074 小さな嘘つき
……朝、だ。
この体は睡眠を必要としないが、形式上の睡眠はできる。目を瞑り、意識を空にして時間の経過を待つ。
時計を見れば活動を開始しようと思っていた七時ぴったりだ。時間ぴったりに目を覚ませられるのは、まるで体に目覚まし時計が組み込まれているような感覚。寝つきも目覚めも悪い以前の自分では考えられない。
「…………」
ぼーっとしながら小型冷蔵庫を開けて水入りのペットボトルを取り出し、キャップを開けて喉に水を流し込む。半分ぐらい残っていた水を一気に飲み干して、そこで今更気がついた。
「…………ぁ、水も食べ物も要らないんだっけ、この体」
『まあね』
「癖は中々抜けないな……」
飲み干したペットボトルをゴミ箱に捨てながら反省の意を込めて呟く。
……そういや、寝起きの口内には雑菌が繁殖していて、口を濯がずに水を飲むことは数グラム程度の糞便と同じ量の菌を摂取するのと同義だ――なんて本当か分からない知識を教わったことがある。
だが、俺にはもう自分の体に気を遣う習慣などとっくの昔に抜け落ちている。
そもそも物語の人物の体に雑菌の概念があるのかすら怪しいところだが、今は他人の体。雑に扱いすぎるとアリスに怒られてしまう。
「……アリス、起きてたんだな」
『それもまあね。寝ることはできるけど状況はなんとなーく感じ取れてるから、アンタが起きた時には私ももう起きてるわよ』
「都合のいい体だこと……なあ、その……少し考えちまったんだけどさ」
『?』
――――あの武装って異世界限定じゃなくて現実でも使えるのか……!?
――――そんなの当然でしょ……ほら、早く開錠しなさいよ。その程度なら軽く叩くだけで開くだろうから。
昨日の夜に交わした会話から少し考察する。
あの魔法じみた武器の召喚とかはてっきり異世界だからできることだと勝手に思い込んでいた。しかし、アリスが言うにはそんなことはなく、実際に俺は金の鍵を召喚することができて、その効力も制限なく発揮できた。
……つまりだ、何が言いたいかというと――
「最悪の場合さ、異世界じゃなくてこの現実世界でも語り手同士で戦えちまうってことか? それと、語り手同士って身近に住んでるのか? 昨日の異世界でさ、ニコって子が俺が異世界入りした場所を知っている様子だったけど」
――――この王国からスポーンしたってことは旭山市住みですよね? えーっとえーっと……はいコレ私の業務用電話番号です! そしてこれが明日の集合場所! あと名刺!
異世界での夜に交わしたニコとの会話を思い出す。
あの子は俺が旭山市から異世界入りしたことを理解している様子だった。つまりニコは隣町を知っている――そして、それを知っているぐらい近辺に住んでいることになるだろう。
『質問が多い。でもまあ、そうね……その辺りもちゃんと話しておこうかな。カタル、ちゃんと聞きなさいよね』
「ああ、ちゃんと聞いてるさ」
『ん……この異世界争奪戦は、現実世界のある程度の範囲内で開催される。参加方法は――』
「……待った、ある程度の範囲ってどれくらいだ?」
『ある程度はある程度よ。今回はこの町と隣町が少なくとも範囲内みたいね。その範囲内の人間の誰かが語り手である可能性を持っている。つまり、語り手同士身近に住んでいるかもってのはあり得る話よ。案外この家の隣に住んでたりして、ね』
「……嫌な話だ」
範囲は曖昧だが、確実にこの町と隣町は範囲内か……その事実はバトルロワイアルが身近なものだと嫌でも認識させられる。
『返答はこれでいい? で、どこまで話したっけ……えっと、物語と現実の人物がリンクする――本契約することで語り手として異世界に参戦できる。ここは話したことあるわよね?』
「ああ。だから俺は戦場は異世界内だけだと思ってたんだよ。でも、やろうと思えばそうじゃないんだろ?」
『……異世界で殺しあう理由の大半は人間の社会的システムね。各地の死亡事故一つすら見逃さず、ある程度の人間に情報を共有する――そのシステムはバトルロワイアルと相性が悪い。だからみんな異世界で殺し合いをしているんだと私は考察しているけど――』
「本題はそこじゃない。どうなんだ。できるのか、できないのか」
『…………できるわ』
嫌な感覚がする。なんだ、異世界だけじゃなくてこの住んでいる町すら、知らず知らずに戦火に呑まれているってことか。
少なくとも自分の住んでいる場所には愛着っぽいものがある。そこが殺し合いの場所にされるのは良い気分ではない。明日には知ってる誰かが殺し合いに巻き込まれてしまう可能性だってある。
「……それだけは、止めたい」
『カタル?』
「なんでも……ない。わかった。気をつけるよ……異世界じゃなくても殺し合いは起こるんだって、覚えておく」
『……なんか、アンタが急に理解良く納得する時って不気味なのよね。何かを我慢してるって言うか、押し殺してる感じがするっていうか――』
何を分かったようなことを言っているんだ。
そう反論しようと口を開いたその時――
「――カタル、起きているんでしょ?」
コンコンコン、と戸を叩く音が聞こえて身が引き締まるのを感じた。
今の声は母さんの声だ。そして今この姿を見られるのは、大変マズい。姿も声も隠し通さなければ――
「ッ……!」
慌てて布団を覆い被る。全身を隠すように布団を被って少し経ったぐらいに、ガチャリと小さく戸が開かれた。多分だけど母さんが覗き見ている。
「…………今日は調子、悪いの?」
……沈黙で答える。別に精神的に調子が悪くなって寝込むのは珍しいことじゃないから、母さんの理解は早かった。
「……そっか。朝食、リビングにラップして置いてあるから、元気があったら食べてね」
「…………」
「じゃあ、母さん仕事だから……その、行ってくるね」
「……」
ガチャン、と戸が閉められる。
簡素な会話は終わって部屋が再び静まり返った。
『……珍しくないの? こういうやり取りって』
「まあ、な。少し前まではよく寝込んでた」
『そう。人が寝込んでいるのに、妙にお母さんの納得が早いなって思ったけど……日常茶飯事なのね。だから早いのか』
「何が言いたいんだよ」
『いえ……ちょっと寂しいわねって思っただけ』
寂しい、か。確かにこういう関係は普通の家庭とは違って歪んでいるのかもしれない。でも精神疾患持ちに対しては適切な対処だと思うし、実際俺も変に気を遣われるよりかは距離を置いてくれた方が気が少し楽だったりする。
「……こういうところは、簡単には変わらないよな」
以前、少しだけ関係の歪みを理解して正せたと思ったが、まだまだ歪みは平然な顔をして家族との日常に身を潜めているみたいだった。




