I
「あ、ここは龍が利いているのか……」
覆水盆に返らず――英語圏でも「零れたミルク」と類似した表現がなされるように、誰にでもわかりやすく、真理を射抜く言葉である。仕損じたことを後悔する気持ちに、嘆いても仕方がないという正論。どちらも万国共通なのだ。
この言葉は、将棋をしているとしばしば噛みしめることになる。
将棋において「待った」とは最も幼稚な行いのひとつである。それも、一時の恥という問題ではなく、「待ったをする人」というイメージは一生付きまとう。信頼を失うくらいならば、自分の悪手で飛車角を失っても文句は言えない。その一手が原因で詰まされようと、感想戦で反省の弁を述べるのが筋だ。
詰将棋をしていても同じである。「もう解けへん」と思って答えのページをめくってから、ごく簡単な解に驚かされることがしょっちゅうだ。でも、「見なかったことにして」とはできない。ごく一瞬でも目にしてしまった詰み筋を忘れるなんて不可能だ。
「はあ、こんなに簡単だったなんて」
中級と題された九手詰め。お小遣いをはたいて買った駒と将棋盤――〆て五〇〇〇円也――で挑む。雨降りの日の自室、ついつい独り言が増えても仕方がない。
姫川先輩から推薦された詰将棋の入門書。図書室から借りてきた。『鉄板の詰将棋道場』という題名の通り、超基本の三手詰めから二一手詰めまで七五問が、初級から有段者級に分けて掲載されている。彼女は中学一年生のときに制覇したというが……ぼくは中級の半ばで行き詰ってしまった。
まだ一九問目か。
返却期限までに終えられるだろうか。
「終わらないかも」
そのとき隣室から、どすん、と低い物音が響いた。
手元では、駒の位置が一ミリほど動いているように見えた。
きょう、おばさんは用事があって外出している。重い何かを落としたらしい物音を立てたのは、おばさんから自室の掃除を言いつけられた同居人の少女、才華以外にありえない。マイペースでずぼらなところのある彼女のことだ、部屋は相当散らかっていたのだろう。
集中力を持ち直して、再度詰将棋に向かう。あれ、いま何手目?
すると今度は、バサバサと何かが崩れる音。
苦戦しているようだ。
一度切れた集中力を戻すには時間がかかる。ぼくは本を閉じ、駒を箱に戻して、自室を出た。そこから一歩横移動して回れ右をすれば、真正面に才華の部屋の扉がある。三秒ほど胸をドキドキさせてから、コンコンとドアをノックする。
「差し支えなければ、手伝おうか?」
はとことはいえ、一年以上同居していたとはいえ、異性の部屋に許可なく入るわけにはいかない。才華は時折平気でぼくの部屋に入ってくるけれど、その逆はインモラルというものだ。
返事がない。
たぶん、整理している荷物の中に興味惹かれるものを見つけてしまい、作業がストップしているのだ。彼女がひとたび没頭すると、外界からの刺激に疎くなる。
「入っちゃうよ」
申し訳なさと恥ずかしさとをいなしつつ、才華の部屋に足を踏み入れる。
「ひどいね、これは」
才華の部屋に入るのは初めてではないけれど、何度見ても同じ感想が漏れる。
床にはプリントやら本やらが散乱していた。勉強机の棚が空っぽになっているから、無理やり押し込んでいたものを床に広げたのだろう。広げられた中に中等部時代はおろか小学生のころのものまで含まれているあたり、彼女がいかに整理整頓を苦手としているかが如実に現れている。
才華の部屋は、装飾も少なく合理性重視でカスタマイズされている。部屋の奥からベッド、クローゼット、勉強机が置かれ、生活の導線が浮かんで見えるようだ。机の背後の本棚には彼女の知的好奇心に応えるべく小説や新書、漫画など雑多な書籍が並ぶ。留学経験があるので洋書があるところと、辞書や辞典の数が多いところがポイントだ。
生活の場としては上々のこの部屋を、本人があまり使いこなせていない。ごちゃごちゃとモノが散乱し、片づけのルールもよくわからない。整然と片づけるというより、手の届くところに置こうとしているのかも。
唯一かわいらしい小物といえば、ベッドの端に置かれたペンギンのぬいぐるみ。随分古いらしく、毛羽だった姿で散らかった本に追いやられているが。
部屋の主、家入才華は、部屋の中央に座りこんでいた。グレーのスウェットと紺のパーカーは、梅雨寒で引っ張り出した厚手のものだ。湿気のため髪の世話が面倒なようで、彼女にしては珍しく髪を束ねている。
「それで、才華は何を見つけたの?」
プリント類を踏まないように気を付けて接近し、彼女が手にしていた紙切れを覗きこむ。
「本のおすすめ? ポップ?」
それは書店でよく見かけるような、手の平ほどの大きさの色紙に本の推薦文が書かれたものだった。ピンクと黄の紙が重ねられ、黄色の縁取りで吹き出しを表現している。細かに書かれた推薦文の脇には、小さな本のイラストも添えられていた。小説のタイトルは『ひらめきの裏側』というらしい。
よくよく見ると、作者と思しき名前がある。
「三年A組 有瀬貫一」
知らない名前だ。
「これ、誰?」
「有瀬貫一。図書委員の一学年上の先輩」
才華が「先輩」と口にすることも珍しいが、それ以上に、図書委員という役職名に驚かされる。ぼくとの下宿生活が始まって――つまり高等部に進級して――から委員会に入ったとは聞かないので、中等部のころの話らしい。
「図書委員がつくるポップなの?」
「うん」
「でも、その有瀬先輩のポップがどうしてうちにあるの?」
問われて、才華はポップを裏返して見せてきた。表の推薦文よりも小さな文字が鉛筆書きされている。
「genafsre ヒントはNDC」
なにこれ?
少なくとも、ぼくに読める単語ではない。そもそも、綴りからして英語とも考えにくい。ましてヒントとは何のことで、NDCも何を意味しているのだろうか。そういう意味不明な羅列から想像することと言えば、才華が興味を持ちそうな可能性が思い浮かぶ。
「もしかして、暗号?」
「そう。三年前に解いちゃったけど」
「なら、なおさらどうして才華がそれを?」
おかしな質問をしたわけでもないのに、才華はきょとん、として二の句が思い浮かばない様子だ。彼女の言葉の代わりに、梅雨の雨音が部屋を満たす。
「自分で持ち帰ったのは憶えているんだけど」
口をヘの字に曲げて、思い出す断片を言葉に紡ごうと考えている。
「意外と思い入れがあったのかも。暗号自体は、なかなか面白かったし」
「どんな暗号だったの?」
部屋の掃除も、詰将棋も一時中断だ。
ばらばらと窓を打ち付ける音色が鬱陶しい。




