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才華の本棚  作者: 大和麻也
Episode.06 ○○のいない教室
21/40

I

 期待に胸膨らむ新学期。

 進級前からの友人と他愛無い事件を議論して過ごした放課後。背後に感じた気配を追って、才華たちとは反対向きに廊下を歩む。振り返る窓の外には、遠くにちらちらとピンク色に色づいた桜の木が見えた。

 F組教室の後方のドアから、室内を覗きこむ。黒板に連絡事項が書き残されているが、誰もいないらしい。気配を感じたのは勘違いだったのだろうか。

 もう一歩踏み出して、身体を乗りだす。

 ドアの裏側、死角になる位置に彼女が佇んでいた。


「江里口さん……?」


 はっとする。

 才華に平馬、蓮田さんとともに過ごした放課後。ぼくたちが集まるとき、決まって輪に加わっていた江里口さんが、きょうは一緒にいなかった。特に気にも留めていなかったけれど、もしかすると、とても悪いことをしてしまったのではないか。

 にわかに、反省の感情が滲み出てくる。

 たまたま彼女に会わなかっただけならば、ぼくはこんなにも胸を痛めなかっただろう。しかし、彼女の目は潤んでいた。強く唇を結んでいた。悲しそうに、不安そうに、悔しそうに、怒ったように、いたたまれないように。

 彼女はぼくと目を合わせてくれなかった。ドアに寄り掛かって、二メートルほど先の床だか机だかをぼんやりと見つめている。言葉はなくても、明らかに「あっち行け」と訴えかけていた。

「弥、どうしたの?」

 遠くから才華の声がした。

「いま行くよ」

 ごめんね、と江里口さんに言いたかったけれど、声には出せなかった。

 踵を返して、せめてぼくがF組を覗いていたことが知れないよう、駆け足で才華たちを追いかけた。



 江里口穂波という人を、改めて振り返ってみる。

 背は低い。ぼくより一〇センチくらいは低いだろうか。全体に小柄で、恰幅の良い運動部の生徒と比べたら、肩幅は半分もなくて、ウェストなど太ももよりも細いくらいに見える。手足が短く近眼もひどいため、運動は苦手。

 代わりに頭の回転が速く、学業は優秀。サブカルチャーを好む理系で、美術部で絵画の腕を磨く芸術家気質でもある。中等部のころは漫画研究部に所属していたと聞く。

 小ぢんまりとして物静かそうな外見とは裏腹に、攻撃的な口調が癖になっている。乱暴な言葉遣いで、皮肉や暴言にも近いフレーズを繰り出す。特に、犬猿の仲――もしくは、喧嘩するほど仲のいい――才華と向かい合ったときには、遠慮のない物言いで対決する。

 そんな性格の激しさは、間違いなく彼女の真面目な性分からくるものだ。筋を通すことに重きを置き、誰かが傷つくことを許さない。そういった几帳面さや正義感が苛烈に熱しやすいので、彼女の言葉遣いまでも鋭く磨かれていったのだろう。気まぐれで人情に疎いところのある才華とは、対立しやすくても仕方がない。

 しかし、彼女の芯の強さは本物だ。

 彼女のハートは、あるいは脆いところもあるかもしれない。自身の正義が貫き通せないときや、解決策とならなかったときには、無力感や劣等感に苛まれることもあるようだ。それでも、心がぽっきりと折れてしまったさまは見たことがない。

 無敵ではないにせよ、固く鍛えられたものを持ち合わせている。

 それだけに、彼女が涙を流す場面が網膜に焼き付いている。ふと目を閉じるたびに、あの表情が思い浮かんでしまうのだ。あまりにもショックだった。出会ってから一年、彼女の強いところも弱いところも見た気になっていたけれど、本当は、彼女の見せる表情の一割も見ていなかったのかもしれない。

 江里口さんほどの人が、放課後にひとりで泣いているなんて。

 今朝配られていた名簿を確認すると、彼女の名前はB組にあった。恋人である平馬とは昨年別のクラス、来年はクラス替えがないので、高校三年間カップルで同じクラスにはなれないことになる。ふたりにとっては大きな問題だったかもしれない。

 しかし、クラスが気に入らなかったからといって泣いてしまう性格とも思えない。大げさなリアクションに思えてしまう。ふたりの交際関係――それも、熟年夫婦の落ち着きとバカップルの粘着度を兼ね備えた独特の関係――が解消されるわけではないのだから。むしろまったく動じないで、「会えない時間が絆を強くする」などと言いだしかねない。

 別の問題だとすると、ぼくたちが江里口さん抜きで放課後の時間を楽しんでしまったことが、彼女を傷つけてしまったのだろうか。仲間外れにされるだけでも苦しかろうが、あの場には平馬と蓮田さんがいた。ふたりは付き合いが長くて親しいので、恋人の心が自分から離れてしまったと感じた……なんてことも?

 いや、江里口さんのイメージと一致しない。

 ぼくのイメージが誤りなら仕方がないし、江里口さんの涙の理由はそもそもひとつに定まらないと考えたほうがいい。でも、彼女はぼくたちの輪に加わることもできたはずだ。同じクラスになれなかったとか、平馬と蓮田さんが親しそうにしていたとか、そのくらいのわかりきった事実で、輪に入っていく気力さえ失ってしまうものだろうか。

 平馬なら理由に心当たりがあるだろうか?

 平馬に訊くにしても、彼は自分の交際相手の様子に気が付いていないとも考えられる。江里口さんは強がりで見栄っ張りなところがあり、平馬を前にしてもそのきらいがあるから、落ちこんだ気分を他人に見せまいとしそうだ。ぼくたちの前から隠れ、声をかけてこなかったことからしても、平馬には隠していたいとも考えられる。

 だとすれば、下手に探りを入れるよりそれとなく励ます方法を考えたほうが得策に思えてきた。もとより、複雑な心模様に一定の解を与えるべきではない。対症療法でも充分なのだ。

 そのとき、部屋がノックされていたことにようやく気が付いた。

「弥、いるでしょ?」

「ああ、ごめん。開けていいよ」

 ベッドから飛び起きて、扉を開いた才華を迎える。スウェット姿の彼女の肌には、まだお風呂上がりの熱が残っているようだった。甘い香りは、ドライヤーをかけた髪からシャンプーが香るのか――否、それよりももっとはっきりと甘く香っている。

 才華は手にマグカップを握っていた。

「おばさんがココアを淹れるから、飲むかって訊いたでしょ」

「ああ、返事していなかったっけ? ありがとう、持ってきてくれて」

 ありがたく、甘い湯気が立ち上るそれを受け取った。

「宿題は……まだ出ていないよね。何をしていたの?」

 ああ、それは考え事を――なんて切り出すわけにはいかない。

 推理力に優れる才華に頼れば、江里口さんの悩みを解き明かしたり、励ましたりする術が見つかるかもしれない。しかし、江里口さんにとって最も弱みを見せたくない相手が才華である。才華に余計なことを話して、根掘り葉掘り穿った見方をされたら、当事者は良い思いをしないだろう。まして、才華は少々人情に疎いところがある。江里口さんのプライドを守るには、黙っておいたほうがよさそうだ。

 うとうとしていたんだ、と適当に返すと、「まだ九時前なのに」と訝しがる。

「わたしに隠し事は無意味だからね?」

 自信満々な捨て台詞とともに、才華はそっと扉を閉じた。

 彼女の言う通り、隠し事はできそうにない。相手が悪すぎる。

 なんたって、隠し事をしたことがさっそくバレてしまっているのだから。




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