IV
「……いま、空調を除湿に設定しました。これで涼しくなるといいのですが」
雨降りは相変わらずだが、その日は気温が高かった。
国語科資料室は、現在でこそ中央に仕切りが設けられ、棚が設置されているが、もとは通常教室である。こんな蒸し暑く不快な日に、エアコンが利用できるだけありがたい。
それでも、姫川先輩は涼しい表情を浮かべる。後輩の額に汗が浮かぶのを見つけて、エアコンの操作に席を立てるくらいだ。とはいえ本調子ではないらしく、対局は、見方によってはわずかにぼくが有利にも見える。
「ええと、有瀬くんの話でしたね」
着席して数秒もしないうちに、先輩は次の一手を指してしまう。
「彼とは特別に親しかったわけではありませんが、目立つ人だったので、それなりに評判は聞いています。確かお父さんがフランスの方で、世界を股にかける実業家だそうです。そのおかげで、アメリカをはじめ何か国かを幼いころに転々としていて、天保の初等部には小学四年生のころに編入してきたと記憶しています」
名門私立に通う子女は、ぼくのような一般庶民の子のほうが少数派だ。多数派の生徒といえば、医者の子とか、社長の子とか。野球選手の子だっているくらいだ。両親の一方か両方が天保大学の出身者の生徒が半数を超えるとも聞いたことがある。
有瀬先輩の生まれも驚くほどのことではない――と、思えればいいのだけれど。
「でも、中等部卒業前に転校したんですよね? 中等部三年の二学期に」
はい、と先輩は頷く。
「いまもアメリカに?」
「何も聞いていないので、そうだと思います。また別の国に移っているかもわかりませんが、少なくとも、天保には帰ってきていません」
有瀬先輩や姫川先輩は高校三年生、すなわち今年で一八歳になる。グローバルスタンダードでは、大人として充分に認められる。国境を越えて生きる彼なら、わざわざ日本や天保にこだわって戻ることもないか。
たくさんの本を読む勉強家だ、きっと彼も地球規模で活躍するエリートになるのだろう。
次の一手は、攻めの手を指した。
「それで、どうして有瀬くんのことを?」
先輩は間髪入れずに歩を打ってぼくの攻めを受けた。彼女は守りから組み立てる棋風だから、ぼくの読みなどお見通しなのだろう。
「才華と接点があったらしくて」
「なるほど、そういうことでしたか」
ぼくは次の一手を繰りだした。彼女は一瞬視線を将棋盤に落とすが、すぐにまた視線を上げる。すると、「ふふ」といつもの癖で笑った。
「訊いたことを後悔した顔をしています」
「はあ……?」
将棋部部長がそのように言う意図は正直よくわからないけれど、ぼくは、何も後悔などしていない。
昼休み、ぼくは図書室に足を運んでいた。
調べたかったのは、『ベイカー国際百科大全』のtransferの項目。才華は、当該項目のあるページに、有瀬先輩からの新たなメッセージが見つからないか調べたという。結果、カードも何も挟まっていなかったので、彼の出題がtransferを解として終了したと彼女は判断した。
確かに、transeferという単語そのものが転校を知らせるに足るものだ。
しかし、違和感は残る。
彼が転校することなど、わざわざ暗号にして知らせることだろうか? 暗号化する以上、隠しておきたい意図があったはずだ。でも、転校は学校において一目瞭然の変化であって、学校から籍が抜けたことは誰でも知りうることである。学年の違う才華は一か月間気づかなかったけれど、いつまでも知らないでいたとは思えない。
それなのに、有瀬先輩はまもなく転校する段――しかも夏休みの直前――にもなって暗号で以て転校を知らせようとした。周囲に転校を知らせる前ならいざ知らず、誰もが彼との別れを済ませていただろうその時期に、どうして暗号という秘密のメッセージを作成する意味があったのか。
だから、ぼくは思った。
才華が解読しなかっただけで、別の意図がまだ隠されていたなら辻褄が合う。
百科事典でtransferを検索すると、「転校」という語は収録されておらず、代わりに心理学に関する用語に行き当たった。「転移」と表現するようだ。その項目で詳しく述べられていたのは「学習の転移」という概念で、難しくてよくわからないが、どうやら以前の学習や経験が別の場面で正負に影響を与えるようになることを表すらしい。
才華が説明してくれた暗号解読においては、百科事典の項目そのものは大きな意味を持っていなかった。たとえば「暗号」という項目は、ちょっとくらい挑発の意図はあったかもしれないが、あくまで次のカードの位置を示していたにすぎない。
ところが、今度は違う。才華の解釈では、転校を伝えるためにtransferの語を選んでいる。ということは、これを手掛かりにしてさらにもう一冊見つける必要があったのではないか。彼の暗号のゴールは、「転移」から見つけられる本にある。
ぼくは心理学に関する本が置かれた棚を探した。まもなく見つけたその棚には、思ったよりも多く、一〇〇冊近く本が置かれていた。一冊一冊調べてもよかったが、まずは「転移」が題に含まれるものに絞りこむ。
すると、一冊だけ見つかった――『発達段階と学習の転移』という書籍だ。
すぐさま手に取って調べてみた。ぱらぱらとページをめくり、もしかしたら残されているかもしれないカードを探す。貸し借りがバーコードで電子的に管理されているため、この本の貸し出し履歴を調べられないことが惜しい。
その周囲の本も何冊か調べてみたが、何も挟まれていなかった。
才華と有瀬先輩とが暗号でやり取りしてから、もうすぐ三年になる。その間にこの小難しい書籍を借りた生徒がいたのかもしれない。そうでなくとも、司書の先生が点検をしていたのかもしれない。カードが挟まれていたとしても、約三年のあいだに取り除かれてしまったと想像できる。
仕方がない、と嘆息して書架に本を戻したとき、背表紙に答えを見つけてしまう。
有瀬先輩はアメリカなど欧米での生活を経験している。現地の友達と触れ合い、日本とは異なる言葉遊びにも触れたことだろう。そんな彼だからこそ、その三桁の数字に特別な意味を持たせていた可能性がある。
ぼくが予想した通りなら、彼が時期を遅らせて才華に問題を提示した気持ちにも納得してしまう。
『発達段階と学習の転移』のNDCは、「143」だった。
最後に残る疑問は、ふたつ。
中学二年生の才華は、なぜ二期続けて図書委員になることを承諾したのか。
高校二年生の彼女は、なぜ有瀬先輩のポップを捨てようとしなかったのか。
百科事典を見放題にできる図書委員の仕事を、才華は表面上嫌がりながらも引き受けていた。彼との暗号のやり取りも、彼女は好奇心をくすぐられた楽しい思い出としているようだった。それだけの説明でもぼくの疑問は解消できるのだけれど、梅雨明けにはまだ時間がかかりそうだ。
この疑問は、ぼくの中で消化するしかない。
うっかり才華に漏らしてしまったら、彼女は持ち前の好奇心で以て、自らの過去や感情までも穿ってしまうだろうから。
もちろん後悔はない。有瀬先輩の意図を才華に先んじて知ることができた。
「久米くん」
空調が利いたのか、不快な空気がちょっとばかり改善されたころ、姫川先輩が再び顔をほころばせた。穏やかな笑顔を浮かべていても、眼鏡の向こうに見える目は冷徹だ。
「九一手目を、憶えていますか?」
随分前の手だが、思い出すことができた。そこでぼくがしでかした悪手を思い出した瞬間、さっと血が引くのを感じた。先輩も読破したという『鉄板の詰将棋道場』を最後まで解けていれば、その攻め筋も見落とさなかっただろうに。
「あのとき、角打ちなら詰めろがありましたね……!」
「そういうことです。きょうの久米くんは、強かったですよ」
ふふ、と笑う先輩の一一四手目を受けて、ぼくは投了した。




