I
朝寝坊をした。
遅刻はしなかったとはいえ、目覚ましが鳴ってから三〇分も起床することができなかった。同時刻に起きる才華がぼくの部屋の扉をノックしても目を覚まさず、しまいにはおばさんに起こされてしまった。普段寝坊しないので、体調不良を心配されてしまったものだから恥ずかしい。
昨晩、布団の中でいろいろと悩みすぎたせいだ。
マリーこと麻里亜さんに対してどのように返答すればいいのか、考えていたら眠れなくなった。時間があることはわかっているのだけれど、面と向かって告白されたことなどないぼくにしてみれば、思い出すだけでも覚醒してしまう。目が覚めていると、彼女のことを考えなくてはならなくなる。
悪循環の果てに、定刻に起きられなくなった。
下駄箱に手を掛けると、また、どきりとしてしまう。手紙が入っていた様子が鮮明に思い出される。あのときの感覚が再生されているかのように。
まさか二日連続で手紙が入っているはずもなく、何の変哲もない、使い慣れた下駄箱である。革靴と室内シューズを入れ替えると、靴紐がほどけていた。欠伸をしつつ、膝を折って靴紐に手を伸ばす。
「ごめん」
後頭部に声を投げかけられて、はっと振り返る。
「通してくれないかな。それか、手を貸してもらえると」
そこには、松葉杖をついた丸刈りの男子生徒。ぼくに向かって、申し訳なさそうな顔色だ。
慌てて立ち上がる。歩行に不自由している彼の通り道を塞いでしまっていたのだ。「ありがとう」と言って、彼は杖をかつかつと鳴らしながらふらふらと廊下を進んでいった。近くを通りかかった友人らしき生徒に声をかけられ、荷物を持ってもらったり、階段を上る補助をしてもらったりしている。
彼は確か、隣のクラス、C組の野球部員の渡瀬くんだ。先週から松葉杖をついて通学している。噂程度でしか聞いていないが、練習中の事故ではなく、自転車で下校中に道に飛びだしてきた小学生を避けようとして転倒してしまったとのこと。災難だった。
それにしても、彼が歩けば当然杖の音が響いていたはずだ。彼の通行に気がつかないなんて、ぼくはどれだけ眠く、また頭いっぱいに思い悩んでいたのか。
マリーには失礼かもしれないけれど、女の子から告白されてこれほどまで余裕を失くしてしまうとは、なんだか恰好悪い気がしてきた。正直、もっと余裕を持って接することができたなら、と思う。これでは、男女交際の経験がありません、と自他にアピールしているようなものではないか。
マリーにも、この焦りが伝わってしまっていたのかな。
はあ、と長い息を吐いて、ほどけた紐を直した。
「遅めのお出ましだな」
B組の教室に足を踏み入れると、平馬からちょっかいをかけられた。彼の朝は早い。部活の朝練がある生徒を除けば、平馬が学年で一番に登校していることもしょっちゅうあるという。
自転車で三〇分弱かけて登校する平馬に比べ、下宿であるおばさんの家から天保高校まではたった徒歩一〇分の距離である。朝礼ギリギリの登校は、ちょっと恥ずかしい。
「下駄箱にチョコレートでも入っていたか?」
手紙なら入っていたよ、間の悪い冗談だね。
平馬梓のジョークがバレンタイン仕様になるとは意外な気もする。どちらかといえば堅物で、他者に流されない独特の感覚を持つ彼だから、商業主義の産み落としたイベントにも関心はなさそうに思われる。しかし、よく考えたら、いや、よく考えなくとも、彼はバレンタインデーを楽しむ側であった。
「平馬は、きのうはどうだったの?」
彼はC組の江里口穂波と交際関係にある。
「そうだな、例年通りそれなりに。『お納めください』と渡された」
え、そういう渡し方が流行りなの?
彼と彼女の交際はどこか不思議なところがある。サバサバしているような、べったりしているような。ふたりでジョークの感覚がよく合っているのだろう。笑いを含め、自分と感覚の合う人と親しくできるのは幸せなことだ。
総括すれば、ふたりは残念ながら見事なバカップルだ。ふざけ合いながらチョコレートをやり取りするくらいだし、江里口さんは「義理チョコを廃止した」と語っていた。大人びたカップルのようで、その実排他的に楽しんでいる節がある。
「平馬……は」
危ないところで「平馬も」と言わずに済んだ。
「江里口さんから下駄箱にチョコを入れられたりしたの?」
「ああ、去年あったよ」
平馬と江里口さんが付き合いだしたのは、昨年度、中学三年の夏だという。だから、今年は二度目のバレンタインである。
「すでに付き合っていたからどうでもよかったんだが、穂波が『それっぽいこと』をやりたかったらしくて。チョコレートではなくて、手紙を入れられた。呼びだして、それから直接チョコレートを渡す、とな」
それはつまり、マリーと同じ作戦だ。どうしてこう、重なる面が多いのか。
「だが、『もうやめよう』と話した」
「え、どうして?」
「あいつ、手紙に差出人の名前を書き忘れたんだ。穂波の字だとわかったからよかったものの、予告もなかったから気味が悪くて。おかげで喧嘩になりかけた」
ああ、それは、中止が適切な対応だ。
ところで、その「作戦」を聞くと、思い出すことがある。きのう、ぼくがマリーに呼びだされている裏で、同様の作戦が江里口さんのプロデュースと、間接的なぼくの協力によって実行されていたはずだからだ。その内容は、平馬のエピソードのそれとまったく同じである。
その作戦の首尾について、ぼくはまだ聞かされていない。平馬なら顛末を聞かされているだろうから、訊いてみようと思ったのだ。
けれども、その必要はなかった。
「久米くん、少しいいか?」
C組から、プロデューサーがやって来たのだ。
「おはよう、江里口さん。きのうの結果は――」
振り返って彼女の表情を見て、訊きかけていたことを引っ込めた。
脱力した、絶えず嘆息しているかのような息遣い。わずかばかり目が充血し、眠そうにとろんとしている。がっくりと肩を落とし、身体の重心が左に傾いたような佇まい。
疲れ、を典型的に示していた。
「放課後に時間がくれないか? 家入に話がしたい」
作戦の結果は、あえて問うまでもない。
良いか、悪いか、というより――面倒なことになったのだ。