III
朝礼までのわずかな時間。江里口さんとは遭遇しないようこっそりと、それでいて時間を無駄にしない大胆な動きで以て、ぼくたちは二年B組の生徒と接触を図った。江里口さんがすでにB組の教室にいることを確認したうえで、下駄箱で待ち伏せをした。
目的の人物が現れたところで「ちょっと」と声をかける。
見た目からして大人しげで、目立つことを好まないタイプの彼女は、下駄箱で声をかけられることも多くないのだろう。優しく声をかけたつもりだったのだけれど、小さく肩を跳ねさせた。
「あ……穂波の友達の」
丸顔に、ちょっと垂れた目尻。長い髪はひとつ結び。ルール通りに着用する制服にも、ワイシャツの第一ボタンを外す遊びはある。ふくよかと言うと言いすぎになるけれど、ワイシャツから覗く首筋や手首は細すぎず、穏やかで健康的な人柄を伝えてくれる。
南原芽以さんは、ぼくたちのことを憶えていてくれていた。
時間を取らせて悪いけれど、と切り出し、江里口さんのことで話がしたいと伝えると、彼女はあからさまに表情を不穏にした。
バレンタインの折に喧嘩をしてしまったふたりは、四月になっても牽制し合っているらしい。およそ二か月が経って未だに関係修復できていないとは驚いてしまうが、それだけに、南原さんには江里口さんの友人として知っていることがあってもいいはずだ。
場所を変える。昇降口近くだが、教室とは反対側の人の少ない廊下だ。
「穂波とは、もうきのうのうちに話したよ」
南原さんは気まずそうにしながらも、ぼくたちに口を開いてくれた。好きな人を知られたり、喧嘩するところを見られたりしている相手を、苦手ながらも無下にもできないのだろう。
「仲直りしようとしたってこと?」
「うん。そりゃ、いつまでも喧嘩したままではいられないでしょ。同じクラスになったわけだし」
いつまでも、と言うからには、もはや喧嘩の原因はないと考えているようだ。つまり、バレンタインのときに生じた誤解と嘘に、南原さんはすでに気が付いている。
「それで、仲直りは――」
南原さんは首を捻った。
「さあ、どちらともいえない感じ。穂波、きのうは朝から沈んでいたから、リアクションが薄くて」
朝――クラス替えの結果を見て沈んでいたのだろう。腕組みして窓際に寄りかかる才華にアイコンタクトを送ると、「だろうね」と言う代わりに小さく肩を竦めた。次に質問するのは才華だ。
「ほかに、江里口が落ちこみそうなことはなかったの? それこそ、クラス替えに愚痴を言っていたとか」
「そんなこと訊かれても、まだほとんど話せていないんだけど。どうして私に訊くの? 本人に訊いたほうが早いんじゃ……」
全き正論である。きのうのきょうの問題なので、しばらくろくに口を利けていない南原さんでは解決策を提示しにくい。そもそも、ぼくたちは当人が口を閉ざしているから困っているのだけれど、実際に声をかけてみたわけでもないのだ。ぼくのように江里口さんからのメールを受け取ったのでなければ、今朝になってけろっと機嫌を直していると考えても無理はない。
それを知ったうえで才華が南原さんと接触を図ったのは、彼女には別の心配があるからだ。南原さんも、薄々とそれに気が付きだしている。
「ねえ、穂波は、平馬と同じクラスになれなかったから気落ちしているんじゃないの?」
声色がわずかばかり強張る。自分に疑いを向けられたと感じたのだろう。
こうなっては話を長引かせられない。南原さんにはお礼を言って、別れることにした。朝礼の時間が迫っているので、教室のある三階まで階段を上りながら南原さんとの会話を振り返る。
「どうだった? 才華の心配は晴れた?」
「微妙」
才華が考慮に入れようとしていたのは、今年からクラスメイトとなった南原さんと江里口さんの関係だ。それも、気まずい関係のまま同じクラスになったことを憂いた、なんて生ぬるい心配ではない。ふたりの関係がさらに悪化してしまった可能性を考えていた。
すなわち、「いじめ」だ。
喧嘩をきっかけに、南原さんが江里口さんに嫌がらせを仕掛けるようになっていたら――ものを隠すとか、謂れのないことを言いふらすとか――同じ教室で二年も過ごさなくてはならないことを、江里口さんは嘆いたことだろう。
とはいえ、才華のジャッジは「杞憂」に傾いている。
「あの江里口が抵抗も反撃もできないほど陰湿な嫌がらせをできるとしたら、わたしたちに向けて『仲直りしようとした』なんて嘘は吐かないと思うの。わたしたちが江里口と初めてクラスメイトになった生徒ならまだしも、そうではないからね」
いじめるなら徹底的にいじめるはずだ、という物騒な仮定ではあるが、一度や二度の衝動的な悪意では、江里口さんの心もそう簡単には折れないだろう。しかも、相手は南原さんだ。大人しい彼女に攻撃的な一面が見出されるとは思えないし、貶めるような解釈になってしまうのは不本意である。
「まあ、わたしが何とかするか……」
教室に入る直前、才華はぽつりと呟いた。
新学期の登校二日目は健康診断だ。二クラスずつ時間帯をずらして、内科から歯科まで体育館や特別教室棟を一周して受診する。まだ授業はなく、午前中のみの登校である。
道すがら、順番が前後するうちに平馬と同じ列に並んだ。運動部の生徒たちは自身の体格を見比べたりもするが、体格に自信のないぼくたち――ぼくは身長、平馬はたぶん体重――は、結果の記されたカードをそれとなく隠しながら言葉を交わす。
「昼飯? いいんじゃないか、用事もないし」
とりあえず、お昼の約束はできた。この話題を活かし、江里口さんの様子も探ってみる。
「そういえば、きのうは江里口さんに会わなかったよね。もしかしてお休みだった?」
知らないふりをして訊いてみると、平馬は「いいや」と言って首を横に振った。万一彼女が平馬にぼくと鉢合わせたことを話していたら大失敗だったのだけれど、その心配はなかった。やはり、江里口さんは平馬に何も伝えていなかったらしい。
「きのうは俺たちがゴキブリの話をしているうちに帰っていたんだろう」
「じゃあ、まだ何も話してないの? 別のクラスになっちゃったのに」
「メールでは話したぞ。俺がスマホを持つようになったから、学校で会わなくても気にならないし、会わない日がたまたま始業式だっただけのことさ」
ぼくが彼女にメールをしたのは深夜。仮に平馬と連絡を取った時間がそれ以前だったなら、恋人と語らったあとも暗澹たる気分を抱いていたことになる。
「残念がっていたんじゃない?」
「ああ、それはもう。家入ちゃんのことをズルいとまで言っていたよ」
からからと笑う平馬。どうやら江里口さんは平馬に落ちこんだところは見せなかったらしい。やはり、見栄を張っていたか。
ただ、それよりも気になるところがある。
「才華に文句を言っていたの?」
「そりゃそうだろ。穂波の奴、『お守りまで買ったのに』って――おっと、これは話すぎたらいけないか」
「え?」
追求しようとしたそのとき、内科検診の順番が回ってきて、カーテンで離れ離れにされてしまった。




