IV
クラスメイトの大半が教室を去った。食堂で新たな級友と親交を深めたり、新学期早々に部活に精を出したりするのだろう。良い意味で閑散としつつある教室に、真面目なのかふざけているのか、黒光りするあいつのことを語らう生徒が四人。
おぞましい敵に恐怖し、発生源の特定を求める蓮田祥子。
その蓮田さんをわざと怖がらせて面白がる友人、平馬梓。
見間違いで済む事件を大事にされて戸惑うぼく、久米弥。
そしてこの場の主役、気まぐれな天才少女の家入才華は、これまでの情報を総合しながら、「蓮田さんが見たGは、GはGでもゲンゴロウだった」というトンデモ論理を展開しようとしている。
「平馬くんが最初に疑問として提示してくれたように、Gすら珍しいのに、デュビアのような外国産のGが教室を駆けまわっていた。ただし、生物部からの脱走は考えにくい。となると、そもそもGがデュビアではなかったと考えるほうが自然だよ。真知子さんも、じっくり見たわけではないでしょう?」
「だから、祥子だよ」
名前を訂正しつつも、蓮田さんは敵をしっかりと目撃したのではないと証言する。
「ゲンゴロウと言うと、水生昆虫の?」
平馬が問うと、才華は頷いた。
ゲンゴロウ。池や田んぼなどの水辺に暮らしていて、泳いだり潜ったりしながら弱った魚や他の水生昆虫を捕食する昆虫だ。実物を見たことはないが、水の中に暮らす、というインパクトある図鑑の描写をよく憶えている。イラストでは、黒光りする翅を備え、卵型の胴の周囲は黄色っぽく縁どられていた。
なるほど、デュビアと共通した特徴を持っているともいえる。ただ、Gに最も特徴的な長い触角は、ゲンゴロウにはない。両者を見間違えるのも、無茶な気もするが。
そもそも、水生昆虫が教室に現れるとはどういうことか。正直に疑問を口にしてみると、平馬が答えた。
「ゲンゴロウも空を飛べるぞ」
いや、そういう問題と違う。
空を飛ぶことができるからって、校舎の三階までやってくるだろうか。そもそも、東京中央部のベッドタウン、窪寺市にゲンゴロウの生息環境がどれだけあるかも疑わしい。ともすれば、ゲンゴロウなどデュビアよりも珍しい。
「弥の言いたいこともわかるよ」才華は調子づいて腕を組む。「でも、実はゲンゴロウもそれほど入手は難しくないの」
そらそうだ。デュビアは飼料用として普及しているとはいえ外来種。ゲンゴロウの生息地のほうが身近なのだから、手に入れやすかろう。
うん?
手に入れるって?
嫌な予感がする、耳を塞いでおこう。
「食用に売られているもの」
才華の一言に、数秒遅れて蓮田さんが悲鳴を上げた。
耳を塞ぐのがもう少し遅かったら、危ないところだった。
「ちょっと、いくらGじゃないからって、虫が気持ち悪いことには変わりないんだから!」
いよいよ蓮田さんも、茶化されていることを自覚しだしたようだ。
それにしても、ゲンゴロウを食用にするとは。いまでこそ滅多にお目にかかれない昆虫でも、かつては取って食うくらいにありふれていたのだろう。また、親しみがないだけで昆虫食自体はごく一般的な習慣であり、イナゴとかハチノコとか、いくつかの例が思い浮かぶ。
どうやって食べるのだろうか。虫を食べるときといえば、甘辛く炒め煮にするとか、素揚げにするとかいうパターンが多いと思う。才華が「Gと見紛う」と推定するからには、原形を留めているのだろう。
ううん、目隠しできるなら食べてもいいかな。
「仮に食べられる虫がいたとして」
蓮田さんの質問に、はっと我に返る。昆虫食に気を取られ過ぎていた。彼女は、「虫が食べられる」という事実すら生理的に受け容れられない様子だ。
「そんなものを誰が学校に持ってきたの? なんのつもりで?」
才華は手を広げた。
「知らないよ、いくらでも考えられる。好物で常に持ち歩く人がいるかもしれない。お土産として買ってきた、なんてこともありそう。それこそ、人を驚かすつもりで持ってきた可能性も否定できないよね」
「そんな!」
いま最も恐れている場合を否定してもらえず、蓮田さんは悲壮な声を上げた。彼女はできることならGと出会うことなく学校生活を送りたい。しかし、Gとの遭遇が誰かの作為で、その犯人が明らかにされないのでは、今後もGの気配に怯えて過ごすことになる。
目の前で何度も大声を出されて、才華はいい加減クラクラしはじめているらしい。きゅっと目を閉じて息を吐くと、最後の推理を捲し立てる。
「とはいえ、誰かを狙って持ってきたものではないと思うよ。終礼中にけしかけるメリットがないからね。クラス分けも座席の位置もわからないのにゲンゴロウを準備しても失敗しかねないし、偶然条件が揃ったとしても、放課後や朝に仕掛けたほうがバレにくい。
予め仕掛けておいたとも考えにくい。荷物の下に都合よく隠れてくれる保証はないし、狙いと違うタイミングで気づかれても厄介。別の同級生に発見されるリスクもある。万が一踏みつぶされたら驚かすこともできない。
ここまで消去法で、要約するに、偶然ゲンゴロウが落ちていた状況しか考えられないってわけ」
性格の悪い論理が続いたけれど、まあ、概ね正論である。
とはいえ「偶然ゲンゴロウが教室に転がっていた」というのも、あまりに珍妙なシチュエーションだ。その旨尋ねると、彼女は「たぶん」と切り出した。
「エイプリルフールのイタズラとか?」
「エイプリルフール?」
「震災の影響で春休み中の部活は自粛されていた。例外はともかく、校舎に出入りした生徒は少ない。となれば、教室にやってくるのは主に先生たち。生徒のいない校舎で、先生同士息抜きにイタズラを仕掛けていたんじゃない? そのときに落としたのだと思う」
そんな、無茶苦茶な論理ではないか。
何も、先生方が職場でふざけていたことを責めたいのではない。
そもそも二年H組にゲンゴロウが転がっている状況が考えにくいのだ。H組教室でイタズラ大会を開き、そこでブツが落ちたとしても、確実に綺麗にされてしまう――天保の校舎には清掃業者が来るのだから!
才華の論理には、ぼくにも見抜ける陥穽がほかにもある。蓮田さんが目撃したGが、一般的な種ではなく卵型の丸っこい虫であった、という前提だ。平馬はこれをデュビアと推定し、才華はゲンゴロウと考えた。しかし、蓮田さんは一貫して「Gを見た」としか言っていない。この前提は平馬が勝手に作ってしまったものだ。
こんな無理な仮説を立てるなんて、才華らしくもない。
いや、待てよ。
ぼくのほうが冷静になるべきかもしれない。
「才華さん、いったい何が言いたいの?」
さんざん振り回されてきた蓮田さんが、ついに核心を問うた。
その問いを才華は待ちわびていた。「もう語りつくした」とでも言うように、机に頬杖を突いた。
「そんなの簡単な話。Gなんて最初からいなかったってこと」
ぼくは肝心なことを見逃していた。
才華は確かに蓮田さんを茶化そうとしていたけれど、同時に彼女の最初の求めである「Gの発生源を突き止める」ことにしっかりと協力していたのだ!
学校にGはいない、いたとしても限られた場所にしかいないので、教室で出会うことはない。このことからぼくは見間違いの可能性を指摘したが、納得してもらえなかった。そこで才華は、確かに見間違いなのだが、そうでないとしてもGではないと示そうとしたのだ。
「すごい! ありがとう、才華さん! Gがいないとわかれば安心して学校に通えるよ」
狙い通り、蓮田さんは才華の解決を歓迎した。
「はいはい。これで終わり、帰るよ」
まとわりつこうとする蓮田さんを押しのけて、才華が立ち上がる。気が付けば教室に残った最後の四人になってしまった。そろそろお昼ご飯の時間だ。くだらないことを話していても、時間はあっという間に過ぎてしまう。
荷物をまとめ、才華をお昼ご飯に連れて行こうとする蓮田さんと揉めながら、ぞろぞろと教室を後にする。
他愛無いやり取りだったのに、教室を出るのが名残惜しいとは。
「うん?」
教室の明かりを消し、四人のうち一番後ろに続こうとしたとき、背後に気配を感じた。隣の教室、F組だ。人の声は聞こえないから、そこは無人のはず。
まさか噂のGではないよね。ひとりで、くすり。
つい気になって、F組を覗きこんでみると――




