Log.18 ここに居るのは、一体、誰なんだ?
※残酷描写(流血など)有り! 苦手な方、ご注意ください!※
藤川が、学校に来なくなった。
三日前から――最後に、『ワールド』で会おうと約束した日から、だ。
朝のホームルームで、先生がクラスメイトたちの名前を読み上げる間、俺はずっと、藤川の空いた席を見つめ続けた。
胸が、ぐっ、と締め付けられた。
あの日、俺は八時頃になってようやく部活の雑用を終え、『ワールド』にインした。
藤川は、「ログアウト」になっていた。
制限の四時間までずっと待ってみたけれど、結局、来なかった。
その間に藤川から送られてきた長文のメールを、何度も何度も読んだ。
その度に俺は、奥歯を噛みしめた。
ぎりぎりと鳴るその音が、更に俺の心臓を、締め付けていく。
俺はなんて、馬鹿なんだろう。
あいつは――藤川は、こんなにも、俺たちのことを考えていてくれて、行動していてくれていたのに。
なのに俺は。リアルでも、『ワールド』でも、何かやる前から、全部諦めて。
こんなもんなんだ、としか、考えてこなくて。
結局、何もしてこなかったじゃないか。
亀田の件についてだって、そうだ。
藤川はずっと気にかけていた。心配していた。どうにかしようとしていた。
でも、俺は……俺は……。
とにかく、藤川に会ったら、すぐに謝ろうと思った。ありがとう、とお礼を言おうと思った。
けれど、翌日、藤川の姿は学校になかった。
すぐに、メールした。風邪なのか、大丈夫なのか、昨日は会えなくてごめんな、と。
でも、返事はいつまでたっても、返ってこなかった。
二日目なら、会えると期待した。でも、来なかった。
焦った。何かあったのかと思った。もしかして、例の"病気"ってやつか――?
その日帰ってすぐ『ワールド』にインしてみた。もちろん藤川の……リリィの表示は「ログアウト」のまま。
返事のこないスマホを握り締め、そわそわと落ち着かない心を必死に落ち着かせながら、俺は思った。
きっと、次の日なら来てくれるはずだ。
でも。
今日になっても、藤川は、来ない。
これは絶対、何かあったに違いない。
そう思わざるを得ない。
俺はぐ、と拳を強く握りしめた。
なぁ――藤川。
お前、一体、どうしたんだよ……?
とにかく、すぐにでも藤川の容体を聞こうと思った俺は、朝のホームルームが終わって職員室へと歩いていく担任の後を、急いで追いかけた。
「先生! 藤川は、藤川はなんで学校に来ないんですか!?」
俺が叫ぶと、先生は驚いてすぐさま立ち止り、振り返った。
「……うーん」先生は戸惑いながら、頭を掻いた。「いや……実はなぁ、オレも、よく事情が分からないんだ」
「事情が、分からない?」
慌てて先生に詰問した。
先生は未だに唸りつづけ、天井を見上げながらゆっくりと言った。
「ああ……。親御さんからの話だと、最初は単なる体調不良だったようだが……今日の電話だと、なんというか、ものすごく慌てたような感じでなぁ……」
「どんな感じでしたか?」
とにかく、俺は必死だった。
藤川の様子が、早く知りたい。
俺の問いかけに、またもや先生は、うーん、と唸った。
「なんかなぁ……『あの子があの子じゃない』とか、『おかしい』とか、言っていてなぁ。
しばらくしてから落ち付かれたようだったけど。
もしかしたら……」
そこまで先生が言いかけた時、廊下の奥から突然「先生っ!」と呼びかける、大きな声が響いてきた。
驚いてそちらに視線を遣ると、そこには一人の女性が、ものすごい形相で立っていた。肩で大きく息をしている。
その人はずんずんと大きく足を広げながらこちらに歩いてきて、先生の近くまで来た途端。
その肩を、がしっと掴んだ。
「先生っ! 由梨は……由梨は学校で、何かあったんですか!?
あの子、様子が――様子がおかしいんですっ!」
先生の身体が大きく揺さぶられるのを横目に、俺は急いでその人に問いかけた。
「何か、て……。どうしたんですか、何かあったんですか!」
女の人は――恐らく藤川のおばさんは、俺を涙の溜めた目でちらりと見た後に、先生に向かって吠えた。
「あの子、一歩も部屋から出てこなくて、閉じこもりっきりで!
最初は風邪かと思って様子みてたんですけど、昨日あたりから、急に変なこと言いだしたり、夜中なんて、
手に――手にカッターなんか持って、ふらふらしてるところを見つけて!
ああ、なんで、なんであの子がまた、あんなことをっ!
学校で……学校で何か嫌なことでも、あったんじゃないんですか!?」
――カッター……?
その単語が、俺の心臓にぐさりと突き刺さった。
藤川に、カッター、だって?
「お、落ち着いて下さい奥さん」先生が慌てながら言った。「とりあえず落ち着いて。職員室でお話を伺いますから」
「悠長にしてる場合じゃないんですよっ!」おばさんが負けじと叫ぶ。「今だって、あの子一人で部屋にひとりぼっちにさせたまま、私、出てきたんですよ!?
先生、あなたも一緒に着いてきて、見てあげてくださいよ! 助けてあげて下さいよっ!!」
「ちょ、待ってください! あ、あのですね、僕にも仕事というものが――」
「あの子の担任なんでしょう! 授業なんてどうでもいいから、ほら、あの子の様子、見てあげてっ!」
おばさんの叫び声が廊下に響くのを聞きながら、俺は、唇を噛みしめた。
やっぱり、何か、あったんだ。
それは、学校の中でじゃない。
タイミング的に――そうだ。恐らく、『ワールド』で。
俺と約束した、あの日に。
俺は、おばさんに向かって、叫んだ。
「俺を代わりに連れてって下さい! お願いします!
俺、あいつと仲良いですから、少しでも力になれるかもしれないからっ!
それに俺、あいつに、どうしても伝えたいことがあるから!
お願いします、マジでお願いします!」
それから、担任の先生が取り計らってくれて、俺は学校を早引きし、おばさんと共に藤川の家へ行くことになった。
校門を出て、おばさんが乗ってきた車で一緒に家へ行こうということになり、急いで駐車場へ向かおうとした時。
亀田に、会った。
俺は、久しぶりに見るその姿に、一瞬固まった。
亀田も、突然出くわした俺の顔を見て、驚いたように短く叫んだ。持っていた鞄を落とす。
しばらく、道路の上で視線を交わした。
やがて亀田が、視線を伏せ、小さく口を動かして「お……おはよう」と言った。
俺は何も言わず、亀田に近づいて、その腕を掴んだ。
そして、ぐい、と引っ張って、駐車場へ向かうおばさんの背中を追っていった。
「ちょ、ちょっと!」と戸惑いつつも足を動かす亀田に向かって、俺は叫んだ。
「亀田、お前も来いっ!
藤川の、藤川の様子が、おかしいんだ!」
「――え?」
ぽかんと、間抜けたように開く口が、見えた。
※
藤川の家に着くやいなや、俺は玄関を開けて急いで階段を駆け上った。事前に、おばさんから藤川の部屋の位置は聞いていた。
後ろから、未だに状況が掴めていない亀田が、戸惑いつつも走って付いてきた。
藤川の部屋の前に着いてから、俺はゆっくりと、息を整えた。
心臓が未だに、ばくばくと不整な音を立てている。
ごくりと鐔を呑み、意を決した後に。
俺は、ゆっくりとした動作でその扉をノックした。
返事は、返ってこなかった。
俺はもう一度強くノックしながら、言った。
「藤川! 俺だ、松原だ! 分かるか!?」
しん、と静まる。
中からは、やはり何も聞こえてこない。
俺は背後に立つ亀田に目配せした。亀田は固い表情でこくんと頷いた後に、ゆっくりと口を開いた。
「由梨……由梨、そこに居るんでしょう?
ねぇ、私……麻子、だよ。ねぇ、お願い、出てきて由梨」
数秒した後に、中から、どすん、と音が聞こえてきた。
そして、ゆっくりとした声が、聞こえてきた。
「龍介、君、麻子、ちゃん――?
ああ、二人、とも、来て、くれたんだ」
良かった――その声は、いつもの藤川の声の調子に聞こえた。
俺は少しだけ、胸をなでおろす。
「ああ。来たよ。
藤川、ずっと学校休んでたから。心配だったんだぞ。
ほら、亀田だって、ちゃんと学校来てたし。
なぁ、藤川。部屋、入っても良いか?」
しばらく経ってから、「良いよ」と返事が聞こえてきた。
俺は安堵のため息をつきながら、亀田と視線を合わせた。亀田もまた、安堵したように頬を少しだけ緩めていた。
俺はドアノブに手を掛け、それをゆっくりと回して、扉を開けていった。
※
部屋の中は、薄暗かった。目の前の小さな窓には、カーテンが掛かっている。
その窓の下に机があって、藤川はその机の椅子に、こちらに背を向けて座っていた。
俺が完全に扉を開けると、藤川は首だけをこちらに動かして、俺たちを見た。
「藤川――」
呼びかけようとして、ハッと気付いた。
藤川は笑っていた。
でもそれは、いつものような、可憐な花を咲かせたような笑みでは、なかった。
花が萎れてしまう寸前のような、影のある笑みだった。
「由梨……?」
亀田が後ろから、恐る恐るといった感じで、藤川に呼び掛ける。
藤川は亀田の方へ視線を遣ると、更に一層、その影を深くしていった。
「ああ――麻子、ちゃん。
麻子ちゃん、だ」
良かった、とぽつりつぶやいた藤川は、首を折れそうなほどに傾け、口元をゆっくりと歪ませ、その長い髪を垂らした。
ぞく、と、冷たいものが背筋を撫でる感覚が襲う。
――違う。
これは、いつもの藤川なんかじゃ、ない。
俺は急いで、その背中に近づいた。
おい、どうしたんだよ、と呼びかけながら、その机の上に目を遣った時。
息が、止まった。
そこには、机に深く刺したカッターを握った右手と、赤色に塗れた左腕が、あった。
「藤川っ!!」
俺は急いで、その右手からカッターを奪って部屋の隅へと投げ捨て、左手首を掴んだ。
その左腕は、いくつか刺し傷があって、そこからどくどくと、まるで穏やかな噴水のように、血が噴出していた。
いやぁっ、とすぐ傍で、短く叫ぶ声が聞こえた。
がくがくと、藤川の掴む俺の手が、震える。
うそ……だろ……これ……藤川、が……?
『咄嗟のことでも、自分の大切な身体傷つけるのを見るのは、もっと嫌だった』
以前、藤川が言った台詞が、耳元をよぎった。
「どうしたの。龍介君、麻子ちゃん」
藤川は俺たちを、ぼうっとした表情で見遣った。
その目は、この世界を見ているような真っ直ぐな目じゃなくて、まるで異次元の世界を覗いているかのように、虚ろだった。
「お、おまえ……なに、を……何をやってるんだよっ!!」
叫びながら、取りあえずこの血をなんとかしなきゃ、止血しなきゃ、と焦った。とにかく、何か、包帯か、タオルか何かを……!
左腕をぐっと握りしめながら、部屋の中を見渡す。すると、目を丸くさせながら、こちらをただただ見遣る亀田の顔が、見えた。
完全に、魂が抜けたような顔になっていた。
「――あぁ、コレ?」
藤川は、ふいに自分の左腕に視線をやって、再び俺に、視線を戻した。
そして、ふ、とゆっくり影の笑みを作って、言った。
「大丈夫だよ、龍介君。だって、私、痛くないもん。
私、"痛み"とか、そういう感覚が無い身体なんだから、平気だよ」
「――は?」
一瞬にして、思考が止まる。
今……何て言った?
感覚が無い身体――?
「だからね、もう、良いんだ。ほら、こうやって、触られても、何も感じないから、良いよね。
私、初めて、この身体で良かった、て、思った。
何も、感じない。無理やり、触られても、何も思わない。恐くない。
ねぇ。
これって、良いよね。素敵だよね。最高だよね」
突然、後ろから盛大な叫び声が上がり、俺の耳をつんざいた。
振り返ると、そこにはおばさんが口に手を当てて、扉に身体を預けながら、これでもかと震えていた。
「ゆ……由梨、あんた、あんた、な、なんで、こんな……! 何してるの!」
部屋に入ってきたおばさんが、その場にいた俺と亀田を、強い力で押しのけた。
その弾みで、俺は尻もちをついた。
おばさんは、藤川の腕を見、更に大きな泣き声を上げながら藤川に抱きついた。
「だ、駄目じゃない! 何やってるの由梨!
もう自分の身体傷つけないって、約束したでしょうっ!」
おばさんの腕の中でも、藤川は、
あの不気味なほど暗黒の笑顔で、にたにた笑っていた。
俺の心臓が、どく、と押しつぶされる。
机から、一筋の赤い液体が、ぽとり、と床に落ちる。
ぽとり、と、ぽとり、また、一滴。
早く、救急車、救急車、と叫びながら、おばさんはものすごい勢いで、階段を降りて行った。
残された藤川は、少し寂しそうな表情をした後に、机へ向き直った。
そして、その引き出しから、何かを取り出す。手に持っているそれが、きらりと不気味に光る。
カッター、だった。
亀田が、「ヤメて由梨!」と叫びながら、背後から藤川に抱きつき、その右手を抑え込んだ。
お願い、こんなこと止めて由梨、ねぇどうしちゃったの由梨、と亀田は必死に叫びながら、右手を力いっぱい掴んでいる。
藤川が、また、笑う。
「どうしたの麻子ちゃん、大丈夫だよ私は」なんて言いながら。
俺はもう、完全に力が抜けてしまって、動けなかった。
その間にも、机からまた、ぼと、ぼと、と、鮮明な血が、次々と、爛れていく。
強烈な鉄の匂いが、した。
俺の脳裏にふと、記憶の中の藤川が現れた。
――花を咲かせたように、本当に楽しそうな笑顔でこちらを見る藤川。
――いつも人のことを考えて、こちらが悲しそうな雰囲気を察すると、同じように悲しい表情を作ってくれた藤川。
――明るい言葉を掛けてくれて、こちらを励まそうと努力してくれた、藤川。
俺は、目の前にいる、腕から大量の血を流しながら、友達の腕の中で、壊れたような微笑みを作って、虚ろな目をしている人物を、見た。
ここに居るのは、一体、誰なんだ――?
しばらくしてから俺の耳元に、遠くから響く救急車の音が、かすかに聞こえてきた。




