II
「もしご迷惑でなければ」とのことだったが、放課後の予定は皆無。帰宅してもおばさんはまだ仕事中だし、才華も昨年末の留学云々で呼びだされている。将棋部は、先輩がインフルエンザでダウンしているため休部中。
全然迷惑ではなかった。
終礼中、先生が長話をするあいだずっと、ぼくは気もそぞろに考えを巡らせていた。
何せ、唐突なラブレターには謎が多い。学校ではあまり目立たない――否、ちょっとくらいは目立っているかもしれないが――ぼくにちょっかいをかけてくる人物が誰なのか、皆目見当もつかない。そもそもイタズラだったという疑いも残っているし、きょうがバレンタインデーでなかったら指定の場所に行くことも躊躇っただろう。
正直、本気でぼくに会おうという人がいるのなら、当然嬉しい。
嬉しいけれど、戸惑ってしまう。
警戒と戸惑いと、覆い隠すことの難しい喜びとを引っ提げて、ラウンジの隅に席を得る。数日ぶりの部活や友人との下校を喜ぶ生徒が行き交うラウンジで、真ん中の座席を陣取る勇気はなかった。ついつい、周囲を見回してしまう。
何もしていないのに座っていると変なので、鞄からペンケースやノートを、出したり仕舞ったり。まったく意味はないけれど、勉強道具を選んでいるふうを装ってみる。
頭の中では冷静さを取り戻そうと、リラックスして別のことを考える。ドッキリなら面白い回答をしなければならないし、真剣な相手ならそれなりの礼儀がある。とにかく冷静でなければならない。
タイガーズの選手の背番号を一から順に諳んじる。
一番、一番は……
「あの、久米弥さんですね」
「え、あ、はい。そうです」
その瞬間、忘れるはずのない背番号一番が頭からすっ飛んだ。
ぼくを呼んだ声は、聴き慣れた友人たちのそれではなく、またぼくをからかうような色もない。鈴を転がすような、とはこのような声なのだろうか。淀みなく可憐で、わずかばかり感じられる幼さがぼくの背中をくすぐるようだ。
ぼくの目の前に、その声に違わぬ少女が佇んでいる。
鞄を握る両手の指は細く、白い。身体の線もまた細く、肩幅などはぼくの半分くらいしかないのではないかというほど、彼女は小ぢんまりとしている。グレーのブレザーなんて、未だに着慣れていないというか、着せられているかに見える。そのような身体に、窓から差す西日を浴びて、オレンジが反射する大きな瞳、穏やかな曲線を描く眉、美しく陰影が浮かぶ鼻筋などを備えた顔が乗っかっていると、まるで彼女が人形の如く見えてくる。
笑窪の浮かぶ笑顔のおかげで、ようやく彼女が生身の人間であると思い出せる。
「ええと、君がぼくに手紙を?」
「はい、そうです」
白すぎる肌に、少しばかり朱が差して見えた。
と、ぼくがじろじろ見ているのが気になったらしく、表情を曇らせる。
「あの、驚いちゃいました? わたし、中等部で……」
彼女の言葉にはっとする。
彼女はどうやら、ぼくの視線が胸元のリボンに向いていると思ったらしい。確かに、彼女のリボンは中等部のそれで、スクールカラーの深緑一色のものだ。ぼくたち高等部のリボンやネクタイなら、深緑に紺色のストライプが入っている。
この子は中学生なのか。
そう思うと、急にドキドキしてきた。ぼくは、年下の女の子に呼び出され、会ったそばから見惚れてしまっていたのか。
「とりあえず、座ってよ」テーブルの上を片づけて、椅子を勧める。先輩として、余裕を見せるべきだと感じた。「それから、悪いのだけれど、ぼくは君のことを知らないんだ」
「あ、優しいですね。失礼します」ぼくとは対照的に、余裕を感じさせるニコニコとした表情で少女は椅子を引く。「まあ、知らないのは仕方がないと思います。会って話すのは初めてなので」
初めて会うにしては、まったく緊張感がない。コミュニケーションが上手な女の子なのか、ぼくが忘れているだけで彼女はぼくをよく知っているのか。もしかすると、才華と同類の、何事にも動じないマイペースな感覚の持ち主ということもありうる。
椅子に腰かけた彼女は、ごそごそと鞄を漁る。取りだしたのは、ピンク色のハートの柄がついた小さな包み。それをテーブルに置くと、長い髪をさらさらと手で整える。そして、ひとつ咳払い。
「では、バレンタインの品物です。つまらないものですが、どうぞ、お納めください」
「それは、どうも」
両手で渡された包みを、ぼくも両手を出して受け取る。彼女にとってこのやり取りが冗談のつもりならば面白いけれど、本気でやっているとしたらかなり不思議なセンスに思われる。
天保の中等部の生徒だ、彼女にも天才的な感性が備わっているのだろう。
「あの、まだ名前を聞いていないのだけれど」
「おお、そうでしたね」
初めて会うとわかっていて、名乗ることを忘れていたのか! ぼくは「君のことを知らない」と言って尋ねていたというのに。
少女は居住まいを正すと、またしてもわざとらしく咳払い。
「初めまして、わたしは中等部三年の……名前は、そうですね、『マリー』と呼んでもらえると嬉しいです」




