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Real World~本当の僕ら~  作者: 新橋うみ
松原龍介編
20/24

Log.19 今度は、俺が、藤川を助ける番なんだ。

 病院の片隅にある小さな喫茶店で、俺と亀田は向かい合っていた。

 お互いに何も話さずにしばらく重い沈黙を漂わせていた時、女性のウエイトレスがやってきて俺たちが注文したホットコーヒーを置いていく。

「ごゆっくり」とお決まりの言葉を吐き捨てた後に、女性はそそくさと去っていった。

 透明なガラスの机の上で、ほのかに湯気を立たせながら小ぢんまりと佇むコーヒーを、意味もなく見つめる。

 するとふいに、それが赤く変色し、先ほどまで見ていたどす黒いものに見えて、俺は咄嗟に視線を逸らした。



 藤川はすぐに病院へ運ばれ、緊急手術となった。それは、ほどなくしてから終わった。

 担当医の話によると、切り傷が数か所あったが、そこまで深くないので大したことはない、ということだった。

 だが、念のために、藤川は三日ほど入院することになった。


 病室へ運ばれていく藤川を乗せた担架に、俺と亀田とおばさんは一緒に付いていった。

 前を行くおばさんからは、絶えずすすり泣く声が聞こえた。

 その隣の亀田は、背中を小さく丸めながら、藤川の顔を見ていた。

 その悲しげに伏せる睫毛が、ひどく濡れていた。

 俺も、藤川の顔を、そっと見た。

 完全に目を瞑っているその顔は、不気味なほどに白かった。

 あの奇妙な笑みの名残のような影が、所々に見られる。

 それはまるで、役目を終えくたびれてしまったマネキン人形のようだ、とも思った。


 それから、しばらく俺と亀田は、病室で目を覚まさない藤川の顔を見守った後に、退散することにした。

 目が腫れてすっかり気力が削がれてしまったおばさんに向け、二人で丁寧にお辞儀して、その場を去った。

 バスで帰ろうとしたのだが、まだ時間に余裕があったので、喫茶店でお茶でもしようか、ということになったのだ。



 俺は、机の上に乗せた自分の手を、ぐっと握りしめた。


 ――なんで、どうして。

 あんなことに、なったんだ。


 顔を伏せ、唇に力を込めた時。


「――由梨ね、"病気"だったんだよ」


 視線を上げ、目の前の顔を見た。

 亀田は、今にも泣き出しそうな表情をしながら、言った。


「由梨ね、『感覚の無い身体』なの。

 中学一年生の時に、交通事故に遭って。その時の後遺症なんだって。

 感触のほかにも、味覚とか、嗅覚とか、そういうの、全く分からないって言ってた。

 だから、視覚と聴覚だけで生活しているようなもんだって。治療法は、まだないみたい」


 亀田はその両手で、コーヒーカップをゆっくりと包み込んだ。

 かたかたと、カップと受け皿が小刻みにぶるかる音が、小さく聞こえてくる。


「入院中は、酷かったらしいよ。

 感覚がない自分が嫌になって、何度か自分を傷つけたこと、あるんだって。

 その度に、周りから心配されて、泣かれて。

 そこで由梨、そのことがどんなに悲しいことか、ようやく気付いて。そこから、自傷行為をパタリとやめた、て、言ってた。

 ……これ、中学三年で、初めてあたしと友達になった時に、由梨が教えてくれたの」


 俺も、自分にコーヒーカップに手を伸ばそうとしたが、やめた。

 亀田のコーヒーカップは、徐々に、その振動を大きくしていった。


「でも、なんか、『ワールド』の中では、感覚が蘇るんだって。

 多分、眠りの中の「意識」の中で認識できる"感覚"だから、だと思うんだけど。

 由梨が始めて『ワールド』始めた時に、あたしに嬉しそうなメール送ってきたの、今でも良く覚えてる。

 すっごく嬉しそうな文面だったよ。

 『私、生きてるんだね!』なんてことまで、書いてあってさ――」


 俺は静かに目を閉じ、もし自分が感覚の無くなった身体になったら、と想像してみた。


 触られても、何も感じない。何を食べても、何の味もしない。思いっきり息を吸っても、何の匂いも感じない。


 それはとっても、恐ろしいことではないかと、思えた。

 それじゃまるで、ただの人形に魂が宿っただけ、みたいじゃないか。

 ふと、藤川が書いてくれた、あの長文のメールの一文が、頭をよぎった。


 『私、その時「『ワールド』は本当に生きていて、ここにいる私も、生きているんだな」って思った』


 それはつまり、そういうことだったのか。

 『ワールド』内では、ちゃんと感覚が分かるから、ちゃんと触れている感じがあるから。

 恐らく、味覚も、嗅覚も。

 だから、全てのことが、色鮮やかに見えたんだろう。


 だとしたら。

 藤川は。

 リアルの自分を、まるで『死んでいる』ように、感じていたのかもしれない。


「きっと、こうなったのは、あたしのせいだ」


 亀田の涙声が、聞こえてきた。

 俺は目を開けて、汚く濁った自分のコーヒーを、見つめた。


「あたしが……あたしが、由梨に、冷たく当たっちゃったから。

 由梨は、あたしのこと、本気で心配してくれてたのに。

 あたしは……最後まで、信じなかったから」


 鼻をすする音が、間近に聞こえてくる。

 

「由梨から届いたメール、実は昨日の夜に気付いて、読んだんだけど……。

 あたし、その時、なんで由梨を信じなかったんだろう、て、思ったんだ。

 あの子、こんなに、私のこととか、心配してくれているのが伝わってきて。

 それで、学校行こうって気になったの。

 由梨に会って、謝ろうかな、て。


 ――あたしが学校休む前にね、あの子と一緒に、パーティ組んだことがあるの。

 そこで、あたし、リアルで嫌なことあって、心の底に眠ってた思いとか、全部由梨にぶつけて叫んでて。

 由梨は、そんなあたしに、『大丈夫』って言ってくれたんだけど。

 でも、それは結局『ワールド』の中での話で、架空の出来事でしかないんだ、て気付いたとたん、何もかも、信じられなく、なっちゃって」


 馬鹿みたいだよね、と静かに告げる亀田。

 俺は何も言わずに、ただ、コーヒーに映る惨めな自分の姿だけを、じっと睨みつけた。


「あたし、ホント、何してたんだろう。

 なんで、もっと早くに、素直にならなかったんだろう。

 いつまでもいつまでも、自分の殻に閉じこもってばっかりで。

 『ワールド』ばっかりに、逃げ込んでて。

 

 結局、あたし、リアルのこととか、本当の気持ちとかから、逃げてただけなんだ――」


 亀田のコーヒーに、ぽちゃん、と何かが入る音がした。

 それは透明な滴で、一定のリズムを刻みながら、次々にコーヒーへ注がれていく。その度に、亀田の肩が、大きく上下に揺れる。

 俺は、自分のコーヒーカップの取っ手を掴み、それをぐい、と呑み込んだ。

 熱い刺激が食道を刺激し、一瞬むせそうになった。

 それをなんとか堪え、ゆっくりとカップを戻してから、俺は静かに言った。


「俺だって……俺だってそうだよ。

 結局、俺、自分のことしか、考えてなくて。

 何か行動する前に、全てを諦めていて。

 でも藤川は違った。

 あいつ、いつも俺たちのことを考えていたし、行動していたし……」


 自虐的な笑みが自然にこぼれたのが、カップに半分残ったコーヒーに映し出された自分の姿で、分かった。



「本当に、俺たちは、今まで何してたんだろうな……」



 亀田はついに耐えきれなくなったのか、カップを両手に包み込んだまま、その上に顔を完全に伏せてしまった。

 その細い肩が何度も苦しそうに上下する。小さな嗚咽と共に、カップに透明な滴がぽたりぽたりと落ちていく。

 俺は何も、掛ける言葉が見つからない。見つかるわけが、ない。


 そっと顔を上げて、一面のガラス張りの向こうに見える空を見た。

 空は薄い灰色になっていた。分厚い雲が、一面にかかっている。

 目の前に映る病室を見た。恐らく、藤川が眠っているであろう病室辺りを。


 また目が覚めたら、藤川はあんなふうに、虚ろな目をしたままなのか――?

 

 そう思うと、息が途端に出来なくなった。

 喉からせり上がる苦いものをぐっと堪え、俺はカップに残った黒い液体を、全部胃の中へ流し込んだ。

 痛いほどの苦みだけが、舌の上に残った。


 ――だとしても。


 その舌を、俺は負けじと、ぐっと噛みしめた。



 今度は、俺が、藤川を助ける番なんだ。



 ※


 その夜、静かな雨がしとしとと降りそそいだ。

 その音をバックミュージックに、俺は机の上で頭を抱えながら、ずっと俺は藤川に起きたであろう出来事について考えた。


 『ワールド』の中で何かあったのは間違いないだろう。それしか可能性はない。

 さっそく俺は『ワールド』のログイン画面をパソコンに表示させ、「リリィ」の最後の行動履歴を見てみた。

 タウン、入り口の街で、一時間ほどログインしたことになっている。

 アウト時間は……俺がインする寸前だ。

 少しだけ胸が痛んだ。もう少し、早く来ることが出来ていれば――。

 ともかく、悔やんでいても仕方ない。パソコンの画面を睨みつけながら、必死に考える。


 きっと、タウンの中で、藤川の身に何かあった筈だ。

 だけど、藤川にあれだけショックを与えるような出来事って、一体、何なんだ?


 ……まさか、俺とリリィと一緒に廃墟のダンジョンの時に遭遇したような、プレイヤーキラーにやられた、とか?

 いや、でもそれはない。俺は頭を振った。

 タウンの中じゃ、そういったプレイヤー同士の戦いは出来ない仕組みになっている。


 だったら、何があるっていうんだ……。


 駄目だ。分からない、思いつかない。

 さー。

 窓の外からは、相変わらず細かな雨の音が聞こえてくる。

 俺はうんうんと唸りながら、そのまま雨の音を子守唄に、混沌とした思考の中で眠りに落ちた。



 翌朝は鈍い頭を抱えながら、強烈な太陽の照りつきを跳ね返すコンクリートの通学路を歩いた。

 電話の音で起こされたので、未だに頭がガンガンする。


 朝一番に、俺のスマホに通話が来たのだ。

 送信者は、藤川。

 驚いて通話をとると、藤川のおばさんの声がした。恐らく、藤川のスマホから番号を探ったのだろう。


 藤川は、予定より一日早く――つまり今日の午後に、退院することが決まったそうだ。

 ただ、精神的状態は悪く、あの虚ろな目のまま、何やらぼうっとすることが多いらしい。

 だから、しばらく落ち着くまでは様子を見るそうだ。もちろん、学校も休む。


 おばさんはしきりに「あの時は由梨の傍に居てくれてありがとう」と言っていた。

 俺はただ、いえ、俺は何もしてません、と返すだけで精一杯だった。

 最後に、帰りにお見舞いに行きます、とだけ言い残し、電話を切った。


 ――そう、俺はまだ、何もしていない。


 所々にある、小さな鏡みたいな水たまりを避けつつ歩いた。

 ふと、古いラジカセのスピーカーから音が漏れるように、最後に藤川が言った台詞が脳内に流れてきた。


 『だからね、もう、良いんだ。ほら、こうやって、触られても、何も感じないから、良いよね。

 私、初めて、この身体で良かった、て、思った。

 何も、感じない。無理やり、触られても、何も思わない。恐くない』


 ――無理やり、触られても――。


 そこで俺はハッと、立ち止った。

 或る一つの可能性に、思い至った。

 ……まさか、でも、そんな……。


 俺は急いで、学校への道を走った。

 そして、校門付近で、じっと立ち尽くしながら校舎を見上げる女子生徒を見つける。俺は声を掛けた。

 亀田はびくっと肩を強張らせながら、こちらへ振り返った。俺の姿を見るや、その表情を幾らか和らげた。

 俺はその腕を掴み、何も言わずに体育館裏へと連行していった。


 ※


「……え?」


 俺がついさっき思い付いた可能性を聞き終えた亀田が、目を大きく見開いた。

「多分、それしか考えられないと思うんだ。

 藤川は、無理やり身体を触られそうになったんだと、思う」


 体育館裏は、昨夜降り注いだ雨の湿気を充満させた空気が漂っていて、むんとしていた。地面のぬかるんでいて、気分が悪い。

 額から、汗が徐々に滲んでいくのが分かった。


「――そんなの、酷すぎる……。で、でも待って」

 亀田は、口元に手を当て、目を伏せながら言った。

「前に、そんなようなこと、ニュースにならなかった……?

 ある男性が、『ワールド』内で女性の身体を触ろうとして問題になったこと。確か、あったよね?

 それ以降、他人の身体に触れて感じられるところに、制限がされていたように思うんだけど……」


 そういえば。

 俺もそのようなニュースを、知っていた。

 一年ぐらい前の話だったと思う。

 女性が、男性から無理やり身体を触られたとゲーム会社に通報があり、挙句には警察沙汰にまでなった。

 社会問題にまで発展したそのニュースは、たちまち社会から批判を受けた。

 それを受け、『ワールド』製作会社は、他人の身体を触って感じられるところに、制限を掛けた――と、聞いている。


 うーん、と唸った。

「そうだよな……。制限かかってるとなると、無理だよな……」


 でも、藤川は確かに、言っていたんだ。

 『無理やり、触られても』と。

 その言葉から考える限り、それしか考えられなかったのだけれど――。


 しばらくしてから、亀田がふと顔を上げ、俺を見た。


「もしかして、さ。

 誰かが……チート使った、とか?」


「チート?」

 俺がオウム返しに訊き返すと、「知らない?」と亀田が首を傾げる。

「最近、公式の方で賑わってたじゃん。一部のチートが横行しているから、やめてください、てさ。

 もしかして由梨、そのチートの集団に捕まったんじゃ……」

 チートが横行しているのは、なんとなく知っていた、ような気がした。

 そうか、それなら辻褄が合う。


「なら――」

 そう、俺が言いかけた時だった。

 ふと、体育館の奥の方から、誰かがくすくすと笑い声を上げるのが聞こえた。

 それは複数の男の声で、その冷たい響きだけが、嫌に耳に残った。

 悪寒が背筋をなぞる。

 俺は口を噤み、そっと耳をそばだてた。近くの亀田が「どうしたの?」と問いかけてきたので、俺は口元に人差し指を当てながら、息を殺した。

 しばらくしてから、今度ははっきりと、声が聞こえてきた。


「いやー、昨日も結構な子猫ちゃんたち、ゲットできたよなー」


 そう、言っていた。


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