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Real World~本当の僕ら~  作者: 新橋うみ
松原龍介編
21/24

Log.20 くたびれてしまった美しいマネキン人形

「あ、この女、結構美人だったよなー」

「マジかよ。俺的には、こっちの女の方が好み」

「うっへへへへ。やべ、興奮してきたかも」

「おい、やめろよ」

「もう一度、あの女の胸触りてぇなぁ」


 それらの会話は確かに、体育館裏にある倉庫の後ろから、聞こえてくる。

 隣から、亀田が息を呑むのが聞こえてきた。その目は大きく開かれていて、奥底でぎらぎらと強烈な光を放っているのが見える。

 亀田の腕を、俺は掴んだ。つい力が入ってしまう。

 目を閉じ、静かに深呼吸して気持ちを落ち着かせながら、その会話に意識を集中させた。


「にしても、ジュンのおじさん、すげぇな。

 あんな簡単に、プログラム構成しちゃうなんて」

「プログラム会社に勤めてて、ああいう手のものは得意なんだってさ。俺も、多少いじらせてもらった。

 バスケ部引退して時間余ってたし、結構良い暇つぶしになったぜ」

「へー。ジュン、あったまいいなぁ」

「だろだろ? そのおかげでお前ら、こうやって楽しめてるんだから感謝しろよー、特に拓」

「俺も自由にプログラムとか組んで、チートしてみてぇ」

「あのなぁ。一長一短で出来るようなもんじゃないんだぞ。

 俺、基本のプログラム組めるようになるまでも、結構時間かかったんだからよー」

「うわ、マジかー。頭悪い俺には、無理かもしんね」


 ははは、と今度は複数の笑い声が大きく響いてきた。

 俺は――全身に力を込めて、内側から煮え立ち、沸騰してしまいそうなエネルギーを、なんとか抑えつけた。


 俺は、この声を聞いたことがある。

 ジュンと呼ばれた、男の声を。

 

 ――駄目だ。今ここで、爆発したら。

 その人物がやったという証拠が、まだあるわけじゃない。

 目を閉じ、必死に自分に言い聞かせた。

 ふと、隣から小さく「痛いっ」と声が聞こえ、俺はようやく自分の手が亀田の腕に強く食い込んでいたことに気付き、慌てて手を離した。

 小さく謝りながら亀田を見ると、その顔は悔しそうに大きく歪められ、今にも泣き出してしまいそうだった。噛みしめられた下唇が、白く変色していた。

 松原君、と小さく亀田は言った。低いトーンの中に、何かを必死で押さえつけているような、悲痛の声。

 俺は頭を横に振った。まだ、動かないほうがいい。

 するとまた、男たちの声が聞こえてくる。


「そういやさ、ちょっと前に連れてきた女の子、すっげぇ可愛かったことね?」

「あ、もしかして、五人目に連れ去ってきた、あの髪の長い女の子ぉ?」


 その台詞に、俺はぴくりと耳が動くのが分かった。

 全意識が、そこに注がれる。

 

「そうそう! 他の女と違って、子供っぽさがあってよかったよなぁ。前まで大人な美人ばっかだったし」

「あぁ。俺、記憶画像、持ってる。この子だろ?

 あの無邪気に抵抗する姿とか、良かったなぁ」

「まさに、淡色の髪の乙女、じゃね?」

「上手いっ! それ上手いぞジュン!」


 ははははははは、と鼓膜を劈くほどの笑い声が、この場に響く。

 それは、俺の脳を、これでもかと揺さぶってくる。

 頭がくらくらした。

 喉元がかぁっと熱くなって、胃がむかむかし始めて、腹全体がずぅんと重くなった。

 反吐が出そうだった。呼吸が荒くなる。


 ふと右袖が引っ張られたような気がして見ると、そこにぎゅっとしがみ付く手があった。

 亀田の手は、赤くなりながら、これでもかと震えていた。

 そして、大勢の笑い声が消えた後に、例の男――ジュンは、言った。


「でも、いくら逃げる為にっつったって、自殺するこたぁないのになぁ。

 

 リリィちゃん」



 瞬間。


 俺の視界が、大きくぐらりと揺れた。


 足元から、ばしゃり、という音が聞こえた。地面に溜まった水たまりを踏む音。

 俺は歩き出していた。倉庫の裏側へ向かって真っ直ぐと。その度に、びちゃ、びちゃ、と水しぶきが上がっていくのが分かった。盛大にそれを踏みつける。

 腹の底で、燃えたぎるものが沸々と湧きあがっていた。沸点を越えたそれは、ぶくぶくと泡を立てていて、今の俺の原動力になる。

 俺の立てる音に気付かないのか、未だに甲高い笑い声が聞こえてくる。

 奥歯を噛んだ。

 ぎり、と鈍い音がした。


 そして、倉庫にたどり着き、それをくいっと曲がった俺は。

 どんっ!

 と、倉庫の壁を強く殴った。

 

 ※


 倉庫の裏側には、やはり数人の男たちが、近くのコンクリートに座りこんでいた。

 その男たちから、鋭い視線が一斉にこちらへ向けられる。

 その中に――


 俺が一番良く知っている顔が、男たちの中心に、やっぱりあった。


 俺を認識するや否や、『なんだ、こいつか』と言いたそうに鼻で笑い、まるで見下すかのように冷たい視線を向けてくる。

 その顔を、キッと睨み返しながら、俺は叫んだ。



「あいつに――あいつに、リリィに、何したんですか!

 野村先輩っ!!」



 そして野村先輩は――

 にやり、とその口元を、歪ませた。


「いきなり何? 松原クン」


 その冷たい視線は、容赦なく俺を突き刺してくる。周囲からも、同じように注がれる。

 周りの男たちも注意深く見れば、知っている顔ばかりだった。

 ――バスケ部の、先輩。

 いつも、野村先輩の傍で群がっている、先輩たちだった。

 すぐ後ろで、荒い息遣いが聞こえてきた。亀田が走って来たのだと分かった。

 ははは、と周りに居る男の一人が、大声を出して笑った。


「君さぁ、あれだよねぇ。

 二年のパシリクン?」


 顔が急激に、かぁっ、と熱くなった。

 足を一歩踏み出した俺の背中に、くいっと逆方向へ引っ張られる力を感じた。

「止めて松原君っ!」なんて叫びながら、俺の制服を背中から亀田が引っ張ってくる。

 無意識にその手を退けようとしたら。

 す、と男の中の中心にいた先輩が、立ち上がった。

 そして、俺の近くまで歩いてきて、その手に持った一枚の紙を、俺に目の前に見せつけてきた。


「もしかして……この子のこと?」


 リリィ、だった。

 床の上でその身を縮めながら、今にも泣きそうに顔を歪め、助けを求めているかのような瞳で、こちらを見ている。

 その身体を探るように、あちこちからごつい腕や足が、その小さい身体を触っていて――


 俺は言葉にならない叫び声を上げた。


 すかさずに目の前の胸倉辺りを掴んだ。身長は相手の方が上だった。それでも精一杯掴みかかった。

 左手で相手の頬を殴ろうとした瞬間に胸の辺りをぐいと引っ張られた。次の瞬間にがつんと顔全体に衝撃が走った。

 脳みそが揺れる。右頬が熱くなる。殴られたのだと分かった。

 今度はふわりと身体が浮く感覚。視界が一回転。刹那、背中に大きな衝撃が走った。

 身を屈めて呻いた。固い地面がすぐそこにあるのを感じた。背中や右頬からずきずきと痛みが走る。

 ぐぅぅと情けない声が漏れる。松原君と俺の名前を叫ぶ女子の声が聞こえた。

 その瞬間まるでミュートが切れたかのように複数の笑い声がどっと溢れてきた。


「やっぱよえー!」「雑用係君サイコー!」「もっとやっちまえジュン!」「はははははっ」


 傍にいた女子が俺の背中を支えてくれたおかげで、俺はようやく上半身を起こした。

 ぐらりぐらりと揺らいだ視界の先には、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、こちらを見下す相手の姿が見えた。

 そしてその不健康な紫色の唇が、ゆっくりと開かれる。


「松原君の知り合いの子だったんだ?

 へぇ、そんな奇遇なこともあるもんだね。

 なんだ。言ってくれりゃ、松原君の為にとっておいても良かったんだぜ?」


 ははははははははははは…………。

 エコーをなして俺の耳を侵食する笑い声。

 その度に背中や右頬が疼く。


 笑う、笑う、笑う――笑いやがって。

 何も知らない癖に。藤川が。それによって。一体どんだけ。傷ついたのか。

 あれほどまでに。壊れてしまったのか。まるでマネキンのように。カッターなんか持って。そうだ。血。血血血血血っ!

 それを。全く。知らない癖に。

 よくも、よくも――!


 視界が高くなった。自分が立ち上がったんだと気付いた。そんな俺の足に誰かがしがみつくのが分かった。お願いもうやめてと悲痛の叫び声が下から聞こえた。

 周りの男たちがはやし立て続ける。目の前の相手が姿勢を低くする。固く握られた拳を横に構えている。相手はにやりと笑った。言った。


「かかってこいよ。

 どーせ、俺に勝てる要素なんかどこにもないのによぉ?」

 

 その、にやりと笑う真っ白い歯をこれでもかと睨みつけながら。

 

 ――まるで『勇者』さんみたい、だった。


 藤川の台詞が、頭の中に蘇ってきた。

 気付けば俺は、真っ白になった頭で、

 めいっぱい、叫んでいた。



「先輩の、『ワールド』のアドレス、教えて、下さい!


 俺と、俺と――


 勝負しろぉっっ!!」




 ※


 

 藤川の部屋のドアをノックしたのちに、俺はゆっくりと開けた。

 初めに目をついたのは、淡いオレンジだ。目の前の窓から、穏やかな夕陽が部屋を照らしていた。そのほのかな光に、いくらか安堵の息が漏れた。

 窓の下にある机は、前見た時より綺麗になっていた。閉じられたノートパソコン以外、何も置かれていない机。

 おばさんがあれ以来、全て取り上げたらしい。危ない道具類はもちろん、文房具類、雑誌類に至るまで、全部。


 俺は、部屋の右手にあるベットの方へと、視界を向けた。

 その上で、藤川がぼうっとした表情をしながら座っているのが、見えた。

 何をするでもなく、ただの抜け殻のように、前を向いて座り続ける藤川。

 胸が、疼いた。


 この部屋に入る前に、おばさんから藤川の様子は聞いていた。

 退院してからは、不可解な行動をとったり、自分を傷つけたりするようなことは、無くなったらしい。あの時はごめんね、と謝まりもしたそうだ。

 けれど、何かに捕らわれたような虚ろな目は、無くなってなど、いなかった。 

 現に、今。

 ゆっくりと首を巡らせて俺たちを見つめるその瞳は、靄がかかったように、濁っているのだから。

  

 俺はその瞳に捕らわれてしまいそうになるのを堪えながら、静かに、藤川、と呼びかけた。

 藤川は――やはり、いつもみたいに微笑んでは、くれなかった。

 ただ、俺と、俺の背後にいる亀田を、交互に見るだけだ。

 ついに耐えきれなくなって、俺はその視線から逸らした。


 ――それほど、ショックだったのだ。

 あの、出来事が。 

 当たり前だ。

 だって藤川は、『ワールド』の中を、本物のリアルのように、思っていたのだから。


 ふと、亀田が一歩、足を踏み出した。


「由梨……。

 ほら、近所の美味しいケーキ屋さんから、特製のプリン、買ってきたんだ。

 ごめんね。本当は、食べ物じゃない方が良いかなって、思ったんだけど。

 これしか思いつかなかったし、時間、なかったから。本当に、ごめんね。

 ねぇ由梨、一緒に、食べない?」


 亀田はその手に持った、プリンの入った紙袋を差し出しながら言った。

 藤川は、何も言わなかった。

 そこにはやはり不気味なほどの闇を湛えた目があるだけ。

 それがじっと、俺たちを、捕えてくる。

 両こぶしを、きつく握りしめた。


 亀田はそのまま由梨の傍のベットに腰掛る。

 そして袋から、プラスチックに入れられたプリンを一つ、そしてプラスチックのスプーンを一つ、取り出した。

 プリンのプラスチックの蓋を外し、ビニールからスプーンを抜き取る。亀田はそれでプリンを一掬いし、藤川の口元まで運んでいった。

 藤川は、スプーンのプリンを見つめたまま動かなかった。

 口を動かす気配もない。

 ほら、と亀田は言った。呑み込みやすいから大丈夫だよ、と囁く。

 それでも藤川はぼうっとしたまま動かない。動いて、くれない。

 もう。由梨が食べないなら、あたしが食べちゃうぞ。

 そう言った亀田は、藤川に寄せていたプラスチックのスプーンを、自分の口の中へと入れた。

 その頬から、一筋の涙が、流れた。

 藤川は亀田の目から溢れだすものを、見た。その、靄がかかったような目で。

 そして、小さく口を動かしながら、藤川は、


「麻子、ちゃん。どう、したの?」


 と、言った。



 俺はその言葉で、ようやく我に返ることが出来た。そこに一筋の光を見た気がした。

 ――まだ、藤川は、ここにいるじゃないか。

 俺の知っている藤川はまだ、完全にいなくなってしまったわけでは、ないんだ。


 すぐに藤川の近くへと寄り、その足元に屈みこんだ。

 亀田の足元に置かれた紙袋からプリンを一つ取り出して、ビニールからプラスチックスプーンを適当に抜き取り、一掬いしてプリンを口の中に入れた。

 口の中ですぐに溶けていくプリン。甘みがとたんに口の中に広がっていく。それこそ舌が痺れてしまうほどに。

 俺は笑おうとした。

 けど、右頬に貼られている湿布が、それを邪魔する。

 おまけに鈍い痛みも走って、思わず引き攣りそうになった。それでもなんとか、頬を緩ませる。


「ほら、藤川。これ、めっちゃ上手いって。すげぇよこれ。さすが特製。

 口の中に入れた途端、すっげぇとろけるんだぜ。俺初めてだわこんな感触。

 なぁ、ほら、藤川も――」


 そこまで言って、ハッと気付いた。

「松原君っ」と亀田が短く牽制する声が聞こえた。


 ――しまった。

 一瞬気を抜いてしまい、つい、忘れてしまった。

 藤川は……。藤川は……!


 持っているプリンから、ぼこ、と嫌な音が聞こえた。

 続いて、何かが手にべたりと張り付く感触。

 見れば、入れ物のプラスチックが潰れていて、中身の黄色いものが手に零れていた。

 床にも、ぼとり、と落ちていく。


 ――何をやっているんだ、俺は。


 慌てて、その潰れたプリンを紙袋に突っ込み、そこから数枚のペーパーを取り出し、馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ、と何度も自分を叱りつけながら、カーペットに落ちたプリンを拾い上げ、ごめん、と謝りながら、ごしごしと力強く拭きとっていた時だった。


 右頬の湿布の上から、そっと、何かが触れるのを感じた。


 バッと、顔を上げた。

 包帯でぐるぐる巻きにされた左腕が、すぐ近くに見えた。

 その手が、俺の右頬を、そっと優しく撫でているのも。


 藤川の顔を見た。

 その顔は、やっぱり、マネキンだった。

 そのマネキンに似合わない、赤く色付いた唇が、まるで永遠の時を越えてきたかのように、そうっと動いた。


「龍介、君。

 いた、そう。ここ……。

 だいじょう、ぶ?」


 そう、小さく、囁いた。



 ――――嗚呼。

 

 やめてくれ。


 やめてくれよ、藤川。

 

 こんなときでも、お前は



 人のことばっか、考えるのかよ。




 その小さな左手を両手で包み込みながら。

 俺は、泣いた。

 これでもかと声を上げて、馬鹿みたいに、身体の中に溜めこんでいる水分を全部放出してしまうほどに、泣いた。


 ほどなくして、藤川の近くからも、激しい嗚咽が聞こえてくる。亀田の声、だった。

 それは俺の声とエコーをなして、部屋の中を幾重にも幾重にも埋め尽くす。


 両手から伝わる小さなぬくもりが、切なかった。

 今目の前にいる、くたびれてしまった美しいマネキン人形を見上げるのが、苦しかった。

 今ここにある、このぬくもりは、確かにちゃんと、俺の手の中にあるのに。


 心だけは、まるで『ワールド』の中のあの瞬間に、取り残されてしまったかのようだった。



「――ごめん、ごめん、藤川。

 俺……俺、何も……出来なくて……」



 俺は、ただひたすら、謝った。




 ――――ごめん――――



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