IV
『おう、久米。どうした、電話なんて。宿題の範囲でも忘れたか?』
先月契約したという平馬の携帯電話。初めて彼の番号につなげるコールに、彼は至って暢気に応じていた。すでに帰宅しているという。
「平馬、急いで訊きたいことがあるんだ。保角くん、友達だよね? 彼のことについて訊きたい。彼は、いま、下駄箱の位置を変えているんじゃないかい?」
電話口の声が途切れる。
それからまもなく、とぼけたような声で返ってくる。
『あ、ああ。骨折した渡瀬と入れ替えているぞ。先週からな。渡瀬は脚を折っているから、出席番号順の下駄箱の位置だと低すぎるんだ。だから、三つ上にあってちょうど目の高さにあたる保角の下駄箱と、場所を交代している』
なんということだ。
才華の推理の通りだった。
手紙が届いていない、けれども読まれている――その奇怪な条件を満たす状況が、何者かによる手紙の窃盗以外に、もうひとつ考えられる。それが「下駄箱を利用している人物が違う」状況だ。
渡瀬くんの骨折は、松葉杖で一週間ほど生活していることもあって、それなりに知られている。才華も彼の姿を廊下で見かけ、C組の誰かが脚を怪我していることを知っていた。
とはいえ、下駄箱の場所を変えていることまでは、クラスメイトでも多くは知らなかった。
つまり、江里口さんは、保角くんの使っている下駄箱を、臨時に渡瀬くんが使っているとは思ってもみなかったのだ。彼女は、保角くんに手紙を届けるつもりで、渡瀬くんに届けてしまっていた。
「なんということだ、平馬……江里口さんがそれを知らなかったことで、面倒なことになってしまったよ」
『は?』
平馬の声は、驚いたというより、わけがわからないという含みを持っていた。
どういうことか測りかねて彼の言葉を待つと、彼は「おかしいな」と呟きつつ彼の事情を説明する。
『むしろ協力した側だぞ? 俺は穂波と南原の計画を知っていたし、穂波の作戦が去年俺にやったのと同じことも聞いていた。だから、保角と渡瀬の箱が違うことを穂波が知らないとまずいと気がついて、一四日の朝に確認してみたら、案の定間違えていたんで、直しておいたぞ』
「え?」
今度はぼくが素っ頓狂な声を出す番だ。
平馬のそのアシストがあったなら、手紙は確実に保角くんへ届いたはずだ。それなのに、彼が国語科資料室に来なかったということは――?
「なあ、平馬。平馬が手紙を保角くんの靴の上に置いたとき、封はされていたかな? うっかり外してしまった、なんてこともない?」
『ああ、シールが貼ってあったぞ。星形だったかな。その面を上にして置いたから、間違いないと思う』
これで確かになってしまった。手紙の封を開いたのは、平馬が手紙を正しい位置に移動させたのち、手紙を手にした保角くんその人に違いない。
保角くんは、手紙を読んでいる。
手紙を読んだうえで、呼びだしに応じなかったのだ。
平馬に礼を言って、通話を切る。
事情はあったのかもわからない。別の友達と約束があったとか、歯医者さんの予約があったとか、いろいろな可能性がある。でも、南原さんが言うように、事情を報せずに国語科資料室に来ないような人ならば、昼休みに会うなりメールするなり、来られない旨を本人に伝えていただろう。
国語科資料室に来ない理由なんて、なかったのだ。
南原さんの恋は実らなかった、ただそれだけのこと。
「弥」
才華が、頭を抱えていた。
「最悪の事態。平馬くんと話して確認してもらいたかったのは、平馬くんがどれくらい知っていたかだよ。ひとつに、江里口たちの計画を知っていたか。もうひとつに、保角くんが下駄箱の場所を変えたと知っていたか。まずいことに、平馬くんは全部知っていた」
それの何がまずいのだろうか。彼は、手紙の位置を直してやることができた。それによって保角くんの気持ちが浮き彫りになってしまったのは、確かに悪いことかもしれない。でも、最悪の事態とまで焦らなくてもいいと思う。
才華の顔色は、苦虫を噛みつぶしたかの如く。
「江里口が、下駄箱の位置が変わっていたことを知ったら、何て言うと思う?」
「間違えてしまった、と?」
才華の発言に驚いていた様子を、南原さんも見ている。言い逃れはできないだろう。
「江里口がそう認めると思う?」
「ううん、認めたくはないだろうね」
自分のミスを認めてしまうようでは、江里口さんは才華に「なんとかしてくれ」なんて相談をしなかっただろう。
「落ちていたシールのことに触れて、否定できるはずだよ。渡瀬くんか保角くんかが読んでくれた証だもの。国語科資料室に誰も来なかった原因は自分ではない、と江里口さんは弁解できる」
「でも、そうやって否定するとどうなる? 次は誰に疑いが向く?」
あ、そうか。
確かにまずいかもしれない。
「そう、保角くんに手紙が届いていない可能性を、南原さんは再度主張する。江里口を除けば、渡瀬くんが疑われるおそれもあるけれど――それ以上にもっともらしい人がいた。手紙の作戦も、告白の計画も、下駄箱の位置も、全部知っている人がひとりだけ。彼が一番に疑われることになってしまうだろうね」
平馬だ。
こうしてはいられない!
才華とぼくは、席を立った。教室を飛び出して、江里口さんが向かった下駄箱へと急ぐ。できるだけ早く下駄箱に到着して、ふたりを仲裁しなければならない。
最悪の事態――才華の言葉は、決して大げさではない。
才華が江里口さんに、下駄箱の場所を間違えた可能性を示唆したのは、ひとつの賭けであった。平馬が「知らない」と言ってくれるか、あるいはしらばくれてくれたなら、この件は不幸な事故として片づけられたかもしれない。ところが、彼は事情をよく知っていて、手紙を移動させたとまで言っている。これを南原さんが信じられるかどうか。
平馬が疑われることは、さほどの問題ではないかもしれない。彼なら、古い付き合いである南原さんを、上手くいなせることだろう。別の誰かが疑われるより、彼は上手にやってくれる。
でも、江里口さんはそれを大問題だと感じるだろう。
彼女は、平馬に疑いがかからないよう、庇ってしまう。
その方法は、たったひとつ――自分の仕業にすることだ。
「そうだよ、わざとだよ!」
遅かった。
下駄箱を背に、江里口さんが南原さんに詰め寄られていた。
きつく眉を吊り上げた江里口さんは、涙をいまにも零れそうなほどに湛えた南原さんに向かって、持ち前の歯に衣着せない物言いで浴びせかける。
「そうさ、あたしは芽以の計画が失敗すればいいと思っていた。手紙なんて最初から届けていない、預かってすぐに捨てたよ。ああ、下駄箱を間違えたなんて言い訳、しなければよかった。どうせ芽以には疑われるんだし、いつ本心を言っても同じことだったね」
どん、と南原さんが江里口さんの肩を押して、下駄箱に押し付ける。
「どうして……?」
「どうしても何も、ムカついていたんだよ、ずっと。あたしと梓が付き合ったのは、自分のおかげだと思って鼻にかけていたじゃないか。あたしに手伝わせたのも、そういうつもりだったからだろ? 気に入らない。恋くらいひとりでしろ、自分でしろ。芽以のおかげで梓と付き合えたなんて、あたしは思っていない。自分も恋人が欲しいからって、巻きこむな。羨ましいからって、見返りを求めるな!」
ばん、とさらに大きな音が続く。
南原さんが江里口さんの顔のすぐ横を、拳で叩いたのだ。
止めに入るべきだったのだけれど、怯んでいるうちに事が終わってしまった。南原さんは江里口さんから離れ、駆けていってしまった。涙を流し、悔しそうな顔をしていた、ように見える。
江里口さんがぼくたちに気づいた。彼女もまた、目を潤ませている。
「心にもないことを」
宥めるのでもなく、叱るのでもなく、才華が優しく皮肉る。
「どうだかな」才華の労いにも、江里口さんは強がりを崩さない。「後半は、本心だったかもしれない」
「嘘吐き」才華には、全部お見通しだ。「あんたの潔白を証明する一番の証拠、落ちていたシールには触れなかった。手紙を受け取ってすぐ捨てた、なんて矛盾することまで言った。南原さんがそれに気がつけば、いま叫んでいたことが全部嘘だとわかる」
ふん、と眼鏡の少女は鼻で笑い、顔を背けた。
江里口さんのやり方、いわば自爆は、適切な方法だったとは思えない。才華の言うように、嘘がバレない限り禍根を残してしまう。しかし、より強力に、より手っ取り早く南原さんを納得させる――なんとかする――ためには、選択肢となりうる。彼女は気が立っていて、誰かを疑わなければ気が済まない状態だった。
「あたしは嘘吐きなんだよ。事を先送りするばかりで、誠実さがない」
江里口さんは嘲ったように、それでいて、力強く言い放つ。
「それでも、これがあたしなりの正義なんだ」