I
「そのときが来る」と思っている物事ほど、その瞬間を待つ時間を長く感じ、終わったときには呆気ない。
たとえば始業式。その日が来ることは一か月も前からわかっている。しかし、春休みの時間は思いのほか長い。朝目を覚ましてカレンダーを見、「まだか」という日を繰り返す。当日までの日数をカウントダウンして、一生そのときが来ないのではないかと錯覚してしまう。
制服に着替え、玄関を出たとしよう。ところが、「本当に始業式がやって来るのだろうか?」という不安に襲われるくらい、学校が遠い。一歩あたり一秒にも満たないはずの時間が、二秒にも三秒にも感じる。ぼくが学校に到着しない可能性を想像し、「ぼくが登校することで始業式が行われる未来が確定するのであって、そうしなければ別の未来があるはずだ」などと哲学的な何かを思索してみる。
でも、校門に着いてみると、それまでの嘘のように長い時間が、本当に嘘だったと証明される。待ちくたびれる焦燥が、あっという間に過ぎてしまった感慨に置き換わるのだ。「ええ! ぼくが『あと三日』と思っていたのは、もう三日も前のことなの?」
たぶん、三日前にそう思った自分が、いまの自分を決定しているのだ。三日前にそう思わなければ、いまのぼくがどう感じていたかわからない。まあ、どこかで風が吹いて桶屋の商売が繁盛したせいかもしれないけれど。
始業式。桜の咲く季節。天保高校。
東京で迎える二年目の四月だ。
昨年と違うのは、可憐にして麗しい、すらりと背の高い同居人の少女――家入才華が隣にいること。
「不思議な感覚だ……」
独り言が漏れ、才華に首を傾がれる。
「何が?」
「いや、いろいろと」
以前なら考えられないことだった。同級生が下宿で同じ屋根の下、というのは、知られて困ることではないけれど、言いふらすことでもなかった。日頃一緒に行動することも多いので、ぼくたちを交際関係にあると思い込んでいる人も少なくない。こういう人たちに同居の事情を説明するのは正直面倒だった。ちょっとばかり恥ずかしさもあって、時間をずらして登下校することも。
それが時とともに友人たちに知られるようになって、いまでは隠す必要もなくなった。依然いやらしい噂は流されるし、時々「同伴出勤」とからかわれる。でも、はとことして血縁があることをアピールすれば納得してもらえることも増えた。
「クラス分けの表を受け取れるんだよね?」
「うん。あそこみたい」
才華が指さして教えてくれなくても、その人だかりには気がついていた。学年主任の先生と、それに群がる一年生――もとい、新二年生たちだ。
おしくらまんじゅう、と形容するには穏やかすぎる。先生は「並べ、並べ」と指示しているが、誰も聞こうとしない。うっかりすると突き飛ばされてしまいそうだ。クラス替えが気になる気持ちを思えば、興奮するのも当然だろう。
「あの中に入るの?」
「まあ、他に手もないからね」
戦闘準備。
よし、突入。
何人かの同級生に蹴散らされ、また何人かの同級生を蹴散らして人混みを掻き分ける。高等部のクラス替えは三年生では実施されず、一年生の入学は翌日なので、ライバルは同級生たちに限られる。それでも一〇クラスあるので、この人だかりをひとりで裁こうとする学年主任には敬服してしまう。
ようやく一枚、目的の紙を入手した。
人だかりを抜け出し、ふう、と一息。
黄色いB4用紙、ふたつ折り。表紙は始業式にまつわる連絡事項が記されているので、名簿は織り込まれた内側にあるらしい。ドキドキしながら用紙を開け、というわけだ。憎い演出ではないか。
も一度、深呼吸。
決心して、紙を開く。「久米」の「く」の出席番号は、決まって前半でもなく、かといって中盤以降にもなりにくい微妙な順番にある。過去には四番から一五番まで経験し、去年は一二番だった。おかげで、探すのにちょっと苦労する。
この探している時間のなんと長いことか。本当に探し出せるのか、不安になってくる。ひょっとして学校から忘れられていて、名簿に載っていない可能性はないだろうか。
一方で、才華は「いえ」と続く「家入」姓なので、出席番号はかなりの確率で一番になる。遅くても三番くらいだろう。そのため、名簿の先頭に挙げられる才華の名前を、自分の名前より先に発見する。
ふうん、G組か。
そんな良い偶然はないだろう、と思いつつ視線を下に進めていく。
ありえないと思っていないと、実現しないような気がする。「もしかして?」と思ったときほど、ろくな結果にならない。こういうことも、自分が世界の決定者であるような感覚を裏付ける。ぼくが名簿を見るまでクラスは決まっていなくて、ぼくが名簿を見ることでクラスが分かれるとしたら、頷ける話ではないだろうか。どこかで蝶々が羽ばたいた効果かもしれないけれど。
お、見つけたぞ。一〇番、久米弥。
ん?
「同じクラスだね」
ぼくの背後に、いつの間にか人混みを抜け出した才華がいた。
「あ、うん」
返事を絞りだす。
「そうみたい……奇遇だよね」
「朝子おばちゃんが学校に言ったのかも」
「え、おばさんが?」
「保護者会とか面談とか、減らせるから」
「ああ……言いかねない」
才華が皮肉でもなく冗談を言うなんて、意外と珍しい気がする。それくらい、才華も喜んでくれているのだろうか――いや、これは、彼女の背後に重なる桜色に、ぼくの脳が浮かれているだけだ。
でも、安心しているのはお互い様ではないかな。
「家でもしょっちゅう顔を合わせるけど」
名簿を小さく畳んでポケットに入れ、才華はぼくに向き直る。ぼくも同じようにB4用紙を収納し、背筋を伸ばす。
「クラスでもよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
綺麗に色づいた桜とともに、穏やかに新学年を迎えたけれど、未曽有の震災からまだ一か月にも満たない。不安は未だにぼくたちの日常に横たわっている。期待を持てる朝になってくれたことを、ぼくは心底嬉しく思う。
横を通り過ぎた生徒が「ズルいなぁ」と呟いた。
あかん。いまなら、からかわれても嬉しい。