II
新しいクラスメイトたちの自己紹介についていくのがやっとで、二年G組での初日はあっという間に過ぎてしまった。
天保学園は初等部、中等部からの内部進学生が多い。その間のクラス替えや部活動で知り合いを増やしている同級生たちは、自己紹介もそれなりに済ませてしまう。その点、高校から入学し、少人数の将棋部に所属するぼくは不利だ。記憶力に自信があっても、初日でクラスに馴染むのは難しい。
全日程が終わり、先生が教室を去ったところで、そそくさと荷物をまとめる。ふらっと立ち歩いて赴ける先は、窓際の最前列、才華の座席だけだ。
彼女もまた、初日からマイペースに自席で黙って過ごしていた。他人にあまり興味を持たないタイプだし、周囲もそれを把握している。「面倒くさい子」というイメージは、二年生になっても変わらないらしい。
才華、と口を開きかけたところだった。
「才華さん!」
バタバタと教室前方のドアから女子生徒が飛び込んできた。教卓付近にたむろしていた同級生数人を蹴散らし、半ば頭から転ぶようにして才華の机に飛びつく。寸でのところで机にしがみつき、転倒を回避した。
教室中の注目を浴びながら、彼女は息を整える間もなく再度大声で呼びかける。
「才華さん!」
「……わかったから、大声はやめて」
やかましい闖入者に縋りつかれた才華は、頭が痛い様子で顔を背けた。
「ええと……陽子さん?」
「祥子だよ。蓮田、祥子」
才華に名前を間違えられる彼女は、広くいえば才華の友達だ。良くも悪くも才華のことが大好きな、ちょっぴりドジで賑やかな人である。
「蓮田さん。そんなに騒いでどうしたの?」
才華に抱き着こうとしているところを制止して尋ねると、蓮田さんは嫌がる顔を隠そうともしなかった。
「ああ、久米くん。才華さん、久米くんと同じクラスなの? 家でも学校でも一緒なんて、これからの二年、災難だね」
そう、良くも悪くも、才華を好きな子なのだ。ぼくは彼女に言わせればお邪魔虫。
悪意なき敵意にちょっとばかり心を痛めていると、またひとり来客が現れる。ポケットに手を突っ込み、ニヤニヤと笑いながらやって来たのは、昨年クラスメイトとしてよく見知った平馬梓であった。
「なるほど、家入ちゃんに頼めば何かわかるだろうな」
平馬は江里口さんと付き合っているが、聞いた話では、蓮田さんとはそれ以前からの友達だという。蓮田さんが才華に飛びついてくる何らかの「事件」についても何か知っているようだ。
「隣の教室で大変なものを見てしまったんだ。解決してやってくれ」
まだどのクラスも終礼から間もないし、彼の口ぶりから察するに、平馬と蓮田さんは同じクラスになったようだ。ポケットに入れていた表で確認してみると、ふたりはともにH組。確かに、隣の教室だ。
蓮田さんを引きはがそうとする才華も、何事かあったとわかれば興味を持つ。
「何を見たの?」
「それは……ああ、ダメ。口にするのも恐ろしい。それだけでも気持ち悪いもの」
オバケでも見たんやろか。
相談者たる蓮田さんが口籠るところを、配慮を欠いた才華はずばり言葉にしてしまう。
「ゴキブリでも見たのね」
「どうしてわかったの? さすが才華さん!」
失敗した、と苦々しく眉を顰める才華。彼女とて、時には考えなしに思いついて喋ることはある。
それにしても、なんだ、ゴキブリか。
その程度のことで大騒ぎしてしまうとは、それはそれで蓮田さんらしいのかもしれない。苦手な人が多いのは承知しているし、ぼくだって決して得意ではないけれど、正直、虫の一匹や二匹、日常の一部だと思う。大阪の実家でも、東京の下宿でも、暖かい季節なら何度か対戦する。
騒ぎの原因を突き止めた――推理ではなく偶然だったが――となれば、蓮田さんはいよいよ才華を離そうとしない。肩を掴んで揺さぶりながら、
「とにかく、助けて!」
才華はすっかり呆れた表情だ。彼女はゴキブリと相対しても、焦ることなく冷静に殺虫剤を手に取って、冷酷に処刑を執行してしまう。蓮田さんの鬱陶しさもあって、親身になれないようだ。
「いまからH組に行って、潰して殺せとでも?」
相手は生き物だ。これから決闘を挑んでも、すでに違う場所に去っているかもしれない。
しかし、蓮田さんの要求はそれ以上だった。
「一匹や二匹殺したってどうにもならないよ! 一匹見たら一〇〇匹はいるんだから。発生源を突き止めて一網打尽にしないと。才華さんの推理で見つけてほしいの」
ガス漏れでもあるまいし、ゴキブリに発生源も何もあるのだろうか。
焦っている蓮田さんを落ち着かせる意味も兼ねて、どのような状況で見つけたのかを尋ねる。
「終礼が済んで、鞄を机に上げようと下を向いたとき。鞄を少し持ち上げた瞬間、鞄の下から、カサカサって」
思い出すだけで気持ちが悪いらしく、自分の身体を抱いている。そんなところを悪いけれど、客観的に考えられないのでは話にならない。考えの助けになるよう、質問を重ねていく。
「鞄はどのように置いてあったの?」
「机の脇に置いてあった。たまたま、荷物をかけるフックが壊れた机だったから」
「走っていった方向は?」
「左のほうに。別の人の机の下に走っていったから、すぐ見えなくなっちゃった」
「座席の位置は?」
「廊下側。鞄を置いていたのは、左の通路側」
終礼が終わったその瞬間。机の左側、通路に鞄を置いていた。それを動かした瞬間、蓮田さんから離れていく方向に走り去った。級友たちの足元へ逃げたので、たちまち姿をくらませてしまった。
……うん?
それって?
「周りの座席にお休みの人はいた?」
「いや、クラス全員出席していたよ。それが何?」
だよね。
だとすると、ぼくが思いつく可能性はひとつ。
「見間違いやない?」
変な話、虫の気持ちになってみよう。薄暗い鞄の下に隠れていて、急に明るくなったので驚いて逃げ出した。その先が人間の足元というのは妙ではないか。蓮田さんの座席は壁際なので、そちらを目指して逃げたほうが危険は少なそうに思う。
そして、隣の座席には同級生が座っていたはずだ。その人物も鞄を机の横のフックにかけていたとする。終礼が終わって鞄を手に取ったとき、鞄に付けていたストラップがすっと動いたなら――おそらく、蓮田さんの証言するような見え方にもなりそうだ。
ストラップも、たとえばラバーストラップなら、裏側の黒光りする感じがふと見たときにゴキブリと似ているかもしれない。床を這うものに悪いイメージが強くこびりついていたら、そうでないものがそう見えることもあろう。
正直自信のある推理だったが、
「ありえない! あれは絶対に本物だった!」
目撃者は認めるつもりがないらしい。見間違いと思っていられるほうが幸せだと思うのだけれど。
でも、どう考えても見間違いだ。天保高校の校舎は、生徒の清掃に加えて業者による清掃も行われているので、とても清潔である。ゴミ捨て場でもなければ、校内をゴキブリが走っていること自体珍しい。一階ならまだしも、二年の教室は三階。それらしい状況が周囲にあったなら、見間違い以外の可能性はかなり低い。
「そうかなぁ?」
今度は、ぼくが助けを求める番だ。才華も平馬も、蓮田さんが見間違いをしたことには気が付いているはずだ。どうにか、この誤解を解いてほしい。
しかし。
ふたりは、それぞれにニヤニヤとあくどい笑みを浮かべている。
あかん、蓮田さんをからかうつもりや。