I
初夏に相応しい暖かな陽気がぼくたちを照らす。
脚を伸ばしてステップを下り、およそ一時間ぶりにコンクリートを踏みしめる。人と自動車が行き交う雑踏でも、やはり外の空気は清々しい。伸びをすると、肩や腰の関節が鳴いた。
「はあ、イバラギって意外と遠いなぁ」
二年G組のフィールドトリップ――「遠足」という名のほうがしっくりくる行事だ――は、バスを貸し切り、茨城県を目指していた。
「イバラ『キ』だよ、久米。間違えないで」
「ああ、ごめん。わかっていても、『茨木』のほうが言い慣れているものだから」
ぼくの言い間違いを指摘しながら、沼尻さんがバスを降りてきた。水色のパーカーを腰に巻く姿が、いかにも軽快だ。女子サッカー部の練習による小麦色の肌がその為人を物語る、フィールドトリップの実行委員長である。
今回の旅は、ほとんど彼女が仕切っていて、茨城県のキャンプ場を提案したのも彼女であった。
「地元を間違えられたら、結構ショックだよ?」
沼尻さんが笑ってそう言うので、ぼくも笑って謝罪する。
茨城には彼女の祖父をはじめ親戚が多く住んでいるそうで、幹事を務めるにあたっても土地勘が活きたのだろう。渓流が綺麗で、いちご狩りとバーベキューが堪能できる目的地は、東京で有名になっていない「穴場」なのだという。それでも別のクラスと行き先が被ったと聞いたから、高校生の遠足にとって王道的な場所なのかもしれない。
車が通りすぎるのを待って、道路を横切る。
「それにしても、バスで二時間って正直遠いね。関東って、東京にいればどこでも一時間くらいで行けるものと思っていたよ」
「さすがにそれはないって。変な偏見」
「あはは、そうだね。関西と違って関東は平野だから、そう思ったのかも」
「何それ、やっぱり偏見じゃん。久米も東京に来て二年目でしょ? そろそろ慣れようよ」
おっしゃる通りで。
大阪住まいが長かったとはいえ、こちらに来てからの一年も濃密なものだった。天才の巣窟、天保高校にもいまでは違和感なく通えている。そろそろ、ぼくが大阪や関西のアイデンティティをアピールしても、「キャラ作り」に過ぎないのかもしれない。
ここのサービスエリアはカレーパンがお勧め、と残して沼尻さんは友達のもとへと駆けていった。カレーパンを食べてしまうとせっかくのお肉が食べ切れなくなるので、売店ではなくお手洗いに向かうことにする。よっぽど座り疲れたのだろう、膝から変な音がしていた。
出発まで時間があるので、サービスエリアなるものを見物して回ろうと考える。普段は電車をよく利用し、長距離なら新幹線を頼るので、ぼくにとって高速道路は珍しいのだ。バス移動など、それこそ学校の行事でしか経験していない。
とりあえず店舗に入って、うろうろ。渋滞情報の読み方は、正直よくわからない。フリーペーパーが配布されていることも知らなかった。お土産は……通過してしまった街のものも売られているのは、新幹線の駅と同じか。
フードコートを突っ切れば、反対側の出口に着く。すぐ向こうにはコンビニがあった。引き返そうか、と思っていると、コンビニから顔面蒼白の少女がふらふらと覚束ない足取りで姿を見せる。
ゆるくウェーブしたセミロングの黒髪。手足が長くすらりとした長身。襟周りに透かしの入った黒いシャツに、白のブラウスを引っかける。ぴったりと細い濃紺のスキニージーンズは、彼女には眩しいほどに似合ってしまう。
垢抜けたいで立ちは、ともすれば彼女が高校生と思わせない――我が同居人にしてクラスメイト、家入才華だ。
「才華! 見るからに具合が悪いみたいだけれど、大丈夫?」
声をかけられてようやく、ぼくの存在に気がついたらしい。
「あんまり」
大丈夫ではないらしい。
手にはビニール袋。目を凝らしてみるに、酔い止めの箱だ。
「才華、車酔いするタイプなの?」
声を出して返事するのも辛いのか、弱々しく首を横に振った。
そういえば、前日おばさんに酔い止めを持つか訊かれて「要らない」と答えていた。今朝も飲んでいないのだろう。滅多にないと油断していたところを不意に襲われたのでは、対策のしようがない。
一般に高速道路はカーブが少ないので、酔いも一般道や山道よりはマシなはず。しかし、東京都心部は道路が複雑で、カーブも多かった。薄手のブラウスを羽織っただけの恰好で、車内の冷房を浴びていたのも不運だ。加えて、才華は昨晩夜更かししていた――ひとたび何かに興味を持つと、満足するまで本やインターネットで調べてしまう――から、疲れが溜まって酔いやすい状態だったのかもしれない。
もとより細身で色白な才華が体調を崩すと、げっそりとしていまにも倒れてしまいそうに見える。このあともバスに揺られる予定だが、果たして耐えられるだろうか。正直見ていられない。
「バスの座席、替わってもらいなよ。そうだ、沼尻さんの席が一番前だよね。相談しておくよ」
才華は手を挙げてお礼を言う代わりにした。深呼吸して落ち着こうと試みているが、どうにも逆効果のようで、ますます顔色を悪くしている。きょう一日まだ長いのに、これでは行事を楽しむどころか、回復に努めるので精いっぱいだろう。
無理しないでゆっくりバスに戻るよう伝え、ひと足先にバスに戻る。才華の体調不良を先生や沼尻さんに伝えなくてはならない。
バスの乗降口には、早くも沼尻さんが戻っていた。何やら運転手さんと確認することがあったらしく、真剣な面持ちで言葉を交わしている。漏れ聞こえる言葉を拾うと、どうやらルートや到着時間について話しているとわかった。幹事はいろいろと把握していないといけないので大変そうだ。部活に忙しい彼女だからなおさらである。
沼尻さんの用事が終わってから、と声をかけないでいると、彼女がぼくに気がついて声をかけてきた。
「どうかしたの?」
「あ、実はね……」
車酔いの事情を話すと、沼尻さんは「まだ一時間かかるのに」と気の毒そうに眉を寄せ、座席の交換を快諾した。




