I
青天の霹靂、驚天動地、天変地異。
信じがたいものがぼくの目に飛びこんできた。
人々が色めくバレンタインデー。世間一般とは感覚のズレた天才たちが集う天保学園といえども、朝の下駄箱から、すでに各所でドラマが始まっている。ぼくにとっても例外ではなく、ぼくの周囲でも一年に一度の特別な日をめぐって事が動いていた。
昨日、下宿でおばさんと才華と一緒に、チョコレートケーキを作った。三人住まいの下宿の中で、チョコレートを受け取る側である男子はぼくひとり。バレンタインでひとりだけチョコをもらうのはズルいし、反対にひとつももらえなかったときの最低保証が必要ということで、企画された。お菓子作りが苦手な才華は苦戦していたけれど、バレンタイン気分をひと足先に三人で楽しんだ。
それ以外にも、友人のさらに友人のバレンタインの告白大作戦に、間接的ながら加担していたりする。
そんなこんなで、ぼくもそれなりにバレンタインデーの楽しみを享受していたつもりだ。正直、今年はもう、クラスメイトから義理チョコをもらうくらいで終わりだろうと勝手に決めつけていた。
良い意味で期待を裏切る出来事が、始まろうとしている。
朝の下駄箱、いかにも便箋が入っているふうな封筒が置かれている。
注意深く周囲を見回す。
ぼくに目を向けている人影はないか。学校までは才華と一緒に歩いてきたけれど、クラスが違うので下駄箱の場所も違う。今朝は彼女とすでに別れていた。ちらほら見えるクラスメイトたちとも、適当に挨拶をできれば問題はない。
さっと片手で封筒を手に取り、ポケットに忍びこませる。
「あ、久米くん。おはよう」
「うわぁ!」
「なんだよ、下駄箱に何か入っていたのか?」
つい大声を出して驚いてしまったが、恐れるべき相手ではない。振り返って一〇センチほど視線を落としたところに、江里口さんがいる。彼女は隣のクラス、C組の生徒なので下駄箱の場所が近いのだ。
小柄な彼女は、レンズの奥でいやらしい笑みを浮かべている。
「いやいや、まさか。そんなわけないやん」
彼女はごく平凡な朝の挨拶をしてきた。ぼくがポケットの例の物を忍ばせたところを、彼女は見ていないはずだ。
「久米くんが大阪弁で喋るときは怪しいんだよなぁ」下卑たニヤニヤ笑いは続く。「それに、家入からもらうんだったら何もおかしなことはない」
「ああ、才華からはもらわないよ」江里口さんの疑いがぼくの心配する着地点にないことに気がつき、ちょっとばかり安心する。「きのう、下宿で一緒にチョコレートケーキを作ってそれで終わり」
ふうん、とあまり納得いっていない様子で相槌を打つので、仕方なく、こちらから仕掛けることにする。
「そんなことより、江里口さんのほうはどうなのさ。平馬とは」
反転攻勢が功を奏したようで、交際相手の名前を出した途端に江里口さんの追及が緩んだ。
「まあ、それなりに済ますさ。そうだ、あたし、義理チョコは去年限りで廃止したから。久米くんにも渡さないけど、悪く思わないでね」
「全然気にしないよ。あと、放課後の計画も上手くいくといいね」
「……うん、そうだね」
よし、会話が途切れた。
江里口さんが教室に向けて歩きだす隙を見計らって、ぼくは反対方向へと歩みを進める。階段を上る前に、一階にあるトイレにさっと駆けこんだ。他人の視線が気にならない場所まで逃げこんでから、状況を冷静に確認しなくてはならない。
個室に入り、こんなところで手紙を開くのは失礼だと感じながらも、注意深くそれを観察する。
封筒はピンク色、蓋が三角形になる洋風の形状だ。一〇〇円ショップや文房具店で購入できる、素朴なものである。封筒そのものに何か工夫をした形跡はなく、表面には何も記されていない。
裏を返してみると、右下に「久米弥さんへ」と記されている。
この時点でひとつわかったことがある。この手紙は、勘違いでぼくのもとへ届いたわけではないということだ。ぼくではない誰かに届けようとして下駄箱の位置を間違えてしまった、という「誤爆」の可能性は消えた。
封筒からわかることはその程度。中身を見ないことには始まらない。封をしているシール――なんとハート型!――を慎重に剥がして、中から小さなカードを取りだす。このカードの文面に「ドッキリ大成功!」と書かれていないとも限らない。
しかし、またしても期待は良い方向に裏切られる。
『Dear. 久米弥さん
もしご迷惑でなければ、放課後にお会いしたく思っています。ラウンジで待っていてくだされば、私から声をかけます』
ボールペン書きされた、丸みを帯びた丁寧な文字。文章も慎重な言い回しが用いられている。会うための場所と方法も記されているから、ぼくがやるべきことも明確だ。少なくとも、ぼくと会おうという意図に嘘はなさそうだ。
問題は目的だ。この文面だけでは、会って何を話そうとしているのかわからない。バレンタインデーだからといって、浮かれてはいけない。「誤爆」ではなかったとしても、指示通りにしてみたらイタズラだった、という「地雷」の可能性はまだ残っているのだ。
浮かれてはいけない、という危機感が行き過ぎて、悪意ある解釈をしている自覚はある。ぼくの周囲に、ぼくにちょっかいをかけるにしてもここまで悪質な方法を取る友人はいない。ぼくを貶める陰謀を抱いている者もいないだろう。
でも、ぼくに好意を寄せてくれる人にもまったく心当たりがない。
この手紙の目的を見抜くには、差出人を確認するのが手っ取り早い。
「えむ……さんじょう?」




