II
才華が最初に語ったのは、暗号に辿りつくより前の経緯だ。
「中二の一学期、成り行きで図書委員をやらされることになったんだけど、わたしは別に不満じゃなかった。カウンターに座らなきゃいけないのは二週に一度だったし、カウンターのすぐ横に『ベイカー国際百科大全』があって、よく読んでいたから」
進んで委員になったのではないだろうと想像していたが、ぼくが思っていたより彼女らしい所感だ。百科事典が手に届きやすいから、なんてことを図書委員の魅力として語る人物が、彼女のほかにいるだろうか。
しかも彼女は百科事典を「引く」とか「見る」とかではなく、「読む」と言った。『ベイカー国際百科大全』は、全十数巻にも及ぶ巨大な事典である。おそらく、適当に開いて興味のある項目を見つけたら、それと関わりのある単語を芋づる式に検索したのだろう。彼女の豊富な知識はその当時に得られたのかもしれない。
「その事典に、時々カードが挟まれていたの。だいたいは、数字が書かれていた。たとえば『NDC+400』とか、『NDC-311』とか」
才華が本題に入ろうとする前に、ひとつ確認しなければ話についていけない。
「そのNDCって何?」
「日本十進分類法。図書室の本の背表紙に、番号が書かれたシールが貼ってあるでしょ? あの番号で本を分類して、書架を分けるの」
彼女は手近にあったクリアファイルから一枚のプリントを取り出す。図書委員会で配られたもので、分類法について説明されていた。
曰く、ゼロから九までの数字を、百の位、十の位、一の位でそれぞれ分野やジャンルに割り振っており、三桁の組み合わせで詳細な分類を表現するらしい。
たとえば百の位が「5」なら「建築」、かつ十の位が「1」なら「建築工学」、そして一の位が「2」なら「測量」となり、「512」は「建築工学のうち測量」の本であると絞り込める。
プリントによると将棋の本は「796」らしい。あとで確認してみよう。
「じゃあ、そのNDCが暗号解読の鍵なわけだね」
「そう。でも、鍵だけあっても意味がない。最初の出題を見つけないと」
つまり、NDCを含めて示された計算式のような一文そのものが暗号ではないのだ。才華の言う「最初の出題」とは、その式を完成させることで解読可能になる暗号である。たぶん、何らかの本のNDCを代入するのだろう。
でも、出題をどうやって見つけるというのか。才華が見つけたのは、問題を解くいち過程であるから、前後の情報を補わなければならない。
「目に付くところに問題は見つからなかった」才華はどこか懐かしそうだ。「出題者が暗号を仕掛けるところを見つけるのが早いと思ったの。ちょうど、心当たりもあったしね」
その出題者こそ、有瀬貫一という上級生であった。
才華曰く、彼は委員としてはもちろん、利用者としても図書室にしょっちゅう顔を出す人物だったそうだ。しかも、彼は返却手続きを済ませると、委員や司書の先生に任せるのではなく、自ら書架に本を戻す習慣があった。そうやって図書室をうろつくことで、次に読む本を探すのだ。図書委員として、書架の場所や本の配列に知識があったことからこその行動でもある。
それだけ図書室に慣れ親しんでいたのなら、本に何かを挟むのも容易だろう。第一に怪しまれても仕方がない。むしろ目立とうとしていたのではないか。
才華の声色は穏やかで、小さく微笑んでいる。彼女が過去を懐かしむ顔を、ぼくは初めて目にした気がする。
「それで、ある日有瀬さんが返した本を調べてみたら、暗号が書かれたカードが挟まれていたわけ」
彼女が辿りついた「第一問」には、
「mszrob」
と、暗号が記されていたという。
「解読の鍵は何だったの?」
「この手の文字列の暗号があったとき、中高生が仕組める範囲で思いつく暗号法は換字法くらいのもの。とはいえ、頻度分析で解くには暗号文が短すぎるし、そもそも出題の難度も高い。だから、単純なシーザー暗号だろうとアタリを付けた」
言っていることが難しくてよくわからなかったが、シーザー暗号が何かはわかる。文字列を何らかの順番で決まった数だけずらすことで作られる暗号だ。「abc」をアルファベット順で二字ずらすとしたら、「cde」という具合である。
才華はつらつらと自分本位のペースで説明を続ける。うるさい雨音を振り切って、彼女の説明に集中した。
「カードは『新潟の古代史~沼垂柵のミステリ~』という本の一一〇ページに挟まれていた。有瀬さんがNDCの番号を解読のヒントにすることは知っていたけれど、ここは意味ありげな位置のほうに注目した。まさかアルファベットを一一〇回も動かすわけがないから、動かす向きを一桁と、動かす数の二桁になっていると考える。試してみたら、百の位が前進を定義していて――あとになってわかったけれど、奇数なら前進、偶数なら後退だったみたい――、残りの十の位と一の位がアルファベットを動かす数だった。つまり、アルファベットを一〇だけ前に進める、という鍵だったの」
事も無げに言うけれど、「試してみたら」ということは、彼女は「一一〇」の数字から考えられるシーザー暗号の解読法を、ことごとく実践したのだろう。一一文字動かすとか、逆順で動かすとか。早いうちに成功したとしても、それが偶然でないと確認すべくあえて失敗する別のパターンも調べたに違いない。
まったく、彼女が一度のめりこむとしつこい。常人なら避けたくなる仕事だろうとやり尽くしてしまう。
そして、有瀬先輩の暗号は、それだけ彼女を掻き立てたのだ。
「で、どんな解が得られたの?」
「Cipher」
スペルを聞き出し、英和辞典を借りて検索する。単語の意味は――「暗号」
「これ……才華への挑発だよね?」
彼女は頷き、にっと笑った。
有瀬先輩もまた、自身の暗号を解読できるのは才華だけだと考えていたのではないか。『ベイカー国際百科大全』に仕掛けをしたのも、彼女を暗号解読へ向かわせるため。百科事典を頻繁に触る生徒なんて、彼女くらいだったろうから。
「百科事典の『暗号』の項を開いたら、付箋で暗号が書かれていた。『NDC+411』とね。今度は楽勝。『新潟県史』のNDCは『214』だから、『411』を合計した『625』の本を調べることにする。ここまでくれば簡単な話。学校の図書室だから、三桁で絞り込めばせいぜい数冊しかない」
曰く、天保学園の図書室には「625」に分類される本は数冊しかなかった。好奇心旺盛な中学生にとって、その程度を調べ上げるくらい苦にならない。「625」が割り振られる本は、果樹園芸に関するもの。『果汁で果汁を洗う時代』という本に行き当たり、またしてもカードを発見した。
「カードには何て?」
「『Congratulations!』――だってさ」
つまり、才華は暗号を最後まで解読できた、ということだ。
淡々と語るものだから、呆気なく終わったことのようにも聞こえるけれど、彼女こそ最初の正解者だったに違いない。有瀬先輩は最初から才華に解かせようと思って出題していたのだから。おそらく、出題を続けていても誰も正解に至らないから、解読してくれる可能性が最も高そうな才華を狙ったのだろう。
本当に、それだけだろうか?
有瀬先輩の意図は、その一回だけではわかるまい。
「上から目線で気に入らなかったから、『楽勝』って書いてもう一回挟んでおいた」
才華は不満げに振り返るけれど、どこか嬉しそうだ。




