ふんわりとテキトウないじめ
私は今、小学五年生のときの事を思い出しています。私、つまり橘理桜は五年三組、出席罰番号二十二番。先生は椎名桃花、女性の先生でした。
この文章を読んでいる人たちが、小学生以上の人なのか、以下なのか。二十歳以上の人なのか、以下なのか。はたまた年配の人なのか人生経験をこれから積んでいく人なのか。私に把握することは不可能です。ですが皆に共通する。
小学生以下の人たちはこれから経験するかもしれない。学生や大人の人は既に経験したかも、これから更に起こるかもしれない。他人と接している限り、起こらないと断言することも起こると断言することも私はできません。そんな『いじめ』について、あなたはどう思いますか。
あの日あの頃、私は常に傍観者でいたかった、そう出来るなら。ただ、私の沸点は多分低すぎないが、高い方でもないと思います。まだ小学生、関わらないようにと考えてその通り動けるほど賢い子供じゃあない。もちろんその子のために動いて自分に被害が及ぶかもしれないという考えにも至らないほど、愚かな子供でもありませんでしたが。
中休み、教室にいる人は、いくつかのグループに別れ遊んでいました。わたしは机で本を読み、時々ただ何となく教室の中を見回し、行きたくなったらトイレに行きました。
そんな中休み、たったの二十五分の時間、いつもその言葉は聞こえます。
「きゃぁーー!」
先の文で言った、いじめっていうのは今叫んでいる方じゃなく、叫ばれている方。叫んでいるのはクラスの女子、叫ばれているのは須田友智さん。須田さんはサクラ級(みんなと一緒に授業するにあたって少し問題のある子が集められる教室)に居そうな子だと、失礼だが初めは私も思いました。それがあって、みんなは彼が近づくたびに離れ、彼が手をついた机を『菌が移る』などと言い、露骨に嫌そうにしていました。
でも、分かるでしょう、数日同じ教室にいたのなら。須田さんが勉強に遅れていないことも、噂の事を見かけないことも、受け答えが出来ることも、皆知っているはずなのに。
その光景を目にするたび、私はとてもイラつく。だから、ハァ、と私は小さくため息をつきました。
「たっちゃん、絵見せて」
ふと声をかけられて、字を追う視線を上げます。たっちゃんっていうのは私のあだ名で、そう呼ぶのは高里美鈴ちゃん。私とそこそこ仲がいい子です。もう一人、私とそこそこ仲がいい、志那海咲菜香ちゃんも来ていたので、イラついた気分を抑えて返事をしました。
「……いいよ」
私は絵を描くことが得意なので、自由帳に描いた絵を二人に見せます。たいていの場合、そうして意識を声から背け続けていました。
「このビブスはヤだなぁ」
でもそうしていられるのがずっとじゃない。休み時間で無いところでも似た光景が見られた日。
それは体育で、チームを見分けるビブスを着ていたときでした。
須田さんが持っていたビブスを、同じチームの全ての人が避けて着ていたのです。
「椎名先生、ちょっといいですか」
その日の給食時間、私は自分が見たことを先生に報告しました。
行動力の無い私は、先生に何かしてもらうことが自分にとって一番近道だと思っていたからです。改善されることを祈って。
後日朝の時間を使って、須田さんが避けられている話は先生によりクラスの全生徒に伝えられ、今後気を付ける様にとそう言われました。
次の日も、次の週も、状況が変わったことと言えば、先生の前で露骨にしなくなったという一点のみでした。
ある日、私は咲菜香ちゃんに聞きました。なんで、須賀さんを避けるの、理由があるの?と。
「みんながやっているから。何故かはわからないけど……」
帰ってきたその言葉に愕然としました。意味がなかった行動を、人を気付付けているかもしれない行動を、ただ、人に流されてやっているだけだったから。
何故とそう、いつも思った。何故一人を貶めるのか。私も子供だ、分からない訳じゃない。
テレビの中の大人とか、周囲の大人とか、お話の中の大人とか、時々言っていませんか?『なんで子供たちの間でいじめが起こるんだ?』と。
私は大きく分けて二種類あると思いました。
一つは、いじめている子に対して、いじめるに相応の理由がある場合。何か気に入らないこと、納得できないことがあるのなら、そうしてしまうことは仕方が無いのではないかとそう思います。結局自己満足と言われるような理由かもしれませんが、その人にとって、大切な事なんでしょう。
二つ目は、友達や知り合いに流されて意味も分からないけれどやってしまう場合。私のクラスの大半は、恐らくこれでした。私が思うに、最低の場合です。気まぐれで傷つけ貶めていいほど、人に個人差は無いと思うからです。
周りの大人はこう言いました。自分の子供のクラスにいじめが起こっているのを知って『首を突っ込むのはやめなさい』と。
なんで、とその時思います。阿呆なのか、大人はと。
私の場合、私が不快だった。正義感なんて欠片も無く、ただただ不快で、周りがうるさく、自分の事に集中出来なかったから。
仲のいい友達の場合、庇いたくもなるでしょう。守りたくもなるでしょう。
正義感だけで動いてしまう子もいるでしょう。
それの何がダメなんですか?経験をして、私たち子供は成長します。いじめに関わるという経験を要らない子なら、最初から首を突っ込んではいないのだから。僅かでもそのいじめを解決しようという意思があるのなら、その希望を頭から潰そうとする人はとても酷い。子供の成長を見守ってください。勿論、助言をもらえると私たちは助かります。私も、その助言に耳を傾けたいです。危ないと思ったら、止めてください。多少の危険に首を突っ込んだならば、責任はいじめた側と突っ込んだ側にあります。そうなることを前提として。
傍観者に言いたいことは二つ。
一つは、助けなくても、必ずしも責が自分に来ることは無いだろうということ。いじめが校内で起きた時点で、一番の責は先生にもあり、それ以外で起きたなら、把握しなかった、出来なかった親にも責はあるのだから。一つは、いじめに関わらなかったり、いじめられている人を庇ったところで悪にはならないが、いじめに加担した時点で悪に成り下がること。決してそうなってはいけないと思ってほしいです。
いじめていると、自覚している人に言いたいことは二つ。
一つは、なぜ自分がそれをしているのか考えること。理由があるのなら、すぐに改善することは難しいでしょう。けれど、前述の後者、流されている方だったらすぐに変えることが出来ると思います。理由が無い故。何の理由もなしに虐げられる人の気持ちを考えてみてください。一つは、恐らくやめた方が、結果的に事態はいい方に傾くのではないかということ。まず相手がいじめられている理由を知っているのかどうか、そこから知り始めたらいいと思います。
そして、いじめられていると自覚している人にも、言いたいことが二つ。
一つは、何とかして、自分がいじめられている理由を、探すことが事態の進展に繋がるだろうということ。それを知り、自分で改善するよう心がければ、相手も納得しやめてくれるかもしれません。謝って、二度としないと言えば身を引いてくれるかもしれません。そうならずとも、まずは知ることです。それから考えましょう。一つは、味方は、自分の方に多くいること。一生懸命に訴え、実際の事を伝えれば、先生や親は被害者に付くでしょう。その後も続けば、さらに大きな力を以て、無くせばいいのです。この状況を何とかしてほしいと願ったところで動いてくれる神はいません。結局動けるのは自分だけなのです。
最終的に、五年三組でのいじめ騒動はぱったりと無くなりました。
椎名先生に私が誰々がこうして、あの時はこうでと色々言った結果学級会が開かれ、一限分の時間を使った話し合いの結果、冒頭のような様子は見られなくなりました。
何故かは明白、いじめをやめる機会を失っていた人たちが一斉にやめたからです。『鼻をほじっている』や、『指を舐めている』といったイメージだけのうわさが飛び交い、流され続けてしまった人たちが『先生に言われたから』という大義名分を得、やめることが出来たのです。ふんわりとテキトウに、それでも五年三組を覆ったいじめは、終わったのです。
この文は、一つの出来事から私が思い、考えたものを書き連ねただけのもの。本当かどうかなど、私にもわからない。いわば、私の価値観が詰まった文章でした。
それでもこれを読み、何か考えてくれた人がいたなら。これをもとに、自分の価値観、考えを育ててくれた人がいたなら。それに勝る喜びはありません。