3.おいしい女の子と二人きり
「えっ?」
いきなりの「麻婆さん」呼びに驚いて、思わず少女は反応してしまった。あたかも自分が麻婆さんであるかのように振る舞っている自分に後から少し笑えてくる。
「とりあえず、椅子だけ僕の部屋から持ってきて、それで食べるとかどうかな?」
「う、うん、いいと思うよ」
麻婆豆腐への呼びかけなのに自分が反応しても良いのだろうかという困惑を抱えつつ、少女は二つ返事で了承した。――この言動が彼の世界観に侵食的でないと良いけど。
繋は足早に自分の部屋へと戻っていく。椅子を抱えると、すぐに少女の部屋へと帰ってきた。軽々椅子を持ち上げる繫の姿にたくましさを覚えながら、少女は料理の用意された机の上を見つめる。
そして椅子が少女の席の真横に置かれる。
「……ああ、そっか」
この机は一人で使うことを想定されているため、奥行きがあまりない。ゆえに無理に二人で使うとなると、屋台やカウンターのごとく横並びでということになるのだが。
(これ、すごく距離が近くない……?)
第一、一人暮らしの部屋に会食用の設備などあるわけがない。当然の帰結なのだった。デリバリーサービス(直球)にでもしておけば良かったと少し思う。――いや、距離が近いのは別に悪いことではない、私が勝手に恥ずかしがっているだけか。
少女は意を決して使い慣れた椅子に腰掛けた。一方の繫は棒立ちである。
「えっと、お座りください?」
「失礼します」
なんだか就職活動の面接みたいになってしまった。
「すごくおいしそうだ、麻婆さん、料理できるんだね」
「へっ?」
――日本語の使い方を間違えていますよ。繫くん。麻婆さんは「料理されることができる」ですよ。
「ああ、私の好きな料理なんだ」
「好きこそものの上手なれってことかな」
とりあえず会話は成立しているようだ。
「いただきます」
自分の料理を他の人に食べてもらうということが、案外緊張するのだということに気付かされる。固唾を呑んで繋のスプーンに視線を向けた。
スプーンが繫の顔にまで近づくと、お互いの距離の近さが意識されて恥ずかしく感じた。
「うん、すごくおいしい!麻婆さん!」
少女はほっと肩をなでおろした。こういうときに料理にさん付けまでしてもらえると頑張って作った甲斐があるというものだ。
「良かった、喜んでもらえて」
それでは自分も失礼……として麻婆豆腐の入った大皿のれんげを手にとる。
――ちょっと待てよ?
そこで少女はいつもの一人飯の感覚で大皿で料理を提供していたことに気が付く。
「……これって取り分けてからお出しするものだったかな、一般的には」
「え、ああ、別にこれでもいいんじゃないかな?ほら、同じ釜の飯を食う的な感じで」
「そ、そっか……」
別に唾液交換が発生しているわけではないのだが、少女はなんだか気分的にムラムラしていた。間違えた。モヤモヤしていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「いやー、おいしかったよ、麻婆豆腐」
「!?」
少女は見逃さなかった。あの繫が、麻婆豆腐を呼び捨てにしたのを。
「あっ……」
繫は気が付いてしまった。敢えて今まで触れないようにしていたのに、うっかり料理名を自分が言ってしまったということに。
……そう、これを言ってしまうとなんだか共食いみたいな感じになってしまうのだ。――笑うなよー、絶対笑うなよー!!
ここで、かの名門女子校にも通う優秀な頭脳と優れた観察眼の持ち主である少女は気づく。
(もしかして、麻婆豆腐が私の名前だと勘違いしている!?)
――いや、でもそうだろう。別に食べ物にさん付けしちゃう系男子にも特に見えないし、だとしてもさっきさん付けにしなかったのもおかしい。おまけに「名前を言ってはいけないあの料理」といったごとくに、(さん付けなしプレーン)「麻婆豆腐」を口から発した瞬間にどことなく場に緊張感が生まれた気がする。
これらの状況から察するに……そして、私の取るべき行動は……
「優(自分の名前)わぁあ、お料理得意なんだぁ~!!」
それとなく()教える!!
――いや、よく考えたら後に続く言葉まで頭弱そうな雰囲気を纏う必要はなかった。
とにかく、これでそれとなく伝われば……
――ダメだ、これ、恥ずかしすぎる。
そう思って真っ赤になった彼女は机にそのまま突っ伏した。
突然出てきたぶりっ子的発言を聞いて、繋は首をひねる。
何か、情報がすっぽりと抜けている。自分が重大な勘違いをしている気がして、一歩立ち止まる。
……そして、とんでもない自分の勘違いに気付いたのだった。
「麻婆豆腐って名字だったの!?」
失礼だと分かっていながら思わず繋は口に出してしまう。
「違うわ!!」
――
「す、すると、お名前は、羽衣優さんということで……」
「はい……」
気恥ずかしく答える優は、自分に落ち度があっただろうかと内省する。――断言するが、やっぱりない。なのに、こんな恥ずかしい思いを自分はさせられている。――いや、やっぱりあったかも……
ちょっとは気を回しておかしなことを察してほしかったなあと思いつつ、どこか思いつめたような表情になっていく繋を見る。その硬直ぶりがシュールだったので、優もなんだか気が緩んだ。
「ということは、わざわざ僕の勘違いをほのめかすためだけに、あんなぶりっ子みたいなことをさせてしまったのか……」
「私が何か取り返しのつかないことをしてしまったみたいに言うのやめてもらえない!?」
……そこまで気を回せとは言ってない。
「と、とにかく、ごちそうさまでした、おいしかったです、麻婆豆腐」
そう言いながら優に手を合わせる繋はあたかも「麻婆豆腐さん」を崇拝しているように見えた。なんだかやりきれない気分だ。
「なんか、それだとやっぱり私が麻婆豆腐さんみたいになってない?」
「おいしかったです、優」
「そ、その言い方はちょっと、誤解の余地があるといいますか……」
繋は無邪気に首を傾げた。
「ああ、ごめんなさい、なんだか麻婆豆腐に引っ張られて呼び捨てしているみたいになってますよね、一般的には親しい仲でしかそういう呼び方はしないものですよね」
「うん、まあ、そういうことじゃないんだけどね……」
また繋はあどけない表情を浮かべながら首を傾げたので、もう優は極力気にしないことにした。
「ええと、それじゃあ、羽衣さんと……」
「別に、そんな堅くなくとも、優でいいよ」
「分かりました、優ちゃん」
優は突然キャッチーな呼びかけを受けて驚いた。しかも、前に混入した敬語も相まって妙な違和感を醸し出す。