III
地震の報道が続いている。
未だに世間はパニックの渦中だが、天保高校は通学に支障がない限り登校するよう求めた。もともとの予定では、三月一四日はテストの返却日なのだ。卒業式、終業式も控えているので、日程を調整するにもカツカツなのだろう。
いつもより四、五分早く、スニーカーの靴紐を結んだ。姿見でブレザーの襟を正し、ネクタイの位置を調節する。左肩にスクールバッグを担ぎ、右手にはお菓子の詰まった紙袋を持つ。
「弥、あの子に会うつもりなの?」
階段を下りてきた才華が、ぼくの紙袋に気がついて尋ねてきた。
「ああ、うん。もらった人には、ちゃんとお返しをしないと。当然、マリーにも」
そして、返答をしないと。
相手はきょうまで返事を待つと言っていたけれど、それでも一か月も待たせてしまった引け目を感じている。彼女の本名を当てるクイズに、才華の助力によりたった一日で正解を得てしまったせいでもある。本来、その一か月はシンキングタイムとして与えられたはずだったのだから。
無論、返事はその一か月を使ってじっくりと考えた。彼女のリアクションは気になるところだが、ぼくとしては、後悔のない答えである。
それを伝える機会が地震と重なってしまったのは、あまりに不幸な巡り合わせだ。正直、恋愛に浮ついていていいのか、不安に思う。ともすれば、不謹慎との誹りを逃れられないかもしれない。
「確かに、こういう時期によくない気はするよ。でも、先送りは不誠実だと思うんだ。ただでさえ、ぼくの返事がマリーにとって誠実かどうか、わからないもの」
立ち上がる。
才華は不服そうだ。
「わたしは、あの子には会わないほうがいいと思う」
「うん?」
最初に訊かれたときから、才華がそう考えているとは察しがついた。とはいえ、それを口にして伝えてくるとなると、存外に彼女の意思は強いのだと感じる。地震の騒ぎが落ち着いてからでもいいのではないか、というだけのメッセージではなさそうだ。
とはいえ、ぼくとマリーが会うことを彼女が遮る理由など、思い当たらない。マリーの本名を当てる手伝いをしてくれたくらいなのだから。当時なぜか機嫌は悪そうだったけれど、関係があるのだろうか。
「何か、理由があるの?」
素直に問い返してみると、才華は答えに窮したらしく、唇を結ぶ。
「……いや、別にいいよ。杞憂かもしれないから」
いってらっしゃい、とすげなく言って、彼女はまた階段を上って自室に引っ込んでしまった。
下駄箱の戸を開くと、思った通り、メモ書きが置かれていた。
見ると、「放課後に前と同じ場所で会いましょう」とある。また「Mの三乗」と記す独特のサインが記されているから、送り主は明らかだ。
こうしてまた手紙で伝言してくると予想していたので、今朝は登校時間を早めることにした。もし手紙がなかったとしても、集合の条件は同じだろうと踏んでいた。将棋部は、答案返却に伴う変則日程のため、活動がない。問題なく、彼女と会うことができそうだ。
とはいえ、一点、気になることがある。
以前のように見栄えよく準備された手紙ではなかったのだ。付箋か何か、ひらひらの白い紙一枚に、伝言がペンで走り書きされていただけ。ホワイトデーであることを直前に思い出して、急いで書いたように見える。
あれだけひどい地震があったのだ、予定が狂ったのかもしれない。
この日の答案返却は午前中で終わる。チャイムと同時にラウンジへ向かい、一番乗りで座席を確保した。バレンタインデーのときと同じ、隅っこの座席だ。荷物を椅子の下に置き、深呼吸する。それからまた深呼吸。頬杖をついてみたり、腕を組んでみたり。
食堂が地震の影響で休業しているので、ラウンジは閑散としている。二、三組の生徒がまばらに座っていたが、待ち合わせ程度の用事らしく、長居はしない。中等部の生徒を見かけると顔を上げてしまうが、通り抜けるだけだった。
肌寒い。
「先輩、お久しぶりです」
ぼくが少し目を逸らした隙に、すっと姿を現した。
まず声に気がついて、次いで彼女の人影を視界に捉える。視線がスカートからブレザー、リボンへと上がっていく。久しぶりに見る彼女の顔に期待した。
しかし、想像していたのと違った。
「マリー、どうしたの?」
力のない、白い顔だ。
目の端は赤く腫れているが、はっきりと見てわかる隈も浮かんでいる。唇は乾燥している。心なしか、げっそりと痩せてしまったようにさえ見える。ひと回り小さく縮こまって、申し訳なさそうにぼくの前に立っていた。
「ねえ、見るからに元気がないよ?」
「先輩。わたしの名前、わかりましたか?」
彼女の質問がぼくの問いを遮る。
早くぼくの答えが聞きたいのだろう――覇気のない声にも、彼女の願いが籠っていた。
「モラン茂木麻里亜さん、だよね?」
「わあ、そうです。正解です。よくわかりましたね」
その笑顔を、心の底から自然に湧き上がってきたものだと信じたい。
「そうなんです。わたし、パパが野球選手なんです。タイガーズの宿敵、エレファンツの四番打者が父親でも、先輩はわたしを嫌いませんか?」
「まさか、嫌うわけない」
「そう言ってくれて嬉しいです。心配だったんですよ、先輩は熱狂的なタイガーズファンだから」
笑っている。とにかく、笑っている。
「ちゃんと調べてくれて、わかったうえでわたしと会ってくれたのなら、作戦は大成功です。この一か月、わたしの名前を考えているあいだ、先輩の頭の中はわたしでいっぱいだったでしょう?」
ああ、その通りだ。
マリーの狙い通りではなかったかもしれないけれど、ぼくは一か月間、マリーのことばかり考えていた。でも、その一か月間は、なかったに等しい。たったいま、目の前にいるマリーを見たら、それまでがくだらないと思えるほどに、マリーを案じてしまう。
それなのに、彼女はぼくの返事を求めている。答えなければならないのか。
缶入りのクッキーを恐る恐る差し出す。マリーはおもむろに、両手でうやうやしく受け取った。やたらと白々とした指先に見えた。
「あのね、マリー。ぼくは――」
「ごめんなさい」
またも言葉を遮られる。わけがわからず、ぽかんと口を開けてしまう。
「バレンタインの返事は、しばらく待ってほしいです」
申し訳なさそうに、マリーは言った。
「ノーだとしたら、いま、わたしは倒れてしまうかもしれません。でも、イエスをもらっても心から喜べないんです。だから、ごめんなさい。答えを受け取れるようになるまで、時間をください」
謝ることはない。
マリーはひとつも悪くない。
ぼくのほうこそ謝らなければならい。
だって、ぼくは、彼女への返答として「保留」を用意していたのだから。
誠実な返事とは何か、と考え続けた挙句、良い返事も悪い返事も失礼にあたると判断していた。軽薄に受け入れてはならない。かといって、相手の想いを無下にするのは忍びない。それならば、せめて友達として仲良くなる段階をつくることはできないか、と。
煮え切らない答えだと非難されるかもしれない。でも、それがぼくの精いっぱいの誠実さだと思っていた。いまとなっては、そう思えない。
「ぼくのほうこそ、ごめん」
言葉では伝えきれず、ただ一言そう口にした。マリーは何かを察してくれたようで、首を横に振り、作り笑いを浮かべた。今度は、はっきりそれとわかる、わざとらしい作り物の笑顔だった。
「母の故郷が津波に呑まれました」