III
「マリー?」
「はい、マリーです」
「あのね、マリーさん」
「嫌だなあ、後輩なんですから呼び捨てにしてくださいよ」
「……じゃあ、マリー。どうしてあだ名を?」
初対面、しかもひとつ上の学年の異性に向かって、本名ではなくニックネームを伝えてくるとは。マリーという少女の感覚はよくわからない。せっかく会いたいと言ってくれて、チョコレートまでくれたけれど、正直あまり波長の合うタイプではないかも。
どうして本名を教えてくれないのか、という至極当然の疑問に対して、マリーは困った表情を浮かべる。
「それは……ニックネームなら波風が立たないというか。本当の名前を言うと、嫌われてしまう気がするんですよね。でも、学校で使っている名前を伝えても嘘になるところがあって。好きな人には本名を伝えたいけれど、嫌われるくらいならあだ名だけ知ってもらえればいいかなって感じです」
すらりと自然に、されど明確に「好きな人」と言われてどきりとしてしまうが、いまはそれどころではない。
「簡単に嫌ったりはしないよ?」
「いや、わからないです。パパのファミリーネームを聞いたら、先輩はきっと敵意剥き出しになります」
どんな名前ならそんなことになるのだろう。
マリーの名前はますます知りたくなる一方で、正直なところ、目の前のマリーという風変わりな少女から心が離れつつある。初めこそ見惚れてしまったけれど、話してみたらこの調子である。
ぼくの気持ちなど知る由もない彼女は、「じゃあ」と言って手を叩く。
「そんなに名前が気になるなら、こうしましょう。先輩はホワイトデーまでにわたしの本当の名前を調べて言い当ててください。そうしたら、少なくともわたしに興味があった、ということですよね。めでたくカップル成立です」
思いがけない提案に、唖然とするしかない。
「どこから突っ込めばいいのかな?」
「不服ですか? じゃあ、名前を言い当ててくれたら付き合うかどうか決められる、ということにしましょう」
「もし、ぼくが調べなかったり、調べてもわからなかったりしたら?」
「それだと、先輩は後輩女子の告白をうやむやにして、手ひどく振ったことになりますよね。そうなったら、わたしからのアプローチを毎日受け続けることになるか、激痛を伴う仕返しを受けることになります」
それは恐ろしい。避けたいところだ。
一か月もあれば中学生ひとりの名前くらい、簡単に調べられるだろう。告白の返事をするための条件としては奇天烈だが、一方的にカップル成立だとか、逆恨みだとかを受けずに済むのなら幸いだ。
しかし、「マリー」ときたか。誰にでもつきそうな平易なあだ名だから、正体を探る手がかりにしては心許ない。名門私立たる天保高校には海外にルーツを持つ子女も多いため、本当に「マリー」と呼ばれる名前という可能性もある。外見で判断するのは危ういが、外国にルーツがあるようには見えないけれど。
とはいえ、手掛かりはもうひとつある。
「『Mの三乗』――あれはこのクイズのためのヒントだった、ということなの?」
マリーは首を傾いだ。それこそ、人形の佇まいかの如く。
「あ、手紙のサインのことですね。もちろん、ヒントですよ。先輩、やる気になってくれたんですね? 興味を持ってくれたんですね?」
「……まあ、ここまできたら気になるからね」
ぼくの応答に、マリーはにっこりと笑顔を咲かせた。表情が綻ぶことで生気を感じられるような少女だけれど、笑顔を浮かべたときには、それはもう可憐で瑞々しい。名前を当てろ、なんてクイズをどうして求めてきたのかと思えてくる。
閑話休題。
「それにしても、マリー」この質問をぶつけなければ、と思うとまた心拍が早くなった。素直に思ったことを訊くだけなのに、こと恋愛絡みだと恥ずかしい。「ぼくを好きだと言ってくれるのは光栄だけれど、いったいいつ、どこでぼくを知ったの?」
背筋、首筋、頭頂へと身体が小さく震えた。マリーの言葉や態度から客観的な事実と割り切れるものではない。他者から好かれているという事実を自らの口で述べることだけで、恐怖にも似た、どきりと心臓を衝く重い感覚に見舞われる。
ううん、とマリーが唸る。きょう初めて見せる、照れたような仕草だった。
「ほとんど一目惚れって感じです」
マリーの言葉に、またしてもどきりとさせられる。ぼく、一目惚れされるような容姿ではないのに。
「球技大会を見たんです。サヨナラホームラン、打ちましたよね」
「え、うん、打ったよ」
昨年一一月に行われた球技大会。ぼくは、一、二年生対抗のエキシビションマッチでサヨナラホームランを放っていた。ほとんどまぐれというべき一打だったが、ぼくが天保学園で初めて目立つことのできた場面だった。
「先輩は知らないかも知れませんが、球技大会の日、中等部は午前授業なんです。だから、放課後の試合をずっと見ていました」
「へえ、そうだったんだ」
この子、ぼくが高等部から天保に入学したことを知っているのか。
「ホームランを打つところを見てくれたんだ」
「はい。でも、印象に残ったのはそこではなくて」
「え?」
「先輩、ずっとモノマネしていましたよね? タイガーズの新川選手の。それを見て面白い人だと思って。そう思ったら気になっちゃって、いろいろ先輩のことを調べていたら本気で好きになって」
ホームランに憧れてくれたわけではなかったのか。確かに、バットを持つと猛虎魂がうずいて、虎の主砲にあやかった打法で試合に挑んでいた。野球部でもなければ男前でもないぼくには、三枚目のはたらきにしか活路がないことくらいわかっている。わかっているけれど、納得できないのも正直なところ。
それにしたって、照れる。気になる存在としてぼくを認めてくれたことには違いないから。
「あ、ホームランもいきなりカッコいいなぁ、とは思ったんですよ?」
釈然としない表情を読み取ったマリーのフォローは、かえって胸を痛ませる。気を遣えないくらいマイペースでいてくれたほうが、ぼくにはちょうどよいのかもしれない。
やがて、マリーは堪えきれなくなったふうに笑いだす。
「でも、面白かったんです。先輩がタイガーズのファンだってすぐにわかりました。ダブルプレーまで似せるなんて、上手ですね!」
「どこの主砲のお家芸が併殺だって?」
ぼくがダブルプレーを喫したのは、もちろんモノマネなどではない。それに、新川のダブルプレーは確かに多く、毎年のようにリーグ最多やそれに近い数を叩きだす。去年などはタイガーズが一位と二位を独占してしまった。それはファンとしてもよくわかっていることだけれど、それをぼくの併殺と結びつけてからかうとは聞き捨てならない。
と、怒りの一方で気がつくこともある。
「野球、好きなの?」
「はい。わたしはやっていないのですが、パパがやっているので、その影響で。お母さんと一緒に球場へ行くこともありますよ」
これは嬉しいサプライズだ。
高校に進学してからというもの、野球観戦で語り合える友達がいない。大阪住まいのころにはタイガーズファンの友人たちとしょっちゅう語らっていた。タイガーズファンがいい、なんて贅沢は言っていられない。野球を愛する気持ちは贔屓球団を超える。
「ちなみに、どこのファン?」
「ううん、特に決まったチームはないんですよね。パパ次第なので」
「強いて言うなら?」
「……エレファンツ」
「あかん! あの球団だけは絶対あかんで!」
前言撤回。
野球の歴史を語るときには避けて通れない二大球団。伝統あるライバル関係は、球団や選手だけの問題ではない。ファンとて贔屓球団を愛する熱い心で、伝統の闘いに加わるものだ。その対立の苛烈さときたら、相手球団をファンもろとも殲滅せんとする勢いといって過言ではない。
「ほら、やっぱり敵意剥き出しじゃないですか。だから言いにくいんですよ」
「そうは言ってもな、今年リーグを制するのはタイガーズしかありえへん。去年の戦いぶりと戦力からして、火を見るより明らかや。課題の投手力も、日本一に貢献した抑え投手を獲得して盤石そのもの。タイガーズの圧倒的優勝は、エレファンツファンが認めないだけで、もはや全野球ファンの共通認識やん?」
「いや、タイガーズが補強するなら外野ですよ。特にレフトがまずいですよね。去年Aクラスのエレファンツ、タイガーズ、ワイバーンズはいずれも若返りが急務。でも、動けるベテランの数ではエレファンツが頭一個抜けています。エレファンツ以外は、秋になれば疲れ果てて失速しますよ」
「言ってはいけないことを言ったな!」
変わったところのある子だけれど、楽しい子ではないか。野球という共通の話題があるし、何よりぼくのことを想ってくれている。正直なところ、初めて出会ったとは思えない親近感を、この短時間で得ようとしていた。
名前を知りたい、と素直に思う。
知ろうとしなければ、失礼にあたるだろう。