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才華の本棚  作者: 大和麻也
Episode.10 猫は知っている
37/40

I

 今更になって、一か月も前にマリーから何気なく言われた言葉が気になっている。

 彼女にしてみれば、悪気なく放たれたひとことだったのだろう。事実、そのフレーズを耳にしたそのときには、毒を吐いてきたというより、無邪気に戯れてきたように感じた。ほんの気軽な、ジョークにも近い、いわば「いじり」だったのかもしれない。

 傷ついたわけではない。

 でも、ふと思い出してしまえば、つきまとって離れない。

 思い出のトリガーになったのは、夏休みの土曜日、才華と訪れた天保大学のオープンキャンパスでの彼女の申し出に始まる。

「心理学の体験講義、行ってみたい」

 正直なところ、才華の提案には驚かされた。

「そういうの、信じていたんだね」

 口をついて出たその言葉に、彼女は嘆息した。「心理学は科学だよ」と。あまつさえ、ぼくの偏見を見抜いて「人の心理などというものは目には見えず、それを研究するなんて、占いにも似たようなもの――そう思っているんでしょ?」とまで。

 特別に興味のある体験講義もなかったので、ぼくと才華は四号館の二階にある大講義室を訪ねる。長机に向かい、折りたたまれた座面を倒して座った。前方には巨大なホワイトボード、その直上にプロジェクター。床は真っ黒なカーペット敷きで、涼しすぎるほどに冷房の利いた室内は、ほとんど黒と白で成り立っている。まさに、ぼくが想像で思い描いていた空間であった。自然を感じるのは、南側の窓から覗くケヤキの木の緑色くらいだ。

 やがて、一見して大学教授とわかる男性が現れた。生活感のあるストライプのワイシャツで決めてくるあたり、あまり飾る気がないのか、普段使いと思われる黒のリュックサックは汚れが目立ち、ファスナーについたアクリルのストラップがなんとも庶民的だった。そう思って見れば見るほど彼の身だしなみはアンバランスで、染めていないのか前髪に白髪がちらついていたり、使ってもいない杖を手にしていたり、スニーカーの紐がもう少しでほどけそうだったり。

 とはいえ、窓際に置いた鞄からファイルや書類を取り出し、講壇に立つまでの仕草には知的な品格が滲んでいた。白川(しらかわ)と名乗る彼は、いくつかオープンキャンパス向けの型通りの挨拶を済ませると、

「およそ心理学という学問は誤解を受けやすいものかと思います」

 と語りだした。

「よく言われるのは、占いみたいなものだろう、ということ。胡散臭いイメージがあるのでしょうね。ただ、実際は科学的な分析に基づくものであり、文系の学問では社会学の流れを汲むし、理系の学問では行動学と関係があると言ってもいいんですね」

 ニコニコと楽しそうに語る彼は、さっそく、本日限りの特別な受講生たちが高校生であることを忘れてしまっているらしい。難解な語り口、よく知らない単語をどんどん使ってしまう。

 それに対して最もよく頷いているのは、ぼくの隣に座る少女であったことは間違いない。座席はちょうど教室の中央だったこともあり、よく目立つ。

「科学的な見方といいますか、心理学の出発点となる有名な実験を例として紹介しましょう。とてもよく知られている実験ですので、みなさんも聞いたことがあるかもしれません。というのは、『パブロフの犬』と呼ばれるもので、要するに条件反射という――」



 一授業五〇分のリズムに慣らされていると、九〇分の講義時間は長い。ほっと一息ついて荷物を片づけながら、いくつかの記憶が消し飛んでいることに気づく。正直、集中力を持続させるだけでも大変だ。

 それに引き換えぼくの同居人はというと、九〇分あっても好奇心を満たしきれないらしい。教授をつかまえて、時間の許す限り質問していた。おそらく、九〇分間で疲れてしまうのではなく、その時間のうちにいくらでも疑問を見つけてしまうのだろう。

「ほらね、『科学』だったでしょ?」

 戻ってきた才華は、どこか誇らしげに言うのだった。

 そういえば、才華が教授を呼び止めてまで質問するとは意外だった。同じクラスになって才華の高校での振る舞いをよく見るようになったが、先生と語らうような姿はあまり見た覚えがない。

 才華がなぜそこまで楽しそうにしているのか、もうひとつわかっていない。

 そんなぼくをマリーが評して曰く、

「先輩って、意外と人の気持ちがわからない人ですか?」

 これがある種の諫言であったとするならば、気遣いの出来る彼女だからこそ言えた言葉だったのだろうか。

 ふと、直感的に妙な結論を導いてしまう――もしかしてぼくは、心理学に焼きもちを焼いている?

 心の中で冷笑して、広い講義室をあとにする。空調の具合が違うのか、廊下に一歩踏み出した途端ぼんやりとした熱気にぶつかる。大学とはそういう空間なのか知らないけれど、個々の教室とそれ以外の場所とでまったく違う種類の空気を吸える不思議な感覚だ。

 天保大学といえば全国で知らない人はいない超有名大学だ。キャンパスを行き交う見学者たちは、それこそ全国から集まってきた天才、秀才たちなのだろう。中には本物の天才たる現役学生たちも紛れているのかもしれない。本当であれば附属高校所属であるぼくたちが最も天保大学に近いはずなのに、どうしてもアウェイの感覚が拭えない。

 そのうえ、いまでも才華と自分との差を身につまされることがある。「『科学』だったでしょ?」なんて感想を述べられる女子高校生がいったい何人いるものか。

 戸外に出た。

「あれって……」

 行き先を考えてパンフレットの構内図を広げていた才華が、雑踏の中に知り合いを認めたらしい。彼女らしくもない気の抜けた声を出したと思えば、すっとその何者かを目で追いかけてしまっている。

 ぼくもその視線をなぞってみると、間もなく発見できた。その人は一学年先輩だが、紛れもない高校生である。しかし、華美になりすぎない垢抜けたいで立ちと、夏の汗に濡れてでも艶やかな容姿とが際立っていて、大学生、いや、それ以上にも見せている。それだけの人物が衆目を集めないはずもなく、すれ違う誰もが一瞥を投げかけるものだから、まるで都会に現れた有名人かの如く、ひとり世界からはみ出している。

「あの女……」

 才華が憎らしくそんなふうに呼ぶ相手は、この世にひとりしかいない。



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