I
『ホワイトデー、感謝を伝える日』
駅ビルのお菓子売り場に垂れ下がったバナーには、そんな素敵な宣伝文句があった。
一か月前にもらったチョコレートが本命だろうと、義理だろうと、お礼の気持ちを持ってお返しをしなければならない――ぼくは思い知らされた。平馬だったら「商業主義の表れだな」と評するのかもしれない。でも、ぼくはこのキャッチコピーに心動かされてしまい、予定外に出費してしまった。
義理チョコとして駄菓子を贈ってくれたクラスメイトたちは、「三倍返し」を要求していた。売り場の雰囲気に呑まれてぼくが購入したキャンディは、一個当たりで計算したら、本当に三倍返しが実現している。損をした、とはあまりに失礼だけれど、正直、してやられたと思う。
誰よりもお返ししなければならないマリーには、缶入りのクッキーを買った。これも、当初の想定よりも高いものにした。
市販のチョコレートを溶かし、ハート形に固めたマリーのチョコレートは、プライスレスの品物だ。だから、安いものを返すのは論外としても、あまり高いものを買ってもいやらしい気がした。そこに、例のキャッチコピーである。誠意は品物にも宿る気がしてしまった。予算オーバーにならない程度に、グレードを上げた。
とはいえ、後悔する出費ではない。マリーのアプローチは、本当に嬉しかったし、感謝すべきと思っている。素晴らしい出会いだ。ゆえに、ぼくが数日後、マリーに返答する内容を思えば――贈り物は少しくらい良いものでなければならない。
一か月悩み抜いて、返事は決まった。そう返答するしかないと、いまでは確かに思っている。譲らない気持ちを、贈り物に込めることもできるはずだ。
それと、もうひとつ。
「正直、出費は少なくない……」
テスト休み、金曜日の昼下がりは、首筋も財布も肌寒い。
駅構内や駅ビルにはそれなりに人が行き来していたが、ロータリーに出るとすっかり人の気配はなくなる。天気予報曰く晴れの空は、すっきり晴れているわけでもなく、どこか淀んでいて、涼しい気温も相俟って物寂しい。恨めしくも冬型の気圧配置がしつこく居残っている今年は、春が何たるかを忘れそうになる。暖かくて穏やかな気候が待ち遠しかった。
駅を利用する生徒の通学路とは異なる道、天保高校の前を通らないルートを帰り道に選ぶ。道幅は広いが、商店街からは逸れる。テスト休みという理由があるとはいえ、街に高校生が見当たらない時間帯、なんとなく、学校や人目につく道は歩きにくい。
お菓子の入った紙袋を後ろ手に、もやもやと歩く。
店を出るときは気分が良かったのに、出費を気にしすぎているのだろうか。
そのとき、ふわり、と違和感。しっかりと歩みを進めていたのに、足を地に踏み下ろせないような奇妙な感覚だ。疲れているわけでもないのに、と不思議に思いつつ姿勢を整えると、ふらつきの原因が自分自身ではなく、世界にあったのだと察知する。
電柱が揺れていた。
刹那、ずん、と大きな音――いや、耳に届くような音ではないかもしれない。空気の震えというか、世界がひっくり返る衝撃というか。本能のはたらきなのか、身体は強張り、背中がぞっと反りあがる。無意識に口が開いたままになった。
「地震……!」
それも大きい。
道路を走る何台かの自動車は、ハザードランプをちかちか点滅させて停車する。
すぐ近くのショーウィンドウに飾られた店主夫妻の写真立てがぱたりと倒れる。
台車に乗せられた段ボールは、配達員が押さえていてもばらばらと崩れ落ちた。
「結構大きいな」
次第に、身体が横向きに揺さぶられていると、はっきりとわかるようになる。屋外で揺れを感じられるなんて、それだけでも地震の大きさを表している。それがまして、電信柱を揺らすほどとは。
道の反対側にある店のカートから商品がこぼれ落ちたころ、揺れがだんだんと小さくなっていった。
揺れが収まってからも、しばし緊張を解かずにその場に留まる。見たところ、明らかに建物が壊れているとか、上からモノが落ちてくるとか、直接身に危険を感じる状況はない。念のため、情報収集のつもりで周囲を窺う。
商品を崩された店員や、積み荷を崩された配達員などが片づけを始める。道行く人は、そうした人々に声をかけ、安全を気遣ったり、何があったのかと互いに問うたりする。窪寺駅のホームからは、安全確認について知らせる、駅員の切羽詰まった声が場内放送で流されていた。
ただごとではない――早く家に帰らないと!
「才華、大丈夫だった?」
荒ぶる呼吸のままに家の扉を開くと、才華が玄関の固定電話で通話を試みているところだった。
「弥、よかった。何ともなかったんだね。わたしも家も平気。部屋の棚からものが落ちたくらい」
同居人は冷静だった。さすがに平時よりは興奮しているようで、頬は上気し、どこか落ち着かない息遣いだ。それでも、パニックに陥っている様子はない。そんな彼女を見てほっと脱力し、ようやく深呼吸することができた。
家にひとりだからと心配したけれど、彼女はぼくよりよっぽどしっかりしている。伊達に中学生のころから親元を離れて下宿していない。
「朝子おばちゃんにつながらないの。まだ仕事中だし、職場も慌てている最中なんだと思う」
「そっか、どうにか連絡できるといいんだけれど」
ぼくがそう言うと、才華は眉を八の字にした。
「これから電話はもっとつながりにくくなると思う。電車も止まっちゃうだろうから、ひょっとするとおばちゃんも帰れなくなるかも」
はっとする。
状況はかなり深刻なのかもしれない。
「いったい何があったの?」
居間に入ると、確かに、いくつかものが散乱していた。あとで自分の部屋も点検しなければならない。本棚からものが落ちているだろう。
上着を着たまま、テレビのリモコンを手にする。
「東北で地震があったみたい」
才華の言葉に続いて、アナウンサーが強い調子で繰り返し同じことを伝えていた。
津波が来る、津波が来る、と。