III
スマートフォンをつんつんと操作しつつ、平馬が蓮田さんに問う。
「なあ、蓮田。お前が見たゴキブリ、普通と違わなかったか?」
「そうだったかなぁ? 一瞬だったからわからないし、見たくもないし……」
そう言って何気なく振り返った蓮田さんに、平馬が液晶を向ける。
「こんなゴキブリじゃなかったか?」
耳を塞ぐ。
女子高校生の金切り声が響いた。
平馬の魂胆に気が付いて耳を塞がなければ、危ないところだった。
「見せるなよ、バカ!」
怒りに任せて蓮田さんが平馬の肩に拳を振り下ろす。イタズラの主は「痛いな」と言いつつ甘んじてそれを受けた。まったく、手に入れて間もないスマートフォンをそんな悪行に用いるとは。
突然の悲鳴にまたしても教室中の注目が集まる。居心地悪そうに、才華は声を低くした。
「どんなゴキブリなの? 見せて」
平馬からスマートフォンを受け取る。
ぼくも恐る恐る画面を覗きこんでみると、どうやら画像検索を用いて表示した画像のようだ。大きく映し出されているのは、黒く丸っこい生き物である。
形は平たく小判型。黒光りする翅がない――というか、小さいようだ。代わりに節が並んでいて、両脇に黄色っぽい斑点が浮かぶ。その胴体からは、毛羽だった脚が六本。
ぴん、と撥ねた特徴的な触角がなければ、一見しただけではゴキブリとは別の生物にも思えてしまう風貌だ。確かに気持ち悪いといえば悪いのだが、ゴキブリを連想しなければ丸っこい姿には愛らしさも……なくはない。
これを見て驚くとは、蓮田さんはゴキブリに限らず相当虫が嫌いなのだろう。
「このゴキブリは――」
「ちょっと、気持ち悪いからあんまり連呼しないでよ」
蓮田さんに口を挟まれ、才華は言葉を改める。
「じゃあ、仮にGと呼ぶけど」スマートフォンを平馬に返し、興味深そうに尋ねる。「その丸っこい奴は、家に出る奴とどう違うの? 外来種?」
「そうそう、舶来モノ。デュビアと呼ぶそうだ」平馬が飄々と応える。「ペットとして飼うこともできるが、目的はもっぱら飼料用なんだと。時々しか飛ばなくて、のろま、栄養価も高く、よく殖えるからちょうどいいらしい」
蓮田さんは顔を青くして顔を歪める。妖怪の話か何かに聞こえるのだろう。長い髪をハーフアップにまとめたお嬢様ふうの容姿は、Gへの恐怖と騒ぎまくった疲れで台無しになっている。
まあ、蓮田さんのためだ。心を鬼にして、Gの話を進めよう。
「飼料用ってことは、生物部かい?」
「お、察しがいいな。その通り、生物部で爬虫類のエサにしているGだ」
「つまり、脱走?」
「いや、たぶん違う。クラスメイトに見知った生物部員がいたから訊いてみたが、デュビアの管理は厳重で、いままで一度も逃がしたことはないそうだ」
おや、脱走事件ではないのか。
急に特殊なGを話題に挙げるから、てっきり生物部からの脱走が真相なのかと思った。確かに、生物部としては大切なエサだ。逃げられたときの迷惑も考えれば、当然、特に注意して飼育しなければならない。
平馬は「卵のパックでぎっしり育てて殖やすんだぞ」とわざわざ説明し、またしても蓮田さんに悲鳴を上げさせる。
「爬虫類を飼うのでもなければ、デュビアを飼うのは珍しいんでしょ?」
才華が話を戻すと、彼は頷く。
「ああ、それこそ生物部で繁殖している個体くらいしか、天保の教室に現れるデュビアはいないだろう」
「でも、それならデュビアはどうして教室に?」
「それが面白いところだ」
目を輝かせて議論するふたりに、今度はぼくと蓮田さんが呆れてしまう。
「この件が不思議なのは、清潔でG自体が珍しい教室に、あろうことか南米出身のメジャーリーガーが潜んでいたことだ。この原因をどう考える?」
彼の問いかけに、三者三様に応答する。
「脱走した個体が繁殖した」と蓮田さん。
「生物部が脱走を見逃した」とぼく。
「誰かが故意に連れてきた」と才華。
平馬の口角がにやりと動いたのは、才華が意見を述べたときだった。
「そう、連れてくるしかないんだよ。これはきっと、蓮田を良く思わない何者かが仕組んで、きょうを狙ってGを蓮田に仕向けたに違いない」
おっと、トンデモ推理を投じてきたぞ。
ぼくが平馬の推理を聞いたところで、「からかっているだけか」と呆れるだけだ。しかし、大の苦手であるGが何者かの仕業であると言われたら、本人は黙っていられない。平馬のいいかげんな論理を責める気持ちも重なって、声を荒らげる。
「何それ! 私、誰かに恨まれるようなことは何もしていないよ」
ところが、平馬のほうが一枚上手だ。
「それはわからないぞ。新年度なんだから、吹奏楽部のパートリーダーの座をめぐる争いがすでに始まっているのかもしれない」
「それはないよ、吹奏楽部はそんなにギスギスしないもん」
「いや、地震のせいで春休み中の部活は自粛だった。お前がほかの部員と会わないうちに、評価が変わることもあろう。それに、新入生だって入部する。Gで襲撃しようと思う奴がいないとも限らない」
「だったら、生物部だって学校に来ていないでしょ?」
「例外はあった。大会中の部や、毎日登校が必要な部の生徒は学校に来ていた。それが生物部だ。生物部員は分担して学校に残された生き物を世話していた。部員か、部員の目を盗んだ別の誰かがデュビアを盗み出したと考えられる」
かなり適当な論理で以て、蓮田さんを言いくるめてしまう。騒ぎがGではなく、蓮田さんももう少し冷静なら、この程度でからかわれたりはしないだろうに。
すぐに終わるだろう、と呆れつつ見守っていると、もうひとり、蓮田さんをからかおうとする人物がいたことを思い出す。
「平馬くん、その理屈はおかしいよ」
才華は、平馬のわかりきった嘘を大真面目に否定しはじめる。
「Gをけしかけるなんて、あまりにも不確実だよ。生き物がどちらに歩いていくかなんて、よほど限られた状況でないと予測できない。個人を狙うことはほとんど無理だね」
おお、と蓮田さんが声を上げる。頼りの才華が味方してくれたと思っているのだろうけれど、本当はそうではない。蓮田さんの立場を守るために、わざわざ平馬の説を潰す必要はないのだ。
ううん、と平馬は移る。推理の主導権は才華に移った。
「やっぱり育子さんの見間違いだと思うの」
「祥子だよ」
おや、才華がぼくの意見を支持しようとしているのかな。
才華なら、ぼく以上に説得力ある論理で見間違いを証明してくれるかもしれない。ぼくが言っても納得できないけれど、才華が言えば素直に聞いてくれるはずだ。これまでも蓮田さんをからかう素振りは見せていないし、実は最初からからかうつもりはなかったのではないか。
彼女は興味の有無で物事を判断する。蓮田さんのことを苦手に思っていようと、面白がっていようと関係ない。この事件に興味を持ってくれていたなら、それを解き明かすために全力を尽くすだろう。
神妙な面持ちで口を開く。
「ゲンゴロウを見たんだと思うの」
「は?」