IV
「た、ただいま……」
物音を立てないよう注意深く靴を脱ぎ、そろりと玄関から家に上がる。
悪いことをしたわけではない。一歳年下の女の子と会って、バレンタインデーに当たり前のやり取りがあっただけだ。あれからついつい一時間も野球の話題で盛り上がってしまったけれど、帰宅時間としては、普段将棋部で対局して帰るのと大差ない。
でも、何となくこそこそとしていたほうがいい気がする。鞄に入っているチョコレートを、早く自室の安全なところに置かなくてはならない。誰に見つかるとか、そういう心配をしているわけではないのだけれど。
「おかえり、弥」
警戒した通りになってしまった。
階段から降りてきた同居人、スウェット姿の才華と鉢合わせてしまう。
「あ、ああ、ただいま。留学の用事、意外と早く済んだんだね」
「うん、数分で済む用事だったから。それより何、ぎょっとしちゃって」
早速の窮地である。冷や汗か脂汗かわからないけれど、季節に似つかわしくない発汗の感覚を額に覚える。才華はすでに、ぼくに後ろ暗いところがあると察知してしまったらしい。両手をポケットに突っ込んで、訝しがる視線だ。優れた推理力を持つ彼女から、ぼくはどうやって逃れられようか。
いや、逃げる必要なんてないはずだ。焦る理由もない。ぼくが勝手に後ろめたさを感じているのだから。
「それで、あの子の名前はわかったの?」
「え」
きょう何度目かの、胸から心臓が零れ落ちるような刺激。
焦りはいよいよ本物になる。ただ何となく内緒にしていたいだけなら大したことはなかった。しかし、見られたていた、知られていたのならとんでもないことだ。
「才華、話を聞いていたの?」
「言ったでしょ、用事は早く済んだって。それで、ラウンジを通りかかったら弥が知らない女の子と話していたの」
「盗み聞きは趣味が悪いよ!」
「わたしはたまたまラウンジに来ただけ。そしたらたまたま弥がいて、たまたま話し込んでいるのが聞こえただけ。だから気になったの。それとも、何かやましいことでも?」
「…………」
才華の口から「気になる」という言葉が出てしまったからには、観念するしかない。彼女のそのスイッチが入ってしまったら、変に止めようとすると機嫌を悪くさせてしまう。ぼくが隠そうとしたせいか、すでに虫の居所が悪いようで、彼女は階段の手すりに寄り掛かってぼくの行く手を阻んでいる。
この際、才華の推理力で以てマリーの本名を知るつもりで、思い切ったほうがいい。
「茂木麻里亜さん。これがあの子の本名だよ」
マリーとの歓談ののち、下校時刻までは余裕があったので、こっそりと中等部三年生の教室を見て回った。高等部と中等部の校舎は分かれていないから、探索は容易だ。教室には座席の位置や提出物の管理のために、ひとつくらいは名簿がある。学級の生徒の名前を調べることも難しくなかった。
「『Mの三乗』が名前の一部をアルファベットで短縮して書いたものだとは察しがついた。だから、名前と苗字のイニシャルが両方とも『M』になって、なおかつ『マリー』がニックネームになりそうな生徒を探したんだ。見つかったのは、茂木真理亜さん、ただひとりだった」
ふうん、と才華は他人事のように相槌を打つ。興味がないというより、すでに知っていたというふうだ。ぼくの回答が間違いであると、事前に予想していたかのように。
「それだと満点は取れないね」
「うん、そうなんだ。イニシャルだとしても、Mはもうひとつないといけない」
名前のイニシャルだとしたら、そもそも三つあることが疑問だ。ミドルネームでもあるのだろうか。でも、外国に血縁があるようには見えなかった。いずれにせよ、ぼくに知られたら「嫌われる」と気にしていたところが妙だ。
ちょっと恥ずかしいけれど、聞きこみなどもしなければならないだろうか。部活や員会など、彼女のことを周囲にまで調査範囲を広げれば、いつかわかるはずだ。
ところが、ぼくが向き合うべき疑問に対して、才華はすでに回答を得ているようだった。にっこりと笑みを浮かべている。
「もしかして、才華はもうわかっているの?」
「あの子の話を聞いていたなら、当然わかるでしょ。というか、弥のほうこそわかっていないといけないんじゃないの?」
ごもっともです。
でも、面と向かって話していたぼくよりも、盗み聞きしていただけの才華が先にクイズの正解に至れるとも思えない。頭の回転の速さでは敵わないけれど、話を聞く真剣さが違っただろうから。
説明を求めると、才華は笑顔を引っ込めた。彼女のまなざしからは愛嬌が消えて、冷えた刃物のような怜悧な視線がぼくを突き刺す。
「気がつかなかった? あの子が弥に『嫌われる』と言って名乗らなかった理由は、弥がタイガーズファンだからだよ」
「タイガーズファンだから? 確かにマリーはエレファンツの――」
「そう、エレファンツの関係者が家族にいるの」
才華はぼくの相槌を許さない。驚く暇もなく、彼女の推理が矢継ぎ早に叩きつけられる。
「彼女は野球ファン。それも弥と同等に、かなりの熱狂ぶり。野球好きになるきっかけは、『パパ』だと言っていた。忘れていないよね、野球を『やっている』パパだよ? 言うまでもないけれど、あの子がぼかしていただけで、学生時代野球部にいたという意味ではないから。
もうひとつ思い出して、あの子の両親の呼び方を。『パパ』と呼ぶ一方で、『お母さん』と呼んでいた。お父さんに離婚か死別かがあって、いまのパパと再婚したのね。ああ、母親の連れ子なのは間違いないよ。でないと、パパの前提が成り立たなくなる。
さて、そのお母さんだけれど、あの子、『お母さんと球場に行く』と言ったよね。不思議だね、野球好きはパパなのに。お母さんもファンである可能性は否定しないよ? でも、『家族で』野球を観に行くわけではないみたい。
野球好きのパパとは、どうして一緒に試合を観ないのか。
パパはプレーするほうだからだよ。
そろそろわかってもらいたいのだけれど、パパは外国人だね。日本のプロチーム、エレファンツに所属する選手なの。そういう選手で、ファミリーネームのイニシャルが『M』の人がいるはずだよ。
ああ、イニシャルが三つあるなんて、それほど困る前提ではないよ。今回の場合はミドルネームではないと思う。あの子が生まれたときは「茂木麻里亜」が名前で、再婚を機に変わったはずだから。
そうだね、言うなれば、苗字がふたつと名前がひとつ。三つのイニシャルをつくるのは、この組み合わせ。
複合姓なの。
知らない?
つまり、両親の苗字がくっついて、ひとつの新しい苗字をつくるのが複合姓。『茂木』という母親の苗字と、パパの苗字が連なるわけだね。複合姓を含む名前を、三つのイニシャルで表記すること自体が果たして一般的なのかはわからないけれど、本人は気に入っているのだと思う。『M』が三つも並ぶなんて、再婚の影響とはいえ珍しいことだもの。
複合姓は、世界的にはそれほど珍しいことでもないよ。最近現役復帰したテニス選手なんかが例だね。ただ、複合姓は日本では制度化されていなくて、家庭裁判所に改名を申請することになる。周囲の理解を得るにも簡単ではないだろうね。だから、学校では『茂木麻里亜』と省略して名乗っている」
エレファンツにいる、ファミリーネームのイニシャルが「M」の選手。
確かに、その条件に該当する選手があの球団にはいる。昨年、打点王と本塁打王を獲得した、球界を代表する憎きスラッガーだ。
野球ファンとして気がつくべきだった。彼女は、あれだけ野球に詳しいファンなのに、「贔屓球団はパパ次第」というにわかに信じがたい旨を発言した。父親の影響で野球ファンになったとはいえ、贔屓の球団を変えられるような口ぶりだ。応援する球団を変えるなんて、そう簡単なことではない。ぼくなら死んでしまうかもしれない。
でも、父親が野球選手で、移籍を経験しているなら頷ける。父親が所属している球団ならば、どのチームであれ娘は贔屓球団にするのだ。
移籍の条件を加えると、ぼくの確信はより固くなる。
その選手はもう来日から一〇シーズン以上プレーしていて、しかも日本で所属した二球団はいずれも東京のチームだ。年齢を併せて考えても、中学生の娘が東京の私立学校に通学していてもおかしくない。
「モラン。麻里亜さんのパパは、エレファンツの四番打者、セバスティアン・モランだ」
才華はこくりと頷く。
「あの子の本名は、モラン茂木麻里亜、もしくは茂木モラン麻里亜のどちらか」
それだけ告げてしまうと、満足したのかふっと踵を返してしまう。つかつかと階段を上っていく背中に、ぼくはさらに問いを投げかける。
「ねえ、才華。野球にさほど興味もないのにモランのことも調べていたの? そんなに気になっていたとは驚いたよ。ありがとう、ぼくだけではとてもたどり着けない答えだった。できれば、もうひとつ疑問を晴らしてほしいんだ。どうして麻里亜さんは、ぼくにこんな問題を出したのかな?」
すると、才華はちらりと顔だけをぼくに向けた。
「Elementary, my friend, Wataru」
背筋が凍える。
目を剥いて低い声、明らかに怒っていた。
自分で考えろ、という意味らしい。
よほど簡単なことを訊いてしまったのか。彼女とぼくとでは感覚が違うのだから、優しく教えてほしいところだ。まあ、ぼくへの出題を才華に解かせていては不誠実、ぼくが悪いといえば悪い。
マリーの名前がわかっただけでも大きな収穫である。しかも、出題されたその日に名前がわかってしまうとは。才華がいなければ、これほどの猶予はなかった。
時間はまだ、一か月もある。
ホワイトデーまでに、後悔しない結論を出さなければならない。