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短篇『甘酸辛苦渋』

作者: 小川敦人

短篇『甘酸辛苦渋』

プロローグ


もう三十年以上前の話だ。


記憶の底に沈んだ夏の匂い。アスファルトの熱。バイクのエンジンオイルの香り。そして、あの酒の名前。

あの頃、私は静岡市で小さな居酒屋を営んでいた。三十代半ば、夢という名の翼を広げてサラリーマンという籠から飛び立ち、自分の店という巣を持った。

フミヨシは、その店でアルバイトをしていた二十四歳の若者だった。風のように現れ、風のように去っていく。そんな予感を、あの頃から感じていた。



「オヤジ、ツーリングどうだ、一緒に行こう」


フミヨシがそう言ったのは、一九九三年の夏、梅雨明け間近の蒸し暑い夕方だった。私の店のカウンター越しに、彼はいつものように細い目をさらに細めて笑っていた。

まるで秘密を抱えているような、そんな笑顔だった


「どこへ行くんだ」


私は生ビールのジョッキを磨きながら聞いた。グラスに映る蛍光灯の光が、揺れていた。


「山梨。七賢って酒蔵があるんだ。そこに面白い酒がある」


「面白い酒?」


「『甘酸辛苦渋』っていうんだ。名前がいいだろ」


フミヨシは懐からメモ用紙を取り出した。几帳面な字で酒の名前と住所が書いてある。

彼は一見すると無頓着な若者に見えるが、興味を持ったことには異様なまでの執着を見せる。炎が獲物を焼き尽くすように。


「味の五味全部入ってるのか?」


「さあな。でも、この名前だぜ。飲んでみたいと思わないか?」


確かに興味をそそられる名前だった。甘い。酸っぱい。辛い。苦い。渋い。まるで人生という長い旅路を、五つの漢字に凝縮したような。


「お前、最近HARLEYはどうなんだ」


「ああ、やっと金が貯まった。来週納車なんだ」


フミヨシの顔が、花が開くように明るくなった。彼がこの店でアルバイトを始めたのは三年前。目的はただ一つ、HARLEYを買うためだった。

本職は古紙回収の仕事をしている。朝は四時起きで街を巡り、紙を集めて回り、夕方から私の店で働く。そんな二重の生活を三年間、黙々と続けてきた。


「青いiMac買ったって話だったよな」


「ああ、あれは最高だぜ、オヤジ。Windowsとは比較にならない。画像の鮮明さ、音質、処理速度、全部が別次元だ。

まるで別の世界を覗いているみたいなんだ。QuickTimeで映画を見たら、もう映画館には行けなくなる」


「お前、相変わらず映画はカーチェイスがないと見ないんだろ?」


「当たり前だ。カーチェイスのない映画なんて、魂がない。『ブリット』『バニシング・ポイント』『マッドマックス』、あれが映画ってもんだ」


フミヨシのMac信仰は筋金入りだったが、映画へのこだわりも同じくらい強かった。

彼にとって、映画とは疾走することであり、逃走することであり、自由を求めることだった。


「最近はハードロック聴いてるんだ。Led Zeppelin、Deep Purple、AC/DC。iMacで聴くと、音が生きてる」


フミヨシは目を細めた。


「一度語り始めると止まらないな、お前は」


「ははは、悪い悪い。でもな、オヤジ、良いものは良いんだよ」


彼の中で、Macは単なる道具ではなく、信念であり、美学だった。音楽も、映画も、バイクも、すべてが彼の生き方そのものだった。

前回は一時間以上、MacとWindowsの比較論という名の熱弁を聞かされた。


「で、そのツーリングはいつなんだ」


「今度の日曜。オヤジのセローで一緒に走ろうぜ。俺のHARLEYのお披露目でもある」


私はヤマハのセロー250に乗っていた。オフロードバイク。軽快で、身軽で、山道を駆け上がる。HARLEYとは対極にある。まるで、詩と散文のような。


「いいだろう。久しぶりに走りたいと思ってたんだ」


「やった! じゃあ朝七時に駿河区の安倍川河口で」


フミヨシは嬉しそうに手を叩いた。二十四歳の若者の純粋な喜びが、夕暮れの店内に響いた。まだ何も失っていない者の、透明な歓喜。



日曜日は快晴だった。空は抜けるように青く、雲一つない。

安倍川の河口に着くと、フミヨシはすでに来ていた。濃紺のHARLEYが朝日を浴びて輝いている。

まるで海の底から引き上げられた宝物のように。


「おお、オヤジ! どうだ、このマシン!」


フミヨシは子供のように跳ねながら近づいてきた。


「いい色だな」


「だろ? 一目惚れだったんだ。最初は黒を考えてたんだけど、この青を見た瞬間、これしかないって思った。まるで運命みたいに」


彼はタンクを撫でた。恋人に触れるような、畏敬と愛情が混ざった仕草だった。


「じゃあ、行くか」


「おう!」


二台のバイクは国道52号線を北へ向かった。静岡市街を抜け、安倍川沿いの道を走る。フミヨシのHARLEYは重低音を轟かせ、私のセローは軽快な音を立てる。

まるで対話をしているような。低音と高音。重さと軽さ。人生の二つの側面が、アスファルトの上で語り合っているような。

道は次第に山へと入っていく。52号線の曲がりくねった道が続く。

心の中で自然と、ビートルズの"The Long and Winding Road"が流れ始めた。


♪"The Long and Winding Road"

The long and winding road that leads to your door

Will never disappear, I've seen that road before

It always leads me here, lead me to your door

君のドアへ通じる長く曲がりくねった道

絶対なくなる事はないだろう 僕はその道の前をずっと見ていた

それは いつもここで僕を先導する 君のドアへ僕を導く♪


長く、曲がりくねった道。それはまるで、失われた時間へと続く道のようだった。

右に左に、カーブが連続する。切り立った崖の脇を抜け、川を見下ろしながら進む。

道は蛇のように身をくねらせ、私たちを山の奥へと誘っていく。


「この道、最高だな!」


信号待ちでフミヨシが叫んだ。


「ああ、バイク乗りにはたまらない道だ」


新緑の山々が両側に迫り、清流の音が聞こえてくる。くねくねとした山道を登っていくと、空気が澄んでいくのがわかる。

まるで時間を遡っているような。世俗から離れ、純粋な何かに近づいていくような。


途中の道の駅で休憩した。


「オヤジさ、店はどうなんだ? 儲かってるのか?」


フミヨシは缶コーヒーを飲みながら聞いた。


「まあ、何とかやってるよ。でも、このご時世だ。楽じゃない」


「俺、思うんだけどさ」


フミヨシは空を見上げた。雲が流れていく。白い羊の群れのように。


「人生って、結局苦いもんだと思うんだ。甘いことなんて、ほんの一瞬だけだ。砂糖が舌の上で溶けるみたいに、すぐに消えちまう」


「急にどうした」


「いや、この前さ、親父が倒れたんだよ。脳梗塞で。今はリハビリ中なんだけど、左半身に麻痺が残った」


「そうか。知らなかった」


「言わなかったからな。でも、親父を見てて思ったんだ。人間って脆いなって。今まで元気だった人間が、一瞬で変わっちまう。まるでガラスみたいに、簡単に割れる」


フミヨシの横顔は、いつもの明るさとは違う何かを帯びていた。影が差したような。


「お前、親父さんの仕事を継ぐのか」


「たぶんな。兄貴は東京で会社員やってて戻ってこないし。俺が継ぐしかない」


「HARLEYは?」


「乗るさ。これだけは手放さない。親父が倒れた時も、このバイクを買う金だけは絶対に使わなかった。

冷たいって言われるかもしれないけど、これが俺の生き方だから。人は何かを守らなきゃ、生きていけない」


私は何も言えなかった。二十四歳の若者が背負うには重すぎる現実が、そこにあった。まるで巨大な岩を一人で押し上げているような。


「オヤジはさ、店を始める前は何やってたんだ?」


「サラリーマンだよ。十五年間、電機メーカーで営業をやってた」


「なんで辞めたんだ?」


「夢があったんだ。自分の店を持つっていう。でも、現実は厳しい。夢と現実の間には、深い溝がある。橋を架けるのは、簡単じゃない」


「でも、やってみたんだろ? それだけでも凄いよ。多くの人は、溝を見ただけで諦めるから」


フミヨシは立ち上がった。


「さあ、行こうぜ。七賢はもうすぐだ」



七賢の酒蔵は、山に囲まれた静かな場所にあった。古い建物が並び、時間がゆっくりと流れているような気がした。

まるで時の川が、ここだけ流れを緩めているような。


「いらっしゃいませ」


若い女性が出迎えてくれた。名札には「見城」と書いてある。


「あの、『甘酸辛苦渋』という酒を探してるんですが」


フミヨシが言うと、見城さんは微笑んだ。花が咲くように。


「ああ、あのお酒ですね。人気があるんですよ」


「どんな酒なんですか?」


私が聞くと、見城さんは丁寧に説明を始めた。


「五つの味わいを一本に凝縮したお酒です。最初は甘く、徐々に酸味が広がり、次に辛味、そして苦味、最後に渋みが残ります。人生の五味を表現しているんです。まるで、一つの人生を一杯で味わうような」


「面白いな」


「作るのが大変なんですよ。五つの異なる酒を絶妙なバランスで混ぜ合わせる。少しでもバランスが崩れると、台無しになってしまう。杜氏の技術の結晶です」


見城さんは奥から一本の瓶を持ってきた。ラベルには毛筆で「甘酸辛苦渋」と書かれている。文字が生きているようだった。


「試飲できますか?」


フミヨシが聞いた。


「もちろんです。こちらへどうぞ」


試飲コーナーに案内された。小さなおちょこに注がれた酒は、透明で美しかった。水晶のように。


「じゃあ、いただきます」


私とフミヨシは同時に口をつけた。


最初は甘かった。まろやかで優しい甘さが舌を包む。

母親の腕の中にいるような、安心感。次の瞬間、酸味が広がった。爽やかで、少し刺激的だ。青春の痛みのような。そして辛味。ピリッとした辛さが喉を通る。

社会の厳しさのような。その後に来る苦味は深く、複雑だ。挫折の味。最後に残る渋みは、余韻として長く続いた。諦めと悟りの境界線のような。


「すげえ」


フミヨシが呟いた。


「本当に五つの味が順番に来る。まるで、人生を飲んでるみたいだ」


「そうでしょう。不思議なお酒なんです」


見城さんが誇らしげに言った。


「これ、三本ください」


フミヨシが即座に言った。


「私も二本いただきます」


私も続けた。


会計を済ませて外に出ると、フミヨシが言った。


「この酒、人生そのものだな」


「どういう意味だ?」


「最初は甘い。子供の頃は楽しいことばかりだ。世界は優しく、温かい。でも、次に酸っぱさが来る。思春期の挫折や失恋。初めて知る痛み。そして辛い。社会に出て、現実の厳しさを知る。風が冷たくなる。苦い。親の死や、自分の限界を知る。夢が砕ける音を聞く。最後に渋い。それでも生きていかなきゃいけないっていう、諦めと覚悟。人生の本当の味」


フミヨシの言葉には、二十四歳とは思えない重みがあった。老人の魂が宿っているような。


「お前、時々年寄りみたいなこと言うな」


「親父の病気で、いろいろ考えちまったんだよ。人生の終わりが見えると、全体が見えるようになる」


彼は空を見上げた。夏の青空が広がっている。果てしなく。


「でも、それでも俺は生きるぜ。HARLEYに乗って、風を感じて、美味い酒を飲んで。それが俺の人生だ。それが俺の答えだ」


「いい生き方だな」


「オヤジもそうだろ? 店をやって、バイクに乗って。やりたいことをやってる」


「ああ、そうだな」


私たちはバイクにまたがった。帰り道は夕日が眩しかった。山々が金色に染まっていく。一日の終わり。そして、新しい始まり。



それから、フミヨシと七賢へは何度も行った。一九九三年から九五年にかけて、春には桜を見ながら、夏には新緑の中を、秋には紅葉を楽しみながら。いつも「甘酸辛苦渋」を買って帰った。まるで巡礼のように。


ある日の夜、一九九四年の秋だったと思う、店にフミヨシの父親が来た。


「いつもうちの息子が世話になってます」


「いえいえ、こちらこそ。フミヨシには助けられてます」


父親は痩せていて、左手に少し不自由さが残っていた。病の跡が、体に刻まれていた。


「あいつ、最近よく笑うようになりました。バイクを買ってから、人が変わったみたいに明るくなった。まるで春が来たみたいに」


「そうですか」


「親としては複雑なんですけどね。もっと堅実に生きてほしいって思いもある。でも、あいつが笑ってるのを見ると、それでいいのかなって思うんです。人生、笑って生きられるなら、それが一番なんじゃないかって」


父親は生ビールを一口飲んだ。


「人生、楽しまなきゃ損ですよね」


「ええ、本当に」


その夜、私はフミヨシに電話した。


「親父さんが来てたぞ」


「マジで? 何か言ってた?」


「お前のこと、心配してたよ。でも、嬉しそうだった。誇らしげだった」


電話の向こうで、フミヨシが笑う声が聞こえた。


「親父もさ、昔はバイク乗りだったんだよ。若い頃、カワサキのZ2に乗ってたって聞いた。だから、俺の気持ちがわかるんだと思う。風の中を走る自由が」


「そうか」


「今度、親父も連れて七賢に行こうと思うんだ。三人で。親父と、オヤジと、俺と」


「いいな、それ」


「じゃあ、決まりだな。来月、一緒に行こう」


しかし、その約束は果たされなかった。約束は時として、風に散る花びらのように、儚い。


## 五


フミヨシとの連絡が途絶えたのは、一九九五年の秋、それから一ヶ月後だった。


電話をしても出ない。店にも来ない。心配になって、彼の家を訪ねた。


出てきたのは彼の兄だった。


「あ、店長さん。すみません、フミヨシのこと、連絡してなくて」


「何かあったんですか?」


「親父が亡くなったんです。二週間前に」


「え……」


言葉が、喉で凍りついた。


「急だったんです。また脳梗塞で。今度は助からなかった。まるで蝋燭の火が消えるみたいに」


私は言葉を失った。


「フミヨシは?」


「今、いろいろ手続きで忙しくて。会社も継がなきゃいけないし。バイトは辞めるって言ってました。伝え忘れてて、すみません」


「いや、いいんです。そんなこと、どうでもいい」


「フミヨシに会いますか?」


「いや、今は。また落ち着いたら、こちらから連絡します」


私は帰り道、涙が止まらなかった。フミヨシの父親の笑顔が思い浮かぶ。あの夜、彼は幸せそうだった。

息子のことを誇りに思っていた。生きる喜びが、その顔にあった。

その後、私はフミヨシに何度か電話をしたが、繋がらなかった。店を訪ねることもなかった。

季節が変わり、一九九六年の春、私は店を閉めることになった。経営が行き詰まったのだ。

夢を追いかけた五年間だったが、現実は厳しかった。夢は美しいが、現実は重い。

私は再びサラリーマンに戻った。以前とは違う会社で、違う仕事を始めた。バイクも手放した。セローと別れる日、私は泣いた。

フミヨシとは、それっきりだった。

月日は流れた。川が海に流れ込むように、時間は過去へと流れていった。

二十世紀が終わり、新しい世紀が始まった。私は転職を繰り返した。人生ゲームのような、様々な出来事があった。

喜びも、悲しみも、挫折も、小さな勝利も。



そして二〇二一年、私は酒をやめた。


あの店を閉めてから、二十五年が経っていた。フミヨシと初めて七賢に行ってから、二十八年後のことだった。

健康診断で肝臓の数値が悪かったのがきっかけだった。医者に「このままだと危ない」と言われ、思い切って断酒した。

最初は辛かった。飲みたくて飲みたくて、夜も眠れなかった。喉が砂漠のように乾いた。

でも、次第に慣れてきた。体調も良くなった。朝の目覚めが爽やかになった。世界が、少しずつ明るくなっていった。

断酒会にも何度か顔を出した。そこで出会った人たちは、みな必死だった。溺れる者が水面を求めるように。


「俺、酒なんて大嫌いなんですよ」


ある男性が言った。


「じゃあ、なんで飲むんですか?」


私が聞くと、彼は苦笑いした。自嘲の笑みだった。


「わかんないんです。やめたいって、毎日思ってる。本当に、強く強く、やめたいと思ってる。でも、強く思えば思うほど、止められないんです。家族が何を言ってるか、医者が何を警告してるか、周りの人が心配してくれてることも、全部わかってる。全部、わかってるんです。それなのに、気づくと飲んでる。まるで、意志とは別の何かに操られているみたいに」


彼の目には涙が浮かんでいた。絶望の涙が。


「アルコール依存の人たちってね」


断酒会のベテランの女性が言った。彼女の声は静かで、深かった。


「誰も喜んで依存してるわけじゃないの。むしろ、本当はみんな、強く強くやめたいと思ってるのよ。誰よりも強く。でもね、不思議なことに、強く思えば思うほど止められなくなる。家族の涙も、医師の忠告も、周囲の人たちの言葉も、全部わかってるの。わかってて、それでも飲んでしまう。アセトアルデヒドっていう毒物を体に入れてるんだから、生物として本能的に避けるべきものなのよ。体が拒絶するべきものなのに。それなのに飲んでしまう」


「なぜなんでしょうか」


「人生が『甘酸辛苦渋』だからよ」


彼女は静かに言った。まるで祈りのように。


「甘いことばかりじゃない。むしろ酸っぱくて、辛くて、苦くて、渋いことばかり。その痛みを、苦しみを、何とか飲み干そうとして、酒を飲む。でも、酒は何も解決してくれない。ただ、一時的に忘れさせてくれるだけ。痛みを麻痺させるだけ。傷は、そこにある」


その言葉が、深く心に残った。石が水面に波紋を作るように。


それでも、古い友人たちと会う時は、居酒屋が多かった。


「お前、本当に飲まないのか?」


「ああ、もう四年になる」


私は二〇二五年の今、六十七歳だった。あのフミヨシとのツーリングから、もう三十二年も経っていた。人生の大半が、過去になっていた。


「偉いな。俺には無理だ」


友人たちは嬉しそうに酒を飲む。私はウーロン茶を飲みながら、それを眺めている。彼らの中にも、本当はやめたいと思っている人がいるのかもしれない。

でも、言えないのだ。人生の苦さから逃れるために、毒だとわかっていても、飲み続けるしかないのだ。

苦痛から逃れるために、別の苦痛を選ぶ。それが人間の矛盾。

不思議なことに、酒を飲まなくなってから、フミヨシのことをよく思い出すようになった。

あの一九九三年から九五年にかけての七賢へのツーリング。HARLEYの重低音。「甘酸辛苦渋」という酒の名前。

すべてが、遠い夢のように感じられた。

ある日、二〇二五年の初夏、私は思い立って、七賢を訪ねることにした。過去を訪ねるように。

平日の昼過ぎ、酒蔵は静かだった。時間が止まっているようだった。


「いらっしゃいませ」


出てきたのは、年配の女性だった。以前の見城さんとは違う人だ。時は全てを変える。


「あの、『甘酸辛苦渋』という酒は、まだありますか?」


「ああ、ございますよ。人気の商品ですから」


女性は奥から瓶を持ってきた。ラベルのデザインは少し変わっていたが、毛筆の文字は同じだった。時を超えて、変わらないものもある。


「一本ください」


「ありがとうございます」


会計を済ませて外に出ると、携帯が鳴った。


「もしもし」


「あ、山田さん? 久しぶり。覚えてる? 古紙回収のフミヨシだけど」


心臓が止まるかと思った。三十年ぶりの声だった。時空が歪んだような感覚。


「フミヨシ? 本当にお前か?」


「ああ、俺だよ。突然かけてごめん」


「いや、いいんだ。どうしたんだ?」


「実はさ、来週、親父の三十回忌なんだ」


私は一瞬、計算した。一九九五年に亡くなったフミヨシの父親。確かに、今年で三十年になる。三十年という時間の重さ。


「そうか、もう三十年か」


「で、思い出したんだ。昔、親父と山田さんと三人で七賢に行こうって話してたじゃん。あれ、やっぱり実現させたいなって」


「お前、まだバイクに乗ってるのか?」


「もちろん。あのHARLEY、まだ現役だぜ。もう三十二年乗ってる。ちょっと古くなったけど、調子はいい。俺の相棒だ」


「俺はもうバイクは持ってないんだ」


「じゃあ、車で来いよ。日曜日、午前十時に七賢で待ち合わせってのはどう?」


「わかった。行く」


「マジで? やった! じゃあ、また連絡する」


電話が切れた後、私は手に持った「甘酸辛苦渋」の瓶を見つめた。

不思議な巡り合わせだった。

一九九三年に初めて訪れた七賢。そして二〇二五年の今、三十二年の時を経て、再びこの地を訪れることになる。

運命という名の円環。



日曜日、私は車で七賢に向かった。六十七歳になった私は、あの頃の面影を残しながらも、すっかり老いていた。

鏡に映る自分が、時々父親に見える。

駐車場に着くと、濃紺のHARLEYが停まっていた。

少し色褪せているが、それが逆に味わいを増している。三十二年の歳月を共にしたバイクだ。

傷も、錆も、すべてが物語になっている。


「オヤジ!」


フミヨシが手を振っていた。彼も五十六歳になっていた。

三十年以上の月日が流れていたが、彼はあまり変わっていなかった。

少し太ったかもしれない。髪に白いものが混じっているが、目の輝きは昔のままだった。あの細い目。あの笑顔。


「久しぶりだな」


「本当に。三十二年ぶりだ」


「もうそんなになるのか」


私たちは握手をした。手のひらに、互いの人生の重さを感じた。


「オヤジも変わんないな」


「お前もだよ」


「嘘つけ。俺、めちゃくちゃ老けたぞ」


フミヨシは笑った。昔と同じ、細い目をさらに細めた笑顔だった。時を超えて変わらないもの。


「中に入ろうか」


酒蔵の中は、昔と変わっていなかった。木の香りと、酒の香りが混ざり合っている。記憶の中の香り。


「『甘酸辛苦渋』、まだあるんだな」


「ああ、人気商品らしい。実は俺、昨日も来て一本買ったんだ」


「マジで? 俺も先週買った」


私たちは顔を見合わせて笑った。三十年の空白が、一瞬で埋まったような気がした。


「親父の仏壇に供えようと思ってさ」


フミヨシが言った。


「親父、この酒、気に入ってたんだ。俺が一九九四年に買ってきた時、『面白い名前だな』って笑ってた。人生が詰まってるなって」


「そうか」


「でも、結局三人では飲めなかった。親父が死んだのは一九九五年。俺たちが初めて七賢に行った、あの年だ」


「ああ」


「人生って、予定通りにいかないもんだな。計画は、いつも途中で変わる」


フミヨシは窓の外を見た。山々が見える。変わらない風景。


「親父が死んでから、会社を継いで、必死だった。バイトも辞めて、古紙回収に専念した。最初は従業員が三人しかいなかったけど、今は十五人になった。毎日が戦いだった」


「すごいじゃないか」


「いや、大変だったよ。何度も潰れそうになった。でも、親父が残してくれた会社だから、絶対に守りたかった。それが親父への答えだと思った」


「結婚は?」


「したよ。五年前に。嫁さんは経理を手伝ってくれてる。子供はいないけど、二人で幸せにやってる。静かな幸せってやつだ」


フミヨシは笑った。


「オヤジは?」


「俺か。再婚はしなかったな。かみさんは十年前に亡くなってな。それからずっと独身だ。独身を楽しんでるよ、ははは」


私は笑った。少し大きめに。無理に明るく。


フミヨシは私の目を見た。何かを見透かすように。でも、何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。


「そうか。自由でいいな」


「まあな。波乱万丈だったけど、今は落ち着いてる。嵐の後の凪のような」


私たちは試飲コーナーで「甘酸辛苦渋」を飲んだ。


あの時と同じ味だった。甘く、酸っぱく、辛く、苦く、渋い。


「やっぱり、この酒は人生だな」


フミヨシが呟いた。


「甘いことばかりじゃない。むしろ、酸っぱくて辛くて苦くて渋いことの方が多い」


「そうだな」


「でも、それでも飲み干すんだよ。人生っていうのは」


フミヨシの言葉に、私は頷いた。


「断酒会で聞いた話を思い出すよ」


私は言った。


「アルコール依存の人たちは、決して喜んで依存してるわけじゃない。むしろ、やめたいって、誰よりも強く思ってる」


「そうなのか」


「アセトアルデヒドっていう毒物なんだ。生物として、本能的に避けるべきもの。それなのに飲んでしまう」


「なぜだ?」


「人生が『甘酸辛苦渋』だからさ。酸っぱくて、辛くて、苦くて、渋いことばかりの人生。その痛みを飲み干そうとして、酒を飲む。毒だとわかっていても。痛みを忘れるために、別の毒を選ぶ」


フミヨシは静かに頷いた。


「でも、酒は何も解決してくれないんだろ?」


「ああ、何も。ただ、一時的に忘れさせてくれるだけだ。目覚めれば、痛みはそこにある」


「だから、オヤジはやめたんだな」


「そうだ。人生の苦さは、酒で誤魔化すんじゃなくて、真正面から飲み干さなきゃいけないって気づいたんだ。逃げずに、受け止める」


アルコールから生成されるアセトアルデヒドは、確かに人間には毒だ。

でも、人はそれでも酒を飲む。苦しみを飲み干すように。痛みを受け入れるように。

そして、依存してしまった人たちは、やめたくてもやめられない。

それは意志の弱さではなく、人生の重さから逃れようとする、人間の切実な叫びなのだ。生きることの痛みが、そうさせる。


「オヤジ、今は酒飲んでないんだろ?」


「ああ、四年前にやめた」


「じゃあ、これは?」


「今日だけは、少しだけ飲もうと思う。お前の親父さんのために。三十年越しの、約束のために」


「ありがとう」


私たちは小さなおちょこに酒を注ぎ合った。液体が光を反射して、きらきらと輝いた。


「親父に、乾杯」


「乾杯」


グラスが触れ合う音が、静かに響いた。鐘の音のように。

甘い。酸っぱい。辛い。苦い。渋い。

五つの味が、順番に舌の上を通り過ぎていく。

それは確かに、人生の味だった。生きることの味だった。

外に出ると、初夏の風が吹いていた。山の香りを運んでくる。


「また来ような」


フミヨシが言った。


「ああ、今度はそう遠くない未来に。三十年も待たずに」


「約束だぞ」


「約束だ」


私たちは再び握手をした。


フミヨシはHARLEYにまたがり、エンジンをかけた。重低音が響く。三十二年前と同じ音。変わらない音。


「じゃあな、オヤジ」


「ああ、気をつけて帰れよ」


HARLEYは音を轟かせながら、山道を下っていった。

その背中が小さくなっていく。やがて、カーブの向こうに消えた。

私は車に乗り込み、バックミラーを見た。そこに映る自分の顔は、少し笑っていた。涙も、少し浮かんでいた。

手元には「甘酸辛苦渋」の瓶がある。

今夜は久しぶりに、ほんの少しだけ、この酒を飲もう。

甘さも、酸っぱさも、辛さも、苦さも、渋さも、全部飲み干そう。

それが人生だから。

それが、生きるということだから。

車を発進させながら、私は思った。

人生は確かに苦いものだ。毒のようなものかもしれない。アセトアルデヒドのように、体を蝕むものかもしれない。

でも、それでも飲み干す価値がある。

なぜなら、その苦さの中に、かすかな甘さがあるから。

その痛みの中に、確かな温もりがあるから。

フミヨシとの再会のように、思いがけない喜びがあるから。

山道を下りながら、私は小さく呟いた。


「ありがとう、フミヨシ」


風が答えるように、木々を揺らした。葉が歌うように、ざわめいた。

夏の空は、どこまでも青かった。果てしなく青かった。

そして、その青さの中に、すべての色が溶けているような気がした。

甘い色も、酸っぱい色も、辛い色も、苦い色も、渋い色も。

人生のすべての色が。

私は車を走らせた。未来へ向かって。過去を胸に抱いて。

風が、優しかった。

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