何にも知らない世界で出逢った、私の友だち
物心ついたばかりの頃のことを、覚えている。
まだ世界のほとんどを知らなくて、何もかもが物珍しかった頃のことを。
蜘蛛の巣に光る水晶のような朝露や、シャボン玉の膜の虹色マーブルの揺らめきにさえ、いちいち心騒いで、ときめいていた頃のことを。
あの頃は「楽しい」や「おもしろい」のハードルが、驚くほどに低かった。
ほんの些細なことが楽しくて、おもしろくて、ずっと飽きずに遊んでいられた。
まるで今とは、世界からして違うみたいに。
私があの子と出逢ったのは、そんな、美しくて素晴らしくて――二度と戻れない世界の中だった。
いつ、どうやって出逢ったのか、最初のはじまりは覚えていない。
気づけばそばにいて、当たり前のように一緒に遊んでいた。
あの頃は、友達のハードルも恐ろしいくらい低かった。
友達を選ぶ・選ばないじゃなく、友達になる・ならないでもなく――気がつけば、もう友達だった。
当たり前のように一緒に遊び、当たり前のように一緒に大きくなり、当たり前のように同じ年に小学校に入学した。
その子が他の友達と何か違うことに気づいたのは、それから何年かしてからだった。
ある学年から、その子だけが私とは違う教室に通いだした。
いろいろな学年がごちゃ混ぜで、人数もずっと少ないその教室は、数字ではなく平仮名の名前で呼ばれていた。
窓や壁には色紙を切り抜いて可愛い動物の飾り付けがされ、教室の隅には畳も置かれていた。
机も少なく広々していて、ちょっと学校らしくない感じがして、数字の名の付いた教室よりずっと居心地が良かった。
私はその子と遊ぶついでに、当たり前のようにその教室に入り浸った。
当たり前のように、その教室の他の子とも遊ぶようになった。
その教室にしかないクイズ本や学習まんがを読みながら畳の上でダラダラ過ごしたり、その教室だけで振る舞われたクリスマス会のお菓子をこっそり分けてもらったりした。
それは私にとって、小学校前から続いてきたつき合いの、当たり前の延長線だった。
だけど、そのうちふと気づいた。
そうして教室をまたいでまでその子と遊んでいたのは、私だけなのだと。
時々、他の友達を誘ったりもしたが、皆あまり乗り気ではなかった。
私を間に置いて一緒に遊びはしても、私を飛び越えてその子と会話することは、ほとんど無かった。
その子と他の友達との間には、得体の知れない“壁”があった。
私はその壁の存在に、まるで気づいていなかった。
その子は“自分たち”とは違うと、皆の目が言っていた。
だけど、私には分からなかった。
その子が私と違うのなんて、当たり前のことだ。
この世界に唯一人だって、私と同じ人間なんていない。
みんな違って、何一つ同じじゃなくて、その違いが大きいか小さいかの差しかない。
それなのに、どうしてそれがそんなに問題なのか――私には、まるで分からなかった。
むしろ『同じなんかじゃない』人間を一括りにまとめて『自分たちはその子と違う』と壁を作る皆の方が、私には薄気味悪く思えた。
人間という生き物は、大概の場合、自分と似た種類の人間としか群れないものらしい。
なるべく自分と差が少ない人間を選んで“仲間”と“そうじゃない人”を区別するものらしい。
教室を飛び越えて交友を築く私を、周りは理解してくれなかった。
理解できない行動に勝手な解釈を付けて“偽善”と侮蔑した。
いい子ぶっている、点数稼ぎ、あるいは馬鹿真面目な優等生……。
そんな周囲の評価に、哀しむよりも、憤るよりも、先ず呆れ果てた。
皆は何も知らない。
何も知らずに、居心地の良い教室で漫画やお菓子を満喫するだけの私に、仮にも“善人”のような評価をつける。
その“見る目の無さ”は滑稽過ぎて“笑える”どころか“可哀想”に思えるほどだった。
人間が人間を見る目なんて、所詮その程度のものなのだ。
実態も知らずに好き勝手な想像をして、恥ずかしいほどの思い違いをする。
私の行動に、善も偽善もありはしなかった。
あったのは、ただ仲の良い友達と普通に遊びたいという、ありふれた欲求だけだった。
他の子たちとの遊びや会話は、学年が上がるごとにどんどん変わっていく。
知らない有名人や流行りモノの話題に、ついて行けない時もある。
だけど、あの子との遊びは激しい変化とは無縁で、安心できた。
考えるよりも先に感情や直感で生きていた幼い頃のように、ただただ「楽しい」や「おもしろい」に身を任せていれば良かった。
きっと私と他の子たちとの違いは、あの子と遊ぶのに慣れていたかどうかだけだ。
あの子と何をして遊べば楽しいか、知っていただけなのだ。
私は自分を博愛主義者だとは思っていない。
あの子と出逢うのがもっと遅かったなら、他の子たちと同じように“壁”を感じていたと思う。
これはきっと、偶々だ。
壁を感じるよりも先にあの子と出逢った――その偶然のタイミングが、私をこういう風にしたのだ。
人間の生き方なんて、案外そんなものなのかも知れない。
生まれ持った資質だけが全てではなく、これまでの人生の道筋で出逢ってきたものたちが、私を“私”にする。
私はきっと、他の子たちよりも幸運だったのだ。
物心ついたばかりの頃のことを、私はよく覚えている。
幼い目に映るあの世界で、“知らないもの”は“心ときめくもの”だった。
知らないものに触れると、世界の秘密を垣間見たかのように、胸が騒いだ。
知らないものを、これから知っていく――そのことに、冒険じみた興奮を覚えた。
知らなかったものを知るたびに、世界が広がっていく気がしていた。
大人になることは、もっと世界が広がることだと、あの頃は信じていた。
だけど、逆だ。
成長するにつれ、“知らないもの”が怖くなる。
知らないものを“得体の知れないもの”“気味が悪いもの”として、壁に閉じ込め遠ざける。
気づけばどんどん壁が増えて、世界が狭苦しくなっていく。
地平の果てまで無限に広がっていくように思えた世界は、いつしか、壁で囲まれた窮屈な迷路になり果てる。
私も、他の子たちと大差は無い。
普通に壁を築き、普通に人を遠ざける。
そのことに、高校生となった今は、もう気づいている。
自分とあまりにタイプの違う人間は、何となく怖い。
髪を染め、派手なメイクをキメた子たちには、気後れして近づけない。
話してみれば案外親しみやすくて、あっさり友人になれるかも知れないのに……一歩を踏み出す勇気が出ない。
この世界には、あまりにも知らないもの、知らない人が多過ぎて、全てを知るには時間も勇気も足りない。
きっと、生きているうちに全ての壁を取り去ることはできないだろう。
幼く美しい世界で出逢ったあの子とは、中学が別になった。
小学校の他の友人たちと同じように、だんだんと会うことが減り、つき合い自体もなくなっていった。
きっと二十歳の集いか何かで再会できたら、はしゃいで駆け寄り、手を叩き合うだろう。
けれど、わざわざ連絡を取り合ってまで会ったりはしない――そんな、特別でもない、ありふれた友人関係。
それでも、幼いあの頃を思い出す時、いつでも浮かぶのは、あの子の姿だ。
今ではもう駐車場になってしまったあの場所は、幼い頃には小さな公園だった。
ブランコとベンチがあるだけの箱庭のようにちっぽけな公園で、空が朱色に染まるまで夢中で遊んだ。
ブランコが高く上がるたびに、茜空に吸い込まれてしまいそうな気がして、この世と異界の境目を行ったり来たりしている気分だった。
あの子も同じ気分だったかは知らない。
だけど、幸福な興奮に満たされたあの時間を、一緒に過ごした――それだけで充分だった。
まだ遊び足りないけど、もう帰らなくちゃ。明日は何して遊ぼう――そんなことばかりで頭を満たしていた、不安や鬱屈と無縁の世界。
楽園というものがあるとしたら、幼い頃に当たり前に居たあの世界こそが、そうだったのかも知れない。
世界が壁で狭くなった今も、時々あの世界を思い出す。
壁の向こうに閉じ込めたもののことを、私はまだちゃんと知らない――そのことを、思い出す。
壁を壊したら、その向こうには広々とした地平が広がっているのかも知れない――それを思うだけで、心がほんのり、窮屈さから解放される。
何にも知らなかったあの世界で、私たちは出逢った。
世界のほとんどを知らなくて、知らないことが“当たり前”だったあの頃に。
何にも知らない目で見る世界は、楽園の美しさだった。
何もかもが新鮮で、特別で、幸福感に満ちていた。
あの愛しい世界には、もう帰れない。
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