097 送りアリス
「――ほっ、と」
「――うぇええ、視界がぐるぐるしたぁ……」
洞穴から異世界を脱出し、喫茶店の窓ガラスから二人揃って飛び出す。
初めての洞窟を使った転移だったが、問題なく成功した。一先ずその事実にホッと胸を撫でおろす。
「今は……五時か、六時ぐらいかな」
ニコは元の姿に戻った一方で、俺はまだアリスの姿のままだから、スマホや時計を持っていないため詳しい時間は分からない。
だが、空模様から察するに今は夜明けの真っ最中らしい。頭上が朝焼けに包まれていた。
「う、うう~ん」
「おいニコ、大丈夫か? なんかぐったりしてるけど」
「へ、変身酔いが来たみたいです……体調激悪ぅ……」
「……変身酔い? なんだそれ?」
初めて聞く単語に首を傾ける。単語から推測するに、変身――この物語の姿になることによる支障のようなもののように聞こえるのだが……
『物語の体に無理やり人間の魂をぶち込んでいる訳だからね。そういう支障が少なからず出てくるもんなのよ』
「……? でも俺はそういうの感じたことないぞ?」
『さあね。運が良いんじゃない?』
「運が良いって……んな適当な」
ニコを介抱しながらアリスのテキトーな言葉にツッコミを入れる。
それにしても体調が悪そうだ。体験したことないから実際どんな感じか分からないが、他人から見れば船酔いの酷い版のように見える。
「うう、執筆ぅ……執筆しないと……うぅ」
「ああほら、無茶しようとするな。なにか飲み物でも買ってくるか?」
「いえ、大丈夫です……むしろ今飲んだら全部吐きます……吐く前提ならオレンジジュースが良いです」
「勘弁してくれ……ん?」
突如、なにやら音楽がくぐもって聞こえてくる。同時にニコのポケットからバイブレーションの振動も伝わって来る。
戦闘時にニコが流している音楽と同じものだと思うが……もしかして、誰かからの着信だろうか?
「ほらニコ、電話。電話が来たぞ。編集長って名前書かれてる」
「ぐわぁ~~~、電光の光が目の奥に刺さる~~~!」
「……こいつはもう駄目だ。ええ……? なにこれ、俺が受け答えしないといけないのか……?」
『無視すれば?』
「テキトーを言う! ええい、仕方ない……!」
電話はちょっと苦手だ。妙な緊張感があるから変に力が入る感じがする。
しかし、今はそんなつべこべ言っていられる場合じゃない。多分相手はニコのお偉いさんだ。何か重要な話の可能性だってある。
俺は勢いに任せて、画面の受信ボタンをタップした。
「……はい、ニコちゃん? 今大丈夫?」
「え~~~っと、すみません。今ニコは対応できないので代わりに受け答えをさせていただいてます、カタルです」
「あら、ニコちゃんのお友達? あらら、ごめんなさいね。こんな朝早くに一緒にいるの?」
「ええ、ちょっとお付き合いがありまして」
「あらあら、そうなの」
ニコのスマホの先から聞こえてきたのは中年ぐらいの女性の声だった。恐らくこの人が編集長らしい。
「部外者が聞いても良い要件でしたら、あとでニコに伝えておきます。よかったら要件をお聞きしても?」
「ええ! 大丈夫よ! ごめんなさいねぇ、ニコちゃんが迷惑をかけちゃって……あ、なんかまるでお母さんみたいなことを言っちゃった。えっと、それで要件なんだけど――」
明るく親しみやすい雰囲気で編集長は語りだす。口にしていいか悩んだので呑み込んだが、まるでニコの親のような感じだった。
「そもそも、ニコちゃんが小説家として活動してるのは知ってる? で、ニコちゃん、ちょーっと執筆のデータの送信が遅いから急いでほしいな~って」
「……オブラートに包んでますね」
「あ、わかる? フフフ、本人だったらそこそこ強めの口調でガミガミ言ってたところなの」
おお、怖え。
語尾にハートマークでも付いてそうなゆったりとした言い方だが裏に力強いナニカを感じる。俗にいう“怒らせてはいけないタイプ”って感じの雰囲気を、ヒシヒシと。
「……じゃあ、ニコに伝えておきます」
「うん、お願いねぇ。カタルちゃん、だっけ? この件もニコちゃんのこともよろしくね。それじゃ~」
「はい、失礼します」
カチャン、とスマホ越しに受話器を置く音が聞こえて通話は途絶えた。
花壇のレンガに座らせていたニコの元に戻ると、少しだけ体調が良くなった様子のニコが俺に手を伸ばして来た。
どうやらスマホを受け取ろうとしているらしい。俺はすぐに手渡した。
「……ホッ、平穏に済んだ……編集長、なんて言ってました?」
「執筆データとやらが遅いから早くしろだってさ」
「ひゃん」
淡々と事実を伝えると、ニコは小さく悲鳴を漏らした。
どうやら普段から遅くて、こんな感じに編集長から催促されているらしい。
「い、一応完成はしてるんですけどね……推敲するかなって思ってまだ送信してないだけなんですが……」
「んじゃあ、待たせてないで早く送ったらどうだ?」
「そうします……うぷ、今日はとてもじゃないけど執筆活動なんてできそうにないですから」
ニコはそう言いながらフラフラと力なく立ち上がったので、慌てて介助に割り込む。身長差があるが、背中に腕を回して体が前のめりにならないように引き起こす。
「えっと……ししょー、迷惑じゃなければなんですけど……」
彼女のことを支えていると、ニコはなにやらモジモジとしながら控えめに提案を口にする。普段のニコにしては珍しい態度だ。別に彼女が図々しいと言いたい訳じゃないのだが。
「? 何を今更遠慮してんのさ。試しに言ってみてくれよ」
「では、その……ウチに来てくれませんか? 道案内するので家まで送って欲しい、です」
……。
…………。
………………。
「……なにぃ――?」
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