III
一学期中の当番は、せいぜい四、五回だったという。
それでも才華が当番をした日には必ず、有瀬先輩の問題が仕込まれていた。
最後の一枚は必ず「Congatulations!」と記したうえで、短いメッセージが添えられていた。才華が「楽勝」と返した次の出題では、「今度も楽勝?」と、会話を試みる文面があったそうだ。そうやって、誰にも気づかれない――たどり着けない――ところでひっそりと会話が交わされた。
言葉の交換があったと聞いて、ふと違和感に気づく。
「何度も暗号を解かれたのに、問題の難易度は上がらなかったの?」
ぼくが問いかけると、才華は眉間に皺を寄せて首を傾いだ。まあ、彼女に言わせればどの問題も簡単だったのだろう。そもそも、彼女は好奇心を基準に行動するのであって、複雑な謎解きに燃えあがるタイプとは違う。
それでも、彼女は問題の傾向について思うところがないではなかった。
「ほんの数回だから難易度がどうかなんて考えなかったけれど、出題は毎回同じパターンだったよ。さっき話したような、NDCを交えた暗号。カードで会話しようとするあたり、あえて解けるように作っていたのかもね。いちいち問題を変えてしまうと、毎回違う正解者と会話することになりかねないから」
快刀乱麻の推理力を持つ彼女にしては、中途半端な認識に思える。
でも、他人の心の機微に鈍い性質がある彼女だ。ひょっとすると、自分が――自分だけが――暗号解読者に指名されていたと気づいていないとも考えられる。自分以外にも正解者がいると思っているのかも。
正直、誤解していたほうが彼女らしいと思う。
そう、彼女は暗号解読が楽しかったのだ。偶然見つけた問題に興味を持ち、夢中になっていただけ。暗号にしか集中していなかったから、気がつかない面もあったのだろう。
わずかな沈黙が気になってしまい、話の続きを促す。
「それで、ポップの暗号の話はまだだよね?」
「ああ、これね。これは最後の出題なの」
「最後?」
うん、と才華は頷いた。
「一学期の最後の暗号を解いたとき、『次で最後』ってメッセージを受け取ったの。でも、すぐに夏休みで調べられなくて。休みのあいだの登校日とか、二学期の昼休みとかに探してみても、有瀬さんが残したものは見当たらなかった」
「すぐに休みなのに『次』っていうのは妙だね。学期が変われば委員も交代するんだよね?」
「そう。事実わたしは改めて図書委員をやることになったけれど、有瀬さんはいなかった。最後と設定するにも間が悪い」
「ふうん……」
雨音のノイズがぼくの思考を洗い流す。さながらテレビの砂嵐の如く。ああ、うるさいなぁ。
「一か月くらいして、ようやく『次』が何かわかった」彼女はぼくが手にしていたポップを手にする。「図書委員には、おすすめの本の特集コーナーをつくる仕事がある。ポップはそのときに作るものなの。二学期最初の設営のとき、前の委員のものが残っていたのね。そこに有瀬さんのこれがあった」
有瀬先輩の問題は、いつも彼が返却する本や『ベイカー国際百科大全』に始まる。そのパターンから外れ、ポップの裏面に暗号が記されていたのだから、才華でも容易に見つけられなくて仕方がない。
それにしたって、小説の題名が『ひらめきの裏側』だなんて、彼も意地悪な人だ。
最後の暗号を見つけたそのとき、才華は、いったいどんな表情をしていたのだろうか。彼の挑発に気づいて「してやられた!」という表情。問題の形式が変わって「今度はどんな問題だろう?」という表情。一か月も探していたものに出会い、「ようやく見つけた!」という表情。それとも?
ぼくのモヤモヤをよそに、才華はウキウキと謎解きを語る。
「さて、暗号文は『genafsre』ヒントとして記されていたのは『NDC』――まあ、考えるまでもないよね。『ひらめきの裏側』は日本の小説だから、NDCでは『913』に分類される。いつものルールで、先頭は奇数だから前進する向きに、一三文字ずらす。すると、暗号文は『transfer』を示した」
「……あ」
思わず声が出た。
その暗号の答えは、百科事典を検索するまでもない。
「有瀬先輩は、転校していたの?」
才華は頷いた。どこか神妙な面持ちにも見えた。
「聞いた話では、親の仕事の都合でアメリカに転居することになったんだって」
アメリカの多くの州では、新学期は九月から始まる。日本から引っ越して学校に通うなら、夏休み中が第一の選択肢になるだろう。有瀬先輩の「次が最後」とは、天保高校を去ることを意味したのだ。
面と向かって伝えないあたり、有瀬先輩らしいのかもしれない。話を聞く限り、彼はイタズラ好きで、自信家で、ちょっと寂しがり屋のようだから。
「もちろん、百科事典は英字でも引けるから、transferの訳語にあたる項目のページも調べてみたよ? 何も挟まれていなかったけれどね」
当番のたびに暗号解読を楽しみにしていた図書委員にとっては、味気ない終わりだったのかもしれない。それでも、一か月焦らされたために最後の問いを解読した達成感は爽快だったろうし、思い出も廃れない。
彼女が有瀬先輩のポップを、処分する紙をまとめた段ボールではなく、保存するものの束に収めたのは、彼女が捨てられない性格だからというわけではなさそうだ。




