ち上がり、僕の方を向いた。
「これからも、鍛えてやるから、俺が引退したあとは頼むぞ?」
「あと十年は現役でいるくせに」
僕達は笑いあった。この痛ましい事件を忘れず、しかし、引きずらないように。
突然電話が鳴った。
「はい、わかりました。山之内さん、事件です」
「よし、行くぞ。ちゃんとついてこいよ。」
今日も、山之内刑事の独特のポーズが、事件を解決するのであった。
了