後編
仕事が一段落し、僕に休暇を取る余裕が出来ると、二人は都会を離れた観光地へ旅行をすることにした。秋と言うにはまだ早い時期だが、街路樹はチラホラと赤身を帯びてきている。もう2ヶ月もすれば見頃なのだろうな。その頃、また来られるかな。
「ねぇねぇ、これ買わない!?」
恵美が明朗な声をあげながら見せてきたのはディケイドパズルというものだ。何やら、一人でやると完成するのに10年はかかるジグソーパズルらしい。ただ、これを恋人と二人で協力して完成させると、その二人は永遠に結ばれると言われているようだ。
「良いね。二人で完成させてみようか。」
自分でも信じられない。以前の僕ならこんなくだらないもの興味を持たないか、一人で1ヶ月くらいで完成させていたはずなのに。恵美が笑ってくれるこの瞬間をぶち壊したくない、そんな願いが自然と湧き出た。
自宅に着くと、恵美は早速ディケイドパズルに取り組んだ。どうやら彼女はこういったパズル系は苦手らしい。
「そんなに急いで完成させなくても良いだろ。ゆっくりやりなよ。」
「良いの。早く完成させたいの。ヒトも手伝ってよホラ。」
僕が一人でやれば1ヶ月で出来るパズル。彼女と協力する事でその効率は愕然と下がる。だけど、そんな事は良い。ゆっくりと踏み出される一歩一歩に足並みを揃えて、手を取り合って歩いていく道、そんな道の先にあるものが見てみたい。そんな気分だった。
それから3ヶ月が過ぎた頃、その日僕らは二人で買い物に街に出ていた。それは突然やってきた。僕にとっては漸くと言ったところか。恵美が服を選ぶ間、僕の携帯に一通のメールが入った。
From 国光依舞
久し振り。依舞だけど、まだ覚えてる?良かったら会って話さない?
依舞からのメールだ。わざわざ会わなくても、彼女に何が起こったか、僕にはすぐに解った。
「ねぇ、こっちとこっち、どっちが良いかな?」
「恵美ならどっちも似合うと思うよ。」
僕は恵美に気持ちの高揚を悟られないように依舞に後日食事の約束を伝える返事をした。
約束の日はすぐにやってきた。僕は久し振りの再開に少し緊張していた。待ち合わせの場所に着くと、既に依舞の姿が見えた。いつだってそう、あいつは待ち合わせよりも早く着く。相変わらずだな。僕は二粒のタブレットを口にし、依舞の元へと駆け寄る。
「久し振り、依舞。待たせてゴメン。」
「久し振りだね。ヒト、あんまり変わりないね。」
僕らはぎこちない挨拶を交わすと、あの時のレストランへと足を運んだ。会話すればするほど、二人の距離が一秒一秒縮まっていく。あの頃レストランで交わした会話がまるで二時間前の事のようだ。
「ホント、ヒトの言う通りだった。あれからロクなことが無かった。」
「そうか、僕の予想は完璧だったな。そしてお前は戻ってきた。ただ…。」
「ただ…?」
僕は言葉に詰まった。言いたいことははっきりしていた。まさかの誤算が起こったということ。僕は依舞に今すぐに戻ってこいと言い切れない。僕の心に迷いが生じている。これ以上依舞に話を続けてほしくないが、やはりそれは免れ得ないようだ。
「ヒト…、私が一人ぼっちになったら迎えに来てくれるって言ってたよね?覚えてる?」
「あぁ…、覚えてるよ。」
「…。」
「…。」
店のざわめきに溶け込まない沈黙が胸に痛む。やはり僕から話さなければならないのか。
「あのさ、少し考えさせてくれないか?」
「え?」
「僕には今、恋人が居る。その娘と話をつけなくてはいけないから。」
「あぁ、そうだよね。私は待ってるから。今度会う時にまた話そ。」
辛うじてその場を凌いだ。これ以上の回避策は見つからなかった。すぐに決断が下せない僕の姿を見て、流石の依舞も勘づいたかもしれない。それでも突き放すよりは十分マシだ。早くこの気持ちにケリをつけなければ。
僕は部屋に戻るとベッドに横たわり自問自答を繰り返した。今僕が守るべきものは何か。約束とは何か。裏切りとは。僕には何かを得るために何かを捨てることが出来るのか。そのリスクとリターンの対比は。
「ねぇ〜、何処行くの?」
「…。」
気が付くと僕は何も決断できないまま、また恵美と会っていた。
「…私、水族館行きたいな。」
「…。」
「…。」
「恵美、僕の事好きか?」
「えっ!?いきなり何?私の質問無視?」
やってしまった。恋人同士で一番してはいけない質問だ。そこに何の意味もない、ただ自分の不安を取り除きたいだけのエゴイズムな質問だ。それを何故僕はこのタイミングで。僕は何を考えているんだ。どうして良いか解らない状況で頭だけが混乱している。
「そりゃあ、好きじゃなかったら一緒に居ないでしょ、普通。」
「…。」
「ね、ねぇ、笑ってよ。怖いよ。」
「僕はな、お前の言う普通って言葉が大嫌いなんだ。お前は誰と付き合っているんだ?そこら辺に居る不特定の一般的な男Aさんか?僕は僕だ!どうして僕を見ない!?どうして僕を愛さない!?誰でも良いならそこら辺の奴と何処へでも行け!!」
僕は何を苛ついているんだ。誰でも良いと思っていたのは僕の方じゃないか。何様のつもりだ僕は。また僕は目の前に居る女に泣き出しそうな顔をさせてしまった。
「ご、ごめん…。私そんなつもりじゃ…。」
「僕の方こそ言い過ぎた。今日は家で休まないか?」
僕らは初めて出会った時を思い出す様なぎこちない雰囲気を保ったまま恵美の部屋に向かった。
部屋に入ると、お互いが黙り込み、相手が口を開くのを催促するように意味のない仕草を見せつけていた。食器棚の上には未完成のディケイドパズルがあり、その周りには僕がプレゼントした小物が綺麗に並べられている。写真立ての中には僕と恵美の笑顔が飾られていて、そこに手書きで『二人の思い出』と書かれていた。僕は徐に立ち上がり、その写真を手に取った。
「思い出…か。」
「うん、私とヒトの思い出。他にもいっぱいあるよ。」
思い出。僕と恵美の思い出。僕の心に落ち葉のように積もった恵美との思い出。しかし、それを掻き分けると、心の奥底に見えてくるのは依舞との思い出。いつか行きたいと思っていた旅行。そのプランの中で笑っているのはやはり依舞。やり残した数々の計画。依舞と叶えたかった夢。僕が一生守りたいと思った人。香りが違う、言葉が違う、癖が違う。依舞になりきれない恵美。僕には依舞が…。
その瞬間、僕を取り巻いていた悪しき恋のスパイラルが静かにほどけ、一本の糸となり僕を導いた。
「恵美、悪いが別れの時間だ。僕は戻らなければいけない。もう二度と会うこともないだろう。さよならだ。」
「え!?何言ってるの!?」
「お前の役目は終わった。別れてくれ、そういう事だ。」
恵美は別れの意味を理解した途端、泣いているのか怒っているのか解らないような喚き声をあげ、僕をひき止めようとした。だが、その声は僕には一切届かなかった。
「だって…、パズルはどうするの…?一緒に完成させるって…約束したじゃない…。」
僕はパズルに歩み寄ると、それを手に取り真っ二つに蹴り折った。バラバラになったピースが細かな音を立て床に飛び散った。
「これで良いだろ?」
僕は背を向けたまま恵美の方を振り向けなかった。どんな顔をしているか大体想像がついたからだ。
「だって…だって…、この部屋には…ヒトとの…思い出が…いっぱい…。」
僕は思い当たる限りの僕との思い出の品をゴミ袋に放り込み、窓から投げ捨てた。
「これでもう思い出なんてない!じゃあな!」
僕は恵美の方を振り向くことが出来ないままドアを出ようとした。その瞬間。
「私、ヒト無しじゃ生きていけない!!」
「じゃあ、死ね!!」
僕はその時初めて恵美の方を振り向いた。僕の視界に入ってきた恵美の姿は忘れられない。グシャグシャになった髪、涙で赤くなった瞳、床に這いつくばったように押し付けられた細い指。何もかもが惨めすぎた。だが、僕は歩みを止めることなく部屋を出た。そしてすぐに携帯を取り出し依舞に電話を架けた。
「依舞か?待ってろ、今からお前を迎えに行く。また二人で新しい恋を始めよう。今度こそ幸せになるんだ!」
その後僕と依舞は関係を戻し、これまで以上に深い信頼で結ばれる事になった。僕は自分の愛を守り通すことが出来た。時を同じくして、都内のアパートで20代の女性が首を吊り自殺したというニュースが流れたようだが、その話の詳細が僕の耳に入ることはなかった。